以下は昨年11月の学祭で発表したDMSの会誌「カメレオン Vol.27」の回生企画『カフェ黒猫』に掲載されたショートショート。
私は珈琲の香りが好きだ。
世間にはあれを泥水などという輩がいるらしいけど、私はそんなの決して認めない。おなかがユルユルになってしまう人は可哀そうだとは思うけど。ついでに言うなら巷で大量生産の限りを尽くしながら我が物顔で『コーヒー飲料』とかほざいてるヤツは珈琲じゃない。成分表示の糖質ではなく炭水化物のところを見ればアレが如何に危険な飲み物であるかなんて明明白白だと言うのに、誰もそこに突っ込まない。決して無くなったりしない。商業主義の業火は今日も市民たちを不健康の底に落とし込む。消費者なめてんのかと言いたくなる。
「カフェイン中毒者かく語りき、ね」
目の前に座る女の子は私の問題提起を呆れながらそう評した。
「珈琲は嗜好品なの。飲んでることに意味があるんだから」
昼休みの時間、私は教室でクラスメイトのユキちゃんと机を向かい合わせにして昼食をとっている。
「はいはい、いじけないで。今度なんか奢ってあげるから。で、その珈琲好きのお嬢さんは一体どうなさったんですか? 話して下さいよう」
調子のんな、と毒吐きながら私は事の次第を話すことにした。
さっきも言った通り、私は珈琲が好きだ。それが功を奏したのかは定かでないけれど、先月から自宅の近所の喫茶店で働くことになったのだ。
「ねえねえ、ななめちゃん」
地元でバイトすることの何が不都合かと言えば、バイトをしている当人がその地元のネットワークの中に組み込まれることだと思う。
「はい、何でしょうか」
笑顔で応えるのが接客の基礎である、と店長は言っていた。顔で。
呼びかける声のほうを見やると、子持ちのママさんたち数名が集まってワイワイとやっている。ママさんネットワークはいわゆるムラ社会のようなものだ。あの人たちにかかれば、一日を待たずしてネットワークの隅々まで情報が知れ渡るのである。たとえば私が恥をかくと、それがそのまま私の母の恥となってご近所一帯に広まる。ニュースで言ってた無縁社会はどこに行きやがった。
「今ね、みんなでウチの子たちの話をしてたんだけど。ななめちゃん、相談に乗ってくれない? 人助けだと思って」
私は咄嗟に店長を見る。店長は無言でゴーサイン。
面倒事にならければいいのだけど、と心の中で生来の事なかれ主義を発揮しながら私はママさんたちの卓へ向かう。
「相談って何です?」
「ウチのジュンなんだけど、最近様子がおかしいのよ」
そう言ったのは、近所に住むレイコおばさんだった。
他のママさんたちも頷く。
「ジュンくんが? 今何年生でしたっけ?」
「小学二年生。九九を習い始めたあたりよ」
レイコさんが言った。
ジュンくんは近所の子供で、私が中学にいた頃はよく面倒を見てやった覚えがある。彼は高校生になった私のことをちゃんと認識してくれるだろうか。
「それで、様子が変っていうのは?」
レイコさんが頷く。
「最近、家に帰るのが遅いのよ」
私は拍子抜けした。
「そのくらい、気にしなくていいんじゃないんですか。男の子なんですし」
そうなんだけどね、とレイコさんはため息をついた。
「他にもあるんですか?」
「ええ。友達と遊んでいるみたいなんだけど、どうも帰るたびになんだか暗い顔なのよね。遅いから私が叱るせいもあると思うんだけど。どこに行ってたのって訊いても『ふつう』としか言わなくて。山とかなら服に泥や草木が付くからわかるけど、そうじゃないみたいで」
「心当たりとかはないんですか?」
レイコさんはかぶりを振った。
参ったなあ。私じゃどうにもならないような気がする案件だ。けど、聞いた以上は出来る限りのことをしておきたい。母の名誉のためにも。
