2014年3月

先月、ネムキプラスで連載していた川原由美子+伊咲こゆる名義による学園メタミステリ(?)漫画、『マカロンムーン』が終わっていた。作者名義の後者になぜか別作品の登場人物が入ってくる、かつ掲載誌の公式ツイッターまでもが作者名プラス先生という呼び方を採用している徹底ぶりで、実際お話の中身のほうも探偵役のキャラクターが読んでいる小説の中の探偵と契約のようなものを結ぶことで探偵としての能力を得たりするし、もはやメタミステリというか詩情の域だったわけで、その解決というか幕引きもばっさりと切られていておそらくファンであろう人の感想を調べてみるとやっぱりその多くがよくわからない、ということだったのだけれど、その倒錯した結末がまっとうなまま成立するとしたら詩のような物語世界上でしかないっていう技巧的・構造的な問題からの帰結だったのではないかと思っている。
と考えてしまうのはやっぱり少なからず連載を追っている読者目線での感情移入が入るのかもしれないけれど、少女的なものと探偵の釣り合わなさであったり、個別の要素に目が行きそうになるのは、批評的な立場を取りやすいジャンル小説を読んでいるからなのかもしれない、と今月のミステリマガジンに掲載されていた法月綸太郎杉江松恋の対談を読んで思う。ミステリの構造に頭が慣れきっていると、そうではないお話の中で急に現れる、伏線のない展開に殴られてしまうというか。

そういう点で、友人から借りて読んだこの漫画とかはもはや普通の話の軸が通る世界じゃない。いじめやらスクールカーストやらを題材にすると文字通り破天荒な扱いをいじめられっ子が受けてしまう江波光則作品が自分のなかでは強く想起されるのだけれど、それとは違う次元だったりする。江波のように暴力とか権力をうまく縮図として機能するように青春小説のプロットに組み込んだうえで映画のようにわかりやすいエンタメの順序を守るのとは違って、ひたすら一つか二つぶん、出来事が飛んで起こる。まだ第一部(六巻以降は数年後になっているらしい)のすべてを読んだわけではないけれど、一巻でいじめにあった女の子とその子が好きな男の子はボーイミーツガール映画よろしく逃避行の発想にごく自然な結論として至るし、そうかと思ったらその日のうちに帰宅する決断変更力の早さ。二巻からはいじめっ子グループのボス生徒とそれを阻もうとする生徒による多対一の戦いの軸が現れるのだけれど、そこからは異様なほどのベタな展開とその出来事を配置する根回しのスピードの早さ(一体いつ自転車のブレーキを壊したのか)がぶっ飛んでいるし、三巻においてはスピリチュアルな要素が絡みかねない様相(死んだ生徒の姿が目撃される)を呈している。
いちおうスタート地点として、いじめにおいては友人の裏切りがいとも簡単におこなわれてしまう、残虐な行為を子供があっさりとおこなってしまう、といったホラー・サスペンス的な状況演出からはじまったのだろうけれど、二巻以降はいかに登場人物を過酷な状況に置くか、という新しい目的が生まれていて、その手段がそのまま作中の出来事になっているテンポ感ゆえに面白くなっているのだと感じる。そういう点ではバトル漫画・少年漫画的なのかもしれない。ネットでよくみかける不快だと言われているいじめ描写についてはどうかと考えてはみるけれども、ある程度読み進めれば、いじめを先導する人や不理解な大人、それを取り巻く空気感という仮想敵(?)が作中にいちおう存在しているということは伝わるし、解決不可能な問題だともされていない。むしろ過剰でなくなってしまったら、実用的ないじめ漫画になってしまう(自転車のブレーキを壊すその瞬間の描写はない。飼育動物・虫を殺す描写はあるが)。なにより読者からしてみたら、どのようないじめがあったかよりも、登場人物がどのようにそれに打ち勝つか、という話を期待すると思うのだけれど。

千の王国百の城 (ハヤカワ文庫 JA (667))

千の王国百の城 (ハヤカワ文庫 JA (667))

打ち勝つというか、目的として成就されるものそれ自体が別に決まったひとつの概念ではないと示すことができるのはなんだろうかといったら、やっぱりSFはそういうことが得意なわけで、少女漫画にそれを持ち込んでかつただの雰囲気にさせないオチも用意できる清原なつのの語り口は今読んでも感心してしまう。この作者の短篇集は先に『春の微熱』*1を読んでいて、少女漫画だけれど妙にバッドエンド的なオチが多いのはなぜだろう、と思っていたのだけれど、この短篇集と大森望の解説にあった「反・少女マンガ的」という言葉によって腑に落ちた。それを通して『春の微熱』のほうをパラパラと見ると少女漫画的なオチ(ハッピーエンド)のところにメインのカップルではない登場人物の独白やら活躍が用意されていることもごく自然なあり方であることがわかって、それこそ前述した『マカロンムーン』と同じように手段をどうするか、というところでSFという手頃なジャンルがあればそれと溶け合うことも納得する。つまり話を通してやりたいこととの親和性が高かった(そもそもこういう話が描きたかった?)。ミステリ読みならば「銀色のクリメーヌ」の描写に感じる印象はSFとはまた違うかもしれないけれども、瀬名秀明の某連作短篇集の終盤で言及される描写の問題を思い出して、やっぱりこの作者は自覚的に話を提示することが上手いんだな、という結論に達する。

ラ・プティット・ファデット La Petite Fadette

ラ・プティット・ファデット La Petite Fadette

ミステリになると目的(騙す・解決する)と手段(ミスリード・伏線を示す)が複数になってしまうことの難しさを今更ながら実感する。ジョルジュ・サンドの『愛の妖精』とクリスティの『ポケットにライ麦を』を絡めたとは作者のことばで、愛憎劇がミステリの枠組みに入っているということならばわかる。けれどアンフェアかどうかという話とは別に、満足しない読者がいるのは確か。なぜかといえば、その手法が届く相手に届いていないことがあるからで、ある程度ミステリを読む人にしたって、ページ数の比重のせいか、話とトリックで乖離している部分が大きいと感じる人がいる。結末として提示される内容そのものは双子の出てくるミステリらしい皮肉でもあるし、テーマ反復的な上手さもあるのに、オチのトリックが別の意味で目くらましになっていることが勿体なく感じられた。ストーリーを覆うトリックが暴かれたあとにまたやってくるストーリーをいかに明示できるか、ということについてもっと敏感になっていくにはどうしたらいいのだろうか。

ただ、ミステリはストーリーそのものとトリックが不可分であるものもあるのだけれど、SFと違って、そういう手法を示しにくいのだろうか。お話というハードに対して、ミステリというソフトを組み込むことはできても、ハードとソフト、両者を本質としてうまく機能させるにはどうするか。けれどおそらく、その問題意識を最初から取っ払えばできることが確かにあって、おそらく思い三部作(この二作に加えて『思いあがりのエピローグ』で三部作)はそういう意識があったにせよなかったにせよ、ミステリというジャンル内ゆえの意識によって、最短距離で手段と目的をつなげているのだと感じる。実際の評価は三冊目を読んでしたいのだけれど、今現在、その三作目が入手困難であるので読めていない。この作者の『たったひとつの 浦川氏の事件簿』*2も同じような意識によって書かれていたし、当分は手に入る他の作品にあたろうと思う。作者は今現在、『雪割り坂の殺人(思い出せないプロローグ)』という作品を書き終えているそう。話を聞く限り意欲作らしいので、発表を待ちたい。