百合短編小説レビュー企画『名づけられなかった花たちへ』をはじめます。

 タイトルの通りです。今回は企画をはじめるための、ながーーーい告知*1のようなものになります。あるいは企画の第0回といってよいかもしれません。

 合計で約16,000字あります。ながい。

 要するに、以下は前提を共有するために書いた「百合」に対する個人的な雑感であり、同時に自分の考えや論点をいろいろと整理しておきたい部分があり、あるがゆえに、まどろっこしくなっています。ですからこれが、他人に向けている文章として成立しているのか、正直なところ自信がありません。

 そういうのがご面倒な方には、いったん読み飛ばしていただき、この記事の最後だけを読んでいただいても構いません(本記事は、ほとんどわたし個人の話に尽きるので、興味のない人はあとから読まなくてもけっこうです)。

 

【※本記事のいちばん下に、百合短編小説レビュー連載企画『名づけられなかった花たちへ』の今後の予定(ほんとうに予定です)が書いてあります。】

 

はじめに:「百合」って何だろう?

「「百合」って何だろう?」とは、〈百合展2019〉において、「序文」と題された文章で脚本家の綾奈ゆにこさんが記した言葉です。

 わたしは「百合」というジャンルについて考えるとき、いつもこの言葉を思い出しています。おそらくこれを印象的な記述として憶えている人もいれば、知らなかった、という人もいるかと思います。

 百合(とりわけアニメや漫画作品)というジャンルはとにかく短いスパンで作者も読者も入れ替わっている印象があります。となれば人によって享受してきた作品の層も当然ながら、たった数年だけで異なってくるでしょう。ですからこれは、2019年当時の言葉である、という点に留意していただきたく思います。

yuriten.com ただ、ひとつ重きを置いて言えるのは、ここには態度として、「ためらい」のようなものが見え隠れしているのではないか、ということです。

 改めて、以下にその冒頭部を引用します。

「百合」って何だろう? 端的に言えば、女の子同士の感情をともなう関係性――恋愛に限らず、友情や愛情、敬愛、嫉妬といった強い感情がともなえば百合だと個人的には思っていますが、それは人によって違うでしょう。なぜかというと、彼女たちを観測し、百合だと思うのは“あなた”自身だから。誰にも後ろ指をさされない自分だけの聖域……そんな、それぞれの思う百合を表現した作品を集めたのが、こちらの百合展です。

「端的に」と言いながらも「人によって違う」と定義を避け、最後には「誰にも後ろ指をさされない自分だけの聖域……」と書いてあります。

 くり返します。ここには「聖域」と書かれています。

 もしかすると、百合とは隠れて読むもの/読み取るもの、という消極的な意味をおぼろげながら、わたしたちはここに見出せるかもしれません。

 同時に(その言葉の意味をあえて逸脱させるなら)、百合というのは”あなた”にとって、だれにも踏み荒らされることのない「劇場」であり、あるいは「箱庭」であり、あるいは「避難所」であるとも言えるかも知れません。むろん、その定義は「人によって違う」のでしょうし、だとすればそのすべてがあてはまっている人もどこかにいるかもしれません。

 とはいえ、もう少し踏み込みますと、わたし個人は「百合」とは「わからない」ものであった、という経験を個人的に積み重ねてきた記憶があります。ここにはキャラクターの属性(セクシュアリティと言い換えてもいいかもしれません)を読者が一方的に決定していいのかどうかの問題だけでなく、いくつもの層があると思っています。

 ですから、まずは「わからない」という言葉。ここから考えて、話してゆきたいと思います。

 

なぜ「百合」が「わからない」のか?

 おそらくわたし自身は、2016年以後、もっと言えば、仲谷鳰やがて君になる缶乃『あの娘にキスと白百合を』のヒット後に顕在化するようになった百合のファン層に属していると思っています。潜在的には、それ以前に芽はあったともいえるのですが、ややこしくなる話題なので省きます。

 2016年というのは百合にはとても重要な年で、ちょうどこの時期に、上記漫画の作者ふたりが対談企画をおこなっています。

blog.livedoor.jp 現在でも記事として読むことができます。あるタイミングで百合漫画のトップランナー的立ち位置に入ったひとびとが語るということ。それは場合によっては登壇者をオピニオンリーダーとして受け取める可能性も含まれていたはずです*2

 それらの細かい発言も興味深いのですが、ただ、トピックとしてやはり気になるのは、この時点においても「百合である/百合ではない」というのが話題になっているのを確認できるということでしょう。

