日曜日の立方体

久々の習作。五月に入ってからというもの、自分がなにを書きたいのかわからなくなる、というアレに落ちる。
とりあえず主人公の年齢を上げてみて書いてみる、という考えのもと、夫婦と娘の三人の間で交わされる話を書く。規則的なものをもっていない自分の文体の練習もかねてやってみたが、結果ミステリ要素は大分なくなってしまったので、さらにわからなくなる。基本的に以前書いた「子育て相談はじめました」と同じで、謎(?)としては人間そのもの、ということになるがどうなんだろう。結果的に某作品に似てしまった感もあるし、ただその某作が今手元にないので、どれだけ影響を受けてるのかもわからない。
とりあえずこれからひと月は週一ペースで拙い短篇を書き、自分の書きたいもの(=長編)への足がかりとしたいのだけれど。



 そろそろ雨が降りそうだな、と窓の外に目をやりながら思っていると、小さな影がかけてきて、私の太ももをつついてきた。
「……どうした?」
「だいはっけん」
 鼻高々な表情をした、四歳児が私の脇に立っていた。少しだけ鼻息が荒い。興奮しているのだろう。腫れているのか、と心配になってしまうほどの赤みが頬には差しているが、これはいつものことだ。私は読み途中だった文庫本に栞をはさみ、机の上に置いた。娘はそれを見て、少しだけ顔をこわばらせる。
「……おじゃま、だった?」
「いいや、そんなことはない」
 頭を軽く叩いたあと、脇の下に手を回す。くすぐったい、と嬉しそうな声を出す。誤って力を入れすぎてしまえば、簡単に潰れてしまうだろう。そう思ってしまうほど、この小さな身体は無防備で、純粋だ。一度息を吐いて、力を込める準備をする。
「暴れるなよ。……結構、重いんだから」
 そのまま持ち上げて膝の上に運ぶ。いつもはそれだけで大喜びなのだが、今回はなぜか、ぶぅ、と顔を膨らませている。頬の赤みもさっきより増しているようだった。外は少々薄暗いが、今は昼の時間帯で、夕方と言うにはまだ早い。テレビ放送を待ちわびているのだろうと思って、私はその連想を口にした。
アンパンマン?」
 ちーがーうー、と声に合わせて胸を叩いてくる。
「お父さん、さっし、わるい」
「……瑞季、そんな言葉どこで……」
 何気ないその言葉に危うく絶句するところで、また変なこと吹き込んだでしょー、と言って、私の耳をつねる女性の姿が思い浮かんだ。
「……理絵か」
「お母さんがどうしたの?」
「いいや、なんでもない」
 なんでもないってなにさ、と今度は背中を叩かれる。この年頃の子は、有り余った体力をいつだって消費しようとする。待ってくれ、と私はその運動を制止する。
「要件は、そっちじゃないだろ?」
「……えと、なんだっけ?」
 悪びれのない顔で言う。
「……だいはっけん、じゃないのか?」
「そう、それだ」
 嬉しそうにしながら、娘は背中に回した腕を戻す。私の膝の上に正座したまま、フリルのついたブラウスの胸ポケットに指を突っ込んでいる。目当てのものをつまんだらしく、にひっ、と小さく笑みを零す。虫だったらどうしようか、と不安がよぎる。
「……変なものじゃあ、ないだろうな」
 そんなんじゃないー、と頬を膨らませて、ポケットから取り出したそれを、文字通り目の前にまで持ってくる。首をななめに傾けて、娘はいたずらっぽく私に問いかけた。
「これ、なににみえるでしょう?」
 焦点が合わず、私は二、三度目をしばたたかせた。やがて像が結ばれて、それが意味をもった形となる。
「……サイコロ」
 いったいどこで拾ったのか。指でつまんで、それを確認する。どう見ても、六面の、一般的なそれだった。対面同士の目の和が必ず七になるように、一から六の目がそれぞれの面に割り振られている。面の背景色は白で、二から六までの目は黒の点、一の目だけが赤の点で描かれている。だが、この娘はなぜか得意そうな顔をしていた。
