北村薫『雪月花 謎解き私小説』を読んだり、オーディブルを聴き始めたりした。

 Twitterを主な生息地にしているとアカウントが凍結などにより『星のカービィ スーパーデラックス』のセーブデータになることが発覚したのがここ一週間あまりのことだったので、今度こそ(いったい何度目なんだ……)ブログ、というか雑記を頻繁に書いていくべきだと思った。ので、書くことにする。

\ドンッ/(スーファミ世代にしかわからないやつ)

北村薫『雪月花 謎解き私小説

 きのうの夕方に書店で買っておいた北村薫『雪月花 謎解き私小説を午前中にゆっくりと読んだ。北村薫はあるタイミングを境に*1、文章中の改行という区切りをまったくためらわなくなった印象があるのだけれど、近作となるとこの姿勢がもはや誰にも真似できないレベルになっている。

 なぜかというと、

 だ。

 で、終わる改行さえあっさり書いてしまうからだ。

 もちろんこれは、原稿料が四〇〇字詰原稿用紙換算一枚×???円で換算される文芸業界においては、おそらく八、九割の作家が編集に咎めらる行為だとおもう。主観でしかないが、たしか某書評家も新人賞の下読みのさいに、

「つまらない相づちで貴重な一行を消費するな」*2

 と、述べているのを見たことがある。

 だからふつうの新人などであれば、間違いなく怒られるような行為なのであるけれど、北村薫先生ほどの存在だと、これができてしまう。

 それでいて、この改行の区切りが、とても気持ちいい。どういうことかというと、とても話のうまい人が(内容そのものだけでなく、態度そのものがうまい人が)、会話のテンポをコントロールするために、すこし長い沈黙を意図して用意するときのような味わいがある。だから、読んでいるだけで心地いい。

 だとしても、もはや文学探偵北村薫≒中野のお父さんとしかいいようがないのだから、わざわざ中野のお父さんシリーズではなく、単発で本を出しておくような必要があったのだろうか、くらいには怪訝に思ってはいたのだった。だから文庫化まで手を出さなかった。警戒していたのだ。

 ただ、じっさいに読んでみると、とにかく話題が飛ぶ。連想ゲームのようにぽんぽんと飛んでいく。いちエピソードのなかで、さまざまな作家や作品の名前が泡のように現われては消えていく。なるほど、たしかにこのプロットらしいプロットのなさは小説らしくない。ほんとうに日常の、物語ですらない、それこそ雑記というかんじだ。

 けれども、もちろんその連想にはじつは(あるいはやっぱり)、北村薫なりの見えない一貫性と連続性があるため、軽妙な語りに揺られていくうちに読者はその連想のひとつひとつが連なった結果、最後には文学史のなかへするりと接続されていくのを目撃する……という次第。これはもう、お見事、としかいいようがない。

 たとえば第一話の後半、萩原朔太郎の詩「天景」のなかに登場する「しずかにきしれ四輪馬車、」というフレーズの「よみ」≒「朗読」が問題になる。

 というのも、この「四輪馬車」には、正しい「ふりがな」が用意されていないのだという。そして当然だが、いくつかの解説書や朗読CDではこの「よみ」が解釈する人によってブレていることが示される。

 では肝心の北村先生はどう判断したか……といった文学よもやま話でしかないのだが、これについてはじっさいに読んでいただきたい。

 ただ、むしろその「よもやま話らしさ」が大事なのだと思う。そしてこの第一話は、次のように幕を下ろす。

 そんなことを考えた読者は、ほかに一人もいないだろう。少なくとも、日本には。

 それぞれの位置から向かい、それぞれの収穫をする。

 それこそが、読むことの面白さだ。

 だからこの本は、そのささやかな収穫を集めたものといってよいだろう。しかし日本にたったひとりしかいない誇大妄想家などではなく、日本にひとりだけしかいない鋭敏すぎる読者のささやかな収穫である、という点には留意しておきたいけれども。

 

ひさしぶりにオーディブルを再契約した

  ところで、朗読というと、二月に入り、オーディブルを六、七年ぶりに契約したのだった。当時はまだサービス黎明期だったこともあり、青空文庫の朗読か落語のCDか……といったところでまったく面白みのないサービスだったのだけれど、最近はさまざまな環境の変化もあってか、話題になったベストセラー作品などは、ほぼ定額で聴くことができる。ただし一部の超話題作などは有料だったりする*3。このあたりは出版社ごとの戦略によるのかもしれない。

 なぜ七年前にオーディブルを契約したかというと、ミス研で後輩だった伊吹亜門先生のデビュー作が下山吉光さんによって朗読されているのを聴く(のと宮澤伊織先生の「神々の歩法」がその下山さんと阿澄佳奈さんによって朗読されていて、当時もうこれドラマCDだろ、と一部で話題になっていた)ためだ。

 下山吉光さんはその後『銀河英雄伝説』全作朗読音声化を達成するなどしており、とても話芸がすばらしい方で、それこそ伊吹亜門「監獄舎の殺人」は主要人物が方言をしゃべるのだが、そのあたりにも対応されており、まさしくプロの仕事というものを手軽に感じられるので、気になる人は是非。

 けれども、当時は月額料金の高さと、ラインナップの充実してなさを天秤にかけて、解約を選択することにしたのだった。今回、改めて契約したのは、昨年12月、スポッティファイで音楽を聴いていた時間が日本ユーザーの99.5%よりも長いですよ、となんかいいことのように指摘され、自分のことながらドン引きしたからだ。

じっさいにこれだけの時間聴いていたわけでなく、寝ていたり、音楽を流しっぱなしにしていたというのもある。

 さすがに時間の使い方が下手くそすぎるのではないか。もっと時間は有効に使ったほうがいいだろう、と思った次第。

 といっても朗読というのはやはり時間を取るものらしく、前述の「神々の歩法」の続編である「草原のサンタ・ムエルテ」という一短編だけでも1.0倍再生では、およそ一時間半かかってしまう。小説ならおそらく、この三倍から四倍の速度で読めるはずなので、速度としてはアニメよりもかなり遅い。一晩で数作読むといったことは、すくなくとも等倍再生では不可能だ。コスパ・タイパの効率を上げるというよりは、支援アイテムと考えたほうがいいかもしれない。そう思うと月額1500円というのは、かなり生々しい数字であることがわかる。

 自分は基本的にPC作業のほとんどを文章入力とネットサーフィン(Twitter・ブログ・小説・アニメ鑑賞・その他)に費やすので、せめてイラスト制作などのことばを使わない作業中にラジオ感覚で聴ければ、とも思うのだけれど、わりと話題やワードの選び方に冗長性があるラジオという存在よりも、小説は緊密な情報のことばづかいをする性質のメディアなので、意外と集中力がいるかもしれない。

 すくなくとも、無心になって線画や色塗りの作業中に聴きながらストーリーを理解できるかはわからない。もしかしたら今後、これでは無理、とわかったら運用方針を変えて、小説以外の新書などを聴くために使うかもしれない。

 といっても現状のラインナップにあるものを「ノンフィクション」で検索しても、あまり魅力を感じるものがない(そのほとんどはビジネス書や実用書としてお出しされる)ので、せめて検索性やレコメンドの質が上がればいいのだが、アマゾンにそれを期待するのは無理がある……。

 ちなみに、この一週間ほどで聴いた(ている)のは、『裏世界ピクニック3 ヤマノケハイ』と『明日の世界で君は煌めく』。どちらも百合。

『裏ピク』は髙野麻美さん*4という方がひとりで全文朗読しているのだが、これのキャラごとの演じ分けがすごい。鳥子のあの、めちゃくちゃ自然に美人オーラをまき散らす雰囲気であるとか、空魚の時折いちばんぶっ壊れている感じであるとかをちゃんとキャラクターの演技として出力している

 Twitterで適当に検索したところ、この朗読によるキャラ解釈の演技についてはシリーズを追うことに深化しているそうなので、途中巻まで読んでいるファンはとりあえずつづきをちょっと追うつもりで聴いてみるとおもしろいと思います。

