1月17日なので、わたしにとっての地震の話、それから阪神淡路大震災の話をする。
2025年現在、わたしは京都市民で、出身は神奈川県。1995年当時に被災したわけではない。物心つくころに言われていたことといえば、お前の住んでいる地域には断層がたくさんあるよ、ということと、富士山が噴火したらただではすまないぞ、ということだった。そしてなにより津波の可能性。わたしの実家は海まで徒歩五分もないところに建っている。数年に一度のペースで大きな台風が来ては、高波が防波堤を乗り越えて、海沿いにある公民館の窓をのきなみ破壊していく(波は海水だけでなく、石をたくさん運んでぶつけてくるからだ)。たぶんいまも根本的な解決はなされていないはずだ。
中学に上がったころ、担任の先生が関西出身だったこともあって、九月(だったと思う。学校は防災の日を意識していたに違いない)に特別授業をおこなった。
授業内容は、被災の体験を生徒に語り聞かせるというものだった。まだ若い先生で、関東圏に来ても喋り方に関西弁のアクセントが残っていたことを憶えている。授業では画質の粗いニュースなどの記録映像を見せられたあと、水が止まったので皿にラップをかけるなどして対応した話などを聞いた。
逆にいえば、それ以上のことはあまり憶えていない。小学生のころには震度を体験させてくれる車が来てぐらんぐらんと揺られたものだが、あれはアトラクションみたいで割とすきだった。暢気なものだった。
だから自分の意識下に「震災」の二文字が明確にあらわれたのは、わたしと同じ世代がほとんどそうであるように、東日本大震災以降のことになる。
2011年3月11日、書店バイトのシフトが夕方から入っていた。大学はすでに春休みに入っていて、関西に引っ越していたマンションの自室で、机に置いていたペットボトルのなかの水が長い時間、揺れたのを見ていた。いつもよりいくぶんか長いなと思い、しばらく待ってからテレビの電源をつけた。震度はかなり大きかった。
しばらくチャンネルをザッピングしていると、震源地近くの海沿い上空をヘリが飛んで、そこからカメラで中継している映像が出た。画面内に人が映り込むと、アナウンサーが、危険ですので直ちに避難してください、といった旨のことを焦ったふうに述べていた。津波が来るかもしれなかった。とりあえず、自分のいる関西も揺れたがこちらには影響はなさそうだった。そこで一度電源を切った。
具体的にどのくらい時間が経ったか憶えていないが、バイトの時刻が迫っていた。もう一度テレビをつけると、画面いっぱいに橙と黒が映っていた。火災だった。想像よりも地震の被害は広がっているのかもしれない、と思う。気分が悪くなったが、無事な人間がそれだけでバイトをはずすわけにもいかず、駅に向かい、近鉄に乗った。
車内ではまだ地震のニュースを知らない人がほとんどのようで、談笑すら聞こえていた。当時はまだスマホの普及率がいまほど高くはなかったから、移動中にツイッターを見る人もすくなかった。なにか大きな出来事があっても、情報が伝達されるにはしばらくのラグがあった時期だった。
JR京都駅の正面、京都タワーを見上げることができるバスステーションの手前のところで、号外の新聞が配られていた。地震で揺れ落ちるものから身をかがめて自分を守ろうとする人の写真が大きく印刷されていた。咄嗟に撮られた一枚のようだった。それをひとつ貰って、バイト先に着くと店長に渡した。すでにシフトに入っている人で、被災地に親族のいる人はいないか確認したほうがいいだろう、といった相談をした。この日かぎりは、例外的に仕事中も携帯をポケットに入れてよいことになった。
とはいえ回線が混み合っており携帯電話はなかなか通じず、わたしは最終的にバイト先の固定電話を使う許可をもらい、実家と連絡を取った。家族はみな無事だった。災害用伝言ダイヤルの存在を知ったのはそのあとのことだ。
11日は、バイトの終わった夜になっても、テレビの緊急ニュースがつづいていた。東京が帰宅難民だらけになっていたことや、陸の上をものすごい速度で呑み込んでいく津波の映像、そして原発の映像などがとめどなく流れてくる。ネットでは誤報もかなり飛び交っていて、個人的にショックだったのは、家具の下敷きになって動けない、という嘘のSOSツイートを流している人がいたことだった。案の定、多くの人がそれを嘘と知らずに拡散させていて、なにがなんなのかわからなくなってしまった。
