北村薫『雪月花 謎解き私小説』を読んだり、オーディブルを聴き始めたりした。

 Twitterを主な生息地にしているとアカウントが凍結などにより『星のカービィ スーパーデラックス』のセーブデータになることが発覚したのがここ一週間あまりのことだったので、今度こそ(いったい何度目なんだ……)ブログ、というか雑記を頻繁に書いていくべきだと思った。ので、書くことにする。

\ドンッ/(スーファミ世代にしかわからないやつ)

北村薫『雪月花 謎解き私小説

 きのうの夕方に書店で買っておいた北村薫『雪月花 謎解き私小説を午前中にゆっくりと読んだ。北村薫はあるタイミングを境に*1、文章中の改行という区切りをまったくためらわなくなった印象があるのだけれど、近作となるとこの姿勢がもはや誰にも真似できないレベルになっている。

 なぜかというと、

 だ。

 で、終わる改行さえあっさり書いてしまうからだ。

 もちろんこれは、原稿料が四〇〇字詰原稿用紙換算一枚×???円で換算される文芸業界においては、おそらく八、九割の作家が編集に咎めらる行為だとおもう。主観でしかないが、たしか某書評家も新人賞の下読みのさいに、

「つまらない相づちで貴重な一行を消費するな」*2

 と、述べているのを見たことがある。

 だからふつうの新人などであれば、間違いなく怒られるような行為なのであるけれど、北村薫先生ほどの存在だと、これができてしまう。

 それでいて、この改行の区切りが、とても気持ちいい。どういうことかというと、とても話のうまい人が(内容そのものだけでなく、態度そのものがうまい人が)、会話のテンポをコントロールするために、すこし長い沈黙を意図して用意するときのような味わいがある。だから、読んでいるだけで心地いい。

 だとしても、もはや文学探偵北村薫≒中野のお父さんとしかいいようがないのだから、わざわざ中野のお父さんシリーズではなく、単発で本を出しておくような必要があったのだろうか、くらいには怪訝に思ってはいたのだった。だから文庫化まで手を出さなかった。警戒していたのだ。

 ただ、じっさいに読んでみると、とにかく話題が飛ぶ。連想ゲームのようにぽんぽんと飛んでいく。いちエピソードのなかで、さまざまな作家や作品の名前が泡のように現われては消えていく。なるほど、たしかにこのプロットらしいプロットのなさは小説らしくない。ほんとうに日常の、物語ですらない、それこそ雑記というかんじだ。

 けれども、もちろんその連想にはじつは(あるいはやっぱり)、北村薫なりの見えない一貫性と連続性があるため、軽妙な語りに揺られていくうちに読者はその連想のひとつひとつが連なった結果、最後には文学史のなかへするりと接続されていくのを目撃する……という次第。これはもう、お見事、としかいいようがない。

 たとえば第一話の後半、萩原朔太郎の詩「天景」のなかに登場する「しずかにきしれ四輪馬車、」というフレーズの「よみ」≒「朗読」が問題になる。

 というのも、この「四輪馬車」には、正しい「ふりがな」が用意されていないのだという。そして当然だが、いくつかの解説書や朗読CDではこの「よみ」が解釈する人によってブレていることが示される。

 では肝心の北村先生はどう判断したか……といった文学よもやま話でしかないのだが、これについてはじっさいに読んでいただきたい。

 ただ、むしろその「よもやま話らしさ」が大事なのだと思う。そしてこの第一話は、次のように幕を下ろす。

 そんなことを考えた読者は、ほかに一人もいないだろう。少なくとも、日本には。

 それぞれの位置から向かい、それぞれの収穫をする。

 それこそが、読むことの面白さだ。

 だからこの本は、そのささやかな収穫を集めたものといってよいだろう。しかし日本にたったひとりしかいない誇大妄想家などではなく、日本にひとりだけしかいない鋭敏すぎる読者のささやかな収穫である、という点には留意しておきたいけれども。

 

ひさしぶりにオーディブルを再契約した

  ところで、朗読というと、二月に入り、オーディブルを六、七年ぶりに契約したのだった。当時はまだサービス黎明期だったこともあり、青空文庫の朗読か落語のCDか……といったところでまったく面白みのないサービスだったのだけれど、最近はさまざまな環境の変化もあってか、話題になったベストセラー作品などは、ほぼ定額で聴くことができる。ただし一部の超話題作などは有料だったりする*3。このあたりは出版社ごとの戦略によるのかもしれない。

 なぜ七年前にオーディブルを契約したかというと、ミス研で後輩だった伊吹亜門先生のデビュー作が下山吉光さんによって朗読されているのを聴く(のと宮澤伊織先生の「神々の歩法」がその下山さんと阿澄佳奈さんによって朗読されていて、当時もうこれドラマCDだろ、と一部で話題になっていた)ためだ。

 下山吉光さんはその後『銀河英雄伝説』全作朗読音声化を達成するなどしており、とても話芸がすばらしい方で、それこそ伊吹亜門「監獄舎の殺人」は主要人物が方言をしゃべるのだが、そのあたりにも対応されており、まさしくプロの仕事というものを手軽に感じられるので、気になる人は是非。

 けれども、当時は月額料金の高さと、ラインナップの充実してなさを天秤にかけて、解約を選択することにしたのだった。今回、改めて契約したのは、昨年12月、スポッティファイで音楽を聴いていた時間が日本ユーザーの99.5%よりも長いですよ、となんかいいことのように指摘され、自分のことながらドン引きしたからだ。

じっさいにこれだけの時間聴いていたわけでなく、寝ていたり、音楽を流しっぱなしにしていたというのもある。

 さすがに時間の使い方が下手くそすぎるのではないか。もっと時間は有効に使ったほうがいいだろう、と思った次第。

 といっても朗読というのはやはり時間を取るものらしく、前述の「神々の歩法」の続編である「草原のサンタ・ムエルテ」という一短編だけでも1.0倍再生では、およそ一時間半かかってしまう。小説ならおそらく、この三倍から四倍の速度で読めるはずなので、速度としてはアニメよりもかなり遅い。一晩で数作読むといったことは、すくなくとも等倍再生では不可能だ。コスパ・タイパの効率を上げるというよりは、支援アイテムと考えたほうがいいかもしれない。そう思うと月額1500円というのは、かなり生々しい数字であることがわかる。

 自分は基本的にPC作業のほとんどを文章入力とネットサーフィン(Twitter・ブログ・小説・アニメ鑑賞・その他)に費やすので、せめてイラスト制作などのことばを使わない作業中にラジオ感覚で聴ければ、とも思うのだけれど、わりと話題やワードの選び方に冗長性があるラジオという存在よりも、小説は緊密な情報のことばづかいをする性質のメディアなので、意外と集中力がいるかもしれない。

 すくなくとも、無心になって線画や色塗りの作業中に聴きながらストーリーを理解できるかはわからない。もしかしたら今後、これでは無理、とわかったら運用方針を変えて、小説以外の新書などを聴くために使うかもしれない。

 といっても現状のラインナップにあるものを「ノンフィクション」で検索しても、あまり魅力を感じるものがない(そのほとんどはビジネス書や実用書としてお出しされる)ので、せめて検索性やレコメンドの質が上がればいいのだが、アマゾンにそれを期待するのは無理がある……。

 ちなみに、この一週間ほどで聴いた(ている)のは、『裏世界ピクニック3 ヤマノケハイ』と『明日の世界で君は煌めく』。どちらも百合。

『裏ピク』は髙野麻美さん*4という方がひとりで全文朗読しているのだが、これのキャラごとの演じ分けがすごい。鳥子のあの、めちゃくちゃ自然に美人オーラをまき散らす雰囲気であるとか、空魚の時折いちばんぶっ壊れている感じであるとかをちゃんとキャラクターの演技として出力している

 Twitterで適当に検索したところ、この朗読によるキャラ解釈の演技についてはシリーズを追うことに深化しているそうなので、途中巻まで読んでいるファンはとりあえずつづきをちょっと追うつもりで聴いてみるとおもしろいと思います。

『明日の世界で君は煌めく』はゾンビアポカリプス風になってしまった世界で、魔術が使える少女がとある目的をもった元クラスメイトに会い、一緒に行動していくもの。こちらは柴田芽衣さん*5青山吉能さん*6のふたりが朗読。

 どちらの朗読も、やはり朗読者によって、かなり地の文の扱い方などがちがっていて、どこか画一化されていないのが面白いな、と思う。

 自分が比較的聴いていた朗読はNHKラジオの「朗読の時間」などであるため、それこそめちゃくちゃキャリアを積んだ俳優(男女ともにである)が担当することが多い。こういう人たちの朗読はもう、かなり安定感のある語りなのだけれど、最近聴いているオーディブルの音声などは、ライトノベル/キャラクター文芸系列作品のせいかもしれないが、どこかキャラらしさというものが朗読に出る。というか、朗読者とだんだん近づいていく感じがする。『裏ピク』などはまさしくその好例だと思う。

 また、ガガガ文庫はオーディオブックに力を入れているのか、アニメ化とはまったく縁のなかった相当むかしの作品なども朗読音声化をしているようで、そのラインナップにはいまさらながら、けっこうびっくりする。『みすてぃっく・あい』がどうしてあるのか。おまえ絶版だし、電子化もしてなかっただろ。せっかくだし今度聴くと思う。

 また、風の噂できいたはなしなので話半分に聞いていただきたいのだが、TYPE-MOON作品などは音声が入るさい(アニメやノベルゲームのフルボイス化のさい?)にかなり明確に声優にディレクションをおこなうとのことで、そのあたりも興味深い。ことばをどう扱うか、コントロールするかは作品のなかで、かなりだいじな要素なのだ、と長編二冊ほどの朗読を聴いたいまなら十分わかる。

