タイトルのレトリックはいかに密造されたか


 downyの好きなアルバムは、と訊かれたら『無題』と答えるのが無難ですね。というわけで、昨年末に読み散らした『タイトルとの魔力』という本がなかなか考えさせる内容に思えたので、メモ代わりにつらつらと書いていきたいと思います。

 ふだんわたしたちが美術館などの展覧会をのぞくとき、佐々木健一が言うには、人びとはふたつのタイプに振り分けられるそうです。まずひとつめは「教養派」。そしてもうひとつは「審美派」。詳しく引用してみます。

 教養派とは、絵を見るよりも早く、真先にプレートをのぞき込み、だれが画いた何という絵なのかを確かめる。うるさい観客ならば、更に製作年代にも注目するだろう。これらを頭に入れたうえで、おもむろに絵にとりかかる。プレートから得られるこれらの知識が、その絵を理解し鑑賞する上で不可欠のものと考えているからに相違ない。

 それに対して、審美派は次のようにふるまう。かれ/彼女はプレートには目もくれない。静かに絵だけを見続ける。そして次の絵に映って言う。作者やタイトルはすでに知っていたのかもしれない。しかし、どの絵でもその態度は変わらない。つまり、明確な意思なのだ。(…)かれ/彼女の禁欲的な姿勢は意固地とさえ見える。

 浅学な自分はまず前者であって、後者の態度はほぼ取ることはないのですが、後者について読んださい、『それでも町は廻っている』の主人公嵐山歩鳥の読書スタイルにどこか似ているようにも思えました。

 彼女は推理小説が好きな女子高生なのですが、とりわけミステリを読むさいには、書店のブックカバーで表紙や裏表紙の絵を覆い、各章のタイトルの載っている目次部分までそこにはさみ込み、見えないようにしたうえで、物語を読み進めます。これはどういうことかいいますと、彼女は、本文以外の(いわば外部)情報によって伏線に気づかないようにと考え、そのような読書スタイルを編み出していたのです*1

 さいきん(?)よく聞くようになった、ミステリの結末を自分で知ってから読み進めるタイプとは正反対のタイプといえますね。一概に、どちらがよいとはいえませんが。

 ところで『心変わり』や『時間割』などの実験ふうの小説作品で知られるミシェル・ビュトールの『絵画のなかの言葉』によれば、原書の発行年である一九六九年の時点で、美術館の絵画には、「小カード」つまり作品名を示すプレートだけでなく、わたしたちが普段美術館の展覧会で入場料とはべつに払うことによって聞くことのできる音声ガイドもすでにあったようです。

 ルーヴル美術館には個別で作品の来歴や解説を「見る」ことのできるいわゆるシアター形式のものもあったとか。どうやらこのすでにあたり前になったと思われる展示形式は、ごく最近どころか、だいぶ以前からあった風習のようです。また、こうしたタイトルの付記(作品の外側)である「プレート」は、どうも十九世紀なかごろ、近代になって生み出された「教養のための補助手段」だったそうです。これについては高階秀爾氏『藝術のパトロンたち』*2が詳しいとのこと。とりあえずこの歴史に関する話は、これ以上掘り下げないことにしましょう。興味があれば読んでみたらよいのではないでしょうか。

 

 さて、ようやく本題(ここにもタイトルがありますね)に入りたいところなのですが、上の絵を見ていただきたいと思います。この絵が、なに「について」描かれているものなのか、わかるでしょうか。

 先に触れた『タイトルの魔力』の佐々木健一氏は、大学の講義のなかで、この絵を使ってちょっとした実験をおこなったそうです。

(…)数分間スライドを見せたあと、記憶によってこの画面を記述してもらったのである。すると、百数十人いた学生のうちに、既にこの絵を知っていた数人を除いて、誰一人として、その正確な主題を捉えたひとはいなかった。

 といっても、これはどこか意地悪な実験ですね。漠然とした状態で風景画を見せ、その主題がどこにあるのか、と訊くわけですから、まずあてることは難しいと思います。なぜならこれは、意図的に主題がわかりにくく描かれたものだからです。ここで即座にあてられる人がいれば、かえってそのひとの感性を疑いたくなるほどです。

 では答えの時間です。この作品はブリューゲルの描いたもので、『イカロスの墜落を含む風景画』と題されています*3。さてここで、タイトルを指摘されたことにより、わたしたちはその主題を求めて視線をさまよわせることになります。いったい、どこにイカロスがいるのか。画面の右下あたりに注目してみてください。