『明日の世界で君は煌めく』はゾンビアポカリプス風になってしまった世界で、魔術が使える少女がとある目的をもった元クラスメイトに会い、一緒に行動していくもの。こちらは柴田芽衣さん*5青山吉能さん*6のふたりが朗読。

 どちらの朗読も、やはり朗読者によって、かなり地の文の扱い方などがちがっていて、どこか画一化されていないのが面白いな、と思う。

 自分が比較的聴いていた朗読はNHKラジオの「朗読の時間」などであるため、それこそめちゃくちゃキャリアを積んだ俳優(男女ともにである)が担当することが多い。こういう人たちの朗読はもう、かなり安定感のある語りなのだけれど、最近聴いているオーディブルの音声などは、ライトノベル/キャラクター文芸系列作品のせいかもしれないが、どこかキャラらしさというものが朗読に出る。というか、朗読者とだんだん近づいていく感じがする。『裏ピク』などはまさしくその好例だと思う。

 また、ガガガ文庫はオーディオブックに力を入れているのか、アニメ化とはまったく縁のなかった相当むかしの作品なども朗読音声化をしているようで、そのラインナップにはいまさらながら、けっこうびっくりする。『みすてぃっく・あい』がどうしてあるのか。おまえ絶版だし、電子化もしてなかっただろ。せっかくだし今度聴くと思う。

 また、風の噂できいたはなしなので話半分に聞いていただきたいのだが、TYPE-MOON作品などは音声が入るさい(アニメやノベルゲームのフルボイス化のさい?)にかなり明確に声優にディレクションをおこなうとのことで、そのあたりも興味深い。ことばをどう扱うか、コントロールするかは作品のなかで、かなりだいじな要素なのだ、と長編二冊ほどの朗読を聴いたいまなら十分わかる。

 なにしろアニメキャラクターの担当声優が朗読するのでないかぎり、あるいはアニメ化後にべつの声優が朗読するさいにその作品を参考にしたのでないかぎり、オーディブルに対して、一対一で原作者が演技のディレクションをおこなってはいないのでは、と思うからだ。もちろん例外はあるかもしれないが、その手間は膨大である。なにしろ長編一冊となれば、等倍再生でも、七時間から十三時間ほどはかかる。このひとつひとつの文章にディレクションをしていたら、途方もない時間がすぎていく。

 つまり、なにがいいたいかというと、他人の作品解釈を「朗読」というかたちで聴ける場は意外とすくないよね、ということだ。

 そしてそれは、今日よんだ『雪月花』にも書かれていたことなのだった。

 

余談

 最後に、北村薫『雪月花』を読んでいて、まったく文脈なく、びっくりしたことがある。それは江戸川乱歩の『探偵小説三十年』の一節を北村が引くところだ。

 中学一年の夏休み、母方の祖母が熱海温泉へ保養に行つていて、私を誘つてくれたので私は生れて初めての長い独り旅をして、熱海へ出かけて行つた。丹那トンネルの開通したのはズツとあとのことだから(…)

 と、つづいていくのだけれど、自分は、

「丹那!?」

 と、驚いたのだ。なぜか。丹那といえば鮎川哲也の名探偵、鬼貫警部シリーズに登場する、丹那刑事のなまえがすぐに連想されるからだ。そして鮎川哲也といえば、『ペトロフ事件』の段階で、満州鉄道の時刻表をもとにトリックを考案した生粋の鉄道マニアだ。のちに鎌倉に移り住み、それこそ東海道線をお話の舞台に選んだことも幾度となくある作家。

 そのような人物が、主要キャラの名前に、あろうことか鉄道トンネルとおなじ地名姓を与えているのだ。ここに意味はあるだろうか。

ja.wikipedia.org

 いや、もちろんここに意味はない(かもしれない)。

 そもそも丹那刑事の名前の由来はF・W・クロフツの作品に登場するタナー警部(『ポンスン事件』)から取ってきたのでは、という説が有力であることをきいたことがあり、自分もおそらくそうだろうと思っていたからだ。

 鮎川哲也クロフツの大ファンであることは周知の事実だし、それをもじってキャラクターの名前にしているのはおそらく(ファン目線としてはじゅうぶんすぎるほどに)正しい。

ja.wikipedia.org しかし、wikipediaにあるように「鬼貫という姓は、俳人上島鬼貫からとったもので、名前は決まっていない。」としっかりとあるのに*7、丹那刑事がタナー警部から、と推測するのは、どこかアンバランスな感じもする。

 けれども、丹那刑事がタナー警部であり、丹那トンネルからも来ているとする、つまり、同時に成立するのであれば、これはとてもしっくりくるのではないか。

 整理しよう。

 丹那刑事がはじめて鮎川作品に登場するのはおそらく長編『黒いトランク』で、1956年*8の発表が初出。そして、丹那トンネルの開通は、Wikipediaによれば、1934年。

 だから、連想というか、前後関係としては、じゅうぶん成立する。

 そして、鬼貫と丹那が『黒いトランク』で挑むのは、おもに「アリバイ崩し」だ。真相に触れるわけにはいかないが、一般的に、アリバイ崩しというのは、想定されていたものよりも、ずっと可能なショートカットを見出す話でもある。だから、鮎川哲也は、このアリバイという構築物に「トンネル」というイメージを見出していたのではないか。

 仮にそう、考えてみるのはどうだろうか。

 つまり、ミステリという謎解きのストーリーを、巨大な山を掘削し、ひとつのルートを通していく、地道な人間の営為と捉えてみてはどうだろうか。事件の謎が解けたとき、そのとき丹那=「トンネル」という「貫」かれた一本の道ができる。それを描くのは鮎川哲也、いわずとしれた、ミステリの「鬼」であるーー。

 という物語だ。

 ははあ、なんというか、北村薫先生のような文学探偵にはほど遠い、しょっぱい推理ですね、執筆者さん。これで探偵を目指すのはやめたほうがいいんじゃないですか。

 

エンディング:チャットモンチー「余談」


www.youtube.com

*1:正確なところは把握していないが

*2:意訳です。

*3:『プロジェクト・ヘイル・メアリー』とか

*4:宮本フレデリカの担当声優さんだそう

*5:ご存じ『ガールズラジオデイズ』の玉笹彩美を担当。

*6:いまとなっては『ぼっち・ざ・ろっく!』のぼっちちゃんで有名。

*7:出典はどこかわかりませんが。

*8:短編が初出だったらすみません。

『百合小説コレクション wiz』の著者紹介文の作成協力をしました。

 タイトルの通りです。

 今月、河出書房新社さまから発売されます文庫アンソロジー『百合小説コレクション wiz』の著者紹介テキストの作成協力をさせていただきました*1。掲載されている作品と作者の過去作品をいくつかのキーワードでつなぎつつ、本書を手に取った方々にとって、次に読む百合小説のガイドとしても役立つようこころがけて書きました。

 もしお時間などありましたら、書店等でご確認ください。事前に掲載作品を読ませていただきましたが、とても素晴らしい作品が集まっております。めばち先生の表紙イラストも素敵です。おすすめです。

 また、テキスト作成のための一部資料をmurashitさまにご提供いただきました。この場を借りて深くお礼申し上げます。

https://twitter.com/iskwshu/status/1619994817257422848?s=20&t=suLZ8dlIswfDF6eIgKglkQhttps://twitter.com/iskwshu/status/1619994817257422848?s=20&t=suLZ8dlIswfDF6eIgKglkQ

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*1:クレジット等はとくにございません。

吉川良太郎全短編レビュー(仮)

【※】本記事は文学フリマ京都7にて頒布したコピー本「吉川良太郎全短編レビュー(仮)」を一部改訂した再録です。(仮)がついているのは、ほんとうに全短編なのか、ちゃんと調べきった自信がなかったのと、深夜のテンションでつくったため、作業時間もすくなく、レビューというよりは簡単な作品紹介でしかない、という自覚が大いにあったためです。また、本記事の作成には谷林守さんのご協力をいただきました。

 

 

吉川良太郎(よしかわ・りょうたろう)