「せいかいだけど、せいかいじゃあないのです」
「それじゃあ、違う?」
 娘は首を振ってみせる。キューティクルの整った髪がふわりと揺れる。
「ううん、ちがくもないよ」
「……さんかく?」
「これはしかく」
「……ごもっとも」
 未就学児は立方体を知らない。この子にとっては、立方体も四角なのだろう。
「……まだ、わからないの?」
 少しだけ不安がる。私が難しい顔をしているせいだろう。
「えーと、そうだな……。ヒントはあるのか?」
「ヒントー? ずるだよー」
 父親でもわからないことがあるのだと、自分にも親に勝る部分があるだと知って、それが嬉しいのだろう。私の問いを聞いた途端、わざともったいぶるように身をくねらせた。
瑞季さま、どうかお願いします」
 そう言って、手を合わせる。しかたないなあ、と娘は満足そうに微笑んだ。
さいころは、さいころだけど、さいころじゃあないのです」
「サイコロ……じゃない」
 なるほど、と思った。私は一旦サイコロを机の上に置くと、娘の身体の向きを反対方向にして、改めて膝の上に座らせる。わかったの、と聞いてくるので、たぶんね、と答えてみせる。手近なところからボールペンとメモ用紙を取って、机の上に置く。さあ、解答編といこうじゃないか。
「つまり瑞季、答えは、こういうことだな」
 おそらく義務教育を終えた者であれば、誰もが浮かべるであろう「立方体」を描く方法のひとつ。斜投影図法。真正面に正方形の面を一つ配置し、それと隣り合う平行四辺形を二つ配置する。こちらの二面は奥行の面となり、その長さは実寸の二分の一。正面の、正方形との角度は四十五度。キャビネット図と呼ばれている方法で、サイコロを描く。
「手前の面の向こう側は、隠れてしまって見えない。だから、これはサイコロだけど、本当の意味では、誰もサイコロを捉えることはできないんだ。一度にすべての面を見ることはできない。だから答えは、『見えない』だ」
 隠れて見えない部分は実線ではなく、点線で書く。立体というものをまだ学んでいない娘とはいえども、感覚として、空間の理解は出来るだろう。どうだ、と自分の顎の下に向けてつぶやくと、むー、とうなっている。
「こたえ、あってるのに。……なんかむずかしい」
 ずるだ、ずる、と娘は不満そうにつぶやく。
「そんなこと言わない。ついでに、面白いことを教えてあげるから」
 そう言って、メモ用紙の余白部分にペンを走らせる。浮かび上がってくるのは、縦長の、太い十字だ。その輪郭は、アルファベットの「t」のようでもある。つまり、立方体の展開図だ。
「……なにこれ?」
「サイコロの設計図」
 点線で折り目となる部分を書く。それだけではわからないと見えたので、立方体の上面の「ふた」が開いているような図も書いてやる。
「わかる?」
 と聞くと、どこか納得出来ない様子で首を横に振る。
「これ、ちがう。だってこれ、かみだもん」
 理絵が言いそうな言葉だな、と内心思う。親娘そろって素材にこだわる女、というのはいかがなものだろうか。
「……仕方がないな」
 娘を持ち上げて、肩に乗せる。
「実践の場所に連れていってやる」
 急に動いたので、娘はわわっ、と声をもらす。だが、どうも知らない言葉が出てきて気になったらしく、
「……ねえ、じっせん、て?」
「そうだな。頭の中で考えたことを、ちゃんとやってみるってことだ」

 寝室は居間よりも少しだけ薄暗い。こちらのほうが日当たりが悪いのだ。加えて、今の空模様。明かりをつけていないせいもあるが、部屋の中には、どこかしっとりとした静けさが漂っている。
「……触っていい?」