「わかりました、とりあえず学校の友達にも訊いてみます。そのくらいの子たちがどこで遊んでるのか心当たりのある人がいるかもしれませんし」
最期に、何か気になることはありませんでしたか、と訊いてみる。
「そういえば」とレイコさんは言った。
「最近、妙に靴だけが汚れてるのと、服が汗でじっとりしてるくらいかしら」
やんちゃすぎるのもどうかと思うわね、とレイコさんは心配そうに呟いた。。
「で、私に助けを求めに来たの?」
ユキちゃんが呆れ顔で言った。
「そうですよう、母の名誉を守ってくださいよう」
真似すんな、とユキちゃんが私の頭をはたく。
「けどそんな律儀に解決しようとしなくてもいいんじゃないの? そのレイコさんって人、そこまで頼りにしてたわけじゃないんでしょ}
そうなんだけどね、と私は頷いた。
「けどね、こないだ、そのジュンくんに偶然会っちゃったの」
その日、私はバイトが早めに終わったので適当に駅前の本屋で時間を潰したのちに家へと帰るという黄金パターンの履行に勤しんでいた。その家に帰る道の途中で、一人でとぼとぼと歩いているジュンくんを見かけたのだ。
「どうしたのジュンくん、こんな時間に一人で」
「……おねえちゃん……」
そう言ってジュンくんは私を見た。私のことを覚えていてくれたらしい。
ジュンくんはもともと内気な子だったから、自分の思っていることをはっきりとは言えない。本当はその思っていることを引き出してあげるのが私の役目だったのだけど。
「ほかの友達は?」
「……もうかえった」
「どこで遊んでたの?」
「……ふつうのところ」
結局、私はレイコさんと同じことしか訊けなかったのだ。
「なんかさ、あのしょんぼりとした顔見てたら、どう訊いたらいいのかわかんなくなっちゃって。靴なんかほんとに汚れてたし。なんか難しいね、子供って」
それを聞いたユキちゃんは、そうかもね、と笑った。
「……笑わないでよ」
「別に、そんなに心配することじゃないよ」
心配するって、と私は弱く反論する。
ユキちゃんは、わからないかねえ、と息をついた。
「君も、そのレイコさんも心配性なんだよ。君らも昔は子供だったでしょうが」
次の日曜日、私はレイコさんを『カフェ黒猫』に呼び出した。もちろん私のバイト先のことだ。そしてもう一人、ユキちゃんもこの場にいる。
私は二人を同じ卓に座らせると、特製ブレンドを二人分置いた。
「ええと?」とレイコさんは戸惑った声を出した。
ユキちゃんは軽く頭を下げた。
「はじめまして。ななめちゃんのクラスメイトのユキと言います。お子さんの話を聞きまして、お力になれればと勝手ながら呼び出させていただきました」
レイコさんはその真面目な態度に少し戸惑いながらも、しきりに私とユキちゃんを見比べ始めた。おい、どういう意味だそれ。
「単刀直入に言いますが、お子さんは自分の自転車を持っていませんよね?」
レイコさんは息を飲んだ。
「……どうしてそれを?」
話を聞いだらピンと来たんです、とユキちゃんは言った。
「お子さん、ジュンくんはきっと、自転車に乗って遊びに行く友達について回っていたのではないでしょうか。彼はたぶん、本当に何の変哲もない場所で遊んでいたのだと思います。だから『ふつう』と言ったんです。けれど徒歩と自転車では差は必ず開いてしまいます。その分帰りは他の子よりも遅くなるし、必死で追いつこうと走れば汗もかきます。家に着くころには恐らくヘトヘトになるでしょう。そのうえで、自分だけ自転車を持っていないという劣等感を親に伝えることは、内気な彼の性格では難しかったのかもしれません。だからそれが暗い表情になって出ていたのではないでしょうか」
ユキちゃんはそう言って、ブレンドを啜った。
「レイコさん、もしよろしければジュンくんに訊いてみていただけませんか。『自分の自転車は欲しくないの?』って」