 一九七六年、新潟市出身。中央大学大学院在学中の二〇〇一年、『ペロー・ザ・キャット全仕事』で第二回日本SF新人賞を受賞しデビュー。SF、ホラー小説などの執筆と並行して映像関係の仕事も始め、『エヴァンゲリオン新劇場版:序』および『エヴァンゲリオン新劇場版:破』に脚本協力をしたほか、漫画『解剖医ハンター』の原作を務める。マフィアの支配する近未来フランス暗黒街を中心としたサイバーパンクSF『ペロー・ザ・キャット全仕事』をはじめ、『ボーイソプラノ』、『シガレット・ヴァルキリー』は現在、徳間書店から電子書籍として販売されている。伴名練による日本の埋もれていたSFを再発掘するアンソロジー『日本SFの臨界点』には採られなかったものの、ゼロ年代にデビューしたSF作家のなかでも、最も異彩を放つ一人である。

 

「血の騎士 鉄の鴉」

 初出:『SF Japan』二〇〇一年春季号、徳間書店

 一九四五年、ノルマンディー上陸作戦以来、ドイツ軍は着実に疲弊しつつあり、ソ連軍のせまるベルリン市内もまた暗い予感に包まれていた。そのようななか、わたし(オットー中尉)を含めたSS隊員たちは、長官ヒムラーの命を受けて特殊作戦を決行する。その内容とは、ある貴族に会見し、城を接収すること。その初代城主〈エーリヒ不死者(ノスフェラトゥ)〉と怖れられた騎士であり、現在もその家柄が続いているという。「抵抗すれば捕縛、最悪の場合は粛正してもかまわん」とわたしは言われていたが、制圧のためには明らかに人員が不足していた。そしてそのためにヒムラーが用意したのは、SS古代遺産課軍属 不動産鑑定士 ラインハルト・ヘリゲルという謎の男だった。わたしを含めたSS隊員たちは、その接収先で〈化物〉たちと遭遇する――。

『ペロー・ザ・キャット全仕事』の受賞後第一作が本作である。『ペロー~』は吉川自信が研究していたジョルジュ・バタイユの思想を受けた退廃的な価値観と猫という生きざまとを科学技術によって橋渡ししたSFであったが、本作は第二次世界大戦末期のドイツ軍をモチーフとしており、こちらもまた歴史的な敗戦を間近に控えているということを含めて、どこか退廃的な、殺伐とした空気が漂っている。
 また本作は、いわゆる彼らドイツ軍が戦時中に抱いていたオカルト思想(聖杯探索などが有名である)をフィクショナルに増幅させた改変歴史ものといってもいいだろう。中世的な(未発達の)科学の夢や迷信がひょんなかたちで具現化し、しかしそれがスペキュレイティブなインフレーションに向かうのではなく、あくまでクールなバトルアクション活劇ととして読ませる。これこそ吉川作品の味わいである。その一方で、一九四五年当時はまだ扱い方が十全ではなかった「放射線」が作中では未知のエネルギーとして紹介されるなど、ある種の歴史改変ものにおける「エーテル」のような部分も見出せて興味深いところが散見される。以降、吉川はこういった歴史記述の隙間やオカルティズム的な疑似科学を現実にあったものとして作り替えていく改変歴史スタイルの作品をいくつも生み出していく。

 

「苦艾(にがよもぎ)の繭」

 初出:『酒の夜語り 異形コレクション光文社文庫、二〇〇二年十二月

 大戦中のベルギー。フランス語で「存在しない」という意味の酒〈アブサン〉を密造しては売り捌くべく、わたしは商談をくり返していた。ナチの手は迫っていたが、わたしにはSSの少佐との伝手があった。しかしある日、その少佐の紹介で男がやってくる。手には一本のガラスの小瓶。彼はそれをわたしに託したいのだという。それを一口飲み、わたしは確信する。〈ジャンティアナ・リュティア〉。それはかつて南仏でつくられ、製造法の失われた幻のアブサンだった――。

 のちに作者自身が公言しているが、吉川良太郎の自家は酒屋である。それが本作を生んだのかどうかは定かでないが、このアブサンというリキュールに関する本作の蘊蓄はどこか陶然とした態度で滔々と語られていく。十八世紀、錬金術師が蒸留という技術を開発したことに触れながら扱われるこの同時代性(つまり、オカルトと酒とはほんらいは分けられないような存在である)は、はっきり言って、いかがわしく、それでいて魅力的なほどに妖しげである。
 思えばデビュー作『ペロー・ザ・キャット全仕事』においても、主人公が改造した猫の身体に自分の意識を飛ばす前に、あたかも儀式のように飲み下していたのもアブサンだった。そのデカダンな香りに魅了され、身を滅ぼす者たちがいたという多くの歴史からもその魔力は語ることができるだろう。ゆえに本作においても、その味に絡め取られ、次第に破滅への道をたどっていくのが語り手である。

 

「ぼくが紳士と呼ばれるわけ」

 初出:『SFマガジン』二〇〇三年七月号、早川書房

 悪いのはぼくじゃない。断じて違う。十九世紀のパリ。ぼくは男に拳銃を向けられていた。事のおこりはこういう次第だ。ある満月の夜、パリにやってきたスパイの上前を、ぼくとウジェーヌはずる賢くはねようと考えた。ぼくの腕にはコルシカ猟兵団(ウーブルヘジン)とパリ大学が育んだカバラ言語工学の精華がある。阿片とニコチンの助けを借りる必要があったけれど、それによって回路を開き、ゴーレムを覚醒させることができるのだ。その力で垂直の壁を登攀し、ぼくたちはホテルの五階に忍び込んだ。けれどその先にあった紙幣の肖像は、なぜか皇帝ナポレオンではなくドラクロワが印刷されていた。そしてぼくの目の前で、相棒のウジェーヌの頭は吹き飛んだ――。

 特集〈ぼくたちのリアル・フィクション〉として掲載された一作。一読してわかるように、あの皇帝ナポレオンが流刑地から復活し、パリを制圧したという改変歴史作品である。しかし改変要素はそれだけではない。仮想物質エーテルの存在が立証され、錬金術諸学が発展した世界げ実現されているのが本作である。メスメルの動物磁気、ラボアジェの熱素、ニュートンの電気霊魂説、イザク・ヨサファトの新カバラ学、フランケンシュタインの〈英霊師団〉構想など、科学と隠秘学の狭間に漂っていた多様な学説たちが、ごった煮の状態となってオルタネイティブな十九世紀という大伽藍を作り上げている。編集部の言によれば、これはスチームパンクならぬ〈アルケミーパンク〉だそうである。
 もちろんこうした改変世界においても水面下で多くの動きがある。世界を説明するとある理論を提唱した博士(われわれSF読者にもなじみ深いあの人!)や歴史的に有名な哲学者が現れては、主人公のぼくを戸惑わせていく。パリはあたかもオールスターが跋扈していく巨大な舞台となっていく。加えて物語に隠れていた「ある仕掛け」に気づいたとき、読者は唖然とするはずだ。そして陰鬱な未来をかすかに思わせながら、ウィリアム・ギブスンのとある一説を思い起こさせる最終行で物語は幕を閉じる。完璧である。
 また、掲載誌のコメントには本作と同一の世界観をもとにした「K・ニューマン『ドラキュラ紀元』か山田風太郎魔界転生』かという一大活劇となる模様」の長編が構想されていると書かれ、のちに全二巻『ケルベロス』というタイトルが告知された(ちなみに『アート偏愛 異形コレクション』の紹介文では『三銃士』を下敷きにしたとある)。しかし二〇二三年一月現在、刊行情報は聞かなくなっている。

 

「幽霊ウサギとアリスのダンス」(作画:山本ヤマト

初出:『SF Japan』二〇〇四年冬季号
収録:『山本ヤマト・イラスト集 AURORA GEM』二〇〇九年、集英社

「汝、力の限り走れ。そこに留まらんと欲するならば」「禅ですか?」「『鏡の国のアリス』だよ」。茶館の二階にいる少年と老人。二人はなにかを探るように会話をしている。一方、別の場所では「アリス」と呼ばれる少女が真っ白な部屋で拘束されていた。彼女は聖女ジャンヌ・ダルクの聖痕を持つ唯一の人間であり、かの少年に憑依している人格のうち最も狂暴で危険な存在、青髯公ジル・ド・レ元帥を従わせることができるたったひとつの鍵だった――。

