しろくまが多すぎる

『かくれおんだョ! 全員集号』に掲載。
トリックについてはOBの先輩とバカミスについて話し合っているうちに考えたもの。そのときの季節のまま書いたので、掲載時期と季節的なズレある。その先輩いわくバカミスの定義は「手段と目的が逆になってしまったもの」らしいのだが、これがそのバカミスに入るかと思うと微妙なところ。トリックを実際運用するにあたって、ある程度の理詰めがなくては自分が納得できなかったため。とはいえ純粋な演繹では導き出せるようなトリックというわけでもなく、その点はうまく処理できなかった。情報量もじっさいはこの1・5倍くらいにしようと考えていたのだけれど、テンポは悪くなるし、トリックの驚きは確実になくなるように思われたので、かなり中途半端な形のものになった。失敗作と言える。
また、自分のみの考えでキャラクター小説らしい話を考えるのはとても苦手なのだと改めて実感した。こうしたタイプのキャラが出る必然性も特になく、そこまで練っているわけでもなかったので、結果的にいまいち伝わらない設定の、出落ちになっている。話し方も性格も、一貫性がない。キャラクターものを書くときはもっとコンセプトを明確にする必要があると反省。



「ぬいぐるみは、文字がいけないんだ」
 そう先輩は言う。
「造形それ自体は素晴らしいとは思うんだ。いやだって、考えてもみろ。ぬいぐるみだぞ。違う、ひらがなじゃない、漢字だ。そう、縫い包み。縫って、包む。って拷問としか思えないだろ。いかにラブリーでチャーミングな形でもって、世のお子様、お姉さま、ときに大きなお兄さんにチヤホヤされたって、それはそれだ。人間ってやつはそのあたり、正直過ぎていけない」
「はあ」
 わたしは、とりあえず適当に相槌を打った。わたしは純粋な人間種なので、どうもそのあたりの機微が理解できない。スーツを着て、社会的な演出を施しているとはいえ、身体のうちに残る野生ゆえだろうか、先輩はそういった話には敏感なのだろう。人工物として扱われる先祖に対する思いは、その毛むくじゃらの顔からは読み取れない。
「つまりだな」
「お待たせしました、ワカウサギになります」
 爽やかな声とともに、店員が先輩の前に皿を置いた。
「おっ、メシメシ」
 その瞬間、わたしから見てもわかるくらいに先輩の目の色が変わった。口は半開きになり、いまにもよだれが溢れそうになっている。けれども先輩の矜持なのか、まだ手をつけることはしない。
「お先、食べていいですよ」
 わたしがそう促すやいなや、先輩は皿の上に盛りつけられた兎の生肉に喰らいついた。両手の爪で器用に肉をおさえて、犬歯で引きちぎる。それを天に掲げてから、うまそうに咀嚼し、嚥下していく。
 先輩が食事をはじめてから数分後、わたしのところにも料理が運ばれてきた。親子丼。もちろん加熱処理は済まされている。わたしは静かに手を合わせる。
「いただきます」
 その声に気づいたのか、皿をべろべろとなめていた先輩が顔をあげた。
「で、なんの話だったっけ」
「いえ、もういいです」
 わたしの先輩は、ヒグマを祖先に持っているという話だ。

 とある民家の庭に、死体が転がっていた。
 住宅地と学生マンションの入り乱れる、どこにでもあるような地域の一角。縁側から伸びる飛び石や植木、地面いっぱいに広がる苔が日本庭園らしい独特の風情を醸し出していた。漆喰の塀の向こうには瓦屋根をもった隣家が、その右手にはマンションの非常階段が見える。住宅街のなかに残る、おだやかな和の世界。
 そしてそこに横たわっているのは死体だけではなかった。
 転がっていたのは、計一六体の、涼しげな、
しろくま、だな」
 その現場をみて、先に口を開いたのは先輩だった。人差し指の爪でぼりぼりと首をかきながら、どうしたものかと思案している。
 わたしは先輩のうしろに立ち、しばらくのあいだ呆然としていた。
 緑の空間のなかに存在する純白の異分子、シロクマ。いや、正確にはホッキョクグマと考えるべきか。とにかく、それが両手でも数えきれないほど転がっている庭園というのは、日常生活ではほとんど、というよりまずお目にかかることはないだろう。
 こうして冷静に物事を考えられるのはもちろん、民家の前にパトカーが停まっていたからだ。職業柄こういった状況にはよく遭遇するし、死体も、ふつうの人よりは見慣れている。
「また、会いましたね」
 そこにスーツ姿の男がこちらに近づいてきた。上着をたたんで、腕に吊るしている。表情は笑顔そのものだが、声には歓迎の意志は感じられない。美形と呼べるほどの整い方をしているはずの顔もよく見れば、その表面には苦労の色と汗が張り付いているのがわかった。
「なんなんですか、赤江警部。これは一体」
「どうも犯人は暑さで頭がいかれてしまったようですね」
 そう言って、警部は首もとを鬱陶しそうにハンカチで叩いた。
「いい迷惑ですよ、もちろん、あなたたちもですけれど」
 現在、気温は二九度。秋の気配をみせはじめるはずの、一〇月の昼とは思えない暑さだ。縁側の庇の下でこれなのだから、庭のほうは推して知るべしだろう。この一週間は、夏が戻ってきたと言わんばかりの陽気で、先輩とわたしも、つい事務所の冷房を入れてしまっていたことが記憶に新しい。
 警部は改めてわたしたちのほうに向き直った。