仲谷:前回のインタビューで『響け!ユーフォニアム』(原作:宝島社文庫 アニメは京都アニメーションが制作)が好きだって話をしたら、『あれは百合じゃない』っていう反応をいただいたんですが、途中で百合を感じられるシーンがあったら、私の中ではそれでOKだと思ってます。
もちろん全体を通してみると、『響け!ユーフォニアム』は百合作品とは呼ばないと思いますが、物語全体ではなくても、百合を感じられる部分があればそれでいいかなっていうスタンスです。

缶乃:わかります、私も同じです。(…)

「私の中」では「百合」である、という言葉の選び方を取ってみてもわかるように、そもそも人によってなにをもってなにを「百合」とするかは異なっています。異なっていることが前提として了解され、そのうえで個人が判断するという状況がここにはあります。

 自分の記憶がたしかであれば、2014年放送のアニメ響け!ユーフォニアム』8話「おまつりトライアングル」の放送後、作中の描写をめぐってネットではそれなりに「百合である/百合ではない」といった論争が起きていたはずでした。

 これについては結局、スパッとしたかたちでの解決を見なかったものと思われますが、2023年現在に至るまで、任意の作品の表現をめぐっては「百合である/百合ではない」といった話が幾度となく現われているように思われます。

 だからいま、”あなた”が「あ~、あれか」と思い浮かべたであろう作品は、おそらく知らないどこかのだれかによって、今もそのようなジャッジを下されているはずです。

 そういうこともあり、すくなくとも一定数の百合ファンは、だれかがどう発言していたとしても「わたしの中では百合である」をひとつのスローガンのように(あるいはしかし、しばしば隠れながら)持っていたのではないでしょうか。たとえ、それがカジュアルなかたちでの発言であれ、よりいっそう真面目な場面での言葉であれ。

 しかし同時に、そうした価値判断やパフォーマンスに対して、あくまで慎重でありたい、と思っている人もおそらくいます。

 結論を控える理由として、たとえば作者自身が当該作品を「百合ではない」と表明している場合や「百合である」とラウドに語ることで周囲の価値観への干渉を好まない場合そもそもだれかに自分の価値観を知られたくない場合百合の定義論争に巻き込まれたくない場合性的消費者として名指されたくない場合、作者本人に迷惑をかけたくない場合などなど、事情は人の数によって違っていると思います。

 もちろん、個人間において、百合の定義が異なっていることはわかります。

 しかしなぜ「百合」と発言することを「ためらう」ようになるのか。ここにはもっともっと、深い根があるように思われます。

 

Yuri is a complicated word...

 ここでいったん視野と前提を広げるため、「百合」研究本をひとつご紹介します。自身で百合コミュニティの運営もしている、Erica Friedmanさん*3による『By Your Side』という著作です。

 日本の百合の100年について概観するという、日本国内でもまだ試みられていないタイプの書籍となっており、Kindleでも買えますので英語に苦手意識のない人でしたら手に取ってみると面白いかもしれません*4

 さて、ここでは百合の定義について次のような記述が見られます。

“Yuri” is a complicated word and a complicated genre. Complicated, because words often change shape after they have been coined and exceed their roots, sometimes even completely changing their meaning to the opposite of their original intent. And complicating matters, yuri as a genre has disparate roots and factors that influence it.

Friedman, Erica. By Your Side: The First 100 Years of Yuri Anime and Manga (p.22). Journey Press. Kindle 版. 

 英訳センスに自信がないのでAI(DeepL)に上記の文章を訳させてみます。

"百合 "は複雑な言葉であり、複雑なジャンルである。複雑なのは、言葉はしばしば造語の後に形を変え、そのルーツを超え、時には完全に元の意図とは逆の意味に変化することさえあるからだ。そして、百合というジャンルは、そのルーツも影響する要素もバラバラであることも、問題を複雑にしている。

 とりあえず、だいたいこのような意味で読み取れます。

 そしてこの認識は、比較的、わたしたち日本の読者とも共通している見方なのではないでしょうか。どういうことか、と疑問に感じた方はTwitterなどで「そもそも 百合」などで検索してみるといいかもしれません。だいたい発言者の数だけ分裂した見解が現時点でもじゅうぶん確認できます(論争やそれに加わることでいささか乱暴になる言葉などを見たくない方はべつに検索をしなくても結構です)。

 要するに、ここでわたしが言いたいのは、「そもそも論で片付けられないジャンルとなっているのが百合」の現状でもあるということです。

 定義が戦争になるからやめましょうという以前に、複雑すぎる文脈の共有がなければ、どのあたりの作品や歴史について話しているのかわかりませんし、そうして食い違うことが自然に起きる環境が、現在の百合なのだと思います。