 なにしろアニメキャラクターの担当声優が朗読するのでないかぎり、あるいはアニメ化後にべつの声優が朗読するさいにその作品を参考にしたのでないかぎり、オーディブルに対して、一対一で原作者が演技のディレクションをおこなってはいないのでは、と思うからだ。もちろん例外はあるかもしれないが、その手間は膨大である。なにしろ長編一冊となれば、等倍再生でも、七時間から十三時間ほどはかかる。このひとつひとつの文章にディレクションをしていたら、途方もない時間がすぎていく。

 つまり、なにがいいたいかというと、他人の作品解釈を「朗読」というかたちで聴ける場は意外とすくないよね、ということだ。

 そしてそれは、今日よんだ『雪月花』にも書かれていたことなのだった。

 

余談

 最後に、北村薫『雪月花』を読んでいて、まったく文脈なく、びっくりしたことがある。それは江戸川乱歩の『探偵小説三十年』の一節を北村が引くところだ。

 中学一年の夏休み、母方の祖母が熱海温泉へ保養に行つていて、私を誘つてくれたので私は生れて初めての長い独り旅をして、熱海へ出かけて行つた。丹那トンネルの開通したのはズツとあとのことだから(…)

 と、つづいていくのだけれど、自分は、

「丹那!?」

 と、驚いたのだ。なぜか。丹那といえば鮎川哲也の名探偵、鬼貫警部シリーズに登場する、丹那刑事のなまえがすぐに連想されるからだ。そして鮎川哲也といえば、『ペトロフ事件』の段階で、満州鉄道の時刻表をもとにトリックを考案した生粋の鉄道マニアだ。のちに鎌倉に移り住み、それこそ東海道線をお話の舞台に選んだことも幾度となくある作家。

 そのような人物が、主要キャラの名前に、あろうことか鉄道トンネルとおなじ地名姓を与えているのだ。ここに意味はあるだろうか。

ja.wikipedia.org

 いや、もちろんここに意味はない(かもしれない)。

 そもそも丹那刑事の名前の由来はF・W・クロフツの作品に登場するタナー警部(『ポンスン事件』)から取ってきたのでは、という説が有力であることをきいたことがあり、自分もおそらくそうだろうと思っていたからだ。

 鮎川哲也クロフツの大ファンであることは周知の事実だし、それをもじってキャラクターの名前にしているのはおそらく(ファン目線としてはじゅうぶんすぎるほどに)正しい。

ja.wikipedia.org しかし、wikipediaにあるように「鬼貫という姓は、俳人上島鬼貫からとったもので、名前は決まっていない。」としっかりとあるのに*7、丹那刑事がタナー警部から、と推測するのは、どこかアンバランスな感じもする。

 けれども、丹那刑事がタナー警部であり、丹那トンネルからも来ているとする、つまり、同時に成立するのであれば、これはとてもしっくりくるのではないか。

 整理しよう。

 丹那刑事がはじめて鮎川作品に登場するのはおそらく長編『黒いトランク』で、1956年*8の発表が初出。そして、丹那トンネルの開通は、Wikipediaによれば、1934年。

 だから、連想というか、前後関係としては、じゅうぶん成立する。

 そして、鬼貫と丹那が『黒いトランク』で挑むのは、おもに「アリバイ崩し」だ。真相に触れるわけにはいかないが、一般的に、アリバイ崩しというのは、想定されていたものよりも、ずっと可能なショートカットを見出す話でもある。だから、鮎川哲也は、このアリバイという構築物に「トンネル」というイメージを見出していたのではないか。

 仮にそう、考えてみるのはどうだろうか。

 つまり、ミステリという謎解きのストーリーを、巨大な山を掘削し、ひとつのルートを通していく、地道な人間の営為と捉えてみてはどうだろうか。事件の謎が解けたとき、そのとき丹那=「トンネル」という「貫」かれた一本の道ができる。それを描くのは鮎川哲也、いわずとしれた、ミステリの「鬼」であるーー。

 という物語だ。

 ははあ、なんというか、北村薫先生のような文学探偵にはほど遠い、しょっぱい推理ですね、執筆者さん。これで探偵を目指すのはやめたほうがいいんじゃないですか。

 

エンディング:チャットモンチー「余談」


www.youtube.com

*1:正確なところは把握していないが

*2:意訳です。

*3:『プロジェクト・ヘイル・メアリー』とか

*4:宮本フレデリカの担当声優さんだそう

*5:ご存じ『ガールズラジオデイズ』の玉笹彩美を担当。

*6:いまとなっては『ぼっち・ざ・ろっく!』のぼっちちゃんで有名。

*7:出典はどこかわかりませんが。

*8:短編が初出だったらすみません。