「それで、どうしてあなたたちがいるんです?」
「それは……」
 どう伝えるべきか言いよどんでいると、先輩が縁側を軋ませながら、わたしの前に立った。
「顔パスだ」
 むすっとした口調。途端、警部の表情が固まった。
「……ほう?」
 あと数秒でその顔に青筋が浮かび上がることは、誰の目にも明らかだった。
「あ、あの、この家の人から依頼を受けたんです」
 わたしはフォローをしなければと思い、ひとり勝手にしゃべりはじめた。

 電話が鳴ったのは先週末の夕方だった。
 わたしが電話口に出ると、探偵に変わってくれ、と切羽詰まったような男の声で頼まれた。先輩に代わってから、ものの二十秒ほどでその電話は切れた。用件はなんだったのかと先輩に訊ねても、
「わからん」
 という具合だった。とりあえずこちらが聞いたこととしては、依頼人の名前と住所、そして先方の都合に合わせた訪問日の指定のみ。それ以外の情報はなにひとつもらえなかったのだ。
「……それできょうお伺いして、まずはお話を聞かせていただく予定でした」
「なるほど、だいたいは察しました」
 わたしたちの事情をひと通り説明すると、警部は玄関のほうを指さす。
「それでは帰ってください」
「は?」
「いいですか、あなたたちはこの事件とはほぼ無関係の部外者であることがわかりました。これまでの実績、そして近隣の聞き込みにもあなたたちの情報はいまのところありません。ですから、」
「待ってください、依頼人が殺されたんですよ? それに無関係の部外者って、そこまで言われるほどではないかと」
「い・い・で・す・か、端的に言えば、あなたたちが来ると迷惑なんです」
 警部はお腹のあたりを抑えながら、言った。その額にはすでに青筋が浮かび上がっている。
「たしかに事件解決スピードはそれなりに早いかもしれませんし、そのおかげで顔パスだなんて制度がまかり通っていますが、本来、このような案件はわたしたち警察の領域です。探偵行為申請も明らかに違法な手順を通っていることのほうが多いですし、わたしの立場ってやつがあってですね、いい加減、しわ寄せが来るとこっちの事情的に……て、あのちょ、近いんですけど。顔。見えてるんですけど。歯」
 先輩が、口をあんぐりと開けて、警部の真正面に立っていた。その手は警部の肩のそれぞれに乗っている。先輩の身長は二メートルなので、長身の赤江警部でも自然と見上げるようになる。
「腹が減ったんだ」
「は?」
 警部の首元のあたりを凝視して、
「さっき兎を一羽食ってきたんだが、まだちょっと足りなくてな、できたら鉄分を補給したいと考えてる」
「……」
「お腹すいたなー」
「いや、だからって……」
「素直に事件手伝わせてくれたらちょっと我慢できるんだけどなー、そうしないと腹の虫がなにを言い出すかなー」
「ば、馬鹿馬鹿しい」
 警部はそう口にしたが、手はひくひくと動き、懐に伸びようとしている。そこにはおそらく申請許可用の印があるのだろう
「あー、鳴りそうだ、虫が勝手に泣き出しそうだな」
 「う」
 傍目からみても腹の具合が悪そうなのは警部のほうだ。そして、その手が動き出そうかとした瞬間、
ハヅキ
 先輩は警部を解放する。警部は膝から床に崩れた。名前を呼ばれたわたしは手帳を開き、そこに挟んでいた灰色の紙片を取り出す。
「赤江警部、探偵切符です。一〇点。捜査情報の開示を申請します」
「ううう」
 警部は懐から取り出した判子を切符に押すと、それを半分にもぎった。そして、うらめしそうに口を開いた。
「……いまは鑑識のほうが優先ですからね」
「はい、ありがとうございます」
「……覚えてろよ」
「悪役ですか」
 警部はなにも、先輩の威嚇行為、もとい、おねだりに折れたというわけではない。過去にとある事件に関わって以来、先輩とわたしは、彼のちょっとした弱みを握っていたのだ。だから先輩の「腹が減った」とは、それを示唆する言葉だ。このマジックワードによって、本来複雑な手順を要する探偵行為の申請を、わたしたちは赤江警部による推薦という形で大幅に簡略化させてもらっているわけだ。
 もちろんまわりの人はそれを知っているわけではない。ゆえに、
「警部これで何連敗目?」「六?」「いや七」「まて、あの事件入れたら八だろ」
 部下のみなさんからは散々な言われようではあるのだが。
 とはいえそのいっぽうで、彼らからはなんだかんだで慕われているのも事実で、警部の部下からの信頼は厚い。わたしたちも事件を解決する。だからこそ罪悪感を抱かない、とまではいかずとも、わたしたちも安心して脅す、もとい、頼むことができている。

「事件が発覚したのは今日の朝七時ごろ。隣の家に住んでいる女性が、被害者の男性を発見しました。被害者の名前は喜沢永悟。六八歳。国内の有名おもちゃメーカー、『きざわ堂』の元幹部ですね。社長は甥の喜沢針一。一つの針、と書いて、しんいち、と読みます。現在四〇歳。ちなみに被害者の妻と兄はすでに他界しており、息子もいません。唯一の身寄りがこの甥。家が荒らされていないことから金品目的でなく、怨恨の可能性が高いと思われます」
 手帳を片手に、赤江警部はひとつひとつの事項を述べていく。その声に先ほどの動揺は見られない。
「それより、死体発見時の状況と、死亡推定時刻は」
