詠坂雄二「悟りの書をめくっても」のこと。

 ミステリ短編深夜徘徊と銘打ってカメレオンに書いたぶんはすでに終わっているけれども、この場を通して推理小説の短編について語っていくことは続けていこうと思う。いままでシリーズにするような形にしていたのは、もとになった会誌の見開き2ページで一回分にしていたからで、ウェブページ上であれば、その制約に煩わされることもない。自由に書く。自分でもなにをどう考えるのかはわからないけれど、推理小説を読み解いていくうえでの材料整理、あわよくば提供ができればいい。

 以前、北村薫について考えたとき、本格のルールが共有されないという話に軽く触れた。いまの読者は、というと自分も含まれるような気もするけれど、とにかく新本格勃興期と比べれば、本格推理小説の受容の仕方が違っているらしい。もちろん、当時と変わらない読み方をしている人がいる一方で、それを「本格」と知らずに受容している人も多くいるはずだ。そう考えて過去の自分を振り返ってみると、『逆転裁判』をゲームボーイアドバンスでプレイしていたころはまったく推理小説を読んでいなかったし(本格であったかどうかは疑問だが)、現在であればそれと同系統のゲームだと思われる『ダンガンロンパ』をプレイしている人で「本格推理」というワードを知らない人は多くいると思う。『ダンガンロンパ』に関して言えば、お約束となるキャラクターは出てくるけれど、決して「本格」であったり、「人狼」や「犯人当て」といったワードは出てこない。限りなく脱臭している。販売戦略としては正しい判断だと言える。
 話は置いといて、詠坂雄二だ。「悟りの書をめくっても」は『ジャーロNo.46』掲載の短編。シリーズということになっており、同誌で以前連載していた〈ゲームなんてしてる暇があった〉=『インサート・コイン(ズ)』の登場人物も出てくる。シリーズ名は〈ナウ・ローディング〉。今回扱うのは、その連載第一話にあたる。まだ書籍にはなっていないので、書籍化を待つ、ネタバレは困る、という人はブラウザの戻るボタンを。『インサート・コイン(ズ)』を読んでいる前提で話を進めていくので、それも心得ていただきたい。主に扱う作品以外のネタバレ等をするつもりはない。



■物語の概要
 RTA(リアルタイムアタック)というビデオゲームの遊び方がある。ゲームのクリアまでの実時間を競うもので、個人によるネットへの動画配信が可能になってから、このRTAのコミュニティが生まれ、それを競技として行う流れが現れるようになった。万年青(おもと)というハンドルネームで『ドラゴンクエスト3』のRTAをはじめて三ヶ月のわたしは当然、アカイライというプレイヤーがRTA中に不正行為をおこなったことを知る。アカイライドラクエシリーズを専門にしている配信者で、わたしにとって師にあたる人物だった。しかしわたしは、彼の不正を調べていくうちに、それが非合理的なものであったことに思い至る。

■〈ナウ・ローディング〉について
 今作も前回のシリーズと同様、ゲームに関する話だ。ただ、『インサート・コイン(ズ)』がレトロゲーム当時を振り返る話だったのに対し、今回のシリーズは、現代が話が主軸に置かれている。「悟りの書をめくっても」以外の発表されている短編ではニンテンドー3DSの『どうぶつの森』やダウンロードの18禁同人ゲームが話題になっていたりとするが、語られているのはそれを通した事件や謎よりも、ゲームを取り巻く状況――遊び方であったり、業界の抱える問題――に比重が置かれているように思える。文章量というよりは、焦点だろうか。今回扱っている「悟りの書をめくっても」も、『ドラゴンクエスト3』のRTAという遊び方をおこなう界隈の現状が、謎と平行して語られていく。けれども、読者はそれを読んでいるうちに、そのゲームとはまったく違うものを思い浮かべることになる。

■引き寄せて解釈するということ
 ここで『シヴィライゼーション』や将棋・囲碁などのシュミレーションゲーム全般のルール設定に関する言及がある短編「もう1ターンだけ」(『ジャーロNo.48』掲載)に触れる。『インサート・コイン(ズ)』でも、ひとつの短編で完結しない伏線があった以上、ここでも、同じシリーズの作品に多少触れても問題はないだろう。この短編では、自分の母校となる専門学校で授業をおこなう柵馬が次のように言う場面がある。

「文章には至近弾もあれば、読者が自分に引き寄せて解釈して当たりにいってくれることもあります。(…)狙って当たる可能性があるのなら、狙いましょう」(太字は傍点)

 これは前作『インサート・コイン(ズ)』にあった「最大の伏線」にちかいものを感じさせる。この台詞は柵馬がライターとしてどのような年代層に向けた文章を書くべきかを生徒たちに言っている場面のものだが、読者にとってはある種の伏線として読み取ることもできるはずだからだ。読者にみずから当たりにいってもらいたい、という作者の思惑を感じ取る。その思惑の具体的なものとは、Aについて語っているものを、読者がBとしての意味を帯びると勝手に「自分に引き寄せて」読み解いてしまうこと。じっさい、「悟りの書をめくっても」を読んでいたとき、頭からついてはなれないものがあった。