 シェアワールドSF〈憑依都市 The Haunted〉プロジェクトの開幕を飾る一編。本作は山本ヤマト作画による八頁のカラー漫画であり、ほとんど予告編といってよいものである。具体的なストーリーは以降、語られていくはずだった。
〈憑依都市〉がどのようなものであるかを知るためには、この『SF Japan』二〇〇四年冬季号に特集として掲載された「Q市年表」や六名のSF作家たち(瀬名秀明津原泰水牧野修森奈津子山田正紀吉川良太郎)によって書かれた原稿用紙二四〇枚にものぼる合作中篇(モザイク・ノヴェル)「The Scripture 聖典」を細かく読む必要がある。
 大雑把にストーリーを述べると、とある夏、隕石落下によって日本人の多くの思考が希薄化するという現象が発生。その後、空っぽ(エンプティ)となった人々に悪霊たちが憑依し、さまざまな事件や不可解な現象を起こすようになってしまう。暫定的に日本には統治府(その内部は不明)が設立され、またそれから数年のあいだに統治府によって開発された量子コンピュータACEによって地獄【イオ・ミヒ】の存在が立証される。
〈空虚後一年〉に生まれた少年サイトはあるとき研究施設「タカマハラ」で憑依人格(ルーラ)のジル・ド・レを暴走させてしまう。ジル・ド・レの悪霊は「城化現象(シャトリザシオン)」――触れるものすべての建築物をティフォージュ城内とのコラージュにさせる――を起こし、「タカマハラ汚染事故」の原因となる。またこれによって多くのエンプティが脱走した。
 サイトはなかでも特別で、六つの憑依人格を持っている。しかしその人格を従わせることのできる変身の鍵(メッセンジャー)と複数の組織の思惑によって、以降、彼はさまざまな特務に就くことを余儀なくされる。彼を待ち構える敵は多様な怪物(ペル・ソナ)、対ペル・ソナ調査機関「Dチーム」、二巡人格の美人秘書イザナミアンディ・ウォーホルそっくりの老婦人率いる「ファクトリー」などなど……。これらの多彩な設定やキャラクターたちがシェアワールドを構成する一編一編によって、すこしずつ拡張され、語られていく企画だった。なぜこの企画が空中分解してしまったかについては、申し訳ないがこの場では記述するつもりはない。

 

「大人はわかってくれない」

 初出:『ミステリーズ!』vol.09、二〇〇五年二月、東京創元社

 今から八年前、フランスのとある地方都市に、狩野大介という男がいた。彼はわたし、狩野朋の伯父であり、古ぼけたパサージュに小さな店を構える書籍装飾師であり、近代文学史において最も偉大な出版されざる作家の一人である。そしてその伯父は、クロアチア系のマフィアがシノギとしていた、高額な古書の贋作制作に手を染めていた。伯父はあるとき失踪し、同時にマフィアたちは捕まった。それから八年が過ぎた十二月、わたしは伯父の店に投函された二通の封筒を見つけた。便箋には人名と場所が記されていた。そしてその三日後、その便箋の内容と同じ場所で人が死んだ。残ったもう一通の手紙には、「ダイスケ・カリノ」と記載があった。伯父を助けるべく手紙の場所に向かうと、そこには伯父が雇ったという中国人の探偵がいた――。

 本作の背景となるのは、やはり吉川作品らしく、マフィアたちのきな臭い闘争といったところだが、そこに素性不明の探偵とひねくれた考えを持った少女、そしてクリスマスという季節が入り込み、どこか暖かい雰囲気のジュブナイルストーリーとなっている。
 また本作は吉川作品にしては比較的珍しい幼いタイプの語り手であるが、そうした語りや視点ゆえに、物語は最後まで出来事を俯瞰するような、ある意味で探偵的な態度にはならないのも面白い。むしろ従来の作品のようにウィットやユーモアの利いたはたらきをするのは現在軸にはほとんど登場しない不在の伯父(マフィアのシノギを壊滅に追い込んだのも彼の奸智によるものである)や中国人の探偵・李少琦(リイ・シャオキ(であり(ノックスの十戒の第五戒「主要人物として「中国人」を登場させてはならない。」を想起せずにはいられない)、そうした大人たちの世界との距離を保ちつつ、汚れずにいる少女が背伸びをしていくというささやかな冒険譚が本作の持ち味である。
ミステリーズ!』という掲載誌の色に合わせたということもじゅうぶんにあるのだろうが、SFでもホラーでもない、ミステリーという枠で描かれる吉川作品がほかにもあればよいのに、と思わずにはいられない。

 

「ピーターパン・ホームシック・ブルース」

 初出:『SF Japan』二〇〇五年 SPRING、徳間書店

『ピーター・パンは、子供を殺します』『彼は大人になってしまった子供を見つけると、(…)すぐに殺してしまうのです』『ネバーランドに住み続けるには……』古い古い約束のように、その答えは胸の奥で大切に覚えている。
「フック船長の海賊船で密航することさ」
 今から十三年前の夏の日、このQ市に隕石が落ちて、朝の青い空が真っ赤に灼けた。それがほんとうに隕石だったのかはわからない。政府がそう言っているだけだ。けれどそれ以来、わたしたち日本人だけに人格希薄(ペール)化現象が、続いて憑依(ペルソナ)現象という奇病が各地で発生した。わたしたち、陽乃と月乃という一卵性双生児は、大人になっていくにつれ、次第に離されていく未来に気づいていた。「逃げよう、月乃。二人だけで。二人だけで居られる世界へ」そして陽乃は言った。「ママを殺そうよ」実行は簡単だった。けれどもわたしたちはすぐに引き離されてしまった。そしてわたしは待った。ピーター・パンではなく、フック船長を――。

〈憑依都市〉プロジェクトの一編。主人公の双子の子をそそのかしたのはアンディ・ウォーホルに似た謎のお婆さんであるが、しかし彼女は物語に深く関わらない。エンプティである双子の姉妹は憑依者〈キャプテン・フック〉となり、暴走する。それを止めるのは、対ペル・ソナ機関「D(ドロシー)チーム」に所属する銃刀法登録サイボーグのティンカーとスケアクロウである。〈憑依都市〉の企画としては、明かされる情報も少なく、まだまだ序盤の一編だったといえるだろう。ちなみに〈憑依都市〉プロジェクト作品はほとんど単行本となっていないため、これらのストーリーを追おうとするのであれば『SF Japan』のバックナンバーを根気よく集めていく必要がある。
 また、〈憑依都市〉プロジェクトの単行本として唯一、世に出たのは津原泰水『アクアポリスQ』(朝日新聞社)のみであり、それも絶版ののち津原本人がウェブで一部分を公開していたものの、二〇二二年八月の段階で掲載サイトのサービス終了に伴い、閲覧が不可能になった。

 

「赤頭巾ちゃんに気をつけて」

 初出:『小説宝石特別編集 英雄譚』光文社ブックス81、二〇〇五年

 ぼくは大学の助教授として、H・セル――近年あるバイオ系企業が開発した「誰のものでもない人工細胞」――を培養していた。これは99パーセントの患者に対し拒絶反応を起こさず、しかも爆発的に成長が早いものの、倫理的な問題を抱えており、必要な部分以外の培養が禁じられている。けれども時折、育ちすぎてしまい、予定外の部品が発生することがしばしばある。そしてその日、ぼくは処理場にそれら廃棄物を入れたカートを運んでいるさなか、声をかけられた。それは運命だった。運命は美しい少女のかたちをしていた。ただし、首だけの――。

 とある人に言えない欲求を抱えた男が運命の女の子に出会う、といったボーイ・ミーツ・ガールの筋書きをホラー・サイエンスの味付けで送る一作。京都大学の山中教授らによるiPS細胞が公表されたのは二〇〇六年のことであり、本作はその直前に出版されたことになる。もしかするといくらかタイムリーな読まれ方をされていたかもしれませんね。
 本作がアイデアとして面白いのは、その「誰でもない」はずの細胞を培養した結果、童話の「赤ずきん」としての自我を持って少女が語りかけてくるという展開で、その無から有を生んだことの説明として、カール・ユングの「集合的無意識」を持ち出してきている点だ。つまりこの生首だけの「赤ずきん」は人類にとって目に見えない「無意識」の物語として、疑似人格を形成することに成功した奇妙な個体なのだ。
 ではそうして生まれた赤ずきんは、やはり物語のように狼に食べられることになるのだろうか、といった邪推がこの文章を読んでいるあなたの頭のなかではじまると想像することは容易なので、その結末はぜひ実際に読んで見届けていただきたい。