 先輩がさらりと言う。ここに来る前に、依頼人に関しての情報はひと通り調べている。警部は、先輩をひと睨みしてから、
「……いま言ったように、発見時刻は七時ごろです。いつも朝五時に起きている隣人の生活音がいっさいしないので、気になって声をかけたところ、返事がなかった、と。発見者は『孤独死』という昨今のニュース番組で言われるような言葉が浮かんだらしく、庭のほうにまわりこんだところ、そこで倒れている被害者を見つけたそうです。もちろん、その周囲にあったぬいぐるみも同様に発見。数は覚えていなかったようですが、おそらく現在確認されている一六体で間違いないでしょう。鑑識によると、死亡推定時刻は昨日の昼から夕方ごろ。詳しくは解剖結果を待たなくちゃなりませんが、おおむね合っていることが予測されます」
 そう言って、警部は庭のすみのほうをみやった。鑑識の人がまだ残っているため、正確な位置はつかめないものの、おおよその見当はついた。
「死因は?」
「いや、それが妙な話なんです」
「……妙、ですか?」
 わたしは首を傾げた。
「身体の正面のほうに首の骨を折っているんです。それで呼吸困難となり、死亡。ですがこの現場の状況では、凶器の見当がつきません」
素手とか、キックとかじゃあ」
 アバウトな意見を言ってみる。赤江警部は首を振った。
「被害者の周囲三メートル半以内に、発見者以外のだれかが足を踏み入れた形跡がありません。苔の生えている、柔らかい土のところに倒れていたから、ふつうはほかの人物の足跡が残るところなのですが……」
「首を折るくらいなら、頭部に損傷ができるはずだ。そこから凶器の見当も、状況もわかってこないのか」
 先輩が訊ねるが、赤江警部は苦い顔で答える。
「被害者は殺害されたとき、麦わら帽子をかぶっていたために、そこまで損傷が激しくありません。帽子の表面は多少削れていて、後頭部もへこんでいましたが、凶器を絞り込めるほどではありませんでした。それに倒れたあたりの土がひどく乱れており、判別が難しくなっています。つまり、どこからやられたか見当がつかない状況です」 
「だが、死体の周囲三メートル半より先には、べつの足跡がある」
「え? どうしてそんなこと」
 わたしが驚いて訊ねると、先輩はため息をついた。
「さっき、そう言ってただろ。三メートル半以内にはないと。理解力が足りないぞ、ハヅキ。お前、ほんとうに助手の資格を取ったのか?」
「し、試験は、ぎ、ぎりぎりでしたから……」
 先輩の辛辣な言葉に、わたしは両手の人さし指をつきあわせながら、うつむいて答える。探偵および探偵助手の資格は現在、国家資格となっている。わたしは運良く一発合格だったものの、極度の緊張のために、どんな問題が出されていたかすら憶えていなかったくらいだ。
「まあいいさ、それで、どうなんだ?」
 先輩が続きを促す。警部は肩をすくめてみせた。
「たしかにその通りですね。わざわざ身長がわからないように、歩幅をばらばらにしている足跡がありました。スニーカーで、サイズは二五センチ。女性の可能性も十分ありえる数字です。十中八九、犯人のもので間違いありません。発見者の女性のサイズは二二センチ。彼女が大きめのサイズの靴を履いた、という可能性はありますが」
 そこで警部は言葉を区切って、眉にしわを寄せた。
「三メートル半もはなれた場所から、どうやって首の骨を折るほどの一撃を被害者にあびせたのか。それが問題となっているわけです。言っておきますが、犯人のものと思われる足跡には、強く踏み込んだりした形跡はありませんでした。ただたんに、被害者のところに近寄って、そのあと引き返したとしか思えないということです。馬鹿正直に考えるなら、犯人は三メートルちかくの長さをもつ、かなりの重量のもった凶器を振り回したことになります」
 そこまで聞いたとき、わたしのなかであるイメージが浮かんだ。
「……あっそうか。たぶんわかりましたよ、凶器」
「え?」
 わたしは手帳にその予想図を書き込んでいく。
「こうして、と。できましたよ。これです!」
 自信満々に、完成した図をみせると、ふたりは露骨に微妙な顔をした。
「え、駄目ですか」
ハヅキ、お前は助手として恥ずかしくないのか」
 先輩は呆れたように言った。
「……鎖付きの鉄球(モーニングスター)って、条件を満たしてると思うんですけれど。どうして駄目なんですか?」
 警部は腕を組みながら、わたしのほうに細い目を向けた。
「わたしはいま、馬鹿正直、とわざわざ言ったのですが。いいですか、よく考えてみなさい、合理性の欠片もないでしょう。金品が目的とは思われないのですから、犯人は被害者を殺すつもりだったはずです。ならこんな武器、持ち歩くのも不便ですし、扱いが難しすぎます。それに、強く踏み込んだ形跡はないのです。仮にそこをうまくやったとしても、被害者の近くに鉄球が落ちて、クレーター状のへこみができるはずでしょう。しかし、そのような形跡もない。土が乱れているからといって、それが人の足か、別のものによるかの違いくらい、鑑識は判別できます」
「じ、じゃあこうです。犯人はぬいぐるみを踏み台にして被害者のもとへと近寄ったんですよ。これなら足跡も残らない」
「一六体ものぬいぐるみと、凶器をもって、犯人は被害者に近づいた。おれたちに依頼をしてようと考えていた人物が、そんな人物に対していっさいの警戒心をもたなかったと。しかも、近隣住民のだれにも発見されずに。ハヅキ、お前はそれを本気で思っているのか?」