■歴史とそれ自体の魅力
 作中の「わたし」はドラクエの歴史を知らない。たまたまネット上にアップされたプレイ動画を見て、それが自分が生まれる前に発売されたゲームであったことを知り、RTAの世界へと入っていく。しかし、そうした入り方は、アカイライや他の配信者にはできなかった。なぜか。ノスタルジー的な愉しみ、当時を知っていたからゆえに、過去のゲームにこだわり、RTAをおこなっていた彼らと、「わたし」とは遊ぶ動機が違う。年代の違いという明確な差があったからだ。
 また逆に、ノスタルジーがない状態でRTAをする、万年青(=わたし)は、アカイライにとって救いだったという。「思い出を持たずに走る」ことができるということは「ゲーム自体の魅力で走っている」ということになるから、と。
 しかし、「わたし」が感じた魅力はゲーム自体だけではなかった。「先駆けて走っていた人たちの姿」に惹かれたという。「走り続け、チャートを改良してきた人たちの存在が重く感じられるから」RTAを続けているという。

「(…)思い付いて、試して、使い物にならなかった発想も山とある中で、そうやって定番とされるチャートは磨かれていったんです。最初に誰がそのやり方を始めたかは語られなくても、そこに歴史を感じるんです」

 物語の最後に「わたし」はなぜアカイライが不正をおこなったのかという理由に辿り着く。RTAの存続。アカイライは「変わらなければ歴史は終りだ」という。ノスタルジーという「変わらないことの確認」と同時に、変わらなければならないということ。その環境を整えるため、不正をする必要があった。「わたし」はそれを聞いたうえで「先輩たちが舗装してきた道」「行き先から少し目を逸らせば、不毛の荒野が広がるばかりに感じられる道」を進んでいきたいと考える。

ドラクエはなにに引き寄せられるか
 唐突に感じられるかもしれないが、ここで、ドラクエ≒(新)本格という図式を考えてみたい。
 作中では「ドラクエ25周年」についての言及がある。『ドラゴンクエスト1』が発売されたのは一九八六年で、『ドラゴンクエスト3』が発売されたのは、一九八八年。「新本格」という言葉が表に出てくるのは一九八八年、『水車館の殺人』の帯からとされている。ドラクエ新本格の過ごしてきた年代は重なっている。
 そして、「悟りの書をめくっても」が発表されたのは二〇一二年末。これは「新本格25周年」と呼ばれた年にあたる。ゲームの「遊ばれ方」の歴史と本格の「読まれ方」について類推することはできなくもない。どちらもひとつの「ジャンル」という世界内で洗練されていく歴史を持つものだからだ。もちろんそれひとつに限られた類推ではないが、ミステリ作家としてのキャリアを、様々な手法による作品で積み重ねてきた作者なら、そうした類推が遠くないところにあるのではないかと考えてしまう。
 加えて言うならば、作中の「わたし」同様、歴史を知らないまま本格に触れて、その魅力を知り、親しんできたわたしにとって、どうもこの短編は「自分に引き寄せて」読まずにはいられないもののようだったからでもある。語られていることは普遍的な話であるのに、限定的なことに思考を関連させてしまうのはどうかと思うが、自分が「自ら当たりに」いくとしたら、これしかなかった。だからこそ、そこで「わたし」が言った言葉が立ちふさがってくるような気がしてしまう。

 それとも、そこまで重く考えることはないんだろうか。
「たかがゲームだから?」

 作中の「わたし」のように、たかがのさきにつける言葉を、自分に引き寄せた言葉に換えて口にしてみたとき、「なにも言えなく」なってしまいそうになることは決して少なくはないはずだ。どのようなジャンルにおいても、それ自体は歴史という基盤を持ちながらも、その自明性を他のところから持ってくることは難しい。さらにその言葉はどんなに本質を突こうとしても自分にしか返ってこない。
 この「悟りの書をめくっても」という短編は、ドラクエ3のなかのアイテム「悟りの書」からタイトルがつけられている。その効果は、特殊な鍛錬を積まなくとも、賢者(現在で言う上級職)への転職が可能になるというものだ。しかしたとえそのような状態になったとしても、という皮肉があることを含め、強烈な作品なのだと強く感じる。

■「ゲーム」といえば
 先日、『直木賞物語』を読んでいたのだが、第一四四回の選評*1で「ゲーム」という言葉が出てきた。主に貴志祐介の作品に対して、用いられた表現で、小説とは言いがたい、というような意味合いが込められていたように感じた。だとするなら、論理ゲームとしての役割しかもたない本格はどうなるのだろうか、と思ったりもする。
「悟りの書をめくっても」が発表されたのはこの選評の翌年だ。べつに関連があるとは思わないけれども、作中で言われていた、「公認を得る」ということが本格にとってなにを意味するのかと考えてみたくもなる。賞というのは、まさしく公の場で認められるものだからだ。
 そしてさらに、この短編の翌年、芥川賞に、ゲームを題材にしてデビューした作家の作品がノミネートされた。いとうせいこう『想像ラジオ』だ。この作家のデビュー作の発表年は、一九八八年。『ドラゴンクエスト3』、そして「新本格」という言葉が使われだした年でもある。
 そこでふと気になって、いとうせいこうのデビュー作『ノーライフキング』のページをめくってみて、驚いた。物語のはじまる「ライフキングの伝説」と書かれたページには、ゴシック体で、次の言葉があったからだ。

「NOW LOADING」

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インサート・コイン(ズ)

インサート・コイン(ズ)

ノーライフキング (河出文庫)

ノーライフキング (河出文庫)

*1:http://homepage1.nifty.com/naokiaward/senpyo/senpyo144.htm

*2:さらに言うと作中には「子供の王様」という表現も出てきてドキリとした。もちろん使われ方は違うものの、これは偶然なのだろうか。