 前述したように、漫画・アニメを中心とした百合作品は新陳代謝の激しいジャンル(と思われるの)ですから、数年でその標準や基準値としてファンに見なされ、了解されている作品やキャラクター表象はすぐさま変化していくはずです。

 となればそれぞれの世代によって見解も当然異なっていくでしょう。それにカウンターを与えるつもりであるのがおそらくネットに散見される「そもそも~」からはじまるような過去に立ち返った言説群であるかと思います。ですが、そもそもそれが実情に即している、とは言いがたい状況があります*5。すくなくともその発話はカウンターとして用いるにはあまり有効ではないでしょう。

 ただ、また同時に考えておきたいのは、しばしばこのようなかたちで話題にのぼるのは、読者・視聴者側の見方がほとんどである、という点です。

 発表した時点で作品は作者の手を離れて~、といったクリシェは脇に置いておくとして、作品に関してコメントできるのはべつに読者の特権ではありません。「百合ではない」と自作についてコメントする作者だっていますし、反対に「百合である」と作者が公言する場合も起こりえます。そして当然ですが、そうした一連の話題について、沈黙せざるをえない環境下に作者が存在している可能性もじゅうぶんに想像できます。

 定義そのものがどうであれ、作中のキャラクターだけでなく作者自身でさえも、一定の傾向のもと、読者の想像にさらされる可能性を「百合」は含んでいるのではないでしょうか。

 

作者と作品は(否応なしに)関係させられることについて

 ここでいきなり自分の話になってしまい恐縮なのですが、わたしが大学の文芸サークルに入って小説を書きはじめたころ、単純なミステリのトリックを思いついたことがありました。そして、それをお話として成立させるために、自分自身に似た女性キャラクター(ただし現実世界のわたし自身はシスヘテロ男性です)を作中に登場させました。すると、とある先輩から「お前には女性化願望がある」と説教を受けました。

 なぜそのような説教に至ったのかも、いまとなってはよくわかりません。きっと相手の側も、その出来事をほとんど憶えていないことでしょう。

 その先輩は、お前は男性なのに書く作品は男性的ではない、だから駄目なのだ、と暗に非難したかったのか(だからもなにもあったものではありませんが)、あるいは男性規範もしくは性差別的な意図を含ませてこちらを都合よくサンドバッグ化したかったのかも、わかりません。ただ、わたしの願望/欲望の内実はどうであれ、そのような状況にさらされたのがひどく嫌な経験だったのはたしかです。

 文芸サークルといった狭い場所でさえ、表現ひとつでこういった状況に遭遇してしまうのですから、公の場で作品を発表した「作者」がいわれのない非難を受ける可能性を考慮すると、自作が「百合」であるかどうかについて、なんらかの態度を表明することじたいが「社会的なリスク」として見出されることも、たやすく想定できるかと思います。

 以上の説明でかえって話が伝わりにくくなっているとしたら、それはこのわたしの責任ですので気にしないでください。

 

そうしてためらい、「わからない」になる

 結局、なにが言いたかったのかというと、作者の望む/望まないにかかわらず、作品内容が作者の個人的な部分と結びつけられてしまうことを、現状では残念ながら、完全に(あるいは機械的に)避ける方法がないということです。できるとすれば技術的に暗号化、匿名化された文章ですが、すくなくとも日本の出版事情等を見た場合、そのようなかたちでの書籍などあまり期待できないと思います。

 また、そういった「作者の内実」といったものが前提されるとき、自作について態度の表明をすることじたいが、作者のクローゼットの中身として、いささか乱暴に、短絡的に結びつけられ、晒されてしまうこと、ひいてはそこから発展し、なんらかの被害を被る可能性があることについて、受け取り側である読者や視聴者はどこまで責任を負えるのか、自分にはわかりません。

 たとえば李琴峰さんはレズビアン小説を書くならエロスは必要か問題」という文章のなかで、自作が無遠慮に他人から評され、その視線が作者自身の経験であるかどうかまで問われ、不快に思ったことを語っています*6

 すこし脱線する話題ではありますが、上述の『By Your Side』のなかで、日本の複数の百合作家に対して「Is Yuri Queer?」と質問を投げている箇所があります。

 これはなかなか興味深い内容なので、気になる方はこの箇所だけでも買って読むといいと思います。ただ、この項において、回答はすべて匿名のままで済まされています。この質問方法に関して、とくべつ説明はされていませんが、回答者の名前を知ることによる印象の偏りを防ぐ以上の理由が、ここには横たわっているように思えてなりません。