「……ごめんなさい」
 苦しまぎれの説もこうふたりに論破されては、うなだれるしかない。
「まあ、いくら荒唐無稽なあてずっぽうでも、この一六体のぬいぐるみが一体なんなのかわからなくては、事件の真相には辿り着けそうにありませんがね。しばらく外に出てきます。そこで待っていてください」
 赤江警部は深く息をつくと、その場から離れていった。
しろくま、か」
 わたしはあらためて、庭を眺めてみる。死体のあった場所の周囲に無造作に転がっている、ぬいぐるみのしろくま。大きさは、どれも同じで、だいたい高さ三〇センチくらいだろうか。
「……おそらく、『きざわ堂』のぬいぐるみだな」
 先輩がぼそりとつぶやいた。
「あのしろくまのデザインは最近のものだったはずだ。きざわ堂は、毎年デザインをマイナーチェンジさせることで有名なんだ。カタログも印刷の映えを意識して良い紙とインクを使用していることでファンのあいだでは受けがいい。まあ、マニアというよりは、比較的一般層向けのくまではあるけれど、なにか引っかかるような気が……」
「先輩」
「ん、なんだ」
 不思議そうな顔をして、先輩がわたしを見た。少年のようにくりっとした、丸い目。獣種は、人間種よりもずっと綺麗な目をもっている。
「ぬいぐるみ、お好きなんですね」
 数秒のうちに、茶色の毛に覆われているはずの先輩の顔がみるみる赤くなっていくのがわかった。
「ち、ちが」
 急に先輩がうろたえだしたので、わたしは落ち着かせるように、ふだんどおりの口調で語りかけた。
「大丈夫ですよ。たしかに先輩、しゃべり方はきついかなと思うことはありますけど、子供っぽい趣味をもってるからといって、そんな気にはしませんし」
「ま、まて! 子供っぽいとはなんだ! それはぬいぐるみコレクターに対する偏見だ、差別だ! いいか、ぬいぐるみはたしなみなんだ。かの名探偵警部も、ニート探偵も、ぬいぐるみを愛しているじゃないか!」
「それならそんな、恥ずかしがらなくても」
 そう言うと、先輩は毛をしゃあっと逆立てて、わたしをにらみつけた。
ハヅキに子供っぽいと思われるのが嫌なんだよ! 馬鹿か!」

 散々すねる先輩を落ち着かせたのち、戻ってきた警部はわたしたちをみて、
「なにかありましたか」
 と問いかけたけれども、先輩が、なんでもない、と言い通したので、わたしも特になにも言わなかった。
「まあ、どこの製品かなんて、どうせタグを調べればわかる話ですから。あとで鑑識に一体回していただきましょう。おそらく、そっちの見立てが合っているとは思いますが」
 そこで警部は、こほん、と咳払いをして、
「それよりもまだ知るべきことはありますよね。とりあえずこちらへ」
「え、どこに行くんですか」
 わたしがそう訊ねると、警部はわからないのですか、と言いたげな顔をした。
「情報不足なのでしょう、第一発見者を待たせています」

 第一発見者となった女性は、小川晴子という気弱そうな人だった。年齢は四〇で、細い体つきに化粧気のない性格。ふだんから長い髪を後ろでひとつにまとめている。子供は小学生の男の子がひとりのみ。夫は会社員で、昼は彼女自身もスーパーのパートとして働きにでており、事件当時のアリバイも彼女の同僚によって、証明されている。夫、子供も同様にアリバイは証明ずみ。
「ほとんどのことは警察の方にお話しましたが、お力になれるなら……」
 声はあまり強くなかったものの、警察のケアが良かったためか、精神的な面ではだいぶ落ち着いているようすだった。
「ぜひ、よろしくおねがいします」
 そう言って、先輩のほうを見ようとしたが、どこにも姿がない。さっきのことで、まだへそを曲げているのかもしれなかった。
 仕方なく、わたしだけ、小川晴子のほうに向き直る。
「ではまず、被害者となった喜沢さんとどの程度親しかったのか。それから、彼の人となりについて、お聞きしたいのですが」
「親しかったのか、と言われましても。一般的なご近所さん程度、ですかね。顔を合わせたらあいさつはしますし、回覧板も渡しますから。付き合いは、十年くらいでしょうか。奥さんがお亡くなりになるまえからここには住んでいますので、たしかに、このあたりではわたしたちの家庭がいちばん親しかったかもしれません。となりは学生マンションですから、交流といっても、ないに等しいですし……」
 そう言って、晴子は自分の背にしている家のさらに向こう側をみやる。
 わたしはその情報を手短に手帳にまとめていく。
「喜沢さんのふだんの生活はどれくらいご存知ですか」
「早起きなのは知っていますけれど、それくらいです。あとはとにかく、庭を自分でいじるのを趣味にしているようでした。それなりの暮らしができる人なのに、庭師を雇うこともしなくて。手入れはいつも一人でやっているみたいで。ほんとうに、人当たりのよい、ほがらかな人でした」
「なるほど。小川さんにとって、ほかに印象的なエピソードはありますか。特に最近、なにか変わったようなことは」
 晴子はしばらく考えるそぶりをみせたのち、思い出したように口を開いた。
「あの、これ、ご参考になるかわからないのですが……」
「構いませんよ。ちょっとしたことが解決の糸口になるかもしれませんから」
