ひらりさ『それでも女をやっていく』ほか

 引き続き雑記。つづけられたらいいのだけれど、なんか忙しさを理由にしてだんだん書かなくなっていく未来が見える……。

 

ひらりさ『それでも女をやっていく』

 このWEB連載を知ったのはもう終盤にさしかかっているところで、改めてに本になった状態のものを最初から読んだ。冒頭から、思春期から大学入学あたりに漂っていた、そして就職後にもどこかまとわりついていた、あの、見えない空気(本のなかでは「透明な嵐」*1と呼ばれている)を思い出し、胃の底がじっとりとなにかを吸い込んだように重くなった。

 この本のなかでおこなわれているのは、おそらく、言葉をうまく持てなかったころの出来事を、痛みに耐えながら語り直す、つまり、痛みを痛みとして共有するための作業だ。「女」という存在にまつわる、さまざまな出来事は、つねに透明な嵐にさらされている。その透明さを、ちゃんと、見えるようにしなくてはならない。

 だからか、序文の結びでは、以下のように綴られている。

 でも、読んだあなたが「ああ、私にも似たようなことがつらかった」と心が軽くなったり、逆に「全然わかんない。私だったらこう思う」と自分の話を誰かにしたくなったりしたら、とても嬉しい。そうして、さらに「いろいろな女の話」がこの世にもっと増えてほしい。まだまだ全然、足りないから。

 

 今はとりあえず、わたしの話から始めよう。

 著者は自分よりすこし年上だけれど、あのころのオタク*2の温度感はなんとなくだけれども、わかる。クラスメイトだった友達は『桜蘭高校ホスト部』が大好きで、よくその話をしていたのを覚えている。

 ただ意外というか、そのあたりをおそらくわかっていなかったのだな、と思わされたのは、幼少期に少女漫画で育った、というのが具体的にどのような感覚を醸成させるか、という話だった。少女漫画はレーベルや作品ごとに程度の差こそあれ、男女恋愛規範的な側面を持っているものが多い(たとえば恋愛をすることで強くなる、成長する、であったり、そもそも恋愛というものがいかに素晴らしいものかを教えるものもある)。

 だから、ある程度まで成長して、自他の生き方を比べられるようになったとき、その漫画のキャラクターたちのように恋愛のできない自分は駄目なのか? という自己内省が自然と生まれていく*3。どんなに価値観の相対化ができたとしても、すり込まれた規範あるいは憧れというものは毒のように体内に溜まっていく。それが「ロマンチック・ラブのゾンビ」なのだと著者は述べる。

 これには自分も経験がある。といっても自分はシスヘテロ男性なので、主にそういった部分を受け止める源泉となっていたのはライトノベルだった。

 2023年現在刊行されている作品やシリーズは比較的(比較的なのだが)そのあたりについて自覚的な作品がいくつかある印象だけれど、ゼロ年代ライトノベル作品には「女の子なんだから」≒「かよわいんだから」とか、「いいお嫁さんになれないぞ/いいお嫁さんになれるぞ」≒「女らしくしろ」的な男子中高生の考える「理想の女の子」に対する価値観を内面化した作品にいくつも出会ってきた。それがどこか歪んでいるように見えたのはたぶん、二十歳前後あたりからではなかったか。

 もちろんそういったステロタイプな言説を、たとえば異性に対するひとつの「憧れ」あるいは「フィクション」として書かれているのだと説明するのは簡単だ。あるいは反対側からみれば、まったくもって正しくない「男女規範」を極端にした意識のあらわれだと指摘することもできる。けれども同時にそれがフィクションではなく現実にだれかを当てはめようとしたとき、「透明な嵐」は吹き荒れる。

 そこで思い出したのは、昨年たまたま読んだ、宇佐美游『黒絹睫毛』だった。

 

宇佐美游『黒絹睫毛』

 それなりに容姿の整っている主人公の女の子・雪乃が、男女共学の学校に進学すると、自分よりも美しい女子がクラスにいることに気づく。それが絹子だった。そしてその事実に周囲も気づいていた。

 そのためか、雪乃は常に周囲の男子たちから絹子と比べられつづける。つまり、常に「女性」として「下位」のレッテルを貼られ、扱われていく、という話だった。

 読んでいるあいだ、とにかく、息苦しくて仕方がなかった。なにしろ主人公にはどこかに逃避するためのコミュニティすらなかった(地方で、ネット環境もおそらくない時代の話だと思われる)。

 対抗策として、雪乃は絹子の格好や髪型を真似て、すこしでも彼女に近づこうとする。そしてそこには憧れか恋慕に近い感情がある。のだけれど、向こうは自分に対してまったく振り向いてくれない、という片思い百合に近い展開になっていく(そのあとで主人公は男子と付き合うことになるのだが)。そうして常に雪乃は、だれにも助けてもらうこともなく、肥大化した自意識によってただただ自分自身を傷つけていくことになる。

 終盤、雪乃は絹子の暮らす町をひとり訪れる(彼女は電車通学だった)。けれども、そこで会った絹子の雰囲気は学校とはまったく違っていた。

 つまり絹子もまた、多くの他人から「美人」というレッテルを貼られつづけて生きてきたのであって、そのために学校では素とはちがった「仮面」を被り、自分自身を守っていたのだということを雪乃は知ってしまう。けれども物語はそのふたりを手をつなぐようにはしてくれないまま、ただ相互の不理解とすれ違いを強調させて、あっけなく終わってしまう。それでも生活はつづいていく。そういう話だった。

 だから『黒絹睫毛』を読んで思うのはだから、そういうなにかによって知らないあいだに植え付けられた価値観が過去の自分の記憶にも、当たり前のように転がっていたな、というなまなましい感触だった。

 