 タイトルはもちろん庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』からだろう。

 

「ドリアン・グレイの画仙女」

 初出:『アート偏愛 異形コレクション光文社文庫、二〇〇五年十二月

 わたしの前に、黒い紐でつづられた古いタイプ原稿の束と、錆びたクリップで添付された一枚の古い写真がある。ありていに言って、これはポルノ写真だ。写真機の普及によって、娼婦のブロマイドや裸婦写真が英国のアンダーグランドで流行したのは写真史に詳しければご存じだろう。そしてこれは、その闇の美術史の、知られざる傑作の一つである。そう、これは孫文『倫敦被難記(キッドナップト・イン・ロンドン)』の破棄草稿なのだ――。

 一八九六年、のちに「中国革命の父」と評される孫文は最初の武装蜂起に失敗し、一千元の賞金をかけられ、国を追われた。そして一年の放浪の末にロンドンに到着した。その滞在中、清朝のスパイによって拉致監禁され、死刑台に立たされる寸前になるという大難に遭う。その経験を英文でしたためたのが『倫敦被難記』であるが、そのさいの語られざる出来事を描いたのが本作である。その彼自身が綴ったとされるのは、銃弾を胸に受けて死んだあと、ふたたび息を吹き返した東洋人の少女の話だった。
 この不死の少女の身元を知る老人は、『ドリアン・グレイの画像』という小説を例にあげて、彼女に施されているのは「屍解仙(シジェーヂアン)」という中国の古い呪術だと説明する。つまり写真としてエーテル体を光学的に定着させ、少女の身に降りかかるものの身代わりにさせ、少女自身を生き延びさせる。それを聞いた孫文はこの少女を中国革命のためのジャンヌ・ダルクとして譲ってほしいと懇願するが……。
 このような一種の歴史的な空想の膨らみ、あるいは年表の空隙を突くことでオルタネイティブな物語を生み出していくスタイルは、おそらく山田風太郎的な歴史小説の発想法に基づくものだろう。と、このように述べてしまうと勘のよい読者は本作の「仕掛け」に気づきやすくなってしまう可能性があるものの、あえてここでは言及しておきたい。なぜならこうした「歴史の交差」を狙った作劇スタイルはいま現在、吉川良太郎ではないべつのSF作家に受け継がれているからだ。それはだれか。
 そう。なにを隠そう、伴名練である。

 

「いばら姫」

 初出:『小説宝石』二〇〇七年九月号、光文社

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 若くして亡くなった、藍沢香澄という挿絵画家の名を知る人はそう多くはない。ある園芸専門誌で栽培家のエッセイなどに挿絵を寄稿し、植物学者だった夫の影響か緻密かつ幻想的なディティールと、時折絵に添える散文詩のような小文は、どちらも一部に人気があった。わたしが彼女に会ったのはもう二十年も前のことだった。あの頃、病弱な彼女を日本に置いて、親戚の夏生おじさんは治療薬や漢方を探しにフィールドワークをしていた。それを聞いて憤慨した子供のわたしは「ぼく将来、医者になる。そしたらきっと香澄さんを治してあげるよ」と約束した。彼女の遺作としてノートに綴られた文章には、あの夏の記憶の続きがあった――。

 掲載誌の関係か、どこかSFと幻想ホラーのあいだを漂うような、不思議な味わいの、そして愛の物語である。幼い頃からの病気によって余命わずかな香澄は、雲南省の奥地にある、巫祝(ウーズ)(シャーマン)にだけ伝承された民間医療があることを知らされ、それによって健康を取り戻したのなら結婚を申しこみたい、と夏生に告げられる。
 現地のシャーマン曰くそれは房中術であるが、ほんらいは女性同士でおこなわれるものなのだと言う。香澄はそれを受け入れ、帰国後、次第に回復していった。しかし、彼女の身体にはシャーマンが肌に刺していた入れ墨とおなじように、茨のような緑の線が現れるようになってしまう。夫はそのような状態の彼女にも以前とおなじく愛情を注いだが、しかしその茨ゆえに、ぎりぎりのところで一線を引くようになる。そうして彼女はまるで、永遠の眠りに閉ざされたいばら姫のように近づきがたく、だれにも触れられることのない存在となってしまう。
 本作の大半はこの香澄自身によって書かれた手記で構成されているのだが、それを読んだあとの読者に去来するのは、ひとつのささやかなミステリーだ。そしてその謎が解けたとき、夏の植物のかもしだす芳香に似た、じっとりと生温かい読後感がやってくる。童話をモチーフとした吉川作品はいくつもあるが、本作はそのなかでも飛び抜けた出来の一作である。しかし現在、掲載誌を中古市場等で入手することは難しく、国立国会図書館等でしか読むことができないのが惜しまれる。

 

「誰がひばりを殺したか」

 初出:『SF Japan』二〇〇八年SPRING、徳間書店

 牢獄の魔女の背に、翼が生えてきたという。その奇怪な噂が北フランスの都市ルーアンに広まったのは、件の魔女が捕縛されてから一年が過ぎようとする初夏のことだった。ではその翼とは悪魔の巫女にふさわしい黒い蝙蝠の翼か、はたまた猛禽の翼かと、噂には尾ひれがつきそうなものだが、不思議とそれについてはみな、おそらく誰もがおなじことを考えているだろうという沈黙があった。すなわち、それは天使の翼ではないか。その魔女の名はジャンヌ・ダルクといった――。

 法王庁の奇跡審理委員会に命じられたルテラン神父は、ジャンヌ・ダルクが幽閉されている牢で信じられないものを目撃する。それから神父に向かって「やれやれ、天使を創り出すつもりが、妙なことになりました」と青髭公お抱えの魔術師フランソワ・プラレッテは説明をはじめる。ジャンヌの身体に現われたそれは聖痕(スティグマータ)などではなく、東洋に伝わる〈怪異〉なのだという。このままではジャンヌを救えないと確信したルテランは、その状況を逆手に取った計画を立てはじめる、といった歴史人物を題材としたダークなジャンルミックス的ホラーである。
 令和のいまでこそ、ジャンヌ・ダルクという存在/キャラクターにまつわる表彰はありふれている(それこそソーシャルゲームや映画、舞台にもなっている)が、その多くでは彼女の高潔さ、美しさにフォーカスされている点が多いのは周知の事実だ。しかし本作はある意味で「そうした聖女像がどこから来たのか」という部分から逆算されてつくられたと思われる節があり、オルタネイティブな歴史を用意する吉川流のスタイルはここで強烈な皮肉として成立している。それこそ伴名練「二〇〇〇一周目のジャンヌ」と併読することで作家たちが〈聖女像〉というものに対して、どのようなアプローチをしているのかを比較検討できるはずだ。

 

「吸血花(アルラウネ)」

 初出:『SF Japan』二〇〇八年WINTER、徳間書店

 採録日本文藝家協会編『短篇ベストコレクション 現代の小説 2009』徳間文庫、二〇〇九年六月

 暗黒時代の本草学者の書斎めいた土蔵は、そのまま鉈川家の歴史であり、また秋彦の記憶の中でもある。その奥には、青いワンピースを着た少女がいる。少年のようにほっそりした足先は、昔風に涼をとるように大きな素焼きの鉢の中に入っている。ただし、鉢に満たしてあるのは水ではない――土だ。その少女は、秋彦をかつていじめ、弄んでいた義理の姉の綾女であり、彼女を殺したのは秋彦自身だった――。