 わたしが背中を押すようにしてみると、でしたら、と晴子は表情をゆるめた。
「さきほど、喜沢さんがほがらかな人と言ったのですが、最近はそれほどでもなかったんです」
「……意図的に、周囲に当たり散らすようにしていたとか?」
 手帳に書いてきた被害者の人物像に、クエスチョンマークを加える。
「いえ、そこまでではなかったのですが。急に、喜沢さんが神経質になったといいますか……」
「……神経質、ですか?」
 晴子は、ええ、とうなずいた。
「以前は近所の子が庭に入ってしまったくらいで怒ることもなかったのですが、ひと月ほどまえ、塀を越えてしまったサッカーボールを取りに入った子供たちを、すごい剣幕で叱っていたんです。用があるのなら、ちゃんとインターホンを押して呼びなさいって、となりのわたしたちの家にも聞こえるくらいに」
 そう言う彼女自身、この出来事をどう捉えたらよいのか、判断しかねているようだった。わたしは、なるほど、と相槌を打つ。
「……たしかに妙ですね。ちゃんとした礼儀を教え込もうとしているようにも思えますけれど、ここ最近になって考えを変えてしまうなんて」
 ぐるぐるとペンを走らせる。なにかが噛みあわない。
「それじゃあ、あとひとつだけ教えてくれますか」
「……あれ、先輩?」
 いままでどこかに消えていた先輩が、急にわたしの前に現れた。晴子さんは、先輩の顔をみて、声を失っていた。まだ獣種が社会進出しはじめてから年数が経っていないせいか、よくこういったことは起こる。先輩は気にもせず、
「ああ、大丈夫ですよ、取って食ったりはしませんから」
 と朗らかに返したが、より相手を萎縮させたようだった。わたしは先輩の横腹を肘で小突いた。
「……先輩、冗談きついですよ」
「ん、そうか、すまん」
 ぼりぼりと頭をかく先輩をみて、ようやく晴子さんは、慌てて非礼をわびる。先輩は、いいですよ、と言って質問を続けた。
「晴子さん、その出来事が起こるすこしまえ、被害者が挙動不審になったことは? 特に、そう、なにかを隠しているようなそぶりで。たぶんそれは、彼の庭に関わることで」
 あっ、と晴子が口元に手をあてる。
「……あったんですね?」
「はい。まえに庭にだれかが入って、塀に落書きをされたことがあったらしいんです。それで被害届を出すのかと思ったら、言わずじまいだったことが」
 先輩は、そうか、と手を顎のほうにやりながらうなずいた。
「不思議な落書き犯もいるんだな」
「えっ?」
 一瞬、先輩の言っていることがわからなかった。行為の奇妙さであるなら、被害者である喜沢のほうに目が向くのではないのだろうか。わたしが理解できていないことを悟ったのか、先輩はその意味が伝わるように、言い換える。
「わざわざ塀の内側に入ってから落書きをするなんて、いたずらを目的とした人間の行動ではないだろうが」
 わたしと晴子は、言われてやっと気づいた。ふつう、いたずら目的であるならば、人の目に映る外側の塀に落書きを残すのが当然だ。わざわざ家主にみつかるリスクを負ってまで、敷地内に踏み込む必要性はない。
「それを知った経緯を教えてほしいんですが」
 先輩はそのままさらに詳しい話を訊ねると、晴子は弾かれたように、当時のことを話しだした。
「え、あっ、はい。ええと、たしか、サッカーボールの件の、二、三週間ほどまえだったと思います。たまたま家に帰るときに、ホームセンターの袋をもった喜沢さんに会ったんです。そのとき、袋のなかに漆喰とコテがみえたので、『補修ですか?』と聞いたら、『庭の塀に落書きされたもので』と答えたんです。そのあとすぐ喜沢さんの顔が青くなって、『それでは』と言って去っていきました」
「……では、その話が、正しいと思った根拠は?」
「そうですね、その日のうちに、外の塀をみましたけれど、どこにも落書きや、補修の跡もありませんでしたから、ほんとうに内側をやられたんだな、と」
「神経質になったのは、その頃から?」
「そうですね。たぶんそうだったように思います」
 先輩はしばらく黙ってから、
「ありがとう。とても参考になりました」
 と言ってにっこりと犬歯をみせた。
 わたしは先輩の腹部めがけて、渾身の正拳突きを見舞ってやった。

「……犯人の目星がついたんですか?」
 先ほどの縁側に戻って腰を下ろし、下っ腹をさすりながら死体発見現場をながめている先輩に向かって、わたしは訊ねる。
「いや、まったくだな」
 先輩は器用に片耳だけをぴくりとさせて、わたしのほうには視線も向けずに答える。それから警察の方からもらったお茶のペットボトル飲料を口にして、ごふう、と豪快に一息。
「ま、とりあえず、結果待ちだな」
「結果、ですか?」
「お前が第一発見者から話を聞こうとしたときに、警察のほうに色々と頼み事をしてきたんだよ。その結果報告を聞くまでは、なんともだ」
 先輩は湯のみを置くと、両手の肉球を掲げてみせた。現状ではお手上げだ、と言いたいのだろう。
「とはいえ、謎は深まるばかりですね」
 わたしはいままでの情報を頭のなかで整理していく。
 まず第一に、現場の謎。一六体もの、しろくまのぬいぐるみという奇妙な状況。有名おもちゃメーカーの元幹部だとしても、自分の庭にぬいぐるみをばらまくような趣味として考えるのは、あまり現実的ではないだろう。