次から次へとうれしくない情報が舞い込んで気分が重くなり、しばらくツイッターを見るのを控えようと数日つぶやくのをやめたところ、知人が心配して「大丈夫か」と連絡を入れてきた。そのときのアカウントはもう消してしまったのだが(現在わたしのアカウント@nanamenonは二代目にあたる)、たしか「生きてます」だったか「無事です」といったことをつぶやいた記憶がある。
やがて日本全体が放射線に対してどんどん敏感になっていった。関東圏ではコンクリートの地面がひび割れて車が通れなくなったり、計画停電が実施されたりしていた。「不謹慎」という言葉もよく聞いた気がする。4月になると、斉藤和義が自分の曲の歌詞を変えて歌っていた。
年度が改まると、当時在籍していたミステリ研の新歓が重なり、そちらに意識を集中しようと思った。ただ地震の影響が読めないため、進学先を変えたという人が何人もいた。わたしは2011年の夏にいろいろあって転居をすることになるのだが、不動産屋で物件を探すとき、となりに座っていた人は「疎開」目的で店を訪れていると話していた。
震災後、2012年に入るあたりまで、わたしは長時間の睡眠がとれなくなっていた。どうやっても3時間でぱちりと目が覚めてしまう。それまでずっとコンタクトレンズを使っていたのだが、眼球かまぶたの状態が駄目なのか、半日くらいではずれてしまうのが頻発してしまい、以後は諦めて眼鏡をかけて生活するようになった。
大学の講義でも、当然のように震災の話題を絡める教授は多かった記憶がある。宗教学では石原慎太郎都知事(当時)の「天罰」発言をどう思うか、といった話が出ていたし、学術書の新刊ではだいたいあとがきかまえがきに「震災」の文字が現われていた。けれどもそうした打ち込むものがある人たちの持っている意識の高さめいたものに対して、日々の勉強とバイトとサークルのローテーション以外にやることのない自分との結びつきは見出せず、居心地のわるさを感じていたのも事実だった。端的にいえば、わたしは自分の身の置きどころがわからなくなっていた。
大学の同期は、当然だけれど関西圏出身の人がほとんどだった。彼ら彼女らは、たとえ阪神淡路大震災が起きた当時の記憶を鮮明に持っていなくとも、それらの記憶や歴史を継承してきた共同体のなかで育ってきた。それはふだん見えずとも、時折ふとした瞬間に現われたりする。わたしにはそれがなかった。ないままに関西に来て、今度は自分のいないあいだに東日本が震災にあった。いろんな物事とのチャネルが切断されてしまった感覚があった。
そのあともいろいろあったのだが、結局ぼんやりしてどんどん駄目になり学部を留年した。どうにか単位と卒論を揃えて卒業はできたのだが、自分のなかで震災の経験をうまく落とし込むことはほとんどできないままだった。そのころ指針のように読みはじめていたのは、いくつかのSFや純文学で、アンソロジーの『FUTURE IS JAPANESE』や瀬名秀明『新生』、高橋源一郎『さよならクリストファー・ロビン』あたりの震災の影響下にあるだろう作品たちがなければ、SF小説を書こうとは思わなかった気がする。
大学卒業後、紆余曲折あって神戸市に住むことになった。
といっても周辺の観光みたいなことはほんとうに苦手で、わたしが主にお世話になったのは三宮センター街のジュンク堂、清泉堂書店、ブックオフ、中華街横にあるうみねこ堂書林、阪急六甲の口笛文庫などなど、書店ばかりだ。それを除けばシネ・リーブル神戸だろうか。Fateの桜ルート映画完結編をそこで見れたのはとても気分がよかった。
ただ住んでみてわかったが、神戸には至るところに震災の傷跡がある。わたしが住んでいたのは灘区だったが、適当に街中を散歩するだけでも、道端に石碑を見つけることがある。近づくと、たくさんの数の氏名が彫られている。すべて95年に被災して、亡くなった人の名前だ。ほんとうに小さな公園のすみにだって石碑はある。
それでもわたしと震災の距離は近くなかった。その微妙な感覚をある程度まで狭めてくれたのはフィクションだった。
具体的には、二作品ある。『神戸在住』と『その街のこども』だ。
木村紺『神戸在住』は98年から連載がはじまったエッセイふうの漫画で、生活の質感がびっしりと描かれているところに魅力がある。
いまとなってはこの作品でしか見られなくなった景色も多い。わたしが神戸に引っ越したのは三宮駅前がいまのように再開発される前で、元町高架通商店街がまだかなりアングラな雰囲気を残している状態のころだった。たとえば大量のワープロが山積みになって売られている景色などに立ち会えた。
『神戸在住』では神戸の大学生の日常が描かれるが、当然連載時期の大学生の多くは震災を経験している。第一話でも地震に怯える友人の姿が描かれている(そして震災を経験していないため、その様子に疎外感をおぼえる主人公もいる)。
とりわけ、じっさいに震災を経験し、学校が避難所になったあとの生活を語るくだりにはいま読んでも強烈なものがある。次から次へと人が亡くなるので、そのために生きている人たちで遺体をおさめる棺を組み立てなくてはならない、というのは被災経験のない自分では想像ができなかった話であり、苦しいものがあった。
『神戸在住』はフィクションではあるが、じっさいの場所をある程度まで説明しており、ようやく自分がそこに住んでいることで、出来事が起きている場所の距離感を掴めたし、読んでからはその舞台周辺を歩くといったことを何度かした。
また、歩くといえば『その街のこども』だ。これは2010年にドラマとして放送され、その翌年、劇場版として映画館で流れた。阪神淡路大震災から15年目の1月16日、地元に戻ってきたかつての子供ふたりが出会い、一晩かけて、変わってしまった街を歩きながら記憶と向き合っていく。
2025年1月17日、わたしはこの映画を久しぶりに観た。この日だけ、京都シネマで再上映されると知ったからだ。当日まで悩んだものの、前回は2012年あたりにディスクをレンタルして観て、劇場では観たことなかったので行くことにした。
物語冒頭、主人公ふたりは新神戸駅に降り、そこから三宮駅前に立つ。すでに当時から景色が変わっていることに気づく。女性(佐藤江梨子)は翌日、15年目の震災が起きたのと同時刻に東遊園地でおこなわれるセレモニーに参加したいと思っている。いっぽう男性(森山未來)はどうしてこの街に戻ってきてしまったのか、まだわかっていない。
ふたりが夜を通して歩くのは、三宮から御影まで。それを往復する。ふたりがかつて住んでいた地域も、そのルートのなかに含まれている。劇場で観て改めて感じたのは、世界の暗さだ。わたしたちはずっと夜明け前の暗さにいる。ディスクで観たときには感じなかった高架を列車が走る音と振動は、あの朝につながっている。
けれど同時に、わたしはスクリーンのなかでふたりが歩いている場所に既視感をおぼえる。それははじめて観たときには得られなかった感覚だった。なぜなら彼らの歩いていた場所は、すでにわたしも歩いた場所でもあったからだ。
前述したとおり、わたしは過去数年間、神戸市灘区に住んでいた。物語の終盤、佐藤江梨子が見つけることになる「おっちゃん」のマンションは、わたしが過去住んでいた場所から徒歩で10分もかからない場所にある。森山未來が時間を潰す公園は、ふだんは子供たちがかくれんぼや鬼ごっこ、ボール遊びをしており、笑いが絶えない場所だ。きっとおっちゃんも、子供たちの遊ぶ声をベランダから聴いていたことだろう。
なにかを失っている人が、自分たちのすぐそばで生活しているという当たり前の事実を、どうやったらうまく受け入れることができるだろうか。分かち合えることができるだろうか。
京都シネマでの上映終了後、井上監督と配給担当の方による舞台挨拶トークがあった。質疑応答のコーナーでもやはり、震災を直接経験した人が手を挙げていた。言葉にできないようなわだかまりを抱えている人もいれば、監督も「恐くてまだ観れない」と伝えてきた人がいる旨を述べていた。
わたしにとって震災というワードはこの十数年、他人事ではないけれど、それでも当事者でもないという微妙なところで揺れつづけている。
わたしはなにかをうまくやるということがてきめんに苦手で、やれることは小説に関わることくらいしかない。なので所属している同人サークル〈ストレンジ・フィクションズ〉で立ち上げた企画合同誌の利益を能登半島地震の災害義援金に回したいという話をした。それで5月に頒布されたのが『留年百合アンソロジー ダブリナーズ』である。
わたしはここに「春にはぐれる」という小説を寄稿した。これは昨今の世界で起きている出来事を受けて自分なりに2024年に読んでもらいたいものを書いたつもりだったのだけれど、いま思えば東日本大震災のあった学生時代に感じていた、強烈ないたたまれなさや無力感が源流にあったのだと思う。
今週1月19日には、文学フリマ京都でこの『留年百合アンソロジー』を少部数だけだが、再販する。むろん利益については引き続き災害義援金として寄付する予定だ。わたしはあなたとおなじ当事者にはなれないけれど、すぐそばで生活している人間のひとりであるはずで、だからこそ小さなかたちであっても同胞でありたいと思っている。
そしてそれは、いま遠くで起きている悲痛な出来事に対しても感じている。