推理小説に内面化された世界の終わり、ドン・キホーテの憂鬱


※このブログ記事は、二〇一七年、某所にておこなわれた読書会のレジュメを改稿したものです。

ヒーロー!

ヒーロー!

 白岩玄という作家をご存知だろうか。たぶん、現在の20代〜30代であれば、TVドラマ『野ブタ。をプロデュース』と口にすれば、亀梨和也山下智久、そしてすでに芸能界から退くことになった堀北真希、この三人の顔が思い浮かぶかもしれない。主演となった三人組である。


■作者情報:白岩玄(シライワゲン)について
 一九八三年、京都府生まれ。九〇年代における謎ストリームであったJ文学(J−popと文学をかけあわせた造語)のあと、綿矢りさの登場によってみたこともないほどきれいなチョコレートケーキを味わうようになった河出書房新社が2004年に発射した人間ミサイル作家(第四一回文藝賞受賞)のひとり。発射された犠牲者はほかに、『平成マシンガンズ』の三並夏(四二回同賞)、『ヘンリエッタ』の中山咲(四三回同賞)などがいる*1
 デビュー作である『野ブタ。をプロデュース』は第一三二回芥川賞候補となるほか、日本テレビ系列でドラマ化された。その後、およそ五年間新作は執筆されなかった。『文藝』二〇〇八年五月号の特集(作家ファイル1998〜2008)によれば、伊藤氏貴はこのデビュー作品を「島崎藤村『破戒』との正確な比較のもとに読み直されるべき」だと述べている*2。『文藝』二〇一六年春号に掲載された『ヒーロー!』は、デビュー以来の学園を舞台とした小説となる。


■『ヒーロー!』あらすじ
 文化系女子の佐古鈴(演劇部演出担当)と新島英雄(ヒーローオタク)がタッグを組み、休み時間中にショーをおこない「みんなの注目を集める」ことで「間接的に」いじめを撲滅しようと画策する。だがおなじ演劇部の小峰玲花(脚本担当)がふたりのアイデア剽窃、あたらしいショーをはじめたことにより、学校は互いのアマチュア作家としてのプライドをかけた未曾有の戦場へと激変する!!


■二〇一七年、推理小説は“ポスト・トゥルース”時代に突入するかもしれない
 ところで、二〇一六年一一月、世界最大の英語辞典であるオックスフォード英語辞典は、二〇一六年を象徴する「今年の単語(ワード・オブ・ザ・イヤー)」に、形容詞「post-truth」を選んだと発表した。意味は「世論形成において、客観的事実が、感情や個人的信念に訴えるものより影響力を持たない状況」としている。ここでの「post」は、「重要で無い」という意味で、類語に「post-national」「post-racial」などがある*3

 日本国内のミステリ作品においても萌芽はあったといえる。その代表例が城平京『虚構推理』*4だったことはいうまでもない。物語冒頭、とあるアイドルの死はただの事故であったことが「証言」されるものの、主人公たちはネットに介在する無数の聴衆に対して、架空の真相を提示してみせることで事態を収拾させる。作中世界において真実は意味をもたず、いかにその真相が面白く、かつセンセーショナルであるかといったことが物語の指標であり、最終目的となるのだ。

 二〇一七年現在、インターネット上の小説投稿サイト「小説家になろう」や「カクヨム」では、赤の他人の文章をまるまるコピー&ペーストし、タイトルと作者名のみを変えて投稿するといった事案も起きており、アクセス数も本家より多くなっていたことが一部で話題になっていた*5
 事実の検証という本来おこなわれるべきデリケートな行為が追いつかないほどに増殖していく情報と作為、ポリコレ棒による殴り合いと炎上をつづけるネットのなか、われわれ読者はどのような態度を持つべきなのか? 『ヒーロー!』はそうした問題をはらんだ現実を(戯画化しつつも)描いている。


■『ヒーロー!』が依拠しているもの
 ほのめかしてはいるものの、おそらくはセルバンテスによる『ドン・キホーテ』と思われる。騎士道物語を読みすぎて狂った老人アロンソ・キハーノは、現実の出来事をことごとくその物語になぞらえて解釈する。ヒーローオタクである英雄もまた、この老人の末裔といえる。自身を「大仏マン」と称し、マスクをかぶる行為を「変身」と主張する英雄に呆れながらもついていく鈴は、むろん従者であるサンチョ・パンサということになる。


■『ドン・キホーテ』の分裂
ドン・キホーテ』はその圧倒的な人気から剽窃を受けた作品でもある。出版された一六〇五年、セルバンテスはその年に起きた殺人事件および変死事件の容疑者にされ、牢屋にぶち込まれる。そのため一六一四年にはアベリャネーダという人物がその続編(贋作)を書いたにもかかわらず、作者本人は指をくわえているしかなかったという歴史がある。『ヒーロー!』に登場する大仏と馬のマスクは両方ともドン・キホーテ(激安の殿堂のほう)の店内に陳列されていたものである*6。玲花のショーに登場する馬たちは、アロンソ・キハーノの愛馬ロシナンテの、いわば親戚ということがいえよう。


■犯人さがしからの脱却
 作中のいじめ対策の有用性については賛否あるだろうが、河合隼雄は『子どもと悪』*7のなかで、短絡的な防止策をとらない方法について触れている。河合の聞いた研究発表によれば子供が「いかに学校で楽しさを見出しているか」という点を重視することで、結果的にいじめをなくすことにつながっているという。こうした意見は、『ヒーロー!』作中で描かれた内容と呼応しているといえる*8。反対に、その短絡化というのは、犯人さがしであり、「誰がいついじめたのか、誰がいじめられたかを『調査』して『犯人』を見つけ出すことに教師が熱心になる」ことのあやうさだ

 むろん事実関係の把握は(いじめが刑事事件性を帯びるのであれば当然)重要であるが、むしろここで河合が主張したいのは子供の心のケアをどうしていくかという点にある。犯人さがしをおこなうということであれば、それはつまり、子供の側に「悪」を選定させるということを意味する。ディスコミュニケーションによって泥沼化した教室に通いつづけるだけでも彼らに相当な負荷がかかることは自明で、たとえば羽海野チカ3月のライオン』(白泉社)のように、加害者側が開き直ったために解決へのアプローチが無力化され、単なる優越感ゲーム的な状況になる可能性すらある*9。『ヒーロー!』作中において、もっともこの点に自覚的であったのは、むろんいじめられた過去をもつ公平だ。彼は鈴との会話のなかで、次のように語っている。

「(…)僕は考えるようになったんだ。こちらが正しいからと言って、その正義を貫くことは本当に善なのかって。現実的な力を行使すれば、相手に何かしらの傷を残してしまう可能性がある。僕らの生きてる世界は特撮ヒーローの世界とは違う。悪いことをした奴らをこらしめて、めでたしめでたしというわけにはいかない」
(…)
「正しさは人から優しさや思いやりを奪うんだ」

■『ドン・キホーテ』の狂信(”in his steps”)と推理小説
 ところで騎士道物語を読みすぎて頭がおかしくなったドン・キホーテであるが、辻原登は『東京大学で世界文学を学ぶ』*10において、その主人公を敬虔なキリスト教徒と同様、「信仰の人、信念の人」だと評している。書物に書かれていること(≒フィクション)を絶対的なこととして受け入れるということは、実物を「見ないで」信じるということを意味するためだ。では信じない相手にはどうするか。暴力的制裁による服従である。現代人の目から見ても、これはさすがに受け止めるのは難しい。
 とはいえ同時に、ハードボイルド探偵が依頼人(≒思い姫)への忠誠を誓い、約束を順守することから、その態度が騎士道になぞらえて語られることにも納得がいく。真実という聖杯を求めて都市をさまよう探偵の姿は、死んだロマンチシズムの残滓だからだ。つまり探偵は本質的に時代錯誤的であり、気狂いでもあるのだ。


■『ドン・キホーテ』の感染
 たんなる騎士道パロディであったはずの物語が現実へと浸食していった結果、なにが起きたかはあまりにも有名であろう。当初、ドン・キホーテただひとりしかいなかった狂信者の数は、その物語に触れることによって増えはじめる。リアリストであったはずのサンチョですら、最終的には現実とフィクションの区別がつかなくなってしまう。


■『ヒーロー!』におけるポスト・トゥルース
 ではここで『ヒーロー!』に戻りたい。本書の肝といっていい部分だ。鈴は、上級生による英雄への暴行の原因を玲花に求める。彼女が金で雇ったことによって、いやがらせが起きたのだと、鈴は自身の見ている状況から信じ込んでいた。けれどもそのことを指摘すると否定されてしまう。それどころか鈴は、かえって玲花から思わぬ反撃を受ける。自分の考えたシナリオ(≒フィクション)と現実の区別がつけられない人種(≒気の狂った読者)であるという本質を突かれてしまうのだ。

「自分が正しさを捨てられる人間だとでも思ってるの? 今だって私を諭そうとしてるし、これまでだってずっとそうだったんだよ? 鈴は自分の中にある正しさを放棄できるような人間じゃない。それは私が一番よくわかってる」
(…)
「これ、私が書いた脚本。ケンカする前にできてたんだけど、見せる機会なくなっちゃった。ほら、これ見たら、体うずくでしょ? 自分の演出で、みんなを面白がらせたいって思うでしょ? 自分の作るもので他人の心を支配したいと思ってる人間に、正しさを放棄できるわけないじゃない。あなたは永遠にそれに縛られる。自分の正しさから逃げられない」

 加えて演出に対するダメ出しを受けた鈴は、そこで思わず手をあげてしまう。事実よりも感情が優先された結果である。読者である限り、だれもが理性を失う可能性を秘めている。だがむろん、それを指摘した玲花でさえも彼女だけのシナリオを有している。ここでは、玲花にとっては、鈴こそが英雄の思い姫だったという物語の反転がおこなわれている。

 ここに来て思い出されるのは、二〇一六年に発表されたもうひとつの『ドン・キホーテ』作品、樺山三英ドン・キホーテの消息』である。現代によみがえったドン・キホーテが「第四の遍歴」をおこない、その行方を探偵が追っていく、というのがおもな物語のあらすじであるが、ここでもまた、時代を超えたことによる正義の決定不可能性が語られている。以下に引用するのは、「真実の騎士」を標榜するドン・キホーテとその従者サンチョ・パンサの会話である。

「なるほど、さすがはおいらの旦那さまですが。ですが旦那さま、そもそもその正義ってやつはなんなのでしょう。おいらはよくわからなくなっちまいます」
「悪と戦い、不正を正す。それが正義ではないか。どこにわからないことがあるのか」
「おいらがわからないのはですね、その悪と正義の見分け方ですが。どこまでが悪で、どこからが正義か、それを決めるのは旦那さまなわけでしょう。ですが旦那さまが悪と思ったものが、他の誰かにとっては正義であったり、他の誰かにとっての悪が、旦那さまにとっての正義であったり。そんなことがあった場合はどうしたらいいんですかね」
(…)
「むう。お前の言うことはわからんではない。しかしいかなる道理もなしに、人が生きていくことは難しい。昨今の民はなにを頼りに、事物に区別を設けているのか?」
「ああそれは、ひとことで申すのは難しいのですが。ですがあえて言えば、味方と敵の区別ということになりますが」
「ふむ。それは味方に属するものが正義で、敵に属するものが悪であるということだな。しかしその道理で行くと、味方と敵の区別もまた、見分けづらいものであったりするのではないか?」

 この「味方と敵の区別」の難しいディスコミュニケーション状態こそが、『ヒーロー!』終盤における状況だということができる。推理小説でたとえるのならば、これまで犯罪の痕跡を追ってきた探偵がようやく犯人を指摘できるようになったかとおもえば、反対にその犯人が「そういうお前こそ○○事件の犯人じゃないか、どうして正面切ってそんなことがいえるんだ?」と当人にとっては憶えのないことを断言し、ふんぞり返ってしまうような状況といえる。

 ミステリの世界において、登場人物どうしが暗黙の了解において所有していた(あるいは内面化していた)真実への信頼は、すでに失われている。このような世界観が前景化した状況では、真実を武器とする探偵は敗れ去ることしかできないのではないか。


■『ドン・キホーテ』の憂鬱:後期クイーン的問題について
 飯城勇三エラリー・クイーン論』*11のなかで検討される後期クイーン問題は「現実世界の(と設定されている)探偵は、偽の手がかりがからむ現実の(と設定されている)事件において、唯一無二の真相にたどり着くことができるか」ということだった。

 が、これまで述べてきたように『ヒーロー!』において、上記のような視点はもはや問題ではない。重要とされるのは作中探偵の精査の限界点(事実の保証)ではなく、読者の感情が真相を受け入れることができるか否かであるからだ。

 感情が事実を受け入れられなかった場合、あるいは事実を誤認した場合、正義が暴走することを『ヒーロー!』作中の公平は恐れている。前述したように、公平はその意味で敗れ去った探偵の姿だということもできる。真実という武器を突きつけた結果、最悪のシナリオにたどり着き、そして彼自身は精神を病んでしまう。

 読者であれば自身の物語を所有するがゆえに発狂するしかなく、探偵であれば正義の根拠を奪われ精神を病んでしまうという、ダブルバインドの現実(≒フィクション)世界をわれわれは生きている。というより探偵はその存在からして狂っているのだから、これはもはや三重苦である。


■『ヒーロー!』の処方箋
 こうした状況のなか『ヒーロー!』が物語の最後に示す行動は、愚直といっていい。精神を病み、狂った状態で、相手がそのシナリオを受け入れるかどうか「賭ける」ことによって幕を閉じるからだ。鈴はそれを「誤解を解く」物語として提出する。けれども重要なのは、その主人公が人間ではないということなのかもしれない。本来的に違う存在間において、納得できる境界線を探り、物語に合意する可能性を模索する。なぜなら喜劇(≒ユーモア)は、観客の同意なしには成立しないことを彼女は最初から知っているからだ。だとするならば、推理小説は今後、登場人物間の心理的解決を模索するようになるのかもしれない。


セルバンテス ポケットマスターピース 13 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

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ドン・キホーテの消息

ドン・キホーテの消息

*1:要出典。

*2:文藝 2008年 05月号 [雑誌]より。

*3:http://www.asahi.com/articles/ASJCJ6F2CJCJUHBI03S.html

*4:虚構推理 (講談社文庫)

*5:https://togetter.com/li/1100047より。

*6:単行本p.21参照。

*7:子どもと悪 (岩波現代文庫〈子どもとファンタジー〉コレクション 4)

*8:とはいえ、河合が記述していた研究はあくまで一例であり、因果関係においては放課後の部活動が子供の非行を減らす、といった考え方ともつながっている点は留保すべきかもしれない。決して統計的な裏付けなどあるわけではないため。

*9:ちなみに第一の被害者は転校。それをかばおうとしていた川本ひなたが第二の被害者となるが、教師の協力および理解者の介助を経て、事件を終結へと導くことになる。

*10:東京大学で世界文学を学ぶ (集英社文庫)

*11:エラリー・クイーン論