 第二に、被害者の周囲三メートル半以内に痕跡がまったくないということ。いわゆる雪密室に代表されるような純密室に酷似しているけれども、これは密室というより、殺害手段の不可解さであるように思える。犯人はなにによって、あるいはどのようにして、被害者に致命傷を与えたのか。
 そして第三に、被害者の言動の謎。なぜ被害者は、急にいままでとはまっtく逆のふるまいをするようになったのか。また、なぜわたしたち探偵に仕事を依頼しようとするまで考えるようになったのか。
「その謎に光明を見出す結果を持ってきましたよ」
 丁度わたしの思考に飛び込んでくるかのように、赤江警部の声が聞こえた。彼はいつの間にかわたしたちの後ろに立っていた。
「おう、ご苦労。さすが、いいタイミングでやってくるな」
 先輩が気安く言う。その扱いに警部の顔はまたも歪んだ。
「……あのですね、わたしはあなたの使い走りではないのですが」
 そう言いながら、警部は先輩に数枚の紙を手渡す。
「まあ、その件については後日べつの機会に譲りましょう。ほとんどあなたの予想通りでしたよ。相変わらず似合わない頭の持ち主ですね」
 赤江警部が嫌味ったらしくそう言うと、先輩は、はん、と鼻を鳴らした。
「一般的なイメージより頭はいいんだよ、熊は」
「ちょっと、先輩」
「ん、どうした?」
 わたしの呼びかけに、先輩が鼻先を向けてくる。
「なんで助手のわたしには推理を伝えなくて、警部には話しているんです?」
「そりゃあ、情報開示っつっても、申請のためには書類が必要だろ。理由はつくらなくっちゃ、だろ。仮定の推理だとしても」
 先輩はしれっと答える。わたしはむっとして、
「……なんかそれ、フェアじゃないですよね。色々と」
「いいんだよ、探偵は。そういうのはお前だけで十分だ」
「あ、いまちょっと馬鹿にしたでしょう」
「してねえよ」
「しましたよ」
「意地を張るな、とにかく、そう思うならこの書類を読め」
 そう言われては、こちらとしては従うしかない。
「わかりましたよ。それで、この書類は?」
 わたしの問いに、赤江警部がすぐさま答える。
「小川家の屋根の確認結果に、被害者宅の庭の漆喰の補修跡の確認結果、そしてぬいぐるみの照合結果、の三点ですよ」
 わたしはうなずきながら、それらをひとつずつ確認していく。
「屋根の利用形跡、なし。目立った足跡もなく、午後二時時点での表面温度は摂氏六〇度から七〇度近く。事件当時、素足でそこに立つことも不可能だったことが推察される……って、犯人は屋根を利用したんですか?」
「ほら、あそこ。マンションの非常階段から、小川家の屋根。もっとも近いところで四〇センチ程度しかない。跳び移るくらいだったらできそうだろ。念のためみてもらったんだ」
 先輩はマンションを指さして言う。
「その結果、あの屋根の上に何者かが乗っていたという可能性は否定されたわけだ。まあたぶん事件当時の屋根の上の気温は四〇度を越えていただろうから、被害者が庭に出るのを待ち伏せることは到底無理だったろうとは思うけどな」
「なるほど」
 わたしはその情報を自分の手帳に書き写してから、次の書類に目を通した。漆喰の補修跡。これは小川さんが先ほど言っていたものだ。
「補修の跡は確認できたんですか?」
「ちょうど、死体の転がっていたところから視認できましたよ。だいたい大きさは、五〇センチ×五〇センチほど。目立たないように工夫はされていましたが、それでも素人の仕事ですからね、さすがに真新しさは隠せていないようでした意識して探せば簡単に見つけられる程度です」
「そして最後に、ぬいぐるみ、ですね」
 わたしは庭のほうに目をやる。すでにぬいぐるみたちは回収されている。いま、目に映っている光景は、一般的な、苔むした小さな庭園でしかない。書類に視線を戻し、報告欄を読み上げる。
「……結果、ぬいぐるいみは『きざわ堂』製とはべつのものであることが確認されたって……どういうことですか、先輩?」
 ぬいぐるみフリークの先輩の読みがはずれたということなのだろうか。
「詳しいところは専門家の判断を仰ぐことになるが、どうもあのぬいぐるみたちは、よくできた偽物、ということらしい。カタログ外の特注品や、海外向け限定の商品でもないことが現状ではわかっている」
「偽物って、そんなものがまかり通る市場なんですか?」
「一般的には通らないな」
 わたしは首を傾げる。どうもそのあたりの知識には疎い。
「どういうことでしょうか」
「需要の数が少ないので、ご指摘のとおりコピー品が出まわることはそう多くないそうですよ。とはいえテディベアの有名メーカーなら、あのサイズで五万円程度のものはごろごろしています。『きざわ堂』でも、三万円代のものを主力商品として販売しているようです」
 警部がすらすらとわたしの疑問に答えていく。
「それに、公式の名を冠したレプリカなら多くの会社が出しているからな。偽物となるとふつうはレプリカには及ばないようなたんなる粗悪品になるわけだが、今回はそれとは違う」
「違う?」
 わたしがそう聞き返すと、先輩は眉をしかめた。
「つくりが良すぎる。本物とくらべても、遜色がない。あの一体一体が、十分に価値のあるものなんだ。おそらく、一体四万円程度の市場価値は見込める」
「……なんだか急に、雲行きが怪しくなってきましたね」
 警部も同意するようにうなずいた。
