『エンダーのゲーム』と歪なジュブナイル的物語

エンダーのゲーム (ハヤカワ文庫 SF (746))

エンダーのゲーム (ハヤカワ文庫 SF (746))

 たとえシスの暗黒卿ダース・ベイダーの正体が何者であるのか、といったくらい今となっては言わずもがなの事実であったとしても、意識的に青い背表紙の本を手に取るようになったあたりの人間が『エンダーのゲーム』の最も大事な部分に関するネタバレを喰らっているか否かはその後のSF読書人ライフ(およびSF諸作品に対するバイアスのかかり具合)を相当左右するのではないかと思う。おかげで3年ほど足踏みしていたのが間違いだったと後悔することになるからだ。許すまじ、ネタバレ。今回ようやく手を取ったのは、探偵テーマ作品としても語られる『死者の代弁者』への助走として。

 
 読んだのは現在出回っている田中一江訳による新版上下巻ではなく、手元にあった旧版の野口幸夫訳。それも比較的最近にリニューアルされた、オシャレで格好いい表紙ではなく、ハヤカワ文庫初版1987年のもの。ハヤカワ文庫SFが残念な表紙を最も多く量産したとされる(推定)80年代後半らしい時代がかったデザインで、スーツを着たエンダー君と思われる少年が無重力空間で銃を構えている。二十一世紀を生きる者からしてみるとなんとも言いがたい。

 とはいえ、読んでみると訳自体は読みづらくはない。むしろすらすら読めてしまうくらい。新訳を読んだわけではないけれども、旧訳で使われていることばにこれといって違和感がないのだ。たぶんこれは、本編の持っている普遍的、ジュブナイル的な物語性質がつよいからだと思う。筋書きに新規性がないといえばそうかもしれないけれども、それだけ骨格がしっかりしている物語であるし、たとえ結末だけがわかっていたとしても、その過程もじゅうぶん面白く読める小説になっていると自分が判断したからなのだろう。

 あらすじとしては割と単純で、地球へと侵略しにやってきた昆虫型の異星生物バガーに将来対抗しうる人材のひとりとして、主人公のエンダー少年は物語の冒頭、六歳という幼い年齢ながらもバトル・スクールという政府の司令官養成学校に身を置くことなる。彼はそのなかで周囲からの冷たい態度や視線、理不尽な暴力にさらされつつも孤独に奮闘していく……のだが、こうした筋書きはどことなくギムナジウムを舞台にした孤独な少年の成長物語を思わせるものがある。

 加えていうとその世界の家庭では、基本的に生み育ててよいのは第二子まで。特別な理由がなくては第三子(サード)を産んではならないとされている。エンダー少年はこのサードであり、彼は兄や姉以上に優秀な子供となることを期待され、政府の管理下で生まれた。にもかかわらず望ましい結果を残せなかったために、いわゆる〈要らない子認定〉されてしまう。ここから『エンダーのゲーム』というお話がはじまる。見捨てられるはずの子が拾われ、ほんとうの価値ある存在として育っていく物語がいちばん最初に示されるのだ。

 じっさいにバトル・スクールのエンダーを追ってゆくと、彼は学校に入ってすぐ、無重力空間といういままで経験したことのない環境や、日々複雑かつ難解になっていく戦闘訓練(ゲーム)の毎日に没入していく。そして同時に、年上グループからのいびりといった、あまり喜ばしくない状況に直面する。こうしたなかで、腕っ節ではまず相手に勝つことのできない少年が、自身のすぐれた知恵を武器にして戦うことで次第に周囲から認められていくという一連の流れが描かれていく。上記のような成功物語は、ギムナジウム的な場所を舞台としたお話に限られないものの、ジュブナイルの典型としてはじゅうぶんみられるものであろう。

 そして、そのいっぽうで、過酷な状況に対して打ち克ってゆく物語の横には、愛する家族(特に姉ヴァレンタイン)と会うこともできない隔絶された状態が描かれている。どちらかといえば、ギムナジウム的だと読んでいて感じられたのはむしろこちらの面だろう。そこではまるで、友情というものが手の届かない家族の代替物であるかのように扱われるのだ。バトル・スクールで出会った友人と心を通わせていくエンダーの姿には、少年期の子供が持っているむき出しの愛情で接しようとする瑞々しさがある。なかでもエンダーとアーライとが一度とり結んだ関係は、少年どうしの友情というよりは、親密な、家族愛じみた側面をつよく印象づけている。