 戸惑いと、期待を交えたような声。駄目だよ、と返す。
「見るだけ。触ってはいけない。……私が怒られるんだから」
 むー、と不満そうにしている娘の頭を撫でてやる。二人は理絵のドレッサーの前に立っていた。いくつもの種類の化粧道具がそこに並んでいるが、そちらは使わない。いずれは必要になるのかもしれないが、それはまだ先の話だろう。今重要なのは鏡のほうで、娘にはそれがしっかりと見えるよう、椅子の上に立たせている。誤って落ちると危ないので、両脇はこちらの手で支えている。
「……サイコロを前に出して」
「こう?」
 親指と人さし指で、つまむような持ち方。
「今度は鏡のほうも見て。見えにくかったら、手の位置をずらして」
 うん、と小さくつぶやくと、既にその意識はサイコロと鏡に向かっている。
「なにが見える?」
 そう聞いたときと、娘が息を漏らしていたのがわかった。私は微笑んで、ゆっくりと言葉を伝える。
「鏡を使えばね、二つの方向からサイコロを捉えられるんだ。こうすればもう、サイコロに見えなかったサイコロも、ちゃんとサイコロになる」
「……うん。さいころだし、さいころだ……」
「これが実践なんだ、瑞季。思ったことを、ちゃんと試してみるってこと」
 それからしばらくの間、娘は黙りこんで、じっとサイコロを見つめていたそして何かに気づいたのか、急に表情を曇らせ始めた。
「どうした?」
 首をぶんぶんと横に振る。両手を口のあたりにもっていき、何かに対して必死にこらえているようだった。
「どこか痛いのか?」
「……ううん、いたくない。そうじゃなくて」
 だんだん顔が赤くなってくる。ああ、これは泣くんだな、と直感した。
「できない」
 声に湿り気が帯びていく。私は問い詰める口調にならないよう、ゆっくりと必要なことを尋ねる。
「できない、というのは、何ができないんだ?」
「……じっせん……できない」
 娘は顔をくしゃくしゃに歪めて、苦しそうに、そう言った。それと同時に、玄関のドアが開く音が聞こえた。
「うあー、雨、もう降ってきちゃった。洗濯物取り込んでくれてるよねー?」
 走ってきたのか、寝室まで聞こえた理絵の声はどこか楽しそうにも聞こえる。おおかた、私が家事をやってないのを見越しているのだろう。私がその声に答えるより先に、娘は椅子から飛び降りて走り出した。瑞季、と声をかけたが、私の方には返事をせず、まっすぐ玄関へと行ってしまった。
「どうしたのー、瑞季。なにか怖いことでもあったの?」
 娘を追って寝室を出ると、瑞季が理絵のスカートを両手でつかみ、顔を強く押し付けているのが見えた。理絵は優しい声音で、大丈夫よ、と言いながら娘の背中をさすっているが、その目は私の方を見ており、どうしたの、と問いかけていた。しかし私の方も、わからない、と首を横に振って返すしかなかった。次第に大きくなってゆく娘の泣き声を、私はただ耳を澄ませていた。その日、降り出した雨は日が暮れてしまうまで、一度もやむことはなかった。

 しめやかな夜の空気には、少しだけ雨の名残が感じられた。居間のテーブルの上には小さなグラスと、ウイスキーのボトル瓶が置いてある。足音をたてないようにしてやってくると、理絵はテーブルを挟んで私の向かいに腰を下ろし、小さく息をついた。
「どうだった?」
「大丈夫。今はもう泣き疲れて、充電が切れたみたい。ぐっすり眠ってる」
「そうか、……よかった」
 理絵も、そうね、とつぶやく。机の上にあった私の飲みかけのウイスキーのグラスを手に取って、一気に飲み干す。グラスをもとの場所に戻すと、その衝撃で中の氷が小気味よく鳴った。
「……それで、どうしたの?」
 と、理絵は身を乗り出しながら聞いてきた。
「洗濯物も取り込まずにしといて、今度は何を吹き込んだの?」