「このあたりが動機になるのかもしれませんが、肝心の被害者がもう口を開けない状態ですからね。目下、関係者をあたっているところです」
 それから、と警部は続ける。
「ぬいぐるみの付着物について」
 わたしは紙に目をやった。備考欄にいくつか気になることが書かれている。
「庭の土とはべつに、白い粒のようなものが表面に付着している……」
 その先に書かれている言葉をみて、わたしはなにがなんだかわからなくなった。それが何を意味しているのか。
「おそらく塩と思われる……どういうことなんですか、これは」
 わたしは先輩と警部、ふたりに言う。先輩はあの、少年のような目でわたしをみつめてきた。
「わからないか、ハヅキ。それが、この事件の凶器を示しているんだ」

「警部から手紙届いてますよ。あのしろくま事件のお礼だって」
 わたしがそう言うと、先輩は気だるそうにあくびをした。
「……そりゃよかったな」
 あの民家の事件から三日。午前中の探偵事務所の空気はおだやかだった。わたし自身も、今回の事件簿を書き終え。ようやくひとごこちがついた気分だった。先輩はあの日以来、ずっとふてくされている様子だけれども。
「もうすこし喜んでもいいんじゃないですか。お手柄じゃないですか、奇妙な事件をスピード解決。来月以降の探偵切符の交付もしばらくは不安に思わなくて済むんですし」
「べつに、犯人を指摘したわけじゃない。犯行方法と、それが可能な犯人像を指摘しただけだ」
「そうですか」
 わたしはため息をつく。先輩がこれでは、こちらも調子が出ないというものだ。あの日、先輩のおこなった推理をわたしは思い出していた。

「凶器、ですか」
 わたしには、なぜ塩が凶器を示しているのか、まったくわからなかった。
「お前がさっき言ったモーニングスターな、あれ、ほとんど正解だったんだよ」
「え?」
「後頭部のへこみと、頚椎の骨折。そのために必要なのは、かなりの力だ。それを、このぬいぐるみたちを用いてつくりだすにはどうしたらいいか。簡単な話だ。ぬいぐるみで、鉄球とほぼおなじものをつくればいい」
「ぬいぐるみで、鉄球をつくる?」
 わたしは鸚鵡返しで聞くことしかできなかった。先輩はうなずく。
「そう、鉄球をつくる。問題設定をわかりやすくするならばそうなる。ぬいぐるみをつなぎあわせて、重量のあるもの、殺傷能力のあるものをつくるにはどうしたらいいかという問題設定だ」
 そこまで聞いたわたしは反論する。
「でも、ぬいぐるみたちを紐でしばったり、縫い合わせるくらいでは鉄球のような重量にはならないと思います。どうやってそれを?」
 答えは簡単だ、と先輩は静かに答えた。
「ぬいぐるみを水に浸してから、それらをまとめて凍らせてしまえばいいんだ。、わざわざなにかで縫い合わせる必要もないし、凶器としても自然にその能力を失うようになっている」
「それじゃあまさか」
 そうだ、と先輩はうなずいた。
「犯人は凍らせたぬいぐるみの塊を、小川家の屋根から転がしたんだ。もちろん、直接屋根の上には立っていない。マンションの非常階段からでも十分だ。あそこならこの庭もよくみえるから、機会をうかがうには絶好の場所だろう。被害者は、この塊を頭部に受けて、首の骨を折った。そして麦わら帽子をしていたために、ぬいぐるみ本体に血液や頭髪が付着しなかった。このために、なにが起こったからわかりづらくなっていたんだ。そして、足跡の問題も簡単に解決する。そもそも犯人は、被害者と直接対峙したわけではなかった。おそらく現場の足跡は、捜査をかく乱させるためのものか、殺害法の痕跡を消すために訪れたときのものだろう。たとえば、被害者の頭部に衝突してもばらばらになりきらなかったぬいぐるみの塊を、意図的に砕いたり、とかだな」
「でもそれなら、氷だけにしてしまったほうがいいのでは?」
 そうわたしが言うと、先輩は、それは違うな、と返す。
「消える凶器はたしかに使えるかもしれないが、たんなる氷の塊では重すぎるんだ。まず持ち運ぶことが難しい。実行可能性の点から考えれば、ぬいぐるみに水を含ませたほうがずっと楽だということはわかるだろ。球体も、かたがあるぶん、比較的つくりやすい。たとえば、球体の洗濯ネットにでもぬいぐるみを詰めて、凍らせるだけだ」
「それじゃあ、ぬいぐるみに付着した塩は」
「やったことないか、理科の実験」
「実験?」
「凍らせた食塩水のほうが、ただの氷よりはやくとけるんだよ。犯人は最初から被害者を殺して、その証拠が消えることを狙っていたんだ。まあ、塩が再結晶するとは思っていなかったようだけどな」
 先輩はそこまで言って、息をついた。
「犯行方法に関しては、この線を調べれば、すぐに裏付ける証拠を見つけられるはずだ。あそこの屋根の雨樋。ちょうど死体が倒れていた場所の上にあたる部分が壊れているようにみえる」
 先輩の言葉につられて、わたしも雨樋をみた。たしかに、その位置がおおきくひび割れていた。そこから被害者のところまで、ぬいぐるみの塊が通った道筋がみえてくるようだった。
「とは言っても、今回の事件でできることはここまでだ。あとは警察へのアドバイスになる」
「犯人可能な人物像まで、ということだな」
 先輩の推理を静かに聞いていた赤江警部が、口を開いた。先輩はうなずく。
