2014年4月

夏の死 (講談社ノベルス)

夏の死 (講談社ノベルス)

殺意の迷走 (天山ノベルス)

殺意の迷走 (天山ノベルス)

先月に続いて斎藤肇を読み続けている。読んできてなんとなく感じるのは、探偵やミステリの約束ごとへの自己言及的なものを取り込んでしまおうという意志と(結局は同じ部分なのかもしれないが)それに対するアンビバレントな感情が混在して作品にあらわれているのでは、ということ。探偵という装置をプロットに組み込んだ思いシリーズとは違って、『夏の死』で過去の事件を精査し、舵取りをしようとしたはずの探偵役(完全な部外者)がその終盤で機能不全(?)を起こし、当事者である主人公たち関係者から拒絶されてしまうのは特に印象的だったからだ(クトゥルフTRPGを通して過去の事件の真相を洗い出す、という文字通りゲーム的な側面を押し出した推理小説であるのにも関わらず)。これは探偵の否定というよりはむしろ、ゲーム的(論理的)世界の外部で解決編をおこなわねば、当事者たちによる(感情的)解決ができないという必然性からだろうか。クトゥルフが作中に出てくるのも、「正気度(SAN値)」というある種の理性を司るステータスがゲーム内に存在するからであるように感じられる。推理小説の論理を内側から食い破る奇妙な熱がこの作品にはあって、それゆえに惹きつけられた。
いっぽう『殺意の迷走』はというと、作者が得意とするお約束を逆手にとるタイプの作品なのだけれど、トリック含め、すでに今現在では手垢のついた印象を受ける。ただこちらも推理ゲームのロケハンに推理小説をもとにして作られた城へ行くというねじれた自己言及性がみえる舞台設定だったりする。

満願

満願

米澤はそうしたミステリの構造に自覚的なのではないかと感じたのは、この短篇集の各作品のプロットに法律や条例などの社会の論理が少なからず根付いている印象を受けたからだ。「夜警」や「万灯」の結末に関わる状況を生み出すにはそうしたルールから逆算しなくてはいけないだろうし、あくまで読者の世界の延長線上にある(異常さをもたない/客観性をもつ)ホワイダニットをつくるのであれば読者の側にあるルールに則ればよいという発想がある。
その根底にはおそらく、日常の謎(定義はともかく、そのようなもの)を書くために作者が用いた逆説的な発想があるのではないか。古典部シリーズに「連峰は晴れているか」という単行本未収録の短編があるのだけれども(野性時代掲載のちアニメ版のBD/DVDの特典となったらしい)、あれはまさしく日常に対する逆説的な構図が結末として用意されていた。ネタバレを避けるため、もっと射程を広くしていえば、日常を舞台にした作品を書こうとするために、非日常である状況を先に頭のなかに設定し、それ以外の状況を描くということだ(これは日常の延長によって生まれるミステリとはあきらかに違うだろう)。その線引きとして民法や刑法、条例といった社会のルールが存在するということ。さらに言い方を変えるなら、大人が必要になる論理と、子供だけで完結できる論理。その違いに意識的である書き手がどれだけいるのだろう。

風ヶ丘五十円玉祭りの謎

風ヶ丘五十円玉祭りの謎

今度は日常の謎、ということで早速手にとってみると、一短編ごとのページ量がそこまで多くないせいか、かなり素直な印象を受ける。長編でおこなっていたロジックが限定された状況における可能性の排除だったのに対し、日常では条件から導かれる回答の妥当性というロジックにならざるをえないためか。つまりは猫丸先輩的というべきか。トリック看破(のようなもの)による逆算推理がそのまま結論になるのは「天使たちの残暑見舞い」くらいで、やはり日常の謎で唯一無二で意外性のある回答までいくのは難しいのだろうとも思うが、意外な切り口・ロジックさえ用意できれば面白いものは可能だと「もう一色選べる丼」で示しただけでもこの短篇集の価値はあるのだとも思う。