道尾秀介「モルグ街の奇術」の記述についての研究


注意:道尾秀介「モルグ街の奇術」、エドガー・アラン・ポー「モルグ街の殺人」の真相に一部触れている部分があります。

花と流れ星 (幻冬舎文庫)

花と流れ星 (幻冬舎文庫)


 道尾秀介『花と流れ星』は同作者の『背の眼』『骸の爪』に続く、真備シリーズ三作目にして、シリーズ初の短編集だそう。だそう、というのは自分がそれほど道尾秀介作品に触れてないからであって、『骸の爪』を読んだのも四年ほど前だったので記憶は薄れているため。キャラクターの設定やシリーズ前作品の内容については多少触れられてはいるものの、この短編集から読んでもそれほど問題はないように感じた(個人差はあります)。霊能事務所的なものを営む真備(探偵役)とその助手の北見、そして作家の道尾(作者でなく作中人物)の三人が遭遇する事件簿といった印象。日常の謎テイストなものや安楽椅子探偵的な短編が並んでいる。

 なかでも本格ミステリ読み的にはオールベスト企画で上位に入賞した「流れ星のつくり方」が出来といい、演出の上手さといいやはり高評価なのだろうけれど、個人的にはそれよりもずっと、「モルグ街の奇術」が気になってしまった。

 短編のあらすじとしてはバーで酒を飲んでいる道尾と真備のもとにフーディーニの孫だという奇術師の男(このあたりからして胡散臭いのだが)が現れ、勝負を持ちかけられる。男は祖父と同じく、いわゆるサイキック・ハンターのようなものをしており、ふたりが遭遇した心霊現象を否定しようとやってきたのだという(作中には主人公らが過去に遭遇した事件を出版し、公表しているという設定がある)。

 勝負の内容は、十五年前にその男が右手を失った際の真相を看破できるか、というもの。当時、右手の断面からの出血や弟子との関係のために事件性が疑われたが、男が右手を失ったときにいた小屋の出入り口は視線の密室になっていたため、結局事件としては処理されず、マジックによって右手を消失させたという男の弁が通った。だがその小屋から男の右手は見つからなかった。そしてこの消失トリックの謎を解くことができなければ(勝負に負ければ)、奇術師の男は、真備か道尾、ふたりのうちどちらかひとりの右手を消すという。

 やっていることとしては証言のみから真相を当てるという安楽椅子探偵ものに近い構図なのだが、やりとりの剣呑さといい、お互いの立場をかけた知的勝負という探偵バーサス犯人的な要素に加え、タイムリミットが用意されているなかでの推理ということで緊迫感も増した演出になっている。いわゆる作劇上の工夫、というと一部の読者からは怒られてしまうかもしれないがそのようななかでの消失トリック看破はやはり手に汗握るものがある。この要素だけでも前述した「流れ星のつくり方」よりもこちらを好む読者はいるだろう。

 とはいえ、この作品を正面から持ち上げることができない理由もある。本編冒頭の作者注にも書いてあるのだが、「モルグ街の奇術」はエドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人」の真相に一部触れたうえで推理がなされている。より具体的にはその犯人像をもとに展開されていく推理が描かれているのだが、正直いって、このつながりがあまりに唐突で、効果的ではないのだ。オマージュというにはほとんど関連性が見いだせないし、どちらかといえばその推理はミステリの意外な犯人の類例からくるもの、といったほうが近い。さらにいうなら、作中では「モルグ街の殺人」そのものよりも、神秘主義に傾倒したコナン・ドイルとそれに裏切られたフーディーニの関わりについて書かれている部分のほうが文量としては多いくらいだ。
 
 ではいったいどこがつながっているのかといえば、真備が消失トリックを推理してみせたあとにみせる最後の話としての大オチの部分だろうか。男が店を去ったあとで、真備は自分の鞄のなかをいじり、はっとしたような顔つきになり、「僕たちの右手――もしかしたら、見逃してもらったのかもしれないぜ」と道尾に向かってこぼす。真備の言葉や行動に何が起きたのか想像かついた読者は思うはずだ――もしかしたら、あの男は「○○ではなかった」のではないか、と。この「○○ではない」という犯人像が「モルグ街の殺人」の犯人像から敷衍されていく……と考えるのも苦しいと思う読者もいるだろうが、まだこちらのほうがタイトルとのつながりとしてはわかりやすいと思う(そうでなければ男の「□□□□□□□□□……」という言語として聞き取れない言葉の説明もつきにくいだろう)。

 さて、ここで本題に入る。この「モルグ街の奇術」という短編には、奇妙なところが一点、残っているように感じられる。それは何度も描写されているのにも関わらず、結局作中のだれも、探偵役の真備さえも言及せずに終わってしまっている。そのような部分があるのだ。それは、勝負を持ちかけてきた男の、腕時計だ。

 まず確認すべき記述にあたる。この短編は道尾の一人称によって記述されており、物語の前半部で、道尾は奇術師の男が右手を失っているのを目にしており、その状態を記述している。道尾自身に意図的に嘘をつく理由がなければ、この描写は彼が見た内容と相違ないはずだ。
 

 絶句した。目の前に掲げられた男の右腕には、手首から先がなかった。それがあるべきところには、ただ肌色の断面が、ごつごつとした凹凸を見せているだけだった。

 そして同様に、男が左腕に腕時計を巻いているのを目撃してもいる。

 男は言葉を切り、左腕に巻いた腕時計にちらりと目をやった。
(…)
 男が自分の腕時計をふたたび覗き込む。

 この描写ののちも、勝負のタイムリミットを確認するために、道尾は、何度か男の時計を見ている。がしかし結局だれもこの点に言及しなかったまま、物語は不穏な幕切れを見せてしまう。