「そう、この犯行方法を実行可能な人間は、ごくわずかに限られる。あとは警察の組織力でどうにかできるとは思うけどな」
 条件は三点だ、と先輩は言う。
「第一に、犯行時刻マンションを訪れることができた者。第二に、ぬいぐるみを凍らせる環境を手にしている者。それから第三に、ぬいぐるみを凍らせたまま、現場まで持ち運ぶことのできる手段をもっている者。ひとつめはアリバイ。ふたつめは犯行方法の大前提、そして三つ目は、実際に犯行をおこなうために不可欠なものだ。第三はマンションの住人であればクリアできるように思うが、そもそもこのマンションは学生用の賃貸だ。大型の冷凍庫を置くスペースはないだろうから、除外して考える。ここまでで問題は?」
 わたしは首を横に振った。シンプルな条件だが、それだけでかなりの人数に絞られるのが想像できる。
「ではひとつずつ確認していこうか。第一の多くににあてはまるのはもちろん近隣住民だろう。このあたりは住宅街で、飲食店も少ない。それだけでここを訪れる人の種類が限られてくる。まずそれを頭に入れておいてくれ」
 先輩はゆっくりと、獲物ににじり寄るように言葉を重ねていく。
「第二に、これは大型の冷凍庫を有している人間であることがわかる。とはいえ、工夫すれば業務用でない家庭用のものでもぬいぐるみを凍らせることはできるだろう。これはさっきも言ったように、マンション住人を除外するための条件として考えてほしい」
「では、第三は?」
「第三こそが、もっとも犯行可能な人物を限定させるもの。なぜなら冷凍庫を稼働したまま移動させる手段を有していなければ、犯行は不可能だからだ」
 事件当時の気温はほぼ真夏。炎天下で、凶器であるぬいぐるみの塊をとかささずに持ち運べる方法は、限られている。
「わかるか? ハヅキ
 先輩が、少年のような目でわたしをみる。
 第一、第二の条件を含めたうえでの、犯行可能な手段とはなにか。しばらく考えたのち、わたしはその答えに辿り着く。
「……運送会社のトラック」
「正解だ」
 先輩はうなずいて、その先を続ける。
「動く冷凍庫を考えればいい。クール便、チルド便、冷凍便、名前は会社によってさまざまだが、基本的には同じだ。そして、その業者のどれもが、配送サービスをおこなう大きさに制限をかけている。正確には、重量制限と包装するダンボールの三辺の合計数。この最大サイズでは、ぬいぐるみの塊を覆うことはできない。冷凍車を購入したり借りたりするという手段もあるが、さすがに犯行のためだけにそれを利用するのはあからさますぎる」
 わたしは先輩の推理を追って、自分のなかでも犯人像をつくりあげていく。最も目立たず、リスクをかけずに犯行できる者。
「ゆえにトラックの運転手自身がこの犯行に適している。配送中に、自宅に荷物を届け、わざと不在通知をおこなう。そのさい冷凍庫に、凶器の入ったダンボール箱を紛れ込ませる。犯行後、自宅に凶器を入れていた、空のダンボール箱を再配達で届ける。凶器それ自体を持ち運ぶことが可能であると同時に、第一の条件も満たすことができる。以上が、警察へのアドバイスだ」
 そう言って、先輩は自身の推理を締めくくった。

「先輩、いつまでふてくされてるんですか」
 わたしはデスクに突っ伏している先輩に言う。
「いいだろべつに。秋から冬は、身体が活動の欲求を失うんだよ」
 先輩は手をひらひらさせながら、やる気のなさを主張する。
 そんな、わざとらしい言い訳をしなくてもいいのに、と私は思った。先輩は、自分の推理の及ばなかったところばかり、気に病んでいるのだから。
 偽物の、ぬいぐるみ。おそらく半日後にはニュースでも扱われると思うが、あれは、『きざわ堂』が実際には販売しなかったぬいぐるみだった。
 わたしの口からは多くは語らないが、犯人はそのぬいぐるみの職人であり、デザイナーの親族だった。犯人は最初、そのぬいぐるみに関わる内容で被害者を脅すつもりだったという。それを塀に記したことで、被害者は神経質になったのだった。だが殺意をもった犯人は、修復した塀の部分のうえにまた落書きをおこなったと嘘の情報を電話で被害者に伝え、それを確認しにやってきたところを見計らって、ぬいぐるみの塊を転がしたのだ。
「先輩」
「なんだ」
「ぬいぐるみ、お好きなんですよね」
「……そうだが」
「じゃあ、わたしにおすすめのぬいぐるみ、教えてください」
 そう言うと、先輩は一瞬面食らった顔をしたかと思うと、迷うような顔に変わった。それからしばらくしてようやく、
「……ヒグマ以外なら許してやる、いいな」
 と毛むくじゃらの顔を赤くしながら言った。
 わたしはつい嬉しくなって、すぐに返事をする。
「わかりました。ヒグマですね」
「以外って言ってるだろ」
「聞こえませんでしたけど」
「聞けよ」
「嫌です」
「教えてやらないぞ」
「言質はもう取りましたから」
「おい待て」
「あ、もうお昼ですね。買い出し行ってきます。先輩はいつものですよね」
 そう言って、事務所の扉を開ける。
 すこし冷たくなってきた風が吹き込んできて、鼻先をかすめていくのが心地よかった。わたしはどんなヒグマのぬいぐるみがいいだろうかと思いながら、色の変わりはじめた並木の間をいつもより早く歩いた。
 先輩によく似た姿のぬいぐるみが探偵事務所の隅に置かれるようになるのは、次の季節がやってきてからだった。