 衝動的に、エンダーは彼を抱きしめた。きつく、ほとんどまるでヴァレンタインであるかのように。
 (…)
 アーライは突然、エンダーの頬に接吻して、耳許で囁いた、「サラーム」それから、赤い顔で、くるりと向きを変えると、営舎の奥にある自分の寝床へと歩いていった。エンダーはああいうキスと、あの言葉が、どういうわけか禁じられているのだろう、と見当をつけた。抑圧された宗教、たぶんそうなのだろう。それとも、もしかして、あの言葉には、なにかアーライひとりだけにとって個人的で強力な意味があるのだろうか。アーライにとってどんな意味があるにもせよ、エンダーには、それが神聖なものであることがわかった。彼はエンダーのために、自らの秘密をあかしたのだ。――かつて、エンダーの母親もそうしたものだった(…)――なんとも神聖なものなので、何を意味するのかを理解することがエンダーにすら許されえない、贈物を。

 けれども『エンダーのゲーム』は、こうしたジュブナイル的な物語から次第に脱線をはじめていく。というのも、彼が知恵によって得た成功や友情、そして彼を唯一支えている優しい姉との思い出でさえも(!)、大人による理不尽な采配のために、エンダー少年を司令官としてさらに成長させるための道具として一方的に投げ捨てられてしまうからだ。エンダーは傷つくと同時に、徹底的に孤独の道を歩まされる。そして期待通りにさらなる成長をみせ、その才能を開花させていく。

 やがてエンダーが直面するのは、そうした成長をしていく自身がうちに持っている凶暴性である。彼は繊細な、傷つきやすい子供であるいっぽうで、異星生物を滅ぼすべく育てられた司令官としての才能を本質的に持ちあわせてもいるからだ。かつて幼少期の自分をいじめ抜いた兄と同じ、冷酷な部分が自身にもあることに気づき、彼は苦悩する。『エンダーのゲーム』の面白い部分はここにあるといってもいい。なぜならここまでやってくると、物語の冒頭に示されたはずの成長物語が知らないうちに、歪な成長物語へと変わっているのだから。物語の佳境を前にして、姉と再会したエンダーが自分がどう敵を滅ぼすかについて語るくだりは、穏やかな情景に対して口にされることばの恐ろしさ切なさといい、その白眉といえる部分だ。

「(…)ぼくが、自分の敵を真に理解し、そいつを打ち負かせるぐらいに、よくそいつを理解する瞬間に、そのとき、まさにその瞬間には、ぼくはそいつを愛しもするんだ。不可能だと思うんだ、誰かを、彼らが何を欲するのか、何を信じるのかを、ほんとうに理解し、それでいて、彼らが彼ら自身を愛するとおりに彼らを愛さないということは。そしてそのとき、ぼくが彼らを愛するまさにその瞬間に――」
「あなたは彼らをやっつけるわけね」一瞬、彼女は彼の理解を恐れてはいなかった。
「いや、あなたにはわからないんだね。ぼくは彼らを滅ぼすんだ。ぼくは、彼らがぼくを二度と傷つけることを不可能にするんだ。ぼくは、彼らをすりつぶして、彼らが存在しなくなるまで、すりつぶすんだ」
(太字は傍点)

 じつのところ、『エンダーのゲーム』の面白さは結末の持っている意外性だけではないのだろう。成長物語を核にしつつ、それをいつからか自然と、少年を負の成長へと反転させていく物語の魅力も同時に持っているのである。

 むろんそれだけではない。印象的なものであれば、作中でエンダー少年のプレイするファンタジーゲームが挙げられるはずだ。テレビゲームを子供の頃にプレイしていた世代からすればどこか懐かしさを感じさせるものであるし(巨人の死骸の上に生まれる生態系といったくだりはどこか『ワンダと巨像』を想起させるであろう)、同時に少年のパラノイアックな風景を具現化させたものでもあるから、それ自体がSFではなく入れ子構造になった幻想物語のようですらある。しかもその幻想自体もまた、エンダーの成長を映し出す物語としても成立しているのだから面白い。


『死者の代弁者』への助走のつもりで読んだのに、思っていた以上に楽しんでしまった。『ワンダと巨像』が好きな人、少年向けファンタジーや児童文学が好きな人、などなど。意外とオススメなSFかもしれません。