 もちろん自分も「百合」という言葉は、作中キャラクター同士の関係に基づいて作品を表象するものというのはわかっています。

 しかし、わたしには、上記のようなことが頭のなかにインプットされている以上、任意の作品を、たとえばキャラクターのセクシュアリティを一方的になかば同性愛者的な立場に置く意味で「百合である」と述べるとき、連鎖的に生じてしまいかねない作者や社会、あるいは周囲との摩擦などを事前に避けようとしてためらうことがあり、その代わりに「百合はわからない」という言葉に頼ってきた、という自覚があるのです。

 反対にいえば「わからない」という言葉に隠れることで、わたしもまた、自分だけの「聖域」を守ろうとしていたのかもしれません。

 けれども、ただずっと「わからない」と態度を曖昧にしているままではいられないかもしれない、という感覚を抱きはじめたのが、ここ数年ほどのことなのでした。

 

アイカツフレンズ!』で名づけられた関係について

 さらに自分の話をします。2019年のことです。当時、自分はアイカツフレンズ!をとても楽しみながら見ていました。もちろん、わたしにとって本作はじゅうぶんに「百合と思える」作品でしたが、”あなた”にとっては百合ではなかったかもしれません。

 説明をつづけます。『アイカツフレンズ!』は、これまでの歴代アイカツ!シリーズと違い「友達」という存在がストーリーのなかで重要な位置を占める作品でした。

 というのも過去作『アイカツ!』および『アイカツスターズ!』ではキャラクター同士でユニット活動をおこなうことはあっても、重要な局面においてはソロ活動によってアイドルの頂点を目指す、というお話が展開されていたからです*7

 よって、二人組のユニット――フレンズ――でトップアイドルを目指すことこそが『アイカツフレンズ!』として提示されたストーリーのあたらしい要素なのですが、なかでも印象的なのは、長いスパンを置いて、観覧車という場所でほとんど同じ台詞がくり返されるふたつのエピソードでした。

 ひとつは、主人公の友希あいねと湊みおがフレンズを結成する回「告白はドラマチック!」。もうひとつは最終話「みんなみんな フレンズ!」です。

 前者ではみおがあいねに向かって「フレンズ」になってほしいとあいねに「告白」をおこない、後者ではそのふたりのマネージャーとなったたまきさんにとある男性が「告白」をします。そして両方の回において、それが成功したシーンに合わせ、AIのココちゃんによる、ほとんどおなじ台詞(うわさ・ジンクス)が入ります。

「ゴンドラがいちばん高くなったところで告白すると ふたりはずっと幸せになれるんだって」

「この観覧車で ゴンドラがいちばん上に来たところで告白したカップルは 一生幸せになれるんだって」

 最終話では、当該シーンのあと、第1話でみおがあいねにアイドルになるよう誘ったシーンを視聴者に想起させるかのように、(あたかも運命を告げるかのように)鐘の音が鳴り響き、鳥たちが空へと羽ばたきます。

 画面はシームレスに「一か月後」となり、たまきさんたちの結婚式がおこなわれます。アイドルアニメらしいライブシーンをはさみ、花嫁によるブーケトスがおこなわれます。そして、そのブーケを同時に受け取ったのは、あいねとみおのふたりでした。

 むろん彼女たちは未成年ですし、ふたりのあいだには「結婚」の二文字は登場しません*8。しかし、その代わりに「フレンズ」という関係が、すくなくとも異性愛における結婚という形式とパラレルに配置できもする概念として語られている、とはいえるかもしれません。

 もちろんこれは、百合ファンの穿った見方である、ともいえるでしょう。

 

『白い砂のアクアトープ』が避けるもの

 また、2019年にはもうひとつ、百合ジャンルに属する(と思われながら)も、メインキャラクターふたりの「結婚」は描かれなかった作品があります。それが『白い砂のアクアトープ』です。『アイカツフレンズ!』含め、両作品ともに、シリーズ構成を柿原優子さんが務めています。

『白い砂のアクアトープ』は沖縄にある水族館を舞台とした若者たちの群像劇であり、P.A.WORKSによるお仕事ものアニメの系譜にありますが、そのじつ、語られている内容は、夢に破れた女の子と夢を失いそうになっている女の子が出会い、共感しあい、互いを姉妹のように支え合うことを決め、ふたりで一緒に生きていこうとする話です。

 と、上記のように言うと「百合」としてたいへん素晴らしく思えますが、この作品のストーリーそのものはなかなか受けとめ方がむずかしく、はじめから終わりまで、いわゆる「ふつうの大団円」を描かないという態度で一貫しており、わかりやすい感動のかたちを視聴者には与えてくれません。