 声のトーンは優しいが、目はすわっていた。既に片方の手は私の耳を撫でている。それは、いつでも捻れる、という合図でしかない。
「い、痛いのはやめよう、ここは平和的に解決すべきだ」
「そうね。そうできたらよかったのにね」
「いや、待ってくれ。本当に違うんだ。瑞季がサイコロを持ってきて……」
「サイコロ?」
 その話に興味を持ったらしく、理絵は耳から手を離した。ようやく落ち着いた私は呼吸を整えると、その経緯を話すことにした。
「……なるほどね」
 一部始終を聞いたのち、理絵は納得するように言った。
「なにが」
「全部よ、全部。どうしてあの子が泣くことになったのか、怖がっていたのか。そういうのが全部、わかったってこと」
 私は肩をすくめた。
「とは言っても、こっちにはさっぱりなんだが」
「……いじけるのはやめて、あなたも親でしょ」
「それはわかっている。けど、瑞季のほうはよくわからないんだ」
「もう、仕方ないなあ」
 ボトルを手に持って、傾ける。琥珀色の液体がグラスに目一杯注がれたかと思うと、そのままそれを、私の前に突き出した。
「これで許す」
「……明日は月曜だぞ。勘弁してくれ」
「私の酒が飲めないっていうの」
「……酔ってる?」
「酔ってないわよ」
 娘と同じくらいに赤くなっているその顔の前でしばらく逡巡したのち、私は溜息をつきながら、それを受け取った。散々飲んだにもかかわらず、口に付けた途端、あの温かい香りがまた鼻腔をくすぐってきた。
「へえ、飲むんだ」
「……悪かったな」
「冗談。それじゃあ教えてあげる」
 得意そうに言う。娘の表情はいつだって、理絵からもらってくるのだ。それだからだろうか。かなわないな、と思ってしまう。
「……なに」
「いや、なんでもない。教えてくれ」
「わかったわ。それで、展開図、見せたでしょ」
「そうだけど」
「それと、鏡もね。ねえ、瑞季は何を見ていたと思う?」
「……サイコロ、じゃあないのか?」
 理絵は大げさなふうに額に手をもっていき、あー、もう、だからこのとーへんぼくはー、とずけずけ言ってみせたかと思うと、真面目な顔で、私の目をまっすぐにみつめてきた。
「いい、あの子はね、鏡に映ったあの子自身を見てたの。そしてあの子は、あることを、実践することができないのだと気づいた。自分で自分を、一度にすべて見ることは―自分の存在の確かさを実践してみることは―決してできないことに気づいてしまった」
「そんなの、合わせ鏡を使えば」
「あの場所にはなかったでしょ。それに、それは鏡像、現実のものじゃない。サイコロと違って、ちゃんと自分は現実の側にいるって、確認ができない」
「それが……実践が、できない」
 でもそれだけじゃない、と理絵は言った。
「あの子はね、鏡に映った、あなたの姿も見ていたのよ。あの子にとっては、自分の親ですら、本当にいるのかどうかわからなくなってしまったのよ」
「……だとしたら」
 私は目頭を手でおさえる。どうも酔いが回ってきたらしい。
「こちらはもう、何も出来ないじゃないか」
「出来るわ。親でしょう」
「親だからって実在の客観性を子供に伝えるのは難しいにもほどが―」
「そんなんじゃないわよ、愚図」
「でも」
「抱きしめてあげればいいじゃない」
「……あ」
「あの子が、瑞季が、怖いと思ってしまったら、抱きしめてあげる。それだけでいいじゃない」
 そうでしょ、と言う理絵の火照った顔が目に入る。その途端、嬉しさと恥ずかしさと戸惑いとが同時に襲ってきた。せめてもの時間稼ぎにと、私はウイスキーを口に運ぼうとする。表面を湿らせたグラスの中にあったはずの氷は、既に琥珀色の液体に溶けて、なくなっていた。そういえばうちの氷も立方体だったな、と思いながら、私はその温かな味をゆっくりと喉の奥へ流し込んだ。