 アルラウネ、すなわちマンドラゴラをテーマにした一編である。種や球根があるわけでなく、「生き物の血がしみこんだ地面から生えてくる」というところから、殺した姉の血を吸った地面から可能のそっくりのそれが現れ、男が世話をする、というどこか暗い、官能的な欲望がにおう。時代や土着の湿った空気を思わせる語りといい、乱歩的なエロティシズム幻想譚に近く、『異形コレクション』に収録されているといわれてもまったく不思議ではない。
 とはいえ、本作にも吉川なりのユーモアであり、ウィットがここぞというところで立ち現れている。終盤で語られる「だが――庭師と薔薇は、いったいどちらが主人だろうか。」という言葉から見える価値転倒は、そうした架空植物の持っている官能的なテーマの持つ豊穣さを、じつに気味悪く、素晴らしく語ってくれる一節だろう。

 

 

青髭の城で」

初出:『Fの肖像 フランケンシュタインの幻想たち 異形コレクション光文社文庫、二〇一〇年九月

 ローマ教皇庁所属「禁書室」、別名「地獄室(アンフェール)」。異端の思想書、魔術書、錬金術書、絵画や彫像に至るまで、人間の知的・芸術活動のうち世にあってならぬものはみな、神の代理人たる法王の名の下に禁書とされ、ここに封印される。当初、わたしの目的はアラビアの古典医学書を研究することだったのだが、ふとこの中世の殺人鬼に興味を惹かれはじめた。分厚い裁判所のページをめくって、事件のあらましを確認してみよう。少年虐殺者ジル・ド・レ――またの名を青髯公。その城門を開こう。

 とある無名の研究者がジル・ド・レの生み出した地獄を調べていくうちに、だんだんと不可解な点が増えていくという、いくらかドキュメンタリータッチで語られていく一作である。語り手の気づいた疑問点は複数ある。ジル・ド・レほどの大貴族であれば自分の領地で人を百人殺そうが千人殺そうが、咎めることは難しいのではないか。まして、一か月で結審してしまうとはどういうことか。ほかにもジル・ド・レがどうやって彼の持つ莫大な財産を短期間で消費していったのかもわからない。このような調子で、みるみるうちに謎は増えていき、しかし中世の闇のなかに、なにか巨大なもの影が見えてくる……。
 語り手は次第に青髭公に導かれるかのように行動をはじめ、そのさまは、まさしく暗い部屋のなかに灯した蝋燭がちろちろと揺れているのを見つめているかのようで、静的な語りながら、じつにスリルに満ちている。その探索行の奥の奥、やがて現れるのはとある秘術といっていいものであり、最後には、わたしたちの知っているあの一冊の「書物」へとたどり着く。さて、これ以上はもうなにも言うまい。

 

 

「黒猫ラ・モールの歴史観と意見」

 初出:『SF JACK』角川書店、二〇一三年二月
 文庫:角川文庫、二〇一六年二月

 一七九四年夏、パリには革命の嵐が吹き荒れていた。そしてニナは地の底にいた。正確には、彼女の首が仰向けに横たわっている。体も一緒に墓地に投げこまれたはずだが、どこへいったか見当もつかなかった。そして動けない視界の端には一匹の猫がいた。ニナは猫と対話をはじめる。猫は、この共同墓地で死者の記憶を吸収して、成長したのだと述べる。「我輩はなにものか――行ける墓穴、死者たち(レ・モール)の記憶を集積した図書館、あるいは死(ラ・モール)そのものである」猫は死体から死体へ、戦争から戦争へと歩き渡り、そしてその語りはどこまでも続いていく――。

 本作はもちろん「我輩」と猫が語るように、夏目漱石我輩は猫である』および、ローレンス・スターン『トリストラムシャンディの生涯と意見』へのタイトルの目配せを含みながら、そのとりとめもない、しかし泰然とした語りは次第に時間の制約を飛び越えて、SFとしての語りにシフトしていく。そのスケールはしなやかで、人間中心主義を離れていく。吉川作品としてはかなりひさびさの「猫」テーマの作品である。ぜひその遊歩的な思考の道をたどってほしい。
 また本作が収録されている『SF JACK』の文庫版には、瀬名秀明による北欧神話を下敷きにしたポストヒューマン作品「不死の市」が収録されていないため、お求めのさいは単行本版を探すことをおすすめする。

 

「おかえりヴェンデッタ

 初出:webサイト『SF prlogue wave』二〇一五年五月(現在閲覧不可)

 収録:岡和田晃編『再着装の記憶――〈エクリプス・フェイズ〉アンソロジー』発行:アトリエサード、発売:書苑新社、二〇二一年九月

 火星の小さな植民市、人型ラジオが歌うシャンソンの流れる店のカウンターでは、ド・ゴールケネディが政治談義にふけっている。窓際には初代ジェームズ・ボンド。どれも義体だ。そしておれは二十年前のおれと対面していた。同時にマフィアに追われていた。「いったいなにしたの?」「ボスの部屋で花瓶を割ったんだ」「それだけ」「……ボスの頭で」大急ぎで自分の分身をつくらせた。クローン義体だ。それにバックアップの魂をダウンロードして、もう一人の自分を作り出す。二手に分かれて追っ手をまき、あとで魂を統合するつもりだった。が、しくじった。連中に嗅ぎつけられ、大急ぎで逃げ出したのだ。中途半半端なコピーを連れて――。

 二十三世紀、技術的特異点に到達した未来の太陽系を舞台としたRPG〈エクリプス・フェイズ〉の世界観を共有したシェアワールドの一作。サイバーパンクスペースオペラ、ポストヒューマンなどの要素を含みつつ、しかしどこまでも人間味にあふれる物語が本作である。かつての自分と現在の自分はどこか相容れなく、しかし見えない絆がそこに生まれる。マフィアが登場するのは相変わらずの吉川節といっていいが、どこかジュブナイル的な苦さが現われる。
 本作は二〇二三年一月現在、吉川良太郎の最新作となっているが、『新潟発R』二〇二二年夏号(ニール)のインタビューによれば、「長編小説の企画が二つ進んでいます」とのこと。是非、吉川良太郎の長編新作を待ちのぞむついでにこれまでの諸短編を読んでいただきたい、と書いたところで、このレビュー企画を終わらせたい。拙文にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

『THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!』が試みた、しかし誰にも知られていない小さな演出について。

【※】本記事は『THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!』への致命的なネタバレを含みます。未見の方はご注意ください。

 

 

 

THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!』がその前作であるTVシリーズを含め、画面の中に描写されているオブジェクトが比喩的な、あるいはほとんど直接的ともいえるくらいに劇中の出来事を補足し、描写していることは、比較的知られていることかと思います。知られていないということであれば後述します。

 このTVシリーズおよび劇場版アイマスの演出を担当した高雄統子氏が監督・シリーズ構成を務めた『アイドルマスター シンデレラガールズ』ではそうした演出がさらに進んでいったことも知られた事実でしょう(デレマスのアニメにおける時計の針の位置など、気になる方は検索しておくとよいかもしれません)。

 ですが、TVシリーズに比べ、この劇場版はあまり数多く言及されていないように思います。2023年現在、各配信サイトにはあるようですが、おそらくHD画質ではありませんし*1、作中のとある出来事が物語後半まで秘匿されていることもあり、ネタバレを避けたコメントをする方が多かったせいかもしれません。

 というわけで劇場公開からかなり時間も経っていることですし、改めてどのあたりがすごかったのかについて、本記事のなかで詳しく考えていきたいと思います。

 

例題として

 まずわかりやすい例題として、本編前半の合宿パートの終わり、矢吹可奈天海春香を呼び出しているシーンを確認しましょう。

「わ、わたしがアイドルになろうと思ったきっかけははるかちゃ……じゃない! 天海先輩なんです!」(…)「じゃあ、わたし……自分のことを……」とお互いにもじもじするような、修学旅行での告白のようにもみえるシーンです。

 このダイアローグがおこなわれているさい、背景には非常口の場所を示すランプが灯っています。つまりここでは、矢吹可奈から天海春香に向けた(憧れの)感情が語られているわけですが、この背景の「→」によってもこのような感情が画面上においてパラレルなかたちで語られています。

