河添太一『謎解きドリル』問題解説

注意:以下の作品のネタバレがあります。



謎解きドリル(1) (ガンガンコミックスONLINE)

謎解きドリル(1) (ガンガンコミックスONLINE)

「基礎から学ぼう推理のいろは」―Web版「問1」アオリ文より


 『謎解きドリル』は河添太一による推理ギャグ漫画です。といっても、現状出版されている2巻までの単行本を読んでみると、本作はギャグ、すなわち推理漫画のパロディ(脱線)によって読者の笑いを誘うことを目的とする一方で、「推理もの」というジャンルと正対しているように感じさせる面もあります。

 このことは本作の魅力であるシリアスな場所(殺人事件等)でおこなわれる脱力するようなギャグの応酬を楽しんだ読者からすれば、意外に思われるかもしれません。しかし昨年末に発売された『2015本格ミステリ・ベスト10』(原書房)の「ミステリコミック事情2014」において「基本は結のダメっぷりをネタにしたギャグだが、犯人特定の論理展開や伏線の張り方に光るところがある」(結とは主人公である女子高生探偵のことです)と書かれているとおり、推理ものとして骨太な部分も見ることのできる作品でもあるのです。けれどもこうした評価にもかかわらず、読者の絶対的な分母数がすくないのか、これ以外に推理ものとして具体的に言及している文章が見当たらないのが現状でもあります。

 おそらくこの『本ミス』で言及されている「犯人特定」に関する部分は1巻に収録されている「問2」のことでしょう(本ミス刊行時、まだ1巻しか発売されていなかったことからこのことは想像がつきます)。容疑者はわずかふたりというシンプルな設定に対して、積み上げていく推理(状況の不自然さへの気付き→真犯人による作為→作為をおこなったものが犯人)のギャグ漫画とは思えない丁寧さに加え、その論理の土台となる部分が物語上、まったく違和感なく短編の量におさまっていたという完成度の高さは、本格推理小説の世界でもなかなかお目にかかれないものでもあります。

 とはいえこうした本格推理的な最大瞬間風速は観測されたものの、一歩引いてみれば謎の難易度自体はそれほどでもない、というのが読者としては正直な感想かもしれません。のちに刊行された2巻の「問8」「問9」で描かれた事件では、現場に残された痕跡から「事件当時の犯人の行動」に加え「事件当時の被害者の行動」を逆算して推理する、という見た目に比べるとずっとレベルの高い挑戦をしているのですが、こちらは推理の組み合わせや、答えの用意の仕方に少々粗が目立つ印象がありますし、他の話にしても、いわゆる大ネタというものが使われていないためか、インパクトに欠ける部分があることは否定できません。

 上記の点ゆえに、本作を優れた推理漫画というのははばかられますが、その一方でじつのところ、読者に与える情報の扱い方については目を見張るものがあるのではないかと私は考えています。これはたんに『本ミス』で言及されたような、伏線配置の巧みさを評価するということだけを意味しません。

■基礎編―リアリズムとフェアプレイ精神
 では前述の「問2」についてもうすこし詳しく考えてみましょう。さきほど論理の土台に違和感がないと述べましたが、じっさいはどう考えてもおかしい部分があるわけです。万引きの常習犯がヘリウムガスを常備していたという点もそうですが、店員に万引きを見とがめられスタッフルームに連れていかれた先でわざわざそのガスを吸い、顔を隠しながら話す容疑者の姿はあきらかに常識のない、というよりありえないレベルにまで脚色された人物造形です。しかし読み終えるころにはそれほど違和感がない、あるいはいつのまにかその違和感が薄まっていることに気づかされます。これはなぜでしょうか。

 おそらくそれは用いられる情報の種類によるものだと思われます。情報の扱われ方をよく見てみると、事件の推理に用いられるヘリウムガスの効果持続時間や、不自然な台詞への考察、そして万引き犯を捕まえたときの状況から演繹される根拠など、最初のおかしい点以外のすべての点がフィクションでなく、現実側の情報(常識的な考え方)をもとに構成されているため、論理展開から飛躍や思い込み、情報の欠如などが極力排されており、無理なく読者が推理を受け入れる(あるいは読者自身が推理する)ことが一連の話を読むなかでできるようになっていることがわかります。つまり推理に際しては、フィクショナルな部分が関わらないように描かれているのです。

 ファンタジー・心霊的な要素を盛り込んだ推理漫画の多くが、話のなかに(読者の知り得ない)独自の基準を持ち込むことで開示される推理の根拠をオチまで意図的に隠し、サプライズを人工的につくりだしていることを考えると、謎解きドリルのあり方は際立っています。特殊な設定・環境・思想による説明を省き、あくまで現実のレベルで推理を構築するということ。その点において、本作はパロディ的要素を含みながらも、どこまでも本格推理に近づいているといえるでしょう。これがさきほど「推理もの」というジャンルと「正対」していると述べた理由でもあります。また、このリアリズム的な姿勢は作者自身のブログ*1でも明かされています。

一応漫画を描くにあたり、できるだけ嘘は描きたくないなと思っていまして、ヘリウムガスを購入しその効果を仕事場でみんなと試してみました。
(ちなみにここでいう「嘘」とは、クロロホルム嗅がせて眠らせる描写などを指します。真面目系ドラマであの手段はいい加減採用しちゃ駄目だろうと思っているのは自分だけでしょうか)

 ブログの記事ではそのあと「もう、どんどん嘘描いていこうと思いました。」と書かれていますが、1、2巻を読み終えると、その言葉自体が嘘半分で書かれたものであることに納得していただけると思います。また、この「嘘」を描かないという作者の姿勢は、読者に対して情報を隠さない、というもうひとつの態度として、本林木木というキャラクターの描写に表出されてもいます。というのも彼女は探偵である三海結の助手であると同時に実質的な推理をおこなう探偵役となっており、彼女の活躍する事件を扱った回(問1、2、4、8、9)においては、彼女の注目していたものがそのまま真相を推理する材料になっているからです。
 つまり、木木が現場のとあるものに注目したり、質問をおこなうことは、メタ的には伏線を読者に開示していることを意味している、ということです。また、そうした推理に関わる部分において、彼女の行動が意図的に読者に隠されることはありません。推理の材料は、余すことなく読者に開示されているのです。

 これはいわば、『ノックスの十戒*2における「探偵は読者に提示していない手がかりによって解決してはならない」「“ワトスン役”は自分の判断を全て読者に知らせねばならない」というふたつの文言をより明確なかたちに組み換えたものでしょう。どういうことでしょうか。

 推理小説において、記述者であるワトソン役がどんなに自分の判断および得た情報を読者に開示しても、探偵役の持っている判断力や情報量がそれをはるかに上回るために、読者は「初歩」にすら気づけない、ということが往々にしてあり、それがフェアとアンフェアのグレーゾーンとして存在するということがあります(たとえばこれは、「読者Aは気づけなかったというが、明敏な読者Bなら作者の仕組んだ伏線に気づくことができた。ゆえにフェアだ」というふうに、読者個々によってフェア・アンフェアの基準が変わってしまうという問題を含んでいます)。

 しかし『謎解きドリル』においては、そのふたつを木木というキャラクターひとりに統合しているため、情報の齟齬によるミスディレクションが解消されています。つまりワトソン役と探偵役の情報差というものは、メタレベルにおける読者と作者のあいだに生まれる情報量の不均衡のことであり、それを解消する役割を本林木木が担っているということなのです。

 このため、本作は前述したリアリズムの面だけでなく、伏線(の見落とし)という側面からもフェアを徹底したつくりになっていることがいえます。読者に求められることは、ただ提示された情報から推理を組み立てることだけであり、見落とした伏線がないか探す必要はありません。読者は木木の持っているのと同じデータをもとに、彼女のおこなう推理を当てることができるかどうか、という部分において純粋に知恵比べをおこなうことができるのです。犯人当て小説の多くが巧妙に隠された伏線に気づけるかどうか、という部分で読者の正答率を下げていることを考えると、『謎解きドリル』がいかに「推理の問題」にこだわっているかが見えてくるのではないでしょうか*3


■応用編―挑戦されない推理の問題
 むろん、『謎解きドリル』の魅力はフェア性に限りません。さきほど読者に与えられる伏線については説明しましたが、謎解き以外の読者が注目しない余剰部分の情報こそ、むしろ巧妙に扱われているといってよいでしょう。本格推理的な制約に左右されない部分にこそ、作者の遊び心が散りばめられているからです。

 さきほどから何度か言及している「問2」ですが、じつは謎解きが終わったあとにも、ちょっとした演出がほどこされています。殺人事件に対する推理はおもに木木がおこなっていますが、この話のなかでは三海結の弟(のちに三海当という名が与えられます)も事件の状況に「憶測の域を出ない」考察をおこなうこと(1巻74〜75ページ)で木木の推理を補強していました。ですがあくまで補足的な役割でしかなかったものが、事件解決後に「は〜な〜せ〜やあっ!!」という台詞が挿入されることで、じつは正しかったであろうことが間接的に描かれているのです(1巻85ページ)。

 しかし肝心の推理をおこなっていた木木や当、そして結でさえもそのことに気づいていません。一見するとコントじみたオチですが、作者が情報のフェア性を徹底した演出をおこなっていたことを考えると、これは意図的に読者へと向けられたものでしょう。さらにいうならば、このあまりにあっさりとした流し方のために、気づくことのできた読者とできなかった読者が生まれているように思います。はたしてこれも、意図的なものでしょうか。

 それを判断するために、ほかの話も参照していくことにしましょう。たとえば「問5」では三海結のCDデビューの裏話といういわば事件のない箸休め回になっているわけですが、ここでは結が即興で暗号を組み立てるということをしており、へっぽこに見えてじつは頭の回転が早いのではないか、ということがほのめかされています。1巻の時点ではそれだけでしたが、2巻の「問8」ではじつは一度だけ、結がまともに推理をしている場面があるのです。しかも事件にまつわる部分ではなく、結の住むアパートの隣室で殺人事件があったことを知り、やってきた本林木木をいじるという短い一幕においてそれはおこなわれています。

「あたしのことが心配で夜も遅いのにパジャマにポンチョ羽織って駆けつけてくれたのね!?」
「別に心配なんてしてません… それよりいるなら電話に出てください」
「ケータイ寝室〜」

「んも〜普段そっけないけどこういう時に素が出ちゃうんだから〜 不器用な優しさはポイント高いぞっ☆」

「その格好で電車はムリよね……タクシーで来たの? ねえねえタクシーで来たの?」
「……」

(2巻 76ページより)

 一見すると助手の必死なところを結が茶化している場面なのですが、じっさいに彼女がおこなっているのは、「相手の服装から利用した交通機関を当てる」というコールドリーディング、すなわちホームズ的な推理にほかなりません(自分の住むところにやってきた相手に対して推理をしてみせる、という点もドイルのシャーロック・ホームズを踏襲しています)。絵のなかで説明できているのにもかかわらず結にわざわざ「パジャマ」「ポンチョ」と言わせているのも、彼女があてずっぽうで言っているのではなく、観察に基づいて発言をしているということを説明するためでしょう。けれどもこの場面も「問2」と同様、作中でのフォローはいっさいないまま流されています。結果として、多くの読者が「結が推理をしている」ということにさえ気づいていなかったのではないでしょうか。本作ではこうした、読者だけが知りうることのできる構造がところどころに顔を出すようになっている節があります。

 読者だけが知りうる、という点を見るのであれば「問6」「問7」の痴漢冤罪事件はまさしくそうした問題を取り扱っている、ということもできそうです。この話では三海当が痴漢冤罪を受けてしまいますが、もちろん彼が犯人でないことは被害者に右手を掴まれる直前に、同じ右手で本林双双を支えていたことから描写され、読者に提示されています(2巻10ページ)。話の焦点はいかにこのピンチを回避するか、ということで、当は真犯人を指摘することでその難を逃れ、さらにはその事件の一部始終を盗撮していた第三者がいたことで解決に向かうという流れになっています。

 ですがこれは、逆にいってしまえば盗撮犯がいなければ事件は泥沼化していたかもしれないということでもあります(それまでの話はすべて証言をもとにした論証でしかなかったからです)。伏線を拾い、犯人を指摘することで作者と読者間のゲームは成立しますが、冤罪を証明するのは難しいということでしょう。むろん、これは前述したリアリズムの点からいえることでもあります。「問7」のオチが新たな犯罪を立証することで冤罪を防ぐようにする、ということになっているのも単純なギャグではなく、それまでの流れを踏まえたブラックなオチとしてみるべきでしょう。コント的な演出をほどこしながらもリアリズムとの兼ね合いをおこない、それを読者に気づかせないかたちにしている、という手つきがこの話でも用いられていることが指摘できるのではないでしょうか。


■実践編―情報コントロール
 読者に気づかせない手つきというものであれば、おそらく多くの人が引っかかったと思われるのが「問3」であると思います。甘味処で起きた事件を描きながらも、読者の側がじつは作中人物よりも情報量を多く持っており、その事件ののちに起こりうるかもしれない出来事を見逃していた、ということを話の枠外で説明しています(1巻122ページ)。どちらかといえば「問1」よりもこちらのほうが「視線誘導」によるものといえるかもしれません(基本的に漫画は左右逆のZの字のような視線の流れで読んでいくため、コマの右側に視線はとどまりにくいからです)。しかしむしろ注目すべきと考えるのはこの「問3」を踏まえたうえで描かれている「問10」ではないでしょうか。

 この言い方には、首を傾げる人がいるかもしれません。たしかに「問10」は「問9」で残された謎と、これまで描かれた事件の裏側に言及する「問11」との橋渡しをおこなう回として描かれています。ですが、演出的な側面から見るのであれば、むしろ「問3」を踏まえたものだということがいえるのです。

 では詳しく見ていきましょう。「問10」では冒頭に「問3」と同じく、視覚的なギミックが用いられています。しかし「問3」とは違い、コマを覆う割合が大きいことや、視線上に入りやすい左側にあること、またフキダシを配置することで読者に注意喚起をおこなっていることなどから、読者に見つかりやすいものとなっています。さらに加えていうなら、一度使ったトリックは読者には通じない、というミステリ的な前提を考えることもできるでしょう*4。また「問10」では「問3」と違い、このギミックが使われたことが次のページですぐ明らかにされていることから、サプライズとしての比重は低く扱われていますことがわかります。

 とするなら、ここで読者にギミックを見抜かせているのにはどのような意味があるのでしょうか。おそらくこれは、サンドラ・バード(以下サンディ)というキャラクター描写の伏線として機能していると思われます。「問10」途中まで、サンディはグレート・ピレニーズのふーまを扱ってみせたりと有能な面を見せますが、不審者を捕まえるさい、じつは彼女自身には特筆するような能力がないことが明かされます。その傍証として、わざ読者に見破らせたのだと考えれば演出の仕方に納得がいくのではないでしょうか。

 詳しく考えるために、キャラクター間の知能レベルを考えましょう。おそらく最も頭がよいのは本林木木であり、同時に彼女の頭のよさは事件の難易度として示すこともできるでしょう。逆に、最も低いのが三海結。読者はといえば、事件の謎を解くこともあれば、間違えることもあるため、この両者のあいだに入るのが適切かと思われます。ゆえに、木木(≒事件の謎)≧読者>結、といったところでしょうか。ではここで「問10」冒頭のギミックについて思い出してみましょう。サンディのおこなっていた隠れ身の術は、読者に見破られるレベルのものでした。ゆえに彼女は読者よりも下位に置かれますから、木木(≒事件の謎)≧読者>サンディ≧結、という状態がすでに物語の冒頭で説明されていたことになるのです。サンディの忍法が残念だったのも当然のオチだといえるでしょう。

 20ページ強の短いストーリーのなかでもこうした小さな情報の組み立てや、読者との情報のやりとりをおこなえる構成になっていることこそ、『謎解きドリル』の持つ本来の魅力であり、ほかの漫画にはない読みどころといえます。「問11」の答え合わせにつながる伏線(「問9」で言及された「包丁」の「引ったくり」と「問5」の「引ったくり」が同じものであったこと)も今まで言及してきた手法が結実したものといえるかもしれません。「問5」の「引ったくり」は事件解決後にまた事件が起こる、というパターンと組み合わせることで読者の印象をコントロールしていましたし、「問8」「問9」での包丁の入手先についても、事件解決後に「問10」で再度問題にすることで、さりげないながらもそこに未解答の謎があったことを示しています。情報の扱い方において、本作のみせる手つきは多くのミステリ作品よりもずっと誠実ですが、高度でもあるのです。

 考えてみれば「問1」で見せたあの馬鹿馬鹿しいとも思える「視線誘導のトリック」でさえも、こうした作者―読者間に生まれる情報量の違いに対して作者が自覚的だからこそ描くことができたといえそうです。ならばもし、その自覚に基づいて読者を大いに騙すようなネタが生まれてしまったのなら、いったいどんなことになるのでしょうか。

 『謎解きドリル』は数多くの推理漫画の前提を突き破るような、台風の目になりえたかもしれない。そう思わせる作品なのだと思います。

2015本格ミステリベスト10

2015本格ミステリベスト10

*1:http://zoegari.blog97.fc2.com/blog-entry-175.html

*2:ノックスの十戒 - Wikipedia

*3:ちなみにフェアプレイを作中の探偵に担保させることについては、エラリー・クイーン『ローマ帽子の秘密』(角川文庫)の飯城勇三による解説487〜488ページに詳しく記述されています。

*4:深読みをするのであれば、甘味処が冒頭の舞台になっているのもシチュエーションを「問3」に似せ、わざと読者に注意喚起をおこなっているのだと考えることもできるでしょう。さらにはこうしたやりとりをおこなえるよう「問3」を通して「作者が読者を学習させた」といえるかもしれません。