斎藤肇『雪割り坂の殺人 思い出せないプロローグ』への覚え書き

 斎藤肇『雪割り坂の殺人 思い出せないプロローグ』が発表されて、二週間ほどが経った。今年に入ってから何冊か作者の本を探しては読んできたので、早速注文してみた(注文は言い値書店https://www.iineshoten.com/book/153/とDLマーケットhttp://www.dlmarket.jp/manufacture/index.php?consignors_id=11803のどちらからでもできる)。
 読んでいて作者の他作品を想起したり、探偵や解決をめぐる会話にはなるほど、と思ったのだが、最後まで読んでみると、面白い作品を読んだという興奮と同時に、どこか煮え切らない印象が残った。それを自分なりに長い、そしてまとまりのないメモとして書き出してみたいと思う。もちろん肝心な部分は書かないが、後半になればなるほど作品内容に踏み入ることになるので、そのあたりは気をつけていただきたい。

 作者の作品に触れたことのある人ならわかるように、サブタイトルは「思い三部作」と呼ばれるシリーズを想起させるものになっている。ストーリーに直接のつながりはないようだが、テーマ的な部分ではつながりがあるのだと思う。
 ただその点でいえば、「思い三部作」だけでなく、過去の他作品への意識も含まれているような気がする。視点人物を含む登場人物がテレビクルーとしてドキュメンタリーの素材を撮影するために温泉地を訪れる、という本作の筋書きは、推理ゲームの取材にスタッフが城を訪れる『殺意の迷走』(天山ノベルス)を想起させるし、視点人物がストーリー全体を通して悩まされる、過去における事件の記憶については『夏の死』(講談社ノベルス)のモチーフと重なる。加えていうなら、その両作品にあった、あらかじめ用意されている(と思われた)解答の欠落、という方向性は本作においては形を変え、より明確な言葉として言及されているように感じた。というのがざっくりとした印象としてある。

■物語の概要
 湯治で有名な温泉地、供沢での祭り「風宮の宵祭り」のドキュメンタリーを撮影するテレビクルーのもとに、一通の脅迫状のようなものが届く。この原因を探るうち、クルーは二年前に起きたという殺人事件の可能性に思い当たる。そこで彼らは祭りの撮影と同時に、名探偵を呼ぶことで、過去の事件に対して推理をおこなうというべつの番組の方向性を考える。しかし、語り手である辰雄の呼んだ探偵、阿佐間静哉はそれほど乗り気ではなく、それどころか彼は、ダブルブッキングしてしまったもうひとりの探偵、斧上の引き立て役をするとまで提案しだす。三〇年前、辰雄と阿佐間の関わった事件のときとはあきらかに違うふるまいに、辰雄は違和感を覚える。名探偵という自分の立場に自覚的でありながら、なぜ阿佐間は過去の名探偵らしい、颯爽としたふるまいを捨てているのか。辰雄はこの問いに答えを見出せないまま、供沢のドキュメンタリーの撮影をはじめる。

■探偵というテーマ
 読者がこの作品に触れてなにより既存の推理小説と違うと感じるところは、いわゆる本格推理的な探偵物語の筋書きをひたすら避けようとしている点だと思う。語り手の辰雄は探偵である阿佐間のワトソン役として彼に同行するも、その先で聞き取りをおこなうことはなく、阿佐間は供沢の住民と日常会話を繰り広げる。むしろ聞き取り役を含め、推理小説のストーリーの筋書きを辿ろうとするのは、番組を放送できるようつくらねばならないと考える辰雄のほうだ。探偵である阿佐間は合目的でない動きしかしないという、奇妙な転倒が何度も起こっている。
 その徹底ぶりは途中、住民のひとりからちょっとした謎(日常の謎といってもよいかもしれない)を持ちかけられたときも、阿佐間は「犯人は、わかりません」とまず最初に言い出すほどで、すっきりとした解決を求めるような読者でなくとも、このふるまいには違和感を覚えることになる。その一方で、多くの読者が想像する探偵らしさを代表するであろう斧上は、供沢の事件に用いられたであろうトリックを見出すなど、まさにらしい動きをしている。
 けれど、そうした奇妙さや違和感は次第にテーマとしてスリリングなものに見えてくるようになる。それは中盤、阿佐間が「名探偵ってどう思う?」と斧上に問いかけるシーンから、ひとつの山場に差し掛かるからだ。そこではふたりの探偵、いわば本作の名探偵像と既存の(あるいは本格ミステリの)名探偵像とのスタンスが真っ向から議論を交わす。いくつもの名探偵に出会ってきた読者のなかで、それは大きな二項対立として強調されることになる。初登場時、斧上は自身を「アナリスト」と表現していた。ここで斧上が言うのは、それを裏付けるような言葉だ。

「推理や論理は、最低をくだすための手段です。もちろん情報も収集し、裁定そのものの妥当性をあげておくべきです」
(略)
「妥当性と言ったね」
「もちろんです。求められるのは妥当性ですから」
「それでいいと思ってる」
「いいか悪いか、善悪の判断を行う必要があると思えません」

では、阿佐間のほうはどうか。

「僕の考える名探偵はね、そうだな、たとえるなら太鼓持ち幇間ってやつだな」
(略)
「それはずいぶん自虐的な言い方ですね。いや、むしろ私のことを皮肉っているのでしょうか」
「皮肉じゃないよ。太鼓持ちという表現は、今の僕が考える、理想的な名探偵像に近いというだけだ。もっと言わせてもらうなら、おそらく君は、僕の理想とする名探偵像からは遠い。太鼓持ちという表現には相応しくないし、それを求めてもいないはずだよ」

 ここではじめて阿佐間は、自身の考える理想的な名探偵像を「太鼓持ち」という表現で示すことになる。読者にとっては、この物語で描かれる探偵像がはじめて明確に開示された意味を持つはずだ。しかし、この時点ではワトソン役である辰雄にも、読者にも、彼がそのような探偵であろうとする真意はわからない。おそらくそれは、探偵のバックボーンがその時点では描かれていないからだろう。
 そしてこの探偵の真意(動機と言ってもよいだろう)、バックボーンとなる物語はおそらく三〇年前の事件を発端としているはずだが、その事件に直接関わったはずの辰雄は、その事件の細部を思い出すことができないでいる。おそらくはこの事件こそが、サブタイトルとして用意された「思い出せないプロローグ」ということになるだろうことは想像がつく。そしてこれが阿佐間の素朴ながらもどこか空虚さを感じさせる原因にもなっている。しかしそれ自体は、決して論理的に問われ、答えられるような問題にはなっていない。その点では、作中で語られる事件とはべつに、探偵に対するホワイダニット的な筋が存在しているのだ、ということもできるかもしれない。

■探偵論から形式論へ
 しかしこのホワイダニット的問いが発生すると同時に、本作は探偵論としての物語からの逸脱をはじめるように思えた。それはおそらく、探偵の真意が描かれないというドーナツ化現象的な記述のあり方に起因している。探偵の真意が謎となり、物語の最後までその説明を先送りしなければならない以上、その周囲を描くことで、どうにかシルエットを浮き彫りにしておく必要性が生じてくるからだろう。ゆえにここで、探偵論はそれをとりまく形式論へと変貌していく。
 では形式論とはいったい、なんの形式についての論か。それは明白だろう。狭義の推理小説、すなわち本格ミステリの形式について、ということになる。
 物語後半、阿佐間と辰雄は供沢の病院で、山田たづという女性に会いにいく。彼女は「最近では名前を聞かなくなった」作家でありながら、「マニアックさが評価されネットでは今でも話題になることがあり、感想がアップされることもある」作家でもある。この立ち位置は、現在の作者自身の立場によく似ているように思える。しかしその点は重要ではない。
 ここで重要なのは、阿佐間が「彼女の理想は、つまり僕の目指すところなのさ」と言っていることだろう。つまり阿佐間は、山田の推理小説観にある部分で共感しているということになる。阿佐間の理想は前述のとおり、「太鼓持ち」だ。そして、山田はもともとは本格ミステリの書き手としてデビューしたものの、現在はそうではない、「広義のミステリ」を書こうとしてる。彼女にとって、本格ミステリは理想形ではない。そして阿佐間にとっても、本格ミステリの探偵は理想形ではないということになる。

■問題意識の方向性は正しいか
 ではなぜ、山田は本格ミステリを書かなくなった、あるいは書けなくなったのか。彼女はそのことについて「真実って証明することに限界を感じた」と述べている。阿佐間はそれを「断定的に真相を語らねばならない本格ミステリの限界に」気づいたためだとも言い換えている。念のため言っておくと、この形式に対する問題提起は、この場面に入る以前からも似たような表現、言い換えによって何度か顔を覗かせている。しかしこの場面が他と違うことは、たんなるほのめかしに終わらせていないということだ。それまでは探偵というあり方への問題提起だったものが、推理小説としてのあり方への問題提起として再定義、あるいは同様のものとして定義されたことが明確に示されたことになる。
 さらに作中ではそのあと、この問題提起が創作論や生産者としての言葉、あるいは医師の倫理観という形をもった変奏としても現れはじめる。しかしここまで読んできたとき、正直に言えば戸惑うことになった。これらの変奏については表面ではつながっているようで、根本部分ではつながっていないような、ちぐはぐな印象も受けたからだ。
 どういうことか。おおざっぱに解釈するのであれば、この本格ミステリの形式に対する問題提起が世間一般的な問題へと拡大されるということはすなわち、真実を証明すること、問いに対する解を用意することが、現実世界では本来、不可能であるという危うさを意味していると思われる。本来妥当性である(でしかない)ものを、ある種の演出やレトリックによって真実に見せてしまいかねない本格ミステリの危うさは、現実に対応すべきではないということだろうか。たしかに、このような見方をするのであれば、ロジックやトリック、それを支えるレトリックなどによって構成される本格ミステリの形式には限界があるのかもしれないという論はそれなりの妥当性をもつだろう。
 とはいえ、このような問題提起それ自体もひとつの妥当性でしかないとも言えるはずだ。つまりここでは、答えのある形式の否定という形で答えを出しているのであって、それではたんなる自己矛盾に陥ることになるか、立場を入れ替えただけのイタチごっこになりかねないことになる。このことは作者自身もわかっていると思う。作中でも一方的に正義を執行しようする探偵の幼さは指摘されている。ゆえに読んでいて戸惑った。この本格推理的なものに対する問題提起は、危うさを自己矛盾的に含んでいることになる。たとえ問題提起が多声的になったからといって、それが正当性をもちえたり、自己矛盾が解消されるという話がしたいわけではないだろう。それでは陳腐にすぎる。
 ではどのようにその自己矛盾という形式を乗り越えるか、という問題が生じるはずだ。そのことを踏まえて読み進めていかなくてはならないように思う。

■「フレーム/枠組み」
 そうした考えのもとでは「枠組み」、「フレーム」といった言葉が印象的になってくる。対象の設定が曖昧では乗り越えることはできないからだ。前述した名探偵についての阿佐間と斧上の応酬は、次の問いかけへと続いていた。

「阿佐間さん、あなたにとって真実とはどういうものですか」
(略)
「フレームを代表する簡略化された説明のことだよ」
 斧上は阿佐間の言葉をしばし吟味する。
「では、フレームとは」
「取り扱うべき情報の意味を規定する仮想的な限界ってとこかな。情報は、フレームが異なれば別の意味を持つようになる。だから、なんらかの結論を出すためには枠組み概念が必要になるだろう。数学の言葉で表現するなら『公理系』ってことかな」

 このフレームを形式と言い換えてよいのであれば、本格ミステリの形式内で結論を出すことはたんなる妥当性、便宜的な解答のひとつにすぎないと言える。問題は、その不完全な形式をどのように自己矛盾せずに乗り越えるかにある。
 ここで注目したいのは、フレームが視点という意味として理解できるということだ。本作は、ワトソン役である辰雄の視点=フレームを通して語られる物語であり、それゆえ彼の視点はどこまでもミステリの(あるいは番組の)フレームでしかないことに気づかされる。事件があり、伏線を集め、謎に対する答えを記述する。そうした状況をつくりだすために彼は住民から聞き取りをおこなうし、謎を自分なりに整理もする。
 そしてその一方で、探偵役である阿佐間は、辰雄の視点から何度も離れて(=フレームアウトして)いくことがわかる。そして彼は、辰雄の見ていないところでなにかしらの行動を起こしていたことがあとになってから伝わるようになっている。本作において探偵は、ミステリのフレームの外部に向かおうとする。これはとても重要なことのように思う。
 これならば、他者の言葉(問題提起の変奏)が有機的なつながりをもちにくいような印象を受けることも多少の納得がいく。言葉の捉え方が似ていても、フレームが違うのでは本質的な理解には至れない(もちろんこれには、読者であるこのわたし自身のフレームが作者の考えるものと合っていない、という可能性もあるのだが)。

■フレームという視点から考える探偵について
 この前提で考えると、巻末で作者が述べている「本書の構想は本来、長編と複数の短編の集合という形なのです」。という言葉にも納得がいかないか。ミステリは本来、謎―解決という大きな、しかしひとつの枠組みによってしか記述されない。けれどもそれを複数のフレーム(あるいは視点)によって記述することができれば、謎―解決という枠組みに縛られない形で物語を記述できるのではないか。だからこそ探偵はフレームの外に向かい、伏線は複数のフレームのあいだでは不十分にしか機能しなくなる。
 どういうことか。フレーム(意味体系)は無数に存在する。本格ミステリの世界(フレーム)においておこなわれる謎―解決はあくまで便宜的な解答でしかない。ならばこのフレーム内部ではなく、複数のフレームを渡り歩く存在として探偵を規定し(太鼓持ちの正式名称は幇間であり、人の間、すなわち人間関係を助けるの意でもある)、そのように推理小説を書く。であれば、それは本格ミステリには決してなりえないだろう。その代わり、本格というフレームの相対化は可能になるかもしれない。
 とはいえ、これが作者のいう「反本格推理小説」かどうかは疑わしいわけなのだが(場合によっては群像劇的なものになりかねないし、複数のフレームについても、現時点ではそれがどのような効果をもたらすかはわからない。短編のほうは『雪割り坂の殺人』に先立って発表された「分速十メートル」以外はまだ発表されていない)。