矢吹可奈天海春香、という感情の向きが非常口の「→」によって説明される。

 こういった語りそのものとしては間接的な、しかし画像表象としてはかなり直接的な演出手法は、近年のアニメーション作品では時折、現われますが、このアイマスシリーズはそれを自覚的に取り入れている傾向のつよい作品といってよいかと思います。ただし、この読み方/受け取り方を肥大化させると、図像学というよりは、陰謀論的になっていきますので、気をつけていきたいところです。

また、矢吹可奈天海春香の関係を表すカットは後半にも反復するように現れる。こちらは背景が微妙に傾斜しており、ふたりの関係の非対称性を示す(ようにも思われる)。

 とはいえ今回、わたしが語りたいのは、たとえば、本作のテーマとしておかれている「天海春香」が慣れないチームのリーダーとなって、トラブルと不安にかられつつも、最後は「自分らしさ」と向き合うことによって、765プロのアリーナライブを成功させる、といった筋についてではありません。

 正確に調べているわけではいませんが、おそらくそういった表現に対するコメントはネットを探せばきっとたくさんあると思います。

 序盤では取材陣や千早の向けたカメラ(物によりますが、もともとカメラは鏡を内蔵している機械です)にアイドルとして応えながら、中盤以降は鏡や窓によって天海春香は自分自身の姿と否応なしにぶつかっていくことになる、といったシーンが反復されていることに、複数回本作を観た人であれば気づくかと思います。なによりそういった演出は終盤の「わたしは、天海春香だから」というセリフによって集約されています。

星井美希に「美希は春香じゃないからわからないかな」と言われたあと。いっときは笑顔になったが、自分の姿を見て、表情を曇らせてしまう春香。

如月千早との会話シーン。悩んでいる自分の姿を窓に見てしまい、首を左右に振る。自分自身にまとわりつく悪いイメージを振り払おうとするかのように見える。

 加えて、この記事には直接貼ることはしませんが、つとめて明るく振る舞おうとする春香の表情が部屋の窓に映り、そこに伝う雨滴が涙のように見えるシーンは、とりわけ多くの人が胸を打たれたはずです。しかし、今回はそちらについては語りません。

 

本論:携帯電話による表現について

 わたしが語りたいのは、本作における携帯電話についてです。

 なぜ本作の演出が語られなかったのか? ということについてしばらく考えていたのですが、おそらく本作はガラケーからスマートフォンへの普及の移行期間の作品(劇場公開は2014年1月)であり、そもそも演出として気づかれていなかったのではないか、と仮定します。

 本作が劇場公開された時期というのは、だいたいiphone4sおよびiphone5あたりが発売されていた時期です*2。ですからそもそもガラケーを買わずにスマホから携帯を持つようになった世代も当然いるはずですし、となればガラケーというものがどういう機械であったのかもわからない、といったこともじゅうぶんありえたのではないでしょうか。

 では、こうした携帯電話の持っていた時代性は、具体的にどういう演出意図のもと描かれていたのでしょう。

 本作の特徴として、TVシリーズの『THE IDOLM@STER』のキャラクターに加え、同世界観の後発作品である『アイドルマスター ミリオンライブ!』のキャラクターが後輩として登場していることがいえますが、ここにおいて、ガジェットによる世代間の説明がおこなわれています。

 つまり、彼女たちは世代の違うアイドル(片やトップアイドル、片やデビュー前の新人)であり、その差異の表現として、ガラケースマートフォンが用いられています。

 ですからここでは「無印:ミリオン」≒「ガラケースマホ」といった対応関係があります。この枠組みに唯一あてはまらないのは水瀬伊織のみですが、彼女の家は裕福な設定があるため、新しいガジェットをすぐに自前の物として扱うようになった、ということとしてじゅうぶん解釈が可能です。

iphoneっぽいデザインですが、正確な機種を特定したい人は適当に調べてください。

 いっぽう、ミリオン組が合宿部屋でくつろぐさい、それぞれのキャラクターはバラバラに過ごしています。七尾百合子が本を読んでいるのは小説好き(トールキンとかブラッドベリが好きとかゆってた*3)という設定があるためでしょうが、馴れ合いのようなコミュニケーションを否定する北沢志保スマートフォンの画面をひとり離れた場所で見つめています。

 2014年ごろの作中における主な連絡手段はLINEやSNSのチャットやDMなどではなく、メールです。2023年からするとスマホ画面をキャラクターがふとしたときに見つめているのはむしろふつうですが、2014年段階ではすこし内向的な印象を与えていたように感じられます(個人差はあるでしょうが、自分はそのように受け取りました)。

スマホを見つめる北沢志保が手前に、ほかのミリオン組は近くにいる。距離感(仲のよさ)が物理的な距離としても描出されている。

北沢志保の持っているスマホiphoneっぽいかたちをしているので、もしかしたら伊織と志保の共通点としてこの機種が用いられた可能性がある。このあと、ふたりはちょっとだけ仲良くなるので。ただしこれは邪推。

物語中盤、メールの受信確認をする天海春香。彼女の携帯はイメージカラーとおなじ赤。

 すこし論を急いだかもしれません。

 たとえばスマートフォンによってガジェットの見た目がかなり画一化される以前の携帯電話であれば、それはキャラクターの「個性の表現」としてじゅうぶん成り立つ文脈がありました。

 どういうことかというと、スポーツ漫画などにおけるプレイスタイルやキャラクターのモデル選手に合わせたシューズなどとおなじと思ってくれればよいかと思います(いまでもスマホカバーなどのデザインやデコるなどといった方法で区別をつける演出はありますが、描写としての普遍性は大手メーカーの商品ほどの説得力は得られないように思えます)。これに馴染みがない人は音楽漫画やアニメのキャラクターの用いる楽器を想像してもいいかもしれません。

 つまり道具と持ち主のもっている属性はニアリーイコールの関係で結ぶことができ、普遍的なキャラクター描写の記号としてある程度まで仮定することが可能です。もうすこし砕けた言い方で説明するのであれば、持ち物にはキャラクターの「こだわり」が浮かびやすい、ということです。

別作品ですが『とある科学の超電磁砲』(2009)ではそれぞれが違ったデザインの携帯端末(PDA)を持っており、それによってキャラクターの「個性」が表現されている。まだスマホがそれほど普及する前だったため、iphoneっぽいものを持っている佐天涙子は「新しいもの好き」「ミーハー」といったキャラ表象に沿った印象を与えてくれる。カエルの携帯がだれのものかは作品内容を知っていれば即座にわかるだろう。

 本編の描写を拾いますと、望月杏奈はスマホを使っていますし、矢吹可奈スマートフォンと思しきディスプレイの大きな端末を持っています(androidかどうかはちょっと自信がありません)。いっぽう双海真美の携帯電話には大量のストラップがついており、いかにもゼロ年代の子供、といった印象を与えます。

どうしてごちゃごちゃしたストラップが一部であんなに流行ったのかは正直よくわかっていません。

ちなみに見直すまで完全に忘れていたが、ガラケーはメールの受信をいち早く確認するためには適宜、問い合わせる必要があった。なにが言いたいかというと劇場アニメ『夏へのトンネル、さよならの出口』にけるLINEじみたメールのテンポ感はほんらい出ない。

 さて、前置きが長くなりましたが、いちばん語りたかったシーンについて説明したいと思います。天海春香が自室にて、矢吹可奈にメールで連絡を取り、そのあと非通知で着信がかかってくる、という苦しい場面です。

非通知設定ということは、矢吹可奈は自分の電話番号をそもそも教えておらず、今後も知られたくない、というコミュニケーション上の断絶がわかります。よい。

「もしもし、天海です……あの……可奈ちゃん、だよね……?」と問いかける春香。遅れて「はい」と返事があります。

一瞬だけ喜ぶ春香。

 しかし、「すいませんでした。わたしも、天海先輩とこのままお別れするの、嫌だったから」と声はつづきます。春香の目元はすこしだけ下がり、声のトーンも落ちます。

「お別れする」という矢吹可奈の言葉に合わせて、画面上で変化したものがある。

 なにが起きたか、わかったでしょうか。

 つまり、矢吹可奈のゆるやかな拒絶に合わせて、携帯電話のサブディスプレイの光が消えているのです。これは一定時間、携帯電話を操作していないと省電力のため自動的に消灯する仕組みなのですが(みなさんが現在使っているスマホにサブディスプレイはないかもしれませんが、基本的には同様の仕組みです)、あたかも天海春香の持っていた希望の灯火がふっと、音もなく消えてしまったかのように映るのです

 いまだかつてこのような表現にガラケーを使った作品はあったのでしょうか、正直、わかりません。しかしすくなくとも、ここに一作だけ、作例がありました。

 そのあと、劇中においてなにが起きたかについてはみなさんの知っているとおりです。むしろ、もっと強烈な印象を与える演出がそこにあったことは前述しましたので、ここに文章は重ねません。

 しかし、このような、あまりにもさりげなく、ほとんど言葉にならないにもかかわらず、心を削るような演出があったことはやはり記載しておくべきだと思いました。作品の公開からだいぶ経ち、本作はネタバレといってもそこまで気にしないような作品としての強度をたしかに持つようになったかと思いましたので、このたび、このように書きました。

 上記の見方とは若干違いますが、ディスプレイライトの省電力を使ったアニメ演出はほかにもあり、はばたくキツネさんが『冴えない彼女の育て方♭』について書いた記事がネットでは有名かと思います。こちらもぜひご参照ください。

foxnumber6.hatenablog.com

 また、筆者がそのむかし書いた、『THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!』における水とキャラクター間の親和の表現について書いた文章もありますので、ご興味のある方は恐縮ですが、こちらもお読みくださるとうれしいです。こちらは前半部の合宿編を中心に記載しており、細かいネタバレは避けています。PDFへのリンクを求めています。面倒ですがその点についてはお許しください。

saitonaname.hatenablog.com

 というわけで、今後も、スマートフォンなどの小道具を使った最高の演出が増え、アニメ界が発展していくことを心より祈願いたします。ちなみに2022年は『映画ゆるキャン△』の犬山あおいであったことは論を俟たないでしょう。

 それではみなさま、今後もよきアニメライフを。ほな……。

 

*1:dアニメストアにあったものは720pでした。

*2:ウィキペディアの記事iPhone - Wikipediaを参考にしている。

*3:ブラッドベリの発音がいつまでも気になっている。

タイトルは裏切ることからはじまっている――『ケイコ 目を澄ませて』感想


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 映画館の環境に依っている部分も多いので一概にはいえないのですが、冒頭の数分を観ていて、これはコミュニケーションの、とりわけ齟齬にまつわる部分をするどく描いた物語かもしれない、と思いました。そう一言に還元してしまうことは当然ながら危うさを伴うのですが、しかし『ケイコ 目を澄ませて』はこの観点(観ること!)から語ってみたいと思わずにはいられない映画でした。

 本編がはじまると、まず字幕によって、舞台が2020年(つまりコロナ禍)の東京からはじまること、そして主人公のケイコ(岸井ゆきの)は生まれつき音を聴き取ることができないと説明されます。そして彼女はプロボクサーであるというのです。

 ここまでくれば、『ケイコ 目を澄ませて』という本作のタイトルが、「耳を澄ませる」ことのない人物、つまり聴覚障害*1にまつわる物語をある程度は意図しているであろうことが察せられます。ですがこのタイトルにある言葉は、そうした短絡的な解釈を伴わせつつ、大多数のわたしたち(つまり聴者であると前提されている)観客の想像を見事に裏切っていきます。

 なぜなら、わたしたち聴者がこの映画のなかでまず驚くのは、ケイコが通っているボクシングジムという空間が、あまりにもたくさんの「音」に満ちているというひどく単純な事実に直面するからです。

 練習中のボクサーのグローブがサンドバッグやミットを打つたび、映画館に配置されているスピーカーからは歯切れの良い、しかし質量を伴うようなひどく「大きな音」が飛び出します。ほかにもステップを踏むときにシューズと床が擦れる音や、縄跳びの縄が床を叩く音、そしてトレーナーによるアドバイスや叱咤など。多くの音がわたしたち観客の周囲を包んでいます。

 つまり、想像以上に「うるさい」のです。しかし、主人公のケイコは当然ながら、目に映っているものしか把握できません。ですから画面のなかに「映っていない」ところからも「音がしている」ことに気づくこともまた、ありません。ノートに鉛筆で書きつけるときのさらさらとした音も、劇中、何度も印象的にくり返される電車の通りすぎるごうごうとした音も、彼女には届くことがありません。

 ですから本作は「目を澄ませて」というタイトルが観客にインプットされている以上、そのギャップに(聴者という存在として)否応なく気づかされる仕組みになっているのです。ストーリーの序盤、ケイコがロッカールームにいるジムの仲間に声をかけずに、手でロッカーを叩いて音を出すことで自分の存在に気づかせるようなことをしていますが、それはむろん一方通行的で、彼女自身には届かないコミュニケーションの方法であるということも、意図的なものでしょう。

 よってケイコの感じている世界とわたしたち観客のみている世界は、明確に隔絶している場所にある、というところから物語ははじまっていきます。また、この映画のカメラは、そうしたケイコの日常生活をすこし引いた場所から撮っていきます。

 そして彼女は、その身体の特徴ゆえにいくつもの不便に、くり返し出会います。まずコロナ禍の社会であることから、周囲はマスクをしているため、口の動きを見ることができません。歩いているときにぶつかった相手が物を落として「拾え」とキレてもコミュニケーションはまったく成立しませんし、コンビニの店員がポイントカードの有無を訊ねても、ビニール袋の必要があるかを問われていると勘違いします。それどころか、夜中ひとりでいると警察に職務質問をされ、相手はマスクをはずしてくれないまま、雑に扱われるだけで終わります。

 手話の通じない相手に彼女ができるのは、持ち歩いている障害者手帳を見せ、配慮を求めることだけです。しかしそうした状況下において、ケイコのような人物への想像力を持った相手に出会えることは、悲しいことですが、めったにありません。

 こうした描写がつづくなか、街を歩いている彼女を遠くから映すカットがあります。街に響くのは、新型コロナウイルスへの感染対策を促す放送です。何度もいいますが、ケイコはそれを聴き取れません。ですからかえってわたしたちは聴者は「耳を澄ませる」という行為ができるために、その差異をつよく意識してしまうのです。それは、わたしたちマジョリティの立場(の傲慢さ)ゆえでもあるでしょうが、ケイコをどこか、孤独のなかにいる人のようにまなざしていきます。

 もちろん本作はそのような障害を持った人物が主人公である、という描き方をしている以上、「かわいそうな人」の「感動ポルノ」ではない、とはなかなか自信を持って言えないところではありますが、しかし、ただただ苦難に置かれている人そのものを簡単に搾取していくようなお話でもないつくりになっています。

 上述したように、ケイコはいくつもの「不便」を余儀なくされています。また、そうした環境に、どこか諦めているように(あるいは諦めざるをえないかのように)ふるまっているし、語られている部分が見え隠れしています。しかし、すべてを諦めているわけでもないということは、彼女がほんらい不利でしかないはずのボクシングをあえてやっていることからも、しずかに、しかし雄弁に伝わってくるのです。

 彼女自身は決して戦う理由を表立っては語りません。弟との会話*2のなかでは「殴ると気持ちいい」とは笑っていいますが、トレーナーとのコミュニケーションのなかで「痛いのはきらいです」ともホワイトボードに書いています。彼女は口頭でのインタビューといったものができませんし、劇中で記者の取材を受けるのはボクシングジムの会長です。脚本のなかに書かれた言葉はあっても、かつて彼女になにがあったのかは、そこまで多くはわかりません。周囲にたくさんの「声」はあっても、彼女自身の肉声そのものは、ほとんど聞くことができません。

 ですからこの映画が映すのは、だから、日々トレーニングを地道に積み重ねていく彼女の姿だけです。そして次第に、わたしたち観客は、その彼女の一挙手一投足から、なにかを読み取ろうと考えはじめるようになります。感情移入、というよりは、ほんとうに「受け取る」といったほうが正しいような気がします。

 ジムと家の往復をくり返す彼女の姿を映すシーンでとりわけ印象的なのは、彼女がバスに乗っているