犯人当て小説 かめれおんの夜(ミステリー編)

カメレオンVol.29の回生企画、『かめれおんの夜』に書いたもの。会誌がそこまで売れてるとは思えないので、ここに載せてしまうことにする。扉絵は担当入魂の一枚だったのだが、白黒印刷になったため、あの水色が灰色になってしまったのは残念だった。せっかくなので、ついでにここに載せておく。

タイトルや扉絵からわかる通り、『かまいたちの夜』のパロディ小説で、その本編を担当した。これを核にして他の執筆者には分岐したシナリオを書いてもらった。そちらが気になる方は同志社ミステリ研究会のHPに行って通販で購入していただきたい。ギャグやら、伝奇ホラーやら、執筆者それぞれの味が出るシナリオになっている。本編は雪山の山荘で起こる殺人事件。舞台は長野県、黒姫。作中に出てくる伝承は実在のもの。零号かめれおんに関する部分はもちろん大ボラ。
歴代のかまいたちシリーズと同様に、犯人当てで、ユーモア風で、難易度ふつう、の三点が目標だったが、見立ての要素はやはり強引だったように思う(見立ての要素それ自体を事件を解くカギにしてみせようと考えても、後づけ、あるいは精神分析的な推理に傾きかねない。この塩梅は実際にやってみてとても難しいことがわかった)。
ちなみにこれを書いた数ヶ月後、法月綸太郎の講演会で『犯罪ホロスコープ』の執筆話になったとき、法月はストレートな見立てでは真新しさがなく、加えて同じような趣向はその後あまり書けなくなるといったふうなことを述べていた。それを聞いて、自作への反省と、本格で見立て(あるいはストーリーの引用?)をおこなうことについて考えなければと思った次第。また人名以外の太字は、もとの原稿では傍点部。しかし、解決編はもっとスマートにすべきだったように感じる。要点整理のために傍点を使ったのに、改めて読むと乱発しているようにしか思えないのは減点対象だろう。






 ペンション『かめれおん』へようこそ。
  お客様のお名前は 斉藤 様。
  おつれ様は 尾妻様、住吉様、野谷様、村野様 ですね。
 では、ごゆっくり『かめれおんの夜』の世界をお楽しみ下さい……。


「お、やっとついたんか」
 ぼくの後ろの席で携帯ゲーム機と格闘していた村野が車内アナウンスを聞いてようやく顔をあげた。サークルのなかでも特にインドア派なだけあって、ずいぶんとだるそうにしている。
 京都から新幹線に乗り込み、名古屋を経由して長野へ。そこから信州本線に揺られること約三〇分。西に山、東に湖を臨む、信濃町。駅名は黒姫。われらが浪士社大学ミステリ研究会、四回生の卒業旅行の目的地だ。
「面倒な往路だったな、腰が痛いわ」
 隣に座っていた住吉が立ち上がる。ぼくたち男三人のなかでもいちばん痩せている身体の節々をぽきぽきと鳴らしている。
「以前は大阪から一本で行く臨時列車があったらしいんだけどね」
「へえ、どんなのよ」
「それがさ、『シュプール号』っていうんだ」
 村野と住吉のふたりはにやりと笑った。
「そいつはスキーが楽しめそうだな。へっぴり腰の斉藤が見れるぜ?」
 斉藤とは、もちろんぼくの名前だ。ぼくは反論する。
「言っておくけど、経験者のぼくをなめないほうがいいからな。ストック一本でも華麗に滑ってる姿をその目におさめてやる」
 その横で、フラグ立ってんぞ、と村野がツッコミを入れた。
 ホームに降りると、すぐに冷たい風が襲ってきた。耳が痛くなりそうだ。聞くところによると、信濃町の三月の平均気温は一度以下だとか。京都とはまったく違う空気の寒さに身を震わせる。
「写真撮るよー」
 眼鏡をかけた茶髪ロングヘアの女子と、黒髪の背の小さい女子、尾妻野谷の女子二人組が呼んでいた。どうやら同じ電車に乗っていた人に写真撮影を頼んでいたらしい。ぼくたちは急ぎ足でそこまで追いつく。
「男子三人に女子二人。大学のサークルかな、長野ははじめて?」
 撮影を頼まれた人は、天然パーマに眼鏡をかけた三〇歳くらいの男性だった。
「はい、卒業旅行にしようと思って」
 野谷が答える。彼女は初対面でも物怖じせず、はっきりと言う。
「へえ、なんのサークル?」
「ミステリ研究会、ミス研です」
 男性はなにか合点がいったらしく、うれしそうに言った。
「ミステリーって、超常現象とかだよね?」
 ぼくたちは苦笑するしかなかった。じっさいにサークルが研究しているのは推理小説(ミステリ)のほうなのだけれど、世間に流布している言葉の問題で、こういう誤解はよく起こる。「ミス研です」と言ってすぐに理解してくれるのは『金田一少年の事件簿』を読んでいる人とか、年齢が高い人、あるいは同族だろう。
「『大学生五人組がゆく! 黒姫ミステリーツアー』……よし、これはいけるぞ」
 妙なことをつぶやいていたかと思うと、男は急に顔をあげた。
「ねえ、きみたち!」
「ひ、ひゃいっ!」
 尾妻がびっくりして、返事を噛んだ。
「実はぼく、こういうものなんだけど、どうかな」
「……『月刊らんらんとらべる』の……本橋さん?」
 住吉が差し出された名刺を手にとって言った。
「ここ信濃町にある『黒姫伝説』について調べようと思っているんだ。もしきみたちが興味あるのなら、一緒に来ない?」


 伝説、といっても黒姫にまつわる伝説はそう特別なものではない。
 室町時代、高梨氏という武家の一族に、黒姫というとても美しい娘がいた。ある日、高梨の殿様が黒姫とともに花見をしているところに、一匹の大蛇がやってきた。上機嫌の殿様は黒姫に「あの大蛇にも酒を分けてやれ」と言い、黒姫は大蛇を怖れることなくその通りにした。蛇は嬉しそうに酒を飲み干すと去っていった。
 その後、殿様のところに一人の若者が訪ねてきた。聞くと、あのときの蛇だという。若者は娘の姿が忘れられず、妻に貰いたいのだ、とも言った。それを聞いた殿様は断ったが、若者は何度も殿様のもとを訪れた。いつしか黒姫は、その若者の姿に心奪われるようになった。
 困った殿様は部下と策を講じ、若者を罠にかけて殺そうとした。すると若者はこのことに激怒し、本来の竜の姿をあらわす。竜は天へと駆けのぼると、たちまち嵐が起こり、城下は大洪水に見舞われてしまう。
 黒姫は竜の怒りをしずめるために、殿様の意に反して妻になることを誓う。竜は黒姫を乗せ、妙高と戸隠のあいだの山に飛び去った。彼らは山頂の池で暮らすようになり、その山はいつしか黒姫山と呼ばれるようになった。
「ふうん、なんか意外性がないですよね」
 本橋さんから伝説の概要を聞いたあと、尾妻はそう言った。
「伝承に意外性って求めるものかよ?」とは住吉。
「いや、もうちょっとドロドロ展開とか」と野谷。
「思い切って龍退治、とかどうやろ?」と村野。
 自分よりひと回り年下の若者たちの感想を聞いて、本橋さんは苦笑した。
「ここから南西の戸隠にはあるけどね、九頭竜伝承」
「岩戸に閉じ込めたっていう話でしたっけ? 正直黒姫よりも、そっちのほうがインパクトはありそうですけど……戸隠は取材されないんですか?」
 ぼくがそう言うと、本橋さんは照れくさそうに頭をかいた。
「上からのお達しでね。記事は男臭いのより、女性向けにすべきだと」
「なるほど」
 おそらくは旅先で屈強な男と出会うお姫様、という記事の筋書きなのだろう。多少、というか、かなり強引な話になっている気もするけれど。
「え、やだー、どうしよ」
「どうしたん、尾妻」
 村野が聞いた。尾妻は頬に両手を添えながら身体をくねくねさせている。
「わたし、姫じゃん? 男来るじゃん? さらわれるかもしれないじゃん?」
「おう、素晴らしいジョークをありがとう」
 すかさず住吉がけらけらと笑いながらツッコミを入れて、周囲もそれにつられて笑う。が、ぼくは若干キレ気味になっている尾妻の表情を見逃さなかった。
 ちなみに姫と彼女が言ったのは『オズの魔法使い』のオズマ姫にかけてのことで、サークル内ではよくネタにされていた。だからこの発言は単なる自意識過剰というわけではない、と思う。いっぽう本橋さんはというと、どうやらこのジョークの意味を理解できていないようすだった。
「それじゃあすぐに観光、といきたいところだけれど、この天気じゃあ危なそうだね。取材は明日にしようか」
「天気、ですか?」
 そう口にすると同時に、冷たい氷の結晶が頬にぴたりと張り付いた。
 標高二〇〇〇メートルを超える黒姫山を、分厚い雲が覆っていた。
 

 黒姫駅から出発するマイクロバスで四〇分強。黒姫高原や黒姫温泉からだいぶ離れた山中の一本道を進んだ先の僻地。目印なのか停留所なのかよくわからないところでバスは停車した。
 ぼくたちの宿泊先、ペンション『かめれおん』はそこから十分ほど歩いたところにある。ここで驚くべきことに、本橋さんも同じ宿をとっていた。
「やっぱり格安ってところに惹かれましたから」
 とは宿を見つけてきた尾妻の意見だ。
「学生だねえ。まあ、ぼくたちも似たようなもんだけどね」
 本橋さんはリュックを背負いながら、うんうんとうなずく。
「ぼくたち?」
「ほら、噂をすれば」
 本橋さんが道の先を指をさす。本橋さんと同年代くらいの女性が早足でやってきた。黒髪に、眼鏡をかけている。ショートパンツに黒タイツ、レインブーツという割と寒そうな足元なのに、降り積もってきた雪をざくざくと切り裂いて歩く姿はなんと勇ましいことか。これがいわゆる、仕事ができそうな人なのだとぼくは直感した。
「本橋くん、遅いよ」
「すいません。でも協力者を見つけたんです。こちら浪士社大学の学生さん。ミス研ですって。超常現象も本格推理もお手のものですよ!」
 バスのなかでちゃんと説明をしたつもりだったのだが、混同されている。
「えっ、浪士社なの?」
 女性は驚いたように両の手を合わせ、ぼくたちに笑顔を向けた。
「わあ、うれしい。わたしも浪士社出身なの。あ、自己紹介するね。『月刊らんらんとらべる』編集の船入です。本橋くんの上司やってます。いろいろと話したいことはあるけど、それはまたあとでね。ほら本橋くん、天気がやばいのよ、これから。すぐに作戦会議! 早く来て!」
「あっはい、わかりました、ですから、引っ張らないでくださいー!」
 ずるずると引きずられていく本橋さんを、ぼくたちは呆気にとられながら見守っていた。これが大手の編集者……凄まじいバイタリティだ……。
「さ、おれたちも気を取り直して行こうぜ」
 住吉がリュックを持ち直して言った。ぼくはなんとなく後ろを振り返った。マイクロバスが雪道につけたはずの轍が、また雪に覆われようとしていた。


「いらっしゃいませ。ようこそ、『かめれおん』へ」
 ペンションの玄関ドアを開けると、ロビーのカウンターにアラフォーの男が立っていた。黒いTシャツに白いタオルをバンダナのようにしてかぶっている。おそらく、彼がこの館の主だろう。
 髭を短く生やしていて、顔はいかつい。先ほどの船入さんと同様、黒縁眼鏡をかけているのに、どうもカタギの人には見えない。一般人よりに判断すると、強面のラーメン屋店主、といったところだろうか。 
「お世話になります。五名で予約した、斉藤です」
 事前に伝えるべきことはちゃんと伝えていたが、やはり不安なところもある。
「はい、斉藤様ですね。お待ちしておりました。わたくし『かめれおん』のオーナー、那珂川と申します。以後よろしくお願いいたします」
 那珂川さんはそう言うと、笑顔で右手を突き出してきた。腕時計が見える。ぼくはその振る舞いにほっとして、笑顔で握手に応じた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 那珂川さんは、見た目と違ってなかなか温和そうな人だった。
「うお、ぐちゃぐちゃしとる」
 後ろで靴を脱いでいる村野がつぶやいた。言われてみると、靴下にまで雪が染み込んでいるのがわかった。ずぶ濡れと言ってもいいくらいだ。
「こりゃ、履き替えないとどうしようもないな」
 住吉の言うとおりだった。冷たいし、気持ちが悪い。なにより、ペンションの床にべたべたと濡れた足跡をつけるのはみっともない。ぼくたち男三人は仕方なく靴下を脱ぎはじめる。女子二人はそろってロングブーツを装備してきたので、彼女たちの黒タイツは無傷のようだった。恨めしい。
 ほかにだれが来ているのだろうかと思い、ふと横の靴箱を見る。入っているのは先に来ていたふたりのぶんだけだ。
 本橋さんのものであろう男物のシューズは見るからに湿っている。乾かすことも諦めたのか、彼の白い靴下も濡れたままその横に置いてあった。ぼくの視線に気づいたのか、那珂川さんが言った。
「先に来た本橋様も、『あと一足しか替えがない』と嘆いておいででしたよ。さ、こちらにタオルがございますので、どうぞお使いください」
 なんて気の利く主人なんだろう、とぼくたちは感激する。ありがたい。
 けれどそこで、野谷がある事に気づいた。
「あれ? ここ、スリッパはないんですか?」
「ええ、当館は浴場以外はすべて床暖房にしておりますので、靴下があれば十分暖かさを感じていただけるかと。臨時スタッフの彼なんか、いつも裸足ですからね。おうい、田原くん。お客様にご挨拶を!」
「はいっ!」
 奥のほうからずいぶん若い声が届いた。たたたた、と軽やかな足音が聞こえたかと思うと、ぼくたちよりもさらに年下の男の子がやってきた。
「はじめまして、住み込みで働かせていただいてます。田原です」
「高校生? かわいい!」
 ぺこりと頭を下げた田原くんに、尾妻が顔をほころばせる。
「親戚の子でしてね、長期休暇のあいだだけ、ここに住まわせて働かせてるんです。至らない点はわたくしのほうにお申しつけください」
 ぼくは田原くんの足元を見た。ほんとうに裸足だ。短い髪に痩せっぽい身体。修行僧みたいな印象を受ける。
「とはいえ、お身体の一部を冷やしたままですと体調を崩されることもございます。部屋に荷物を置き次第、お手数ですが、靴下は履きなおすか、温泉に浸かってくださいね。温泉は六時から入れますから」
 スリッパの件については、これ以上言及しても仕方なさそうだ。郷に入っては郷に従え、という言葉がある。ぼくはうなずいた。
「ああそれと。郷土史に関して、この子はからっきし駄目ですから。なにを聞いてもまともな答えは返ってきませんよ」
 編集者ふたりからぼくたちが『黒姫伝説』に興味をもっていることを聞いたのか、那珂川さんはそう言った。
「どうも暗記科目って苦手なんです。みなさん勉強得意なんですよね。よかったらあとでコツとか教えてください」
 田原くんは苦笑しながらまた頭を軽く下げる。謙遜しつつ目上の人を持ち上げる。この出来た子っぷりにぼくたちは舌を巻いた。
 その後、簡単なチェックインの手続きを済ませると、那珂川さんはカウンターの後ろに吊るしてある鍵を手にとって、ぼくたちに渡した。
「では、こちらがみなさまのお部屋の鍵でございます。スペアはございませんので、なくさないようくれぐれもご注意ください」
 受け取った鍵は、全部で三つだった。ホルダーの数字は連番になっている。
「これ、部屋ごとになにか違いはあります?」
 村野が聞くと、オーナーはいえ、と答える。
「二〇三、二〇四、二〇五。どのお部屋も基本的に同じツインです」
 ということはふつうに考えて、男がひとり、あぶれるわけだ。ぼく、住吉、村野はみな、お互いの顔を見た瞬間にすべきことを理解した。
「……ジャンケンッッ……」
 結論から言うと、ぼくは勝負ごとにめっぽう弱い。
 うなだれるぼくを尻目に、ロビーの柱時計がちょうど夕方六時を告げる。
「ご夕食は食堂にて、七時半からの予定です。また九時まででしたら、このロビーでコーヒーと紅茶の無料サービスをおこなっておりますので、ぜひご利用してくださいね。もし言ってくだされば、一名様からでもお部屋に届けることができますので」
 那珂川さんの気遣いが、独り者のさみしさに追い打ちをかけた。


 チェックインのあと、みなそれぞれの部屋に入ったので、ぼくは他人よりも倍広いこのシチュエーションを楽しもうと考えた。
 その解答として、ふたつのベッドのあいだをアクロバティックに飛び回りながら声をあげるという童心に帰ったスポーツをしていると、隣の部屋からドン、と壁を強く叩く音が飛んできた。
「やかましいわ!」
 住吉の声が聞こえた。どうやら防音設備は完璧ではないらしい。
 とはいえ、ほかの設備に関しては申し分ないくらいだった。バス、トイレ、小型冷蔵庫、クローゼット、テレビ。必要最低限のものがみなそろっている。各種家電の電源コードはケーブルカバーで覆われており、いたずらではずされないよう鍵で固定されている。つまりは一般的な宿泊施設の一室だ。
「あっ、温泉ってもう入れるんだっけ。住吉でも誘おうかな」
 ぼくは携帯を見た。画面は六時一五分を示していた。


「あとで行くわ」
 と住吉に素っ気ない返事をされたので、ぼくはひとりで階段をおりていた。そのまま玄関ロビーの前に出る。
 ロビーのソファを見ると村野がくつろいでいた。
「一番風呂もらったで。温まったから靴下もいらんくなったわ」
 すでに浴衣に着替え終えている。荷物を置いてすぐに温泉にいったのだろう。優雅にサービスの紅茶をすすりながら文庫本を読んでいる。カウンターで待機中の那珂川さんも上機嫌そうだ。
「早いなあ。ほかにだれかいた?」
「いんや、いなかったわ。行くならいまやな」
 村野が勧めてくる。ぼくが他人に着替えを見られるのが苦手なことを知っているからだろう。ぼくがうなずいて、行こうとすると、
「……一人で大丈夫か?」
「……ぼくは未就学児か。お世話様だよ」
「はっは、そりゃ悪かった」
 そこで別れようとしたところに、尾妻がやってきた。
那珂川さん、アイスティーって頼めますか? できれば甘いもので」
「申し訳ありません。船入様と本橋様に先ほどお届けしたぶんで、作りおきがなくなってしまいまして。いま冷やしておりますので、一時間ほど待っていっただきますか、代わりにアイスコーヒーをご注文していただきますか……」
 那珂川さんの謝罪に、尾妻は気を悪くせず答える。
「ああ、そうですかあ。タイミングが悪かったですね。わたしコーヒーは苦手なので、またあとにしようと思います」
 踵を返そうとする尾妻を、那珂川さんが呼び止める。
「尾妻様、こちらは無料サービス外ですが、二階奥に自動販売機コーナーがございます。そちらでしたアイスティーが」
 尾妻が振り返る。
「……午後ティーですか」
「……午後ティーです」
 ふたりのあいだでなにかしらの合意がおこわれたようだった。
「ありがとうございます、那珂川さん。それから、図書室を利用してもいいですか? 田原くんに『零号かめれおん』があると聞いたので」
「構いませんよ。鍵は開いておりますからご自由に。『零号かめれおん』は厚い本で目立ちますから、すぐわかると思います。ただし、取り扱いにだけはくれぐれも注意してくださいね」
「ええ、もちろんですとも」
 尾妻は軽い足取りで戻っていった。
「あの、那珂川さん」
 ぼくは聞いた。
「なんでしょう」
「『零号かめれおん』、とはなんですか」
「なんとなんと、ここに来たのにそれを知りませんでしたか」
 意外そうな顔をしていたが、那珂川さんは気前よく教えてくれた。
『零号かめれおん』とは、戦後の怪奇・探偵小説マニアが、実際に自分で起こした事件の手記を整えて出版したもの、いわば人殺しによるノンフィクションの犯罪小説だという。
 出版後その事実と描写が問題になり、執筆者は逮捕。小部数の出版ながら、『かめれおん』は回収騒ぎになった。しかしその噂はマニアのあいだだけに残った。いわく、人心を乱す本だという。戦前には読んだら発狂する小説もあったので、そういうこともあるのだろう、とぼくは思った。
 ぼくが浴場についたのは六時二〇分ごろだった。


 身体を洗い、浴槽に浸かる。どんな疲れも湯に溶けてしまいそうだった。京都の狭い下宿と違い、足を伸ばせるのが心地いい。露天風呂へのドアもあったが、見たところ外は吹雪いているので、そちらに行くのはやめておいた。
「うーす」
 しばらくたったあと、住吉が脱衣所のドアを開けて入ってきた。
「あれ、案外来るの早いね」
 ぼくが言うと、住吉は肩をすくめて風呂いすに座った。
「部屋番、思ってたよりも退屈だった。あ、お前のために来たわけじゃないん」
「妙な言い方はやめてくれ、気持ち悪い。そういうのいらない世話だよ」
「はいはい」
 と住吉は桶に湯を入れながら、妙な顔をしている。
「ん、どうしたの?」
「ああ……なんかさあ、変な客が来てたんだわ、黒尽くめの男」
「変な客? 証拠の残らない毒薬でも所持してた?」
「んなわけあるか。服はサラリーマンみたいなコートなんだけど、シャツまで黒いんだよ。もちろん靴下も黒。顔は『マトリックス』のモーフィアスみたいなサングラスにマスクで、全然見えんかったけど、訳ありなのかね。お前とはまた違う雰囲気だけど」
「……ふうん」
「あ、信じてないだろ……ってなんだ」
 急に浴槽や桶に入っている湯がちゃぷちゃぷと揺れはじめた。
「……わわっ」
地震だな」
 揺れは自分でも感じられるくらいにすぐ強くなった。ドア横に積んであった湯桶がからからと音を立てて崩れた。浴槽の湯は波のようにうねっている。たっぷり五秒ほどたってから、ようやく揺れは収まった。ぼくはふう、と息をついた。なぜか揺れているあいだ、息を止めていたのだ。
「お客様、お怪我はございませんかー」
 那珂川さんの声が聞こえた。
「大丈夫ですよ、特に怪我はないです」
 ぼくは大声で答えた。そのすぐあとに、わたしも大丈夫です、とくぐもった声が聞こえた。女湯のほうからだろう。たぶん野谷の声だ。
「わかりました。またなにかあればお知らせいたしますので」
 ぱたん、ぱたん、と那珂川さんが去っていく足音が聞こえる。
「……さすがに驚いたな」
 住吉が言う。ぼくはうなずいた。
「……お風呂に入ってるときに地震にあうなんて、はじめてだよ」
 ぼくは湯船に顔を半分だけ沈め、ぶくぶくと泡を立てる。もうくつろげる気分ではなくなっていた。それから一〇分ほどしたところで、住吉を置いて浴場を出ることにした。男湯の暖簾をくぐったさいに携帯の時計を確認すると、六時四〇分になるところだった。


 もしかして地震にビビったのはぼくだけなんじゃないか、と思うほど、ペンション内は落ち着いていた。ロビーの前を通ると、相変わらず村野が文庫本を読んでいる。テレビの画面上には「震度五」というテロップが映っていた。
那珂川さんは?」
「夕食の準備だと」
 村野がぼくのほうを見ずに答える。食堂の方からなにやら忙しそうな音が聞こえる。邪魔をしては悪いなと思い、そのまま二階にあがろうとする。
 そのときちょうど田原くんが上からおりてきた。
「あれ、どうしたの?」
「さっきの地震で怪我してる人がいないかと見てまわってたんです。一階はオーナーで、二階は俺が」
「ああ、なるほど。大事なさそうだった?」
 僕がそう聞くと、田原くんは気落ちした表情をみせた。
「軽くノックして回ったんですけど、ほとんどみなさんどの部屋も鍵が閉まってて返事なくて。もしかして無視されてるのかなって……」
 案外ナイーブな子だったのか、この子。あわててフォローする。
「いやいや、そうじゃないと思うよ。ってかぼくたちの部屋、いまだれもいないと思うし。船入さんと本橋さんも、熱心に仕事してるか、疲れて仮眠でもとってるんじゃないかな」
「お客様のほうが把握できてるって、従業員としてダメダメですよね……」
 フォローが裏目に出てしまった。
「え、あ、いや」
「せいぜい俺はお茶くみ係が限界なんですよ……」
 田原くんはとぼとぼと歩いていってしまった。ぼくはなんとも言えない罪悪感を覚えた。あとでうまいフォローの仕方を考えておこう。
 それから二階にあがったところで、なんとなく喉の渇きを覚えた。
「そういえば自販機があるって言ってたな……」
 奥、というとどのあたりなのだろうか。適当に歩いてみる。広いペンションではないので、すぐにそれは見つかった。
「缶があるといいんだけど……結構充実してるなあ」
 尾妻が飲もうとしていた午後ティー(甘いストレートティー)のペットボトルをはじめ、緑茶、烏龍茶、缶コーヒー、スポーツドリンク、炭酸飲料、ミネラルウォーターなどなど、幅広い選択肢が用意されていた。
 ぼくは意気揚々とポケットに入れていた小銭を投入する。
「どうしようかな……あれ」
 投入した硬貨は受け付けられずに吐き出されている。再度入れなおすが、やはりまた吐き出される。もしやと思い、投入金額表示のところを見ると、『ERR』の文字。すなわちエラー、故障中の意だ。
「……うそだろ、エラリイ」
 じゃんけんのことといい、つくづく運のない男だとわれながら思った。また口にしてから気づいたが、エラリイの綴りはE、L、Lとつづく。恥ずかしいミスだった。


 そのまま部屋には戻らず、すぐ横の図書室に寄ってみた。那珂川さんの言う『零号かめれおん』というやつが、どんなものか気になったのだ。
「あれ、だれもいない」
 ドアを開けてみると、六畳くらいの部屋で、背の高い本棚がいくつも並んでいる。部屋の隅には机と、卓上ランプがあった。壁には小さな時計がかかっている。六時四五分だ。
 棚のほうに目をやると、横溝正史の黒い背表紙がずらりと並んでいる。壮観だ。江戸川乱歩大下宇陀児海野十三小酒井不木小栗虫太郎……。どうやらオーナーは探偵小説のファンらしい。
「これ、塔晶夫版の『虚無への供物』じゃないか……」
 ところどころにマニアックな本もあって、見ていて面白い。が、本のならびのなかになぜか、辞書サイズほどのスペースがあった。だれかが借りていったのだろうか。そう思ったとき、ふと後ろに視線を感じた。
 振り返ると、図書室のドアが開いていて、そこに見知らぬ男が立っていた。室内なのに黒のトレンチコートを着込み、そのなかのシャツまでも黒い。表情はサングラスとマスクで隠れていて、何を考えているかわからない。
 ふと男の手に、四角いなにかが握られていることに気づく。
 その黒い足が一歩前に出る。ぼくは思わず後ずさった。なぜかそこだけ床がひんやりと湿っていて、心臓が縮み上がりそうになる。
「な、そ、それ……」
「本です」
「えっ」
 一瞬レンガのブロックかなにかに見えたそれは分厚い文庫本だった。そこでぼくはようやくこの人物こそ、住吉が言っていた「変な客」なのだと気づいた。
「あの、あなたは……?」
 僕が訊ねると、男はサングラスをはずさないまま、答える。
「ここの宿泊客です。です」
「さ、栄さんも『黒姫伝説』のことを調べに?」
「いいえ」
「それじゃあスキーとか温泉の行楽ですか?」
「いいえ」
「……か、風邪を引いているんですか?」
「いいえ」
「……は、はは」
 なんだかとっつきにくそうな人だ。見た目のこともあるけれど。
「……これ、高そうなランプですよね」
 気まずい雰囲気だったので、目に入った卓上ランプのスイッチを押してみる。いかにもアールデコといった雰囲気の一品だ。
けれども、いっこうに明かりがつかない。電源コードは奇妙にのたうっていたが、プラグはちゃんとコンセントに刺さっていた。たぶん電球が切れているのだろう。
「…………」
栄さんのほうを見たが、向こうはノーリアクションだった。
「そ、それじゃあ、ぼくはそろそろ失礼しますね」
  これ以上一緒にいても、さらに気まずい状態になるだけだ。ぼくは図書室を出ると、そのまま自分の部屋に向かった。


 部屋で暇つぶしにもってきた本をベットに置いて読んでいると、一階のロビーの柱時計の音が聞こえてきた。重く響く音が七回繰り返される。七時だ。
 そろそろロビーに降りようかと考えているところで、ドアがノックされた。
「……わたしです。野谷です」
 野谷がぼくになんの用だろう、と思いながら外開きのドアを開ける。野谷はお風呂のあと、浴衣に着替えたようだった。片手に持っている鞄には先ほどまで着ていた服が入っているのだろう。
「あれ、部屋に戻ってないの?」
「尾妻さんがいなくなっちゃったんです。鍵を渡したままで」
 なるほど。それで自室に戻れないということか。
「でも、いなくなるって、どこに?」
「……わからないですけど、どこにもいないんです。このペンションのだいたいのところは回ったんです……でも見つからなくて」
「うーん、わかった。ちょっと待ってて」
 不安そうにしている友人をほうっておくわけにもいくまい。ぼくはいったんドアを閉めると、旅行鞄から濃いグレーの靴下を取り出して履いた。尾妻が外に行ったということはないだろうけれど、念のためだ。部屋の鍵をズボンのポケットに突っ込み、ドアを開ける。
「おまたせ……ってうあ」
 足が冷たい。見ると、廊下の床一面が水浸しになっていた。
「どうなってるのさ、これ。さっきまでこんなのなかったのに」
「さっきの地震のせいで二階の共用トイレから水が漏れ出してるって言ってました。いまは田原くんが直してるみたいです」
 靴下がまたびちょびちょになってしまったが、もう気にしないことにした。野谷のほうだってずっと裸足で廊下で待っていたのだから。
「とりあえず、もういちど一階から探してみよう」
 ぼくと野谷は一階に降りて、尾妻を探したがどこにもいなかった。靴箱には彼女のブーツが残っていたので、外に出ていることは考えられなかった。
 となるとやはりいるのは二階のはずだ。まず自分たちの手で探せるところを探したあと、ぼくは船入さん、本橋さん、栄さんの部屋を訪ねてみた。
 船入さんと栄さんの部屋からはノックの返事がなかった。本橋さんだけは眠そうな顔をして出てきた。そのさいに水浸しの床を踏んづけてしまい、靴下が全滅したことを悔やんでいた。尾妻を見ていないかと聞いたが、その答えは芳しくなかった。
 そのあとすぐ、風呂から出てきたのか、ジャージに裸足姿の住吉にも会ったが、彼も尾妻を見てはいなかったという。
 ぼくと野谷は水浸しの廊下で残りの可能性について考えていた。
「もしかして……外に出たんじゃあ」
 野谷が青い顔をして言う。
「まさか。外に出るなんてありえないよ。靴もあったし」
 外は氷点下の世界だ。それに吹雪はまだおさまっていない。この状況で裸足で出るなんてただの自殺行為でしかない。
「でも……」
「あれ、どうしたんすか。ふたりして」
 修理を終えたのだろうか。工具を手にした田原くんがやってきた。そこでぼくはあることに思い至る。最後に尾妻を見たのは、いったい誰なんだろうか。
「ねえ、田原くん。さっきの地震のあと、尾妻を見たかい?」
「尾妻様ですか? 見たというか、聞きはしましたけど」
 妙なことを言う。
「それは、どういうことですか」
 ぼくと同様に、それを不思議に思った野谷が聞いた。
「尾妻様を見た、いえ、聞いたのは地震のあと、図書室でした。ドアを開けようとしたら、開かなかったんです。ふだんは鍵を閉めていないので、妙だなと思って。『だれかいませんか』と言ったら、ドアの向こうから『はあい』と尾妻様の声が聞こえました」
 ぼくと野谷は顔を見合わせる。
「そのあと、『大丈夫ですか。お怪我はありませんか』と聞いたら『なにも問題ありませんよ』と返ってきました。……これでいいですかね」
「うん。変な質問に答えてくれてありがとう」
 いえ、と軽く頭を下げ、田原くんは一階におりていった。
 尾妻は図書室にはいた。けれど、ずっとそこにいたわけじゃない。ぼくが入ったとき、すでに人の気配はなかったからだ。
「……田原くんの話、変じゃないですか」
 ぼくが考えていると、野谷がふとつぶやいた。
「えっ、なにが」
「尾妻さんの受け答えです。『大丈夫ですか』っていう問いかけに『問題ありません』って。まるで自分を物みたいにして言ってるじゃあないですか」
「まともな受け答えじゃないってこと? それじゃあ……」
 そう言ったぼくの頭のなかに、ある映像が浮かんだ。
 もし、あのときの地震で、尾妻が頭を打っていたとしたら……。喋ることができるレベルで。けれど、正常な判断はできないくらいに。
 頭を打った尾妻は立つこともままならず、ドアにもたれている。そこに田原くんがやってくるが、彼女自身が重しになっているため、鍵が閉まっていると勘違いする。尾妻はぼんやりとした頭で、まともじゃない受け答えをする。そののち、ふらふらと廊下にさまよい出る。そして自分の部屋に戻り、無意識のうちに鍵を閉める。そしてすぐに気を失って――。
「まずい」
「えっ?」
 その瞬間、ぼくは駆け出していた。階段をおり、食堂から厨房へ向かう。
那珂川さん! マスターキーはどこにありますか!」
 夕食の準備をしていた那珂川さんは戸惑った顔をしていた。
「あ、え、はい……。わたしがもっておりますが」
「貸してもらえますか。もしかしたら友人が、脳震盪を起こして倒れているかもしれないんです」
 その言葉で、那珂川さんの表情が変わった。
「……わたくしも参ります」


 那珂川さんがマスターキーを突き刺し、回す。二〇五号室のドアが開いた。ひどく冷たい空気が吹きつけてくる。
「尾妻さん!」
 野谷が一番に入っていく。その後ろにぼくがつづく。部屋の窓が開いていて、そこから風と雪が入ってきているようだった。
「え……?」
 どうしてか、この部屋の床も水に濡れている。どの客室も廊下より一段高くなっているのだから、外から水が入ってくることはないのに。それに窓から吹き込んだ雪が溶けるくらいでは、ここまで濡れることはないはずだ。
 けれどいまは、そんなことを考えるときじゃあない。
 ツインのベッドが見える。その奥、窓の下。野谷がなにかを抱えて叫んでいる。茶色い髪、生気の感じられないほどに白くなった顔。人形のように力なく投げ出された四肢。そしてその首には、赤い筋が残っていた。
 七時一〇分すぎ。ぼくたちは尾妻の死体を発見した。


 宿泊客全員が食堂に集まっていた。ほかの人たちに尾妻が部屋で死んでいたことを伝えるため。そして、これからどうすべきかを考えるために。
 重苦しい空気のなか、電話を終えた那珂川さんがサンダルで足音を立てながら戻ってきた。全員の視線が彼に降りそそぐ。
「……警察は、明日まで来られないそうです」
「どういうことですか。警察が来れないって」
 静かだが、強い口調で住吉が聞いた。
「さきほどの地震による雪崩がおきたらしく、ここへの道が通れなくなっているそうです。復旧は早くても明日、夜が明けてからだそうです」
「……まじかよ」
陸の孤島、やな」
 村野がぼそりと言った。ぼくはその言葉にはっとする。そうだ、これは吹雪の山荘じゃないか。ぼくたちはいま、推理小説で何度も読んだ状況とほとんど同じ目にあっているのだ。
「……ちょっと待って。警察ってどういうことなの」
 船入さんが那珂川さんの言葉の意味に気づいたようだった。本橋さんがはっと気づいた表情をする。
「つまり、尾妻さんは……殺されたって言いたいのか」
 村野がぼくに目配せする。死体を直接見たのは、ぼくと野谷と那珂川さんの三人だ。ならばここは、ぼくがちゃんと言わなくちゃいけない。
「尾妻の首に、赤い筋が残っていました。それから、吉川線も」
「吉川線?」
 船入さんが、怪訝そうな顔をする。
「はい。他殺の証拠みたいなものです。首を絞められたときに、それを外そうとして自分の手で首に傷を……いえ、すいません」
 実際に想像したのか、苦々しい表情になったのでぼくは説明をやめた。
「あの……、さっきからずっと気になっていたんですけど……」
 野谷がおずおずと手をあげる。みんなの視線が彼女に集まる。
「……黒姫って祟るんでしょうか?」
 ぼくは息を呑んだ。祟り。ひどくこの場所に不釣り合いな言葉だ。
 野谷はうつむきながら、ぎゅっと両手を握りしめる。
「廊下が水浸しになってたの、伝説にでてくる洪水に思えませんか。今日は吹雪で、地震で、雪崩だっておきてます。それに、尾妻さん……自分のことを『姫』って言ってました。だから蛇に襲われて、首を、絞められたんじゃあ……」
「たしかに、尾妻の首を絞めたのはロープ状のものだと思うけど、そんな――」
「――非科学的にもほどがあるだろ」
 住吉がぼくの言葉を奪うように言った。
「野谷は偶然を結びつけすぎてるぞ。だいたい伝承には地震なんてなかったじゃねーか。発端となる蛇もおれたちは見てねー。冬眠中だろうしな」
「……せやな、殺人はあくまで人為的なもんやろ」
 村野も住吉に同意する。過剰に想像力を膨らませてはいけない。それでは推理にはならない。なんでもありになってしまう。
「あの、人為的っていうと、地震のあとのトイレの水漏れなんですけど」
「あれもだれかの仕業だったの?」
 船入さんが疑うような目線を向けた。田原くんは、いえ、と言い添える。
「それは地震のせいで間違いないです。でも水漏れの量と、廊下にあった水の量が、どうもつり合っていないように思えるんです。地震がおこるより、ずっと前に漏れはじめていないとあそこまでは濡れないんです」
「……じゃあ、地震の前から漏れてたんじゃない?」
「でもそれはありえないんです。だって俺は船入様と本橋様のふたりが飲んだアイスティーのコップを回収したついでに、二階のあのトイレを使ったんですから。たしか六時二〇分でした。水漏れはありませんでした」
 ぼくは水浸しになった二階の廊下を思い出す。たしかにあれは、だれかがバケツでも使って振り撒いたのでは、と思える量だった。それに二〇五号室のほうの問題もある。あれはどう考えても水漏れによるものではない。
「……そ、それじゃあ、見立て殺人ってことになりませんか。これ」
 本橋が青ざめた顔でつぶやいた。そのタームにぼくは動揺する。
 見立てだって? わざわざなんのために……。 
「恐怖演出、犯人からのメッセージ、捜査のかく乱、あるいはただの趣味か」
 ぼくの心を読んだのかのように、村野が見立ての目的を例示していく。
 そのすぐそばで、那珂川さんが困惑した表情を見せる。
「そんな、見立て殺人だなんて。推理小説じゃあないんですから……」
 ぼくは考える。見立て。それがこの事件にどんな意味をもたらすのか……。
 そこで、住吉がわざとらしく大きく息をつく。
「……それはいま考える必要のあることか?」
 ぼくのほうを見て言った。そうだ、まず落ち着かなくてはならない。ぼくは言い残していたもうひとつの話題に触れようとする。
「みなさん」
 全員が喋るのをいったんやめ、ぼくのほうを向いた。
「二〇五号室の鍵はまだ見つかっていません。部屋の窓は開いていましたが、犯人はこの建物のなかに潜んでいる可能性があります」
「……どういうことだい?」
 本橋さんが聞いた。ぼくは詳しい説明に移る。
「これは外部犯の仕業という前提になりますが。犯人は外に逃げたとみせかけた可能性があります。外はまだ吹雪いていますし、なにより雪崩で逃げ道がなくなっています。凍死や遭難を防ぐとしたら、ここにいて朝までやりすごすのが一番の安全策なんです。つまり……」
「人殺しがこの建物にいるかもってことやんな」
 村野が大きく伸びをしながら言った。また、全員が押し黙る。
 ロビーから柱時計の鐘が聞こえてきた。それぞれの頭に、重くのしかかってくるような音だった。一、二、三、四、五、六、七、八回。……八時だ。
「……なあ、家探し、してみないか」
 沈黙をやぶったのは住吉だった。
「尾妻を殺したやつが隠れているっていうんじゃ、安心して寝ることもできないだろ。だったらおれたちから見つけにいって、捕まえればいいじゃねーか」
「そ、それは危険ではないでしょうか……」
 戸惑う那珂川さんを住吉は否定する。
「いいや、隠れてるくらいなら、おそらく敵は単独犯ですよ。こっちは九人。それにもし見つからなければ、戸締まりをしっかりすればいいだけの話ですよ」
 

 家探しは一階と二階の二組に分かれておこなうことになった。まとまっている人数が減るのは嫌だったけれど、だれもが早く安心を手にしたかったのだ。
「では、二階はわたくしと本橋様と斉藤様で」
「はい、一階は俺たちがやりますから」
 那珂川さんの言葉に、住吉がうなずく。その後ろには村野と田原くんが立っている。野谷、栄さん、船入さんの三人はロビーで待機だ。正直、得体のしれない栄さんを女性二人と一緒にしておくほうが危ないんじゃないかと思ったが、船入さんは平気そうだったし、野谷もさきほどより落ち着いているようだった。
 これなら、たとえなにかあっても大声を出してくれるだろう。
「それじゃあ、またあとで」
 ぼくたちはお互いの無事を祈りながら別れた。
 一列になって、階段をのぼる。先頭は本橋さん、次にぼく、しんがり那珂川さんだ。それぞれ心許ないが、ほうきやモップを手にしている。ぼくだけはどうせまともに使えないからいらないと言ったのだけれど、那珂川さんに、犯人を威嚇するにも十分使えるからと言われ、無理やりもたされた。
「こんなんで、大丈夫なんですかね……」
 つい不安が口からこぼれてしまう。気持ちが下向きなせいか、足元に視線が落ちる。本橋さんの白い靴下が階段を踏みしめている。ぎし、ぎし、と一歩ごとに鳴る音が、やけに耳に残る。
「そんな、きみたちが言い出したんだから、不安にさせないでくれよ」
 本橋さんもぼくにつられて不安そうな声をだす。
 ぼくは慌ててそれをフォローする。
「……は、はい、そうですよね」
 二階にあがると、相変わらず廊下は水浸しだった。また靴下に水が染みこんでくる。濡れていないのは、サンダルを履いている那珂川さんくらいだ。
「……それじゃあ、まず一部屋ずつ探していきましょうか」
 那珂川さんがマスターキーを取り出す。二階には、客室が六つ、図書室、それから倉庫と共用の小さなトイレがある。
 これから客室を含むすべての部屋を調べていく。まず、二〇一号室。船入さんの部屋だ。女性の部屋なので気が引けるが、どこに犯人が隠れているかわからない。
 鍵が差し込まれる。かちゃり、と音がした。那珂川さんがノブを握る。ぼくと本橋さんは顔を見合わせる。モップとほうきとがドア前にかざされる。
 ドアがゆっくりと開いた。
「――ッ!」
 部屋のなかに駆け込むが、人の気配はない。息をつく。嫌な汗をかいた。
 トイレ、バス、クローゼットと、人が隠れそうな場所を片っ端から探していくが、特になにも見つからなかった。
 ほかの部屋も同じように探してみたが、なにも成果は得られなかった。
「あとは図書室とトイレと倉庫ですね」
 ひと通り終えたあと那珂川さんが言った。そこでぼくはあることを伝え忘れていたことに気づいた。
「あの、言い忘れてたのですが、自販機が故障してるみたいなんですよね」
 図書室横の自販機を見る。無機質な光をたたえているが、『ERR』の文字は変わらない。那珂川さんは試しに百円を入れてみたが、やはり吐き出される。
「そのようですね……いつからでしょうか?」
「図書室に入る直前だったので、六時四五分くらいですかね。そのときにはもうお金を受け付けなくなってましたよ」
 僕の返答に、那珂川さんは顎髭をなでながら唸った。
「……ご迷惑をおかけしました。明日には業者を呼びますので」
「なにしてるんですか、はやく図書室に入りましょうよ」
 脳天気な会話に聞こえたのか、苛立たしげな声で本橋さんに呼ばれる。ついでに自販機横のゴミ箱を見たが、なかは空だった。
 図書室はさきほど来たときと変わらないようすだった。本棚に机、卓上ランプ。ぼくは田原くんの話を思い出していた。
「ここって普段は鍵を開けているんですか」
 那珂川さんがうなずいた。
「ええ、みなさまに使っていただけるように、毎日チェックイン時間の前にかかさず掃除をしております。本は多少古臭いですが、わたくしの趣味でして」
「そうですか……」
 ぼくはノブのサムターンを回してロックを確認してみた。部屋の内側であれば、ドアは素手でもロックできる。考えてみると、尾妻を見つける前のぼくの思いつきは、外開きであるこのドアではありえなかった。田原くんがドアを開けられなかったのは、ほんとうに鍵がかかっていたからなのだろう。
「あれ、このゴミ箱は?」
「そちらもいつも掃除のあとには空にしていますよ」
 那珂川さんが本棚の下を確認しながら答える。ゴミ箱のなかを覗くと、大量のティッシュが捨ててあった。いくつか手に取ると、茶色く変色しているものがあった。十分に湿り気を残している。
 ぼくはそこで、栄さんとの問答を思い出した。
「そうだ、ランプの電球っていつから切れてました?」
 部屋の奥へと進んでいく。床はもう湿ってはいなかった。自然に乾いたのだろう。ついでにそばにあった小さな窓に目をやる。はめ殺しになっていたので、開けることはできなさそうだ。
「つい先日替えたばかりですが……。もう切れているのですか?」
 那珂川さんが不思議そうに答える。ランプの電源コードは、さきほどと変わらずのたうった状態で壁のコンセントに刺さっていた。客室と違ってケーブルカバーで固定されていないのは、自由に動かせるようにするためだろう。
「電球ではないとしたらほかに原因があるはずですけど……あれ、もしかしてこれ、歪んでますかね」
 よく見ると、ランプのかさの根元、首にあたる部分が本来の可動域とは違う方向に曲がっていた。そしてそのかさの一部分、模様と見間違えそうだったが、赤いものがついている。これはもしかしなくても、血だ。
「ああ、そんな、今朝はいつもどおりでしたのに……」
 那珂川さんは急に顔色を変え、ぼくから奪い取るようにランプを手に取った。人死によりもアンティークが大事なのか、この人は。
 さらにその直後、那珂川さんはなにかに気づいたように奇妙な形相を浮かべ、本棚へと向かっていく。そして、すぐに奇声をあげた。
「アイエエエエ! カメレオン! カメレオンナンデ!」
「ど、どうしたんですか!」
 本橋さんが慌てて駆け寄った。那珂川さんは口をパクパクさせている。
「……ぜ、『零号かめれおん』が、なくなっているんです……」
 那珂川さんは震えながら人差し指を突き出す。棚に並んでいる本のなかに、ちょうど辞書一冊分ほどの隙間があった。ぼくが前に来たときに、だれかが本を借りているのではと思っていたスペースだった。


 意気消沈している那珂川さんを支えながら、ぼくたちは残りの部屋を回った。倉庫もトイレも、人の隠れる余裕はなかった。けれどぼくたちにはまだひとつ、確認していない部屋があった。尾妻の死体がある二〇五号室だった。
「調べましょう。もしかしたら『かめれおん』もここにあるかもしれませんし」
 ぼくは元気づけるように言った。那珂川さんは弱々しくうなずいた。
 ドアを開ける。窓は閉めたので、もう雪が吹き込んでくることはない。濡れた床を進んでいくと、さきほどと変わらない尾妻の姿があった。
「う……」
 本橋さんが苦々しい顔をする。見慣れるものではない。ぼくはなるべく死体であることを気にしないように、尾妻のところまで歩いた。
 首もと。赤い筋に交わるようについた傷がある。吉川線だ。服に乱れはない。ここに来たときと同じ服装。けれど、どこか妙だった。
 淡いクリーム色のスカートに、茶色い染みが点々とついている。スカートの端にはもっとあからさまに染みが残っていた。今日ここに来たときには、こんな汚れはなかったはずだった。
「どう思います?」
 ぼくはおそるおそる近づいてきた本橋さんに言った。
「……午後ティー、ですかね」
「ああなるほど。そうかもしれません」
 たしか尾妻は午後ティーを買いに行っていたはずだ。もしかしたら犯人と争ったときにこぼして、服についてしまったのかもしれない。いや、衣服に乱れはないんだからそれはおかしいか。
 そして死体にはもうひとつ、気になる点があった。
「これは……打撲痕、かな」
 後頭部にあきらかに傷が残っている。出血はほぼない。素人目だから正確なことは言えないものの、犯人に殴られて態勢を崩されたあと、首を絞められたと考えるのが自然だろう。それなら衣服に乱れがないのも納得できる。
 ぼくは那珂川さんを見た。ベッドに座り、気の抜けたようになっている。
「これ以上調べても、なにもわからないと思います。そろそろ戻りましょう」
 本橋さんもうなずいた。ぼくたちは一階へと戻っていった。


 全員がまた食堂に集まり、それぞれの成果を伝え合った。結局、なにも出てこなかったことだけがわかった。そして、この建物の戸締まりはしっかりしていて、ほとんど外部犯の可能性が削られたことも。
「……残るは、外やな」
 村野が玄関のほうを見て言った。
「だれが行くか? ……オーナーは、無理そうやな」
 那珂川さんはうなだれて椅子に座っている。落ち着くまでは、ほうっておくべきだろう。村野が見回すと、栄さんが手をあげた。
「なにもしてないので、やりますよ。このままだと変に疑われそうですから」
 相変わらず表情が読めない。マスクの下はにやついているようにも見えるし、いらついているようにも見える。
「……俺も行く。言い出したのは俺だからな」
 住吉が立ち上がる。尾妻の部屋を見ている人がいないので、ぼくも右手をあげた。外からも部屋を確認しておくべきだ。
「あとひとりくらい欲しいな。田原くん、オーナーの代わりにペンションの周囲になにがあるのかを教えてくれないか」
 田原くんはわかりました、とうなずいて立ち上がった。

 
 外は相変わらずひどい吹雪だった。雪に足をとられて、まともな歩き方を忘れそうになるだけじゃなく、視界までもが判然としない。服の隙間から冷気が入り込んできて、みるみる体温が奪われていくのを感じる。
「これじゃあ、足跡があったかどうかなんてわかんねえな、くそ」
 住吉が大声をだして毒吐く。小さな声ではまわりにも聞こえないのだ。
「とにかく現場の窓の下まで行こう。なにか残っているかもしれない」
「ああ、そうだな」
 数歩前に進むだけでも、かなりの重労働だ。ぼくたちは積もった雪をぼすぼすと踏み潰しながら進んでいった。
「あそこが、二〇五号室です」
 しばらく歩いたところで、田原くんが言った。指をさす先に明かりが見える。部屋の電気はつけたままだ。
「はしごでもあればのぼれそうですが……」
 栄さんが口を濁す。言いたいことはわかる。この吹雪のなかでは、窓のところにはしごをかけたとしても、すぐに倒れてしまうだろう。
「さっき家探ししたときにはしごを見たけど、ほこりがついてたから厳しいな」
 住吉が言う。となると、はしごの可能性はなさそうだ。ぼくはあたりを見回す。時間がたっているものの、この周囲には人が立ち入ったようなあとは見られない。窓から飛び降りたりすれば、さすがにその痕跡は残るはずだ。綱などを使っておりた可能性もない。さっき部屋を確認したときに、引っ掛けられそうなところやその跡は見当たらなかった。
「……戻ろう。もう見るところはなさそうだ」


 玄関から食堂に戻り、成果がなかったことを伝える。結局、犯人は見つからずじまいだった。みんなの空気が暗くなっているのは前からだったけれど、いまはもっとべつのなにかが漂っていた。
 船入さんが辛抱できないといったふうに立ち上がった。外を見てくる前よりもあきらかに居心地悪そうにしている。
「……ねえ、やっぱり本当は祟りなんじゃないの?」
「ど、どうしたんです? いったい」
 ぼくは戸惑う。いままで割とまともな考えをしていたはずの船入さんが、そんなことを言うなんて。となりの住吉もひるんでいた。
「『零号かめれおん』がなくなったって聞いた。ほんとはこれが原因なのよ」
「わけがわかりませんよ。稀覯本と祟りがどうして結びつくんですか」
 戸惑う住吉に、那珂川さんが諭すように言う。
「『零号かめれおん』の表紙は蛇なのです。自分で自分の尻尾を噛むという」
「でも西洋の蛇じゃないですか。……これも見立てだって言うんですか」
 違う、と船入さんが静かに言った。
「……どうして隠そうとするんですか、那珂川さん……あの本は、すでに何人もの人間を殺してるというのに」 
「本が、人を殺す……? どういうことですか」
 ぼくはふたりに訊ねる。那珂川さんは苦い表情をして黙っていた。
「あの本はね、持ち主を殺すたびに、コレクターのあいだを渡ってきた本なの。きっとあの子ね、あの死んだ子が盗もうとして、逆に殺されたんだわ。だとしたら、那珂川さん……次はあなたが殺される番!」
「……そんな、馬鹿言わないでくださいよ!」
 黒姫じゃなくて、本の祟り? もう、なにがなんだかわからなかった。
 それからしばらくして、ロビーの柱時計が重く、長く響いた。
 一、二、三、四、五、六、七、八、九回。……九時だ。尾妻の死体が見つかってから、もう二時間が過ぎようとしている。
「そんな迷信よりも、もっと現実的な考えがあるやないか」
 村野が疲れたように息をついた。
「ど、どういうこと、ですか」
 本橋さんがおびえた声を出す。村野は冷ややかに周りを見つめた。
「……このなかに、尾妻を殺したやつがいるんじゃないかってことや」
 全員が息を呑んだ。外ではなく、内に疑いが向いたのだ。
「尾妻が最後に生きていたと思われるのが、六時半すぎ。地震のすぐあと。それから死体が見つかったのが七時一〇分。この約四〇分のあいだが犯行時刻になるわな。この時間、だれがどこでなにをしていたか。整理しようや。本に手はない。呪われていようが、人の首なんて絞めれないんやからな」
 みんなそれぞれの意見はあったが、村野の意見に従うことにした。反対すれば、自分が犯人であるということを言うようなものだったからだ。


 まず、ぼく。地震のときは住吉といっしょに浴場にいた。そのあと二階にあがり、図書室へ。栄さんと軽く言葉を交わしたのち、自室へ。七時ごろ野谷がやってきて、ふたりで尾妻を探した。その一〇分後、死体になった尾妻を見つけた。
 次に、住吉。地震のときはぼくといっしょにいた。七時ごろまで風呂に入っており、自室に戻るところでぼくと野谷に会う。それから死体が見つかるまではずっとひとりで部屋にいた。
 村野。地震から死体発見まで、ずっと玄関ロビーでくつろいでいた。浴場に行ったあと、二階へ戻っていくぼく、住吉、野谷を見ている。地震のあとは、ロビーの受付で事務作業をする田原くんと一緒だったけれど、野谷が二階が水浸しであることを伝えるとそちらに向かったので、あとはひとりだった。死体発見直前、ぼくが那珂川さんを連れていったのを見ている。
 野谷。地震の前に鍵を図書室の尾妻に渡し、そのあとは浴場に。七時前に風呂を出て、尾妻を探すも、どこにもいない。水浸しの廊下を見て田原くんに伝える。そのあとも尾妻が見つからず不安になり、ぼくのところへ。死体発見まではぼくと一緒にいた。
 那珂川さん。地震のあとすぐに、一階の人に声をかけてまわる。そのあとはずっと厨房で夕食の準備をしていた。その音だけは村野がずっと聞いている。七時すぎにぼくが血相を変えてやってきたので、それに同行する。死体を発見。
 田原くん。地震のあとは那珂川さんに言われ、二階の見回りをした。どの部屋も鍵がかかっていて、返事はなかった。図書室で尾妻の返事があったが、鍵がかかっていた。そのあとはロビーで事務作業をし、七時前に野谷に呼ばれたので水漏れの原因であったトイレを直していた。廊下をタオルで拭こうと一階に取りに行くと、血相を変えたぼくが来て、那珂川さんを連れていったのを見ている。死体発見時は一階にいた。
 栄さん。地震のすこし前にペンション『かめれおん』にチェックイン。自室で休んでいた。それから図書室に行き、ぼくと会う。特にめぼしい本がなかったので、すぐまた自室に戻る。死体発見時までずっとそこにいた。
 船入さん。ちょうど六時二〇分ごろまで、部屋で本橋さんと明日の取材の打ち合わせをしていた。飲み終わったアイスティーを田原くんに渡したあと、部屋で音楽を聞きながらパソコンで作業をしていた。地震は東京の職場で慣れていたし、気にしていなかった。イヤホンをしていたのでノックにも気づかなかった。死体発見時までずっと部屋にいた。
 本橋さん。二〇分ごろまで船入さんの部屋で打ち合わせをしていた。そのあと疲れたので、ずっと部屋で寝ていた。地震には気づかなかった。七時すぎ、ぼくと野谷のノックの音で目が覚める。そのあとは死体発見時まで自室にいた。


 全員の証言を整理すると、だれもが犯行可能だったように思える。みなもっているのは一時的なアリバイであって、完全なものはなかった。犯人以外はみんな、自分は犯人ではない、という主観的な根拠をもっているとしても、だれかが嘘をついている以上、そこに意味はないのだ。
 食堂の雰囲気は最悪だった。お互いのアリバイを確認し合うだけで、こんなにもギスギスしてしまうとは思わなかった。
「……こんな、お互いを疑うなんてことやめませんか。温かいものを飲んで落ち着きましょうよ」
 みんなをなだめようと那珂川さんが、紅茶を持ってきてくれた。
「ふざけないで」
 船入さんが彼をにらみつけた。
「もしあなたが犯人だったら、毒を盛ったかもしれないじゃない」
「そんな、わたくしはただ、こんな空気がつらいだけでして……」
 困惑する那珂川さんの横で、住吉が当然のように口を開く。
「べつに疑ってるわけじゃなくても、こういう場所ではこうするっていう決まりがあるじゃないですか。みんなそれに習うだけですよ」
「……じゃああれやな、一人で部屋に戻ったりするんか?」
 村野が淡々とした口調で住吉をなじる。
「おう、言ってやるよ。こんな場所にいられるかってな」
「落ち着け住吉、このなかで確実に犯人でないやつはいる。絞殺死体やからな」
 村野がそう言った。ぼくは顔をあげる。村野と目が合う。住吉も自分が苛立っていたことに気づいたのか、唇を噛みしめていた。このふたりには、ぼくを信じるに足る理由がある。なぜならぼくは尾妻を殺せないから。
 けれど、たとえ信じてくれる相手がいても、ぼくはまだ正しい推理を導き出せていなかった。全員にアリバイがない。肝心の鍵がないので密室とも呼べない。これでは犯人を絞る方法がない。見立てからは、犯人の意図も読めない。
 落ち着いて、もう一度事件の全容を思い出す。ぼくはなにか、違和感のようなものを覚えていた。なにかが足りない気がするのだ。地震、水浸しの廊下、消えた『かめれおん』……。
「……黒姫も、もしかしたら、お酒をあげなければこんなことにならなかったのにって。そんな後悔をしていたんでしょうか」
 ぼくの横で、野谷が悲しそうにつぶやいた。そのとき、ぼくはまるで雷に打たれたかのように、ある考えが頭のなかを駆け巡った。
「……野谷、いまの言葉、もっかい言って」
「え?」
「いいから」
「黒姫も大蛇にお酒をあげなければって、後悔したんじゃないかって……」
 ぼくのなかで引っかかっていた部分が、みるみると氷解していく。
「そうか……そういうことだったんだ。事件は最初から最後まで、ぜんぶ伝説の筋書きどおりだったんだ!」
 犯人がなぜ、あんなにも手のかかることをしたのか。あらゆる出来事がすべてひとつにつながった気がした。
「あの……斉藤さん? 具合でも悪くしたんですか」
 ぼくは野谷の肩に右手を置いた。
「違うよ、犯人がわかったんだ」


 〈問題編・了〉


















 かめれおんの夜〈解答編〉
「違うよ、犯人がわかったんだ。この事件の犯人がね」
 ぼくはそう言った。どうしてこんな単純なことに気づけなかったのか、自分でも不思議なくらいだった。
「犯人がわかったって……どういうことですか」
「もちろん、そのままの意味だよ」
 戸惑う野谷にぼくは答える。住吉がそれに反応して、ぼくをにらみつけた。
「……おい、斉藤、冗談で言ってるんならやめておけよ。俺たちには全員、アリバイなんてものはねーんだぞ」
「もちろん、本気だよ。この事件を解く鍵は、不完全なアリバイでも、鍵の見つからないような中途半端な密室でもない。このフーダニットに必要なのは、だれが一番得をするのか、という視点なんだ」
「……おいおい、大丈夫か」
 村野が呆れた声を出す。
「動機なんて、フーダニットには一番必要ないっていつも言ってたやないか。ロジック派のお前が、どうしてそんなこと」
「いや、そうじゃない。必要なのは殺人の動機じゃないんだ。今回の事件で重要なのは、見立てをおこなって、だれが得をするのかってことなんだ」
「殺しを『黒姫伝説』に見立てることで、なにがあるって言うんだよ」
 住吉がいらついたように言う。ぼくはつづける。
「いまは便宜上、見立てって言ってるけど、犯人のねらいは、ぼくたちがこれを見立てと考えてしまうことにあったわけじゃない。けれどぼくたちは、ここになんらかの意味付けがあると思って、思考停止に陥りそうになっていた」
「……わたしが祟りって言ったように、ですか?」
 ぼくは野谷の言葉にうなずく。
「トイレの水漏れや、ぼくたちが尾妻を『オズの魔法使い』にかけて『姫』と呼んでいたことは、見立てに捉えやすいことだった。けれど、どちらも偶然のこと。それに黒姫伝説を知ってたからといって、犯人が絞られるわけじゃない。そんなの、ネットで検索すればいいんだから」
「……それじゃあ見立てのメリットはどこに?」
 船入さんが聞く。ぼくは改めて、ほかのみんなにも向けて言った。
「それを考えるために、尾妻の事件当時の行動を振り返ってみませんか。彼女を最後に見たのは野谷。そして最後に聞いたのは田原くんだった。そして、田原くんとの会話はあきらかにおかしかった。地震のあと、『大丈夫ですか』という彼の問いかけに、彼女は『なにも問題ありません』って答えたんです。鍵のかかったドアの向こうから」
「……それがこの事件とどうつながるっていうんや?」
 村野が腕を組みながら訊ねる。
「野谷はこの話を聞いて、『まるで自分を物みたいに言ってる』と考えた。ぼくはそこから、尾妻が脳震盪を起こして、まともに物事を考えられなくなっているんじゃないかと妄想した。でもこれは間違っていた。それならばもし『問題ありません』の対象が自分でなく、ほんとうに物のほうだとしたら?」
 ぼくは全員の表情を確認しながら話をつづけていく。
「思い出してください。尾妻さんは、図書室に『零号かめれおん』を読みに行きました。そしてその前には、午後ティーを買おうとしています。ちなみに、図書室のゴミ箱には茶色く変色したティッシュが、彼女の服には茶色い染みが残っていました。ぼくが図書室を訪れたとき、床はなぜか湿っていました。はめ殺しの窓で、外から雪が入ってくることはありえないのに」
「……まさか」
 那珂川さんが顔が青ざめた。彼はぼくの考えに気づいたらしい。
「そのまさかですよ。地震のときに尾妻は、午後ティーを床にこぼしてしまった。しかも『零号かめれおん』にかけてしまった。だからそれを知られたくなくて、とっさにドアに鍵をかけたんです」
 ぼくはひとつめの仮説を一気に述べた。
「ここまでは状況証拠からの推測にすぎません。もちろん、ほかの可能性だって考えることはできます。たとえば、尾妻は犯人にナイフを突き付けられていて、まともに喋れなかった、とか。でも凶器に刃物が使われていないことから、それは現実的とは言えないでしょうね。とりあえず、図書室で尾妻が午後ティーをこぼしたということを、頭の隅に置いておいてください」
 息を整えると、ぼくは次の仮説に移った。
「ここで、凶器と犯行現場について考えたいと思います。その鍵を握るのは、図書室にあったアールデコ調のランプです」
「ランプ? どうしてそれが?」
 船入さんが聞いた。
「ランプには血痕がついていました。しかも歪んでいて、壊れていた。尾妻の後頭部に打撲痕があったことから、このランプで犯人が殴ったことは間違いありません。そしておそらく、そのコードを使って尾妻の首を絞めたと考えられます。各部屋の電源コードにはカバーがかかって固定されているので、凶器には使えませんから。よって、殺害現場は図書室だったと考えられます
 加えて、とぼくは言って、推理を進める。
「ぼくが図書室に来たとき、ランプはもう壊れていました。栄さんも明かりがつかないランプを見ています。このことから、犯行時刻を絞ることができます。おそらく尾妻を殺したのは、地震から一〇分ほどのあいだ。犯人は田原くんがノックをしたとき、尾妻といっしょに図書室にいたことが推測できます
「いやしかし、どうしてそこまで断言ができるのですか? ノックのあとに犯人が図書室を訪れた、という可能性があると思いますが……」
 那珂川さんが困惑した表情で言った。ぼくは答える。
「もし、ノックのあとに犯人が図書室に来た、となると尾妻が図書室の鍵を開けたことになります。鍵を開けたということは、尾妻自身が午後ティーをこぼした証拠を隠滅し終わった状態を意味します。この場合、尾妻は一刻も早く図書室を去りたいはず。そこでわざわざ犯人が奥のランプをとりにいくのを待っている、というのはあきらかに不自然です。そのうえ尾妻は、凶器をもった犯人に後頭部をさらけ出さなくちゃいけません。ノック後にだれかが来て、凶器を手にとったとしても、証拠隠滅を終えたばかりの尾妻がその人物の行動にいっさいの注意を払わない、ということはありえません。ですから、こうした状況はまず考えられないんです」
「でもきみたち学生のだれかが来た場合、彼女は招き入れるんじゃないの?」
 船入さんが問いかける。ぼくはそれを否定する。
「いいえ、犯行時刻となる時間帯ですが、大学生は全員一階にいました。一階に降りてきた田原くんはそのあとは村野と一緒でしたし、住吉も野谷も、お風呂から上がったのは犯行時刻を過ぎてからでした。唯一、図書室に行けたのはぼくだけですが、二、三分で尾妻を殺し、部屋に運び入れ、またすぐに図書室に戻るのはさすがに無理があります。よって犯人はノックのさい図書室におり、田原くんが去ったあとすぐに尾妻を殺せた人物となります
 このことから、とぼくは論を広げる。
「村野、野谷、住吉、ぼくが容疑者から除外されました。また、犯人は犯行時刻、図書室にいることができただけでなく、廊下に水を撒くことができた人物でもあります。犯人が水を撒いたのは、六時四五分から七時前。これが、第二の犯行時刻となります。このあいだ田原くんは一階で、村野と一緒にいました。ゆえに田原くんも容疑者から除外。同時に那珂川さんも除外されます。村野と田原くんの目をかいくぐって二階に行くことは無理と言ってよいからです」
 息をつく。これで六人が容疑者から除外された。
「とはいえ、このアリバイによる絞り込みだけでは、犯人には辿り着くことはできません。ここでいったん見立ての謎に戻ります。つまり、なぜ犯人は見立てをおこなったのか? という問題です」
 ぼくは改めて、この事件の見立てについて述べていく。
「思い出してください。犯人による見立ての明確な表明はありませんでした。たしかに死体発見現場はそれを示唆する状況ではありました。しかし、それを見立てだと判断したのは、あくまでぼくたち自身です。じっさいに犯人がおこなったのは水を撒いて、窓を開けたことくらいでした」
「ならあれは、ほんとうは見立てじゃあないんですか?」
 野谷の問いかけに、ぼくは首を横に振った。
「ほんとうのところは犯人に聞かないとわかりません。とはいえ、ミス研や探偵小説マニアがここにいることを加味するなら、副次的な効果として見立ての構図には期待したかもしれません。けれど仮にあれが見立てだとするなら、少々やりすぎ、あるいは不自然な点があります」
「……不自然なところなんてあったかしら? むしろいまの話なら、見立てとしては不十分なようにすら感じられるけど……」
「たしかに全体においてはそうなります。しかし、もし見立てにしたいなら、死体の周囲を飾るだけでその役目は十分なはずです。わざわざ鍵のかかる部屋を出て、だれかに見つかるかもしれない危険をおかしてまで廊下に水を撒くメリットはありません。それゆえに、犯人はどうしてもこの危険をおかさねばならなかったことが推測できます
 ぼくはほかのみんなに向けて聞いてみる。
「では具体的に水を撒くことで、どんな変化が起こると思いますか?」
「……そりゃあ、床が濡れるってことやろ」
 村野が眉を曇らせながら答える。ぼくはさらに論を進める。
「床が濡れるとどうなる?」
「どうって……どうもしないと違うか」
「じゃあ言い方を変えるよ。濡れた床の上を歩くと、どんな害が及ぶ?」
「害っていうとなあ……足が濡れるってことか?」
「そう。犯人は容疑者全員の足を濡らそうとした。自分だけに容疑がかからないようにするために。つまり、水を撒いたのは偽装だった
「……偽装? いったい犯人はなにを偽装したって言うんだ?」
 住吉が、わからない、と言いたげな顔をする。
「ここで、さきほどの仮説とつながります。尾妻が午後ティーをこぼしたということ。そして、足を濡らす偽装をおこなったということ。このふたつを合わせて考えると、こういうことが思い浮かびませんか。……犯人は殺害現場である図書室の床にこぼれた午後ティーを踏んでしまったのだと」
 ああっ、と那珂川さんが声をあげる。
 ぼくはうなずいた。すべてはここにつながるのだ。
「では犯人の行動に戻りましょう。午後ティーを踏んでしまった犯人は尾妻を殺害したあと、彼女を部屋に運び、靴下についた午後ティーの染みを洗ったことに気付かれないよう、床に水を撒きました。こうすれば、自分の靴下だけが濡れていることを怪しまれることはありませんから
「……でも靴下が濡れたくらいで怪しまれるなんて暴論じゃないですか。濡れたなら履き替えるか、裸足になればいいでしょ?」
 船入さんが異を唱える。ぼくは首を横に振る。
「いいや、濡れた靴下を履いている、たったそれだけで注目を浴びてしまう人物がこのなかにいるんです。なぜならその人物は、もう一足しか靴下が残っていないことを、ほかの人に知られていたから。船入さん、おそらくあなたはその事実を直接耳にしていたはずです。ぼくたちは又聞きでしたけれど」
 そこにいた何人かが、ぼくの言った言葉の意味を理解したようだった。そして彼らは、ぼくが示す犯人のほうを見た。
 ぼくは息を吸い、その人物の名を告げる。
「……そうですよね、本橋さん。午後ティーを踏んで、その染みを洗わなくちゃいけないのは、白い靴下を履いていたあなただけなんですから
 ふたつの犯行時刻のアリバイがない人物は、本橋さん、船入さん、栄さん、ぼくの四人だ。けれど船入さんは黒いタイツを履いているし、栄さんは黒い靴下だ。ぼくは裸足になっていた。タオル一枚さえあれば、どの人物も午後ティーを踏んだことがわからなくなるのだ。だからそもそも、こんな手間のかかる偽装をする必然性がどこにもない。
「そんな推理……どう考えてもおかしいでしょう。だって、だれかがぼくをはめるためにこの偽装をしたかもしれないじゃないか。……どうしてそれだけで犯人にされなきゃいけないんだ!」
 本橋さんが興奮して言い返す。ぼくはそれを否定する。
「そのだれかは、あなたが濡れた床を踏むのかどうかさえ予測できませんよ。それに廊下を水浸しにするのが見つかるというリスクが高すぎます。だれかに嫌疑をかけるなら、こんな消極的な偽装でなく、その人の所持品を置くなりしたほうがずっと楽でしょう。だからこの偽装はあくまで、自分の靴下が濡れてしまってから思いついた方法、逃げの一手にしかなりえないんです。それに、現場からは午後ティーのボトルがなくなっています。嫌疑をかけたかったら、午後ティーはちゃんと図書室に置いていくと思いますよ」
 本橋さんはこれまでにないくらいに取り乱していた。
「いや違う! 尾妻さんが午後ティーを買わなかった可能性があるだろ? な? ほら、自販機は故障していたじゃないか!」
「だから逃げの一手なんですよ。それに尾妻の服についた茶色い染みや、図書室のティッシュのことがあります。少なくとも犯行時、図書室に茶色い液体が持ち込まれた事実は否定できませんよ」
 ぼくがそう言うと、本橋さんはなにかに気づいたように笑みを浮かべた。
「……いや待て、斉藤くん、でもきみはどうなんだ。いま履いているグレーの靴下だよ。履いているじゃないか、濡れた状態で。ニ、三分でも、きみだけは図書室に行くことができたと言ったね。でもそれはきみの主観による推理だ。二、三分でも、殺害できたかもしれない。嘘をついている可能性だってある。ここまでの推理もぜんぶ、ぼくをはめるために……」
 ぼくの靴下は濃いグレーだ。たとえ午後ティーで濡れたとしても色は変わらない。本橋さんはどうにかしてこじつけようとしている。けれど。
 ありえませんよ、とぼくは首を横に振った。
ぼくに彼女を絞殺することは、決してできません。たとえぼくが、とある部分において、信頼できない語り手であったとしても
 右手で、自分の左手を握る。そして、回す。柔らかい音がした。
「な……」
これ、義手なんです
 ぼくの右手には、シリコン製の左手が握られていた。見た目にはほとんど変わらない。けれど、直接触れるとわかる。もちろんミス研のみんなは知っていたし、予約するときに、オーナーの那珂川さんにもそのことは伝えていた。
「……納得できましたか。ぼくに彼女が殺せないってこと」


 翌朝、ぼくたちは警察のヘリコプターに乗せられた。救出というより、これから面倒な事情聴取がはじまるのかと思うと、すこしだけ憂鬱だった。同じヘリに乗った学友たちは、みな憔悴しきっていた。
「……本橋さん、『零号かめれおん』が欲しかったんですね」
 野谷がぽつりとつぶやく。
「ああ、もともとは親の所有物だったらしい、借金がかさんで手放したのが那珂川さんに渡ったそうだ」
 住吉がどこか遠くを見ながら言った。
「……天災が原因とはいえ、それで殺されるなんてな」
 村野のその言葉に、ぼくたちは黙ってしまう。
 ぼくはヘリの窓から眼下の景色を眺める。木立や山道を飲み込んだ雪の塊は、まるでのたうちまわり、疲れて眠っている大蛇のようだった。
 いつのまにか、風景のなかを無数の白い欠片が舞っていた。また雪が降りだしたのだということに、数秒遅れてから気づいた。それから数日のあいだにあったことは、ほとんど覚えていない。

 もうすぐ春だというのに、まだ冬を引きずっているかのような底冷えのした朝、ぼくはひとり階段をのぼっていた。長い休みのせいで、すっかり夜型に戻ってしまった身体を震わせながら。
 二度目の踊り場にさしかかったところで、だれかの話し声が聞こえた。ぼくはすこしだけ息を整えて、残りの数段をのぼりきる。やがて、見慣れたドアが視界に入ってくる。さびれた校舎の三階の、角部屋。「ミステリ研究会」と書かれた看板がドアには吊るされている。
 鞄を置き、右手の甲でドアを二回ノックする。なかから返事がして、その声の主がドアを開ける。見慣れた友人らの顔と、棚におさまりきらないほどの本の背表紙たちがぼくを迎える。ぼくは鞄をもちあげて、足を踏み入れる。
「おかえりなさい」



 〈完〉