■長編におけるフレームについて
 となると、こちらとしては長編のフレームについて語る以外にはない。フレームという意識をしたうえで、本作の物語にもう一度焦点を合わせてみる。
 長編はあくまで、ワトソン役である辰雄の視点から語られる。つまり謎と解決の枠組みは多少いびつであっても、なくなったわけではない。仮に本作が作者の言う「反本格」だとしても、推理小説という構造それ自体が謎の放置を許してはくれない。にもかかわらず、本作の視点は事件を通して、少しずつ、フレームの焦点がべつの場所へと向かっていくことに気づく。
 本来推理小説であれば、解決編と思えるシーン。探偵役と犯人役とが対峙し、物語の真相が暴かれる場面がこの作品中にも存在する、しかし、その対話が繰り広げられるに至って、視点人物である辰雄は、自分が思い出せなかったことを唐突に思い出す。真相の解明に立ち会うというワトソン役の仕事は、この場面では最終的に「ただ椅子に座って、私の上を通り過ぎてゆく言葉を、かろうじて拾い集めていた」だけになってしまっている。そしてこの出来事は、視点の変化であると同時に、冒頭から示されていた探偵の変化についても暗示させる結末(最終行)へと続いている。
 また、こうした「変化」については、中盤の阿佐間と斧上の対話で一度、言及されている。

「あなたの話はまったく論理的ではない」
「そう。感じるだけなら論理じゃない」
(略)
「しかし、それでは事件は解決できないでしょう。事件の解決は、そこに関わった人たちに共通認識を作り出すことなんですから」
「なるほど」
「なるほどじゃありません。個々人が勝手な感覚を持つだけだったら、なにもしなくていいはずです」
「いや、それは違うだろうな」
「……ああ、すいません。少し言い過ぎてます」
「ありがとう」
「いえ。そう、つまり変化のことですね」
「個人の感覚に変化をもたらす。うん、そういうことさ」
「しかし、共有しえない変化だけもたらされても、決着することはできない。変化は、時として死ぬまで継続するでしょう」
「ああ……、そうなるだろうな」

 この物語のフレームは、本格推理という形を捨て、この変化をもたらす推理小説としてのフレームを持っているのではないか。だとするのなら、探偵に関するホワイダニット的問いは、物語の解決(思い出せない状況から思い出すという欠如の回復)ではなく、決着不可能な(あるいは決着することが難しい)問いへと至ることを示唆していたと考えることができないだろうか。

■ヒーローの異質さについて/思い出されたプロローグ
 そして物語の最後、思い出せなかったことを思い出し、辰雄が探偵のふるまいに対するひとつの答えに触れたとき、『雪割り坂の殺人』は探偵誕生譚としての側面を見せるようになる。事件の解決を描きながらも、そもそものはじまり、決着のつかないプロローグへと逆行する物語。そして同時に、その問題が現在まで連続していることが示される。それがヒーローである探偵の動機(に至る背景)にもなっている。
 けれど絶対的な解決が存在しない以上、ここで示された自己のフレームを崩す出来事の先にあるのは、他のあらゆるフレームを引き受けるということにもなりかねない。そしてそれは呪いにもなるはずだ。これに正面から立ち向かうのではなく、受け入れることで探偵としてのあり方を変えた姿は、到底、自由を得たとは言いがたい。むしろそれは、悲劇ではないかとさえ思う。おそらく読み終わったあとに感じた煮え切らなさは、この演繹された呪いゆえなのだと思う。
 読後に現れるその三〇年の空白という強烈な時間的距離は、探偵をひとりの人間から異質なものへと変えてしまいかねない。急激な変化を与えるものではなかったとしても「死ぬまで継続する」とはそういうことだ。ヒーローではなくモンスターとなってしまう可能性だってあったはずなのだ。だからこそ見えてくる結末は感動的でもあるのだけれど、それを彼と同じように受け入れるには、まだ時間が足りないのかもしれない。

■その他
読んでいるあいだはまったく意識していなかったのだけれど、この文章を書いているときに瀬名秀明デカルトの密室』(新潮文庫)を思い出した。内容はまったく違うものの、後期クイーン問題とロボット(人工知能)のフレーム問題を重ねあわせることで、いかにそこから脱出していくか、という問いが作中でなされていて、『雪割り坂の殺人』とどこか似た問題意識をもっているように感じた。たぶん「フレーム」という言葉に引っ張られたせいだろうと思う。最終的な問いがある種の倫理的な側面を持つこともある。近いうちに再読する。

デカルトの密室 (新潮文庫)

デカルトの密室 (新潮文庫)