 だが考えてみれば、そもそもこの点こそが不思議ではないか。男は十五年前に”右腕を失って”いるという話をしていた。にも関わらず、男は”腕時計を左腕に巻いて”いるのである。これはどういうことか。右手を使わずに左腕に腕時計を巻く、ということは、基本的にはできないはずの行為ではないのだろうか。

 とはいえ、この疑問点に回答することは可能だ。大きくはふたつの反論が考えられるだろう。

 まず第一に、男が身に着けていた腕時計は左手のみで着脱可能なものだった、というもの。
 腕時計の細かい種類はわからないので、こちらは想像でしかないが、男の腕時計は一般的なものではなかった可能性がある。記述には「腕時計」としか書かれていなかったからだ。男の腕時計が穴の空いたベルト(革など)を金具で固定するものか、金属製のベルトをカチリとはめるタイプもの(おそらくこの二種類が腕時計の一般的なものであろう)以外であったという可能性だ。自分は実際に固定する金具のない(ベルトが伸縮するタイプの)腕時計を見たことがある。が、とはいえこれで左腕に巻くことはできても、やはりそのあと片手のみで取り外すのは一苦労だろう。それに着脱しやすければしやすいほど、結局腕時計としては落としやすいものになってしまう。この点から考えると、実用面からは離れてしまうし(腕に時計を巻くメリットがなくなってしまうし、そこまで時計を持ち運びたいのであれば懐中時計を使うという手段もあるだろう)、あまり現実的とはいえない。

 第二に、男には身の回りの世話をする者がいたというもの。
 反論としてはこちらのほうが効果的といえるだろう。作中には直接登場しない人物Xが男の左腕に時計を巻いていたために、男は片手しか使えない状態であっても腕時計を日常的に扱うことができたという可能性だ。またこうした人物の可能性は男の「弟子」や「アシスタント」といった言葉からも具体的に想像がつきやすい。
 だが、そう考えると矛盾した部分も出てきてしまうことになる。男の登場時の描写を思い出してほしい。

 (…)薄茶色の髪を、火災にでも遭ったかのように、ぼさぼさと顔の周りに垂らしていて、その隙間から覗く二つの眼は気味が悪いほどの三白眼だった。

 仮に男の身の回りを世話をする人物がいたとするならば、この描写はそぐわないだろう。わざわざ腕時計を巻くようにしているにも関わらず、髪を整えずに「火災にでも遭ったかのよう」な状態のままとしているのは、不揃いといえるからだ。男の見た目に関して解釈をおこなうには文量が少なすぎるかもしれないが、アシスタントや弟子、付き人などがいれば男の髪は綺麗に整えられているだろう。この矛盾に合理的な説明をつけることが難しい以上、第二の反論も妥当とはいいがたい。


 ゆえにこう考えることはできないか。男の右腕はなくなってなどいなかった。男は「○○ではなかった」、のではなかった、と。

 男が最後に見せた消失トリック(あえてこのようにいわせてもらう)の正体はまったくもって読者には推理不可能なものであるし、登場人物や読者があの男の正体について「○○ではなかった」と考えるのはホラー的なオチとしては申し分ないだろうが、それだけでは話として違和感がある。男は心霊現象、すなわち説明のつかない現象一般を起こりうることとして考えている真備や道尾の立場を否定しに来たはずだった。にも関わらずそこで説明のつかない超常現象的なものを見せてそれを逆に肯定してしまう行為をしているのは、どういうことなのか(作中で男は「感心すべき推理を聞かせて楽しませてもらったお礼として」披露しているが、その真意は不明だ。もし「○○ではない」なら、気まぐれ、とでも考えるべきだろうが、であれば、なぜ男はわざわざ右腕の存在に気づかれるかもしれない腕時計を巻いていたのかがわからない)。

 だが男が「○○ではなかった」、のではなかった。つまり、男は「○○」であり、右腕も切断していなかった、ということであれば、この腕時計の謎に対して、ひとつの回答を出すことができる。真備と道尾は、最後まで騙されてしまった、ということである。心霊現象を肯定する者たちが、奇術によって、嘘の心霊現象を信じこまされてしまった、という皮肉を込めたオチだ。そしてそののちに腕時計の謎に気づき、男の右腕に関する話は壮大なホラ話だったと気づくというものになりはしないだろうか。

 存在しないはずの右腕の手首から先は特殊メイクでもなんでもいいが、一度だけ観客の目を欺ければよい。そのあとは男の服の長い袖が隠してくれるため、注視される危険もない。あとは右手の消失についての推理に集中させれば、心理的な仕掛けは終わっているため、その場ではもう疑われることもなくなってしまう。そしてあとになって真相に気づく。その筋書きは、心霊現象が存在するという嘘に裏切られ、サイキック・ハンターとなったフーディーニの話へとつながっていく。ここにきてはじめて「心霊現象の否定」という男の目的は達成され、「モルグ街の『奇術』」もまた完成される。そして同時に、真備たちはあの有名な言葉を思い出すに違いない。


「マジシャンは右手を動かして観客の注意をひきつけている間に、左手で秘密の仕事をしているのだ」


モルグ街の殺人・黄金虫―ポー短編集〈2〉ミステリ編 (新潮文庫)

モルグ街の殺人・黄金虫―ポー短編集〈2〉ミステリ編 (新潮文庫)