 もちろんそこから逃避するために別ジャンルのフィクションを読むことはできる。自分にとってそれは「百合」であったのだし、ひらりさ『それでも女をやっていく』で語られる内容では、それが「BL」の世界だったという。著者は「BLを読んでいること自体を、「女」として規定された自分の生からの逸脱と感じていた」という。

 どんなことよりも、創作の中の男同士の関係の解釈のほうが大事だと思うことで、心の底で感じている息苦しさにへらへらしていたかった。社会や会社で女らしくあることを求められているのは擬態している仮の自分であり、世間に押し付けられた着ぐるみを被っていない腐女子のほうが、本当。(…)でも、わたしにとっては一時期、「そう」だった。

(太字傍点)

 だった、というのは著者にとって、「BLが完璧な逃げ場ではなくなったから」だ。個別具体的にどこかどうである、といった話はあえてされていないけれど、そのジャンルに対する後ろめたさ、「完璧でなさ」はたぶん、わかる。結局、自分の話になってしまうのだけれど「百合」に触れているとき、自分もそうだと思っている。厳密なかたちでの重ね合わせではないけれども、ゆるい「共感」みたいなものを、自分は、そう語る文章に対して、一方的に感じている。

 そうしてまるまる一冊をかけて著者は自身の経験を語っていき、最後に「フェミニスト」であるかどうか、自分自身に、そして読者にも問いかけていく。

 問いかけはとうぜん正しさという尺度の見直しをはかることになる、これまでの前提を崩すことになる。「フェミニストは幸福なテーブルにおいてよそ者かもしれない」という文言を著者は引いてみせる。自分はここに「トラブル」*4という文言を思い出す。

 

 だから、ここから先は自分の言葉であって、著者の言葉ではない。

 

「百合」は「正しくない」よね。という言説がある。それは知っている。飽きるほどに聞かされている。でも、その「正しくなさ」ってなんなんだろう。たとえば、わたしたち男性が「百合」を消費財としてまなざすとき、そこにある種の不均衡さ、暴力性が生まれる。あるいは「百合」をひとつの逃げ場として語るとき、それは「正しさ」や「男性らしさ」にまつわるなにかから逃げるための、あるいはそのような規範(とされているもの)に対する「取り乱し」にもなることも同時に知っている。

 

伊藤氏貴『同性愛文学の系譜』

 けれども、昨年ふと気になって、伊藤氏貴『同性愛文学の系譜』という本を読んだとき、女性同姓愛は報われない、といった言葉に出会った*5。この著作では、一章ぶんを割いて女性同性愛を使った文学について語っている。

 自分が気になったのは、吉屋信子の作品についてのくだりだった。念のため留保しておくと、これは社会的な抑圧が文学に現われている、という文脈の話といて読んでいただきたい*6

 

 たとえばまず、『花物語』の中で扱われる女性から女性への恋は、たとえそれが相思相愛になったとしても、ほぼすべてが別離に終わる。

(…)

やはり女性同性愛は報われることのないものとして呪われているかのようだ。

 けれどもここで引っかかった自分もいた。

 「呪い」ってなんだ?

 「呪い」という言葉を、そこまで軽々しく扱っていいものだろうか? すぐに思考は連鎖していく。第四回百合文芸小説コンテストでも、「片方が死にがち」という話題があったはずだ。

www.pixivision.net 

溝口さんは、「百合SFでは、女性ふたりのうち片方が死にがち」なところが気になったそうです。
溝口:これは今回の百合文芸に限らない傾向ではありますが、なぜでしょうね?

 

石川:物語をドライブさせる手段として登場人物の死は有効ではありますが、百合が女性同性愛を核としたジャンルである以上、「片方がなぜこんなに死ななければいけないのか」はよりいっそう真摯に考えるべき問題だと思います。

 もしかするとこうした人間のかたちを「呪い」という存在に持ち上げているのは、社会という「だれか」などでは決してなくて、むしろ「自分たち」のほうではないのか。

 どこかでわかっていながら、けれどそこに対してなにも具体的な言葉を持たないまま、ただただ「正しくない」といった文言をくり返して、なにかの留保のために、あたかも安全な場所を確保するために使っているのは、それこそ「正しくない」のではないか。という言葉でさえもまた、ただ自分のポジションを確保する言葉に見えてしまう。じゃあ、わたしたちは百年ちかくもずっと同じ場所に居続けるのか。

 もちろんすぐに結論の出ることではないのだけれども、自分なりに言葉を探さなくてはいけないのだと思っている。自分自身をフェミニストだと声高に述べることはできない。けれど、フェミニズムを知らないでいる理由にはならない気がしている。

 言語システムが、その内部の合法性、合理性、つまり「正気」を保つために、表象しえないものをおぞましき「狂気」として外部に放逐するのならば、語りえぬものの怒りとして発せられる正義への訴えかけは、言説を求めながらも、狂気をそのなかに含むものとなる。それは、客観的事実性ではない事実性の証言であり、合理的な応答ではない応答であり、言説からすり抜ける言説である。(…)それは、気配や寓話や亡霊や比喩として――いわば通常の言語活動からはみだす過剰な一瞬として――聞かれるものである。

 今回の文章に結論はない。だからべつにお話としてまとまることもない。終わり。

*1:もちろん『ユリ熊嵐』からの引用だろう。

*2:いまとはやっぱり言葉のニュアンスが違う。

*3:こうした自己否定感覚を描いた作品として津村記久子『君は永遠にそいつらより若い』がある。

*4:念頭に置いているのはもちろんジュディス・バトラーだ。

*5:ここで紹介はするが、この本のなかで論じられる内容にわたしは賛成する気にはなれない。

*6:エスという関係のが将来的な男女恋愛の(良妻賢母教育の)前段階として理解されていた、という文脈と捉えてもよい。