 作品前半(1~12話まで)のストーリーは、舞台となる「がまがま水族館」の閉館をどうにか阻止しようと、海咲野くくるがさまざまなかたちで奮闘してていく姿で描かれます。そして、もうひとりの主人公である宮沢楓花はアイドルの夢に破れ、失意のなか訪れた「がまがま水族館」で不思議な「幻」と遭遇し、そのままがまがま水族館で働くことを決意します。

 ですが話はそう簡単にうまくいきません。くくるの頑張りは常に劇的な効果を起こさないからです。閉館予定日のせまるなか、10話「置き去りの幻」では、くくるも経験したことのある、がまがま水族館の「幻」を世間に売り出すことで、どうにかお客さんを集めることはできないだろうか、と考えます。

 とはいえ、その幻の正体もルールもなにもわからないので、具体的な方策は取れないまま時間がすぎていきます。視聴者にだけは時折、画面上に映っているキジムナーという沖縄の精霊かなにかが絡んでいるのではないかと推察することができますが、登場人物たちはだれひとり、最後までその姿を認識することがありません。

 また、この10話はくくるに密かに想いを寄せている男の子・仲村櫂の視点からはじまります。彼のモノローグのなか、両親を失ったばかりの幼いくくるの泣いている姿が思い出されます。そしてその姿は、現在の彼女に重なっていきます。また、それと並行して、風花が沖縄から離れていく可能性が示唆されていきます。

(はじめて会ったとき、くくるの小さな背中は震えていた)

(…)

(あいつに、どんな言葉をかけてやればいいんだろう)

 10話は幼少期と同様に、孤独になりそうになっているくくるに対して、櫂がどう接していくかを決めるという構造になっています。そして物語後半、ひとり水族館にいた櫂は偶然にも「幻」と遭遇します。そこで見たのは、幼少期のくくるでした。そしてすぐそばには、同時期のころの彼自身がいます。言葉をかけることを迷っていた自分です。 

 櫂は、

「行け」

 と、かつての自分の背中を押してやり、幻のなかで、くくるをどうにか笑顔にしようと試みます*9。そしてその「幻」が消えたあと、櫂のもとに現在のくくるが現われ、訊ねます。

「もしかして いま『見え』てた?」

 ですが、しばらく黙ったあと、櫂は首を横に振り、真実を告げません。くくるは涙を浮かべ、しかしそれによって最終的に不確かである「幻」に頼ることを諦めます。いかにも消化不良のような展開ではありますが、『アクアトープ』はつねにこうした、ご都合主義的な展開を避けることで、それがなくても進んでいく人の営みを描いていきます。

 

『白い砂のアクアトープ』と名づけられなかった関係について

 次第に、くくると風花というふたりの女性の関係に物語はフォーカスしていきます。12話「わたしたちの海は終わらない」では、夏休みを終え、くくるがその存在に薄々気づいていた、生まれることのできなかった彼女の双子のことを、おばあから教えられます。

 それを聞いたのち、新しいキャリアを目指すため風花は東京へ戻ることになります。くくるとは空港で別れ、しかし搭乗口に向かう風花は、ふと気づきます。

(わたし、知ってる……)

(夢をなくした人が思い切り泣けるのは、ひとりになってから)

(いまごろ、きっと泣いてる)

(やっぱり……放っておけない!)

 これまでの道を逆走して、彼女はくくるに電話をかけ「いまどこにいるの!?」と本気で訊ねます。そしてスカイデッキでひとり泣いていたくくるに向かって駆け出してゆき、力いっぱい彼女を抱きしめます。

「なんで……? 飛行機は?」

「どうでもいい! いまのわたしにはくくるのほうが大事だったの!」

(…)

「もうひとりじゃないよ。わたしがくくるのお姉ちゃんになる」

 12話では、彼女たちは、お互いのあたらしい夢について語り合い、そしてふたたび会う約束をして別れます。その回は、工藤直子『ともだちは海のにおい』の最後に挿入されている、「終わりのない海」という詩をふたりが心のなかで朗読することで終わります。

それを紹介したおじいが持っているのは旧版。

 13話以降は、第二部に入って時間をすこし飛ばし、あたらしい舞台から物語がはじまります。そこではくくると風花はマンションのとなり同士で暮らすことになり、ふたりは社会人となって働いています。

 もちろんそのなかでくくるはさまざまな困難に遭うわけなのですが、23話「水族館の未来」になると、彼女は水族館での結婚式という営業企画を練り上げます。

 いっぽう風花は海洋関係の興味をさらに深め、努力の結果、海外研修を経験することのできる権利を得ます。しかし風花は迷います。やっと近くにいれるようになったのに、くくると離れてしまってよいのか。けれども、くくるは語りかけます。

「(…)いつも風花がとなりにいてくれた。でも、いつまでも風花に頼ってばかりじゃ駄目だなあって……だからわたしのことは気にしないでい」

「違うよ! くくるがとなりにいてくれたから今日までやってこれたの! くくるがいないと駄目なのはわたし。でも勉強してきたいって気持ちも止められなくて……」

「今度は、わたしがお姉ちゃんになるよ」

「え?」

「お姉ちゃんはここで待ってる。だから、安心して行ってきなさい。向こうでいっぱい勉強してきて」

 海辺で話すふたりは、またそこであの「幻」を見ます。そのあと、ふたりはしずかに黙り込み、なにを語ることもなく、ただお互いに手をつなぎあいます。

 彼女たちの関係は、ですから、それ以上のものとしては自明には語られません。

 いつもふたりは朝、べつべつの部屋で起きて、一緒の部屋で朝食を摂り、互いの好みを把握しつつ、朝見た夢について語り合いながら、一緒に職場に向かいこそすれ、そこに性愛的な説明や描写などは挿入されません

 ですから、これをパートナーや相方といった関係として見るかどうかは、それこそ人によって解釈が分かれることでしょう。

 ただ、ふたりは最終話でまた将来のために別れ、そして再会します。わたしはそれを「百合」として見ていました。あるいは作中で使われたように「姉妹」や「家族」といったかたちとしても、その関係を見ることはできたでしょう。

 もちろんそう素朴に捉えないかたちであれば、一部には「ファーストペンギン」という言葉が作中で用いられ、それを彼女たちが自分たちのアイデンティティとして適用するようにして語ったことふまえ、最終話においてペンギンが「自由恋愛のエキスパート」として紹介されることとつなげ、それら一連の描写が同性愛的なものの暗喩として表現されていたと考えている人もいました。

 わたし個人は脚本家や監督のインタビューなどを漁っているわけではないので、これについては「わからない」と判断を保留するほかありません。正直なところ、それが普遍的なコードとして成り立っているかは確定できないと思うためです。

 あるいはしかし、ここでずるい解釈を持ってくるのだとすれば、「ふたりは一緒である」ということ、ただそれに尽きると思います。

 なぜならば、作中に登場した『ともだちは海のにおい』を風花は手に入れている描写があり、そしてその小説は、くじらといるかというかけがえのない同性ふたりの話であるからです。

風花が持っているのは新装版。

『ともだちは海のにおい』の主人公、くじらといるかはお話の後半、それぞれの好きな人を見つけて、結婚をします。しかし、物語の最後には、そのくじらといるかのふたりが、どこまでも一緒にいると書かれて終わるのです。

「ねえ、くじら」

 くじらのお腹によりそって泳ぎながら、いるかがいった。

「うん?」

「ぼく、いま、あんたにみてもらわなくても、ぼくのこころのなかになにがみえるか、わかるよ」

「ふーん。なにがみえる?」

「あんたがみえる」

「あはは、やっぱり?……ぼくもなんだ。ぼくのこころを、いまみたら、いるか、きみがみえるよ」

(…)

 夕焼けの空の下、こころのなかでいるかがあそぶくじらと、こころのなかにくじらがねむるいるかが、ならんで泳いでいると……もう、くじらといるかのみわけがつかず、ふたりはどこまでもいっしょである。

 そして「終わりのない海」という詩が書かれ、物語は終わります。

 ではここで、『白い砂のアクアトープ』最終話のラストシーンを確認しましょう。二年ぶりの再会を果たしたふたりは「風花」という名前について語り合います。

「ねえ、風花」

「なあに」

「風花の名前って雪のことだったんだね」

「うん。風花(かざはな)って晴れた日に風に舞う雪のことだからね」

「でも風花ってうちなーにぴったりの名前だよ」

「そう?」

「だってこの島は、風と花と珊瑚でできてる」

「……風と花と珊瑚と…………心」

 このくだりで、くくるはなにかに気づきます。

 そして、彼女はとなりを歩く風花を見つめ、風花もくくるを見つめています。ふたりはおもむろに笑いだし、並んで歩いていき、物語は幕を下ろします。

 もし仮にここで、ふたりが互いの瞳のなかにそれぞれの「心」を見ていたとするのなら、彼女たちは、あたかも『ともだちは海のにおい』のように「ふたりはどこまでもいっしょ」であることを確認していた、ということになるかもしれません。名づけられない関係はしかし、「心」のなかにはあったのではないか……といったことをわたしは考えてしまいます。

 

名づけられない愛について

 もちろん上記のような読み方が一般的ではない、ということもわかっています。たとえ、そうであってもわたし(あるいは”あなた”でもかまいません)はそこに「なにか」があることを期待し、見ようとします。そういう行為を自然のうちにしています。

 ですが『白い砂のアクアトープ』最終話の放送終了後、わたしはネットでとある発言を見かけました。いまとなっては細部を思い出せませんし、正しく記録を取っていたわけでもありません。

 ただおぼろげな記憶のままに要約すると、その人は、くくると風花の「(同性愛的な)関係が作品のなかで明確に言われなかったことに傷ついた」と述べていました。つまり作品そのものは、主人公たち――ひいては視聴者たち(の暗に含まれる属性)――を公共の場では、まったく認めてくれないどころか、表現としても出してくれないのだ、だからわたしは傷ついた、というのです。

 とはいえだいぶ前に書いたとおり、自分はある程度はそれまでに「百合」という作品や文化に触れていましたので、最初から「語られないこと」にも慣れていました。ゼロ年代や10年代に登場した百合作品の多くは「同性愛」や「レズビアン」といった言葉を作中で明示しないもののほうが圧倒的に多く、かつ人気作品として成り立っていたからです。

 ですが、もしかすると、そういった態度じたいがだれかを傷つける可能性があることについて、わたしは長いあいだ、無自覚でいたのかもしれません。ここ数年は、ずっとそのことを考えていました。そして2019年以後、現在に至るまで、性愛的な描写や言葉が作中に登場する百合作品は、決してめずらしいものではなくなっています。

 

「百合」はだれにも踏み荒らされない聖域なのか

 そんな迷いのなか、竹村和子『愛について アイデンティティと欲望の政治学を読むことになり、序文の一節で、わたしはひどく打ちのめされることになりました。長いですが、語り口にくらべて論旨ははっきりしていますのでここに引用します。

 しかしこれは奇妙な逆説だ。なぜなら異性愛者は、生涯をつうじて異性と性交渉をもたなくても、またもとうと思わなくても、同性愛者でないかぎり、異性愛者でいることができる。つまり、異性愛者であるかどうかを弁別する要素は、異性愛を実践しているかどうかではなく、同性愛を実践していないかどうかとなる。ひるがえって同性愛者の方は、そもそもが性器的なセクシュアリティが完全に実践できない(つまり生殖に導くことができない)ということで差別されているのにもかかわらず、かならず性器的なセクシュアリティをもつと期待されている。もしもそうでなければ、それは同性愛ではなく、単なる友情ということになるからだ。したがってここに出現するのは同性同士の友情や連帯感と同性愛のあいだの厳格な峻別であり、その結果として、友情や連帯感から性愛的なニュアンスを強迫観念的にことごとく排除しようとする(自称)異性愛者の克己的とも言える姿勢である。またさらに言えば、生殖に導く合法的な性器的セクシュアリティが、政治的・経済的・社会的なパートナーシップを保証しているがゆえに、それ以外のエロスの関係は、性愛の有無にかかわらず、パートナーシップとは認められないということになる。

(太字傍点)

 この「性愛」が語られないことによって生まれていくいくつもの前提と規範は、もちろんわたしにとっては「百合」にとっても同様のことに見えました。

 インターネットを中心とする「百合である/百合ではない」といった価値判断の奔流のなかで、作品やその読者たちが(さまざまな前提が即物的につくられるがゆえに)どこまでも幸福な捉え方をされない不均衡を見てきました。ですからいまもなお、それが担保されつづけている可能性について、考えざるをえませんでした。

『愛について』の一章を読むと「性愛を基準に同性愛を判断する」という定義が「トラウマのように潜行し」ていた二十世紀後半について、ひどくあっさりと触れてゆくことができます。ならば、2023年において、百合というものはどう捉えていけばよいのでしょうか。すくなくとも、「自分」は「どう見ていけばいいのか」。

「百合」と「現実」を混ぜるな、という野次がいまにも傍から聞こてきえそうですが、わたしにとっては、すでにそのような「現実」があることじたい、「百合」がかつてのような安全な「避難所」でもなければ、だれにも踏み込まれない「聖域」でもなくなっているということにほかなりません。

 ですから、なにかを考えておきたい気がしています。ほかでもない、わたし自身を認めるために。あるいはどこかで目にした”あなた”と言葉を交わしてゆくために。

 

『名づけられなかった花たちへ』について

 たいへん長くなりましたが、ようやく本題となります。

 以上の(あまりにも長すぎる)過程を踏まえつつ、わたしは、過去110年ほどのあいだに発表された、近現代の日本の短編小説を「百合」という名前の枠組みを用いることで、もう一度、見直していきたいと考えています。

 目標としては、2023年9月の文学フリマ大阪にて、そうした「百合」と見なすことができる/あるいは見なしたいと考える短編小説およそ50作品をレビューした本を出すことにしたいと考えています(サークル〈ストレンジ・フィクションズ〉名義となる予定です)。ちなみに一作品ぶんも原稿は完成しておりません。この文章はとにかく、自分を奮起して行動に向かわせるために書いています。

 仮に予定どおり出るとした場合、その本には、これまで学術研究の場であれば言及されていたかもしれませんが、『マリみて』以後における「百合」作品のメインストリームでは、すくなくとも2000~20年代ではあまり語られていなかった作品たちを、できるかぎり扱っていくつもりです。

 なにしろ「百合」において小説は、これまでアニメや漫画と接続されることがほとんどなく、とりわけ短編小説という分野は、長編にくらべるとデータベース化されていないからです。

 そして、そこには女性同性愛もあれば、いまから見るとシスターフッドといえるものもありますし、性愛にならないあるいは頼らない、単なる友情もあります。そして当然ですが、歴史的にあった性差別や性暴力の痕跡もまた刻まれています。

 わたしは、それらをあえて「名づけられなかった花」として、語っていきたいのです。「百合」であるということをどうにかして、自分の問題として接続したいのです。そう望んでいるからです。まずはそこからはじめたいのです。

 もちろん自分は文学研究を専門として学んだわけではありませんし、大系的な調べ方をしてきたわけでもありません。

 だとしても、それでも「わたし」は、まずはここにいる「あなた」に向けて、自分の言葉で語りたいのです。そしてそのためにこれを書いています。

 そしてまずはこのブログ上で、作品紹介の一部を連載というかたちで書いていきたいと思います。

 以下にウェブ連載上で取り扱いたい作家とその作品を一部、挙げてみようと思います。じっさいに書き出せるかはまったくわからない状況ですが、これらのリストを見て、なにか共感や興味を持ってくださる方が増えることを祈っています。

 

田村俊子「惡寒(さむけ)」

川端康成「秋消える海の恋」「女学生」「朝雲

宮本百合子「広場」

三島由紀夫「果実」「春子」

久坂葉子「ふたつの花」

瀬戸内晴美「女子大生・曲愛玲」

橋本治「愛の牡丹雪」

佐多稲子「由縁(ゆかり)の子」

片岡義男「たしかに一度だけ咲いた」

松本侑子「防波堤」

梨屋アリエ「つきのこども」

村松真理「ソースタインの台所」

・遠野りりこ「マンゴスチンの恋人」

青山七恵「二人の場合」

・杉元晶子「今日から魔女(の材料)になります!」

・李琴峰「地の果て、砂の祈り」

などなど

 

 締め切りが数ヶ月後にせまっているため、なるたけハイペースで更新したいと思います。上記作品以外が出てくる可能性も大いにあります。

 それでは、なにとぞよろしくお願いします。

 

 私は百合を捨てなかった。それは造ったものの分までうしろめたく蒼ざめながら、今も死ねないまま、私の部屋に立っている。

                    ――吉原幸子「永遠の百合」

 

 第1回はこちら。

saitonaname.hatenablog.com

*1:京都銀行のCM「ながーーいおつきあい」をイメージしています。

*2:たとえば百合が俺を人間にしてくれた――宮澤伊織インタビュー|Hayakawa Books & Magazines(β)はよい企画だったと思いますが、発言の、その後のネットでの受け取られ方、切り取られ方はあまり幸福なものだったのかについてはいまだに判断がつきません。

*3:『ユリイカ 2014年12月号 特集=百合文化の現在』にも寄稿しています。

*4:ただし、翻訳された作品やアニメ作品といった有名作品などを中心に構築された歴史観であるため、一概にこの本の見方が通史として正しいのかはわかりません。

*5:たとえばこういうときに持ち出されがちなのが吉屋信子の名前ですが、彼女の『花物語』について語るのか『屋根裏の二処女』について語るかでも見解はひどく簡単にすれ違うことでしょう。

*6:『Over vol.2』オーバーマガジン社

*7:ここではさまざまな細部を端折って話しているので内実とは異なっています。

*8:アイカツ!フォトonステージ!!』というソーシャルゲーム内のイベントで星宮いちごと霧矢あおいがウェディングドレスを身にまとったことはあります。

*9:これがじっさいにかつてあった出来事の再現であるのか、それともほんとうは起きなかった出来事であるのかは確定しません。