 横溝正史犬神家の一族』の例のシーンのごとく、水面から二本の脚が突き出ています。どうもこのおぼれている人物がイカロスだそうです。いわれなければまずわからないですね。ですがここで、全体→タイトル→個別、といった順に観察者の意識が流れていくのはおおむね間違いないでしょう。ビュトールは、このタイトルを「知っているとき」、この二本の脚が「画面イメージ全体の焦点とな」ると述べています。

(…)ここにいる人物たちがすべて、この二本の脚以外のいろいろな方角を眺めているという事実は、はじめはわたしのまなざしを作品内のこの一劃から遠ざかる方向へとひきつkていたのだが、いまでは、そうした事実がこの強調された落下点に、そこを見させまいとするまぎれもない力をあたえているのである。

 ビュトールの指摘はとても示唆的です。関係づけられていなかったはずの、絵のなかのそれぞれの事象。それらがタイトルというあるひとつの「〜について」という言葉を介し、あらたな共通項としての意味を付与されるからです。

 こうした言葉と絵による観察者への知覚や意識の誘導という構図はどこか(ネタバレなので直接の言及はできませんが)天道真の某短編の推理を思わせます。つまり、漠然した情報のなかに焦点を与えるタイトルのはたらきは、推理のシステムとどこか似通っているようにも思えてくるのです。

 また、ビュトールは『絵画のなかの言葉』で、次のように語っています。

 いかなる文学作品も、ふたつのテクストの結合からできていると見なすことができる。つまり本文(エッセーなり、小説なり、戯曲なり、ソネットなり)と、その標語、このふたつがそれぞれ極となって、そのあいだに意味の電流が流れる(…)。

 これはただの推測にすぎませんが、おそらくこの作家は、こうしたテクストと観察者とのあいだに起こる作用(上記の言葉であるならば「意味の電流」)についてかなり自覚的だったのではないでしょうか。

 彼は同書のなかで、ブリューゲルのほかの作品である『ネーデルランドの諺』についても触れています。すくなくとも百三十五もの諺がその画面内に見出せることを研究者たちが述べているそうですが、ビュトールはその一部分を例示しています。

 一、「火で身体を暖めることができるかぎりは、かれは、燃えているのがだれの家なのか知ろうとしない」(なるほど跪いている人物の腕の恰好は、手を暖めているようだ)、

 二、「火が屋根から吹きださぬうちに、火事を消したまえ」(なるほど、火が屋根から吹きだしている、人物のほうは消そうと試みているのか)、

 三、「火のないところに煙は立たぬ」(なるほど、濃い煙が上っている)、

 四、「きみは兵士か、それとも農民か?」(なるほど、この人物はヘルメットをかぶっているが、足ははだしだ)、

 このほかの言い回しを、さらにリストに付け加えることも、もちろん可能であろう。

 ここで改めて話題を推理小説に戻したいと思います。ビュトールの述べたように「いかなる文学作品も、ふたつテクストの結合からできている」というのであれば、推理小説は、タイトル、本文はもちろん、そしてそのふたつのあいだに意識の電流を流し、あたかも空間的な断絶に対して橋渡しするかのような推理や謎が存在するということが仮定できるはずです(当然ながら本文にさしはさまれる以上、推理じたいはタイトルそのものを指し示したり、知覚したりすることはないにもかかわらず)。となれば、それはもうふたつどころではなく、いくつもの複合的なテクストの諸相/層がそこに存在するのではないでしょうか。

 すこし前に話題になった早坂吝のタイトルが空欄になっている作品も(その是非はともかくとして)、そう考えると異質どころか、むしろ出てくるのが遅すぎるくらいにさえ思われます。

○○○○○○○○殺人事件 (講談社文庫)

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 また煩雑になるため、今回は扱いませんでしたが、小説のタイトルだけでなく、表紙をかざるイラストやデザインなども、場合によっては推理の、テクストの諸相足りうるにはじゅうぶんの資格を有しているはずです。それらを相互に関係させ、また統合、もしくはメビウスの輪のようにすることで読者にめまいを催させる推理の、そしてタイトルの構造なども、生まれてくる可能性はあるのではないでしょうか。

*1:何巻の話かはわすれましたが。

*2:芸術のパトロンたち (岩波新書)

*3:もしくは『イカロスの墜落』、『イカロスの墜落の描かれている風景』など、訳によって言い方は違うようです。またこれは作者本人がつけたのではなく、現在このような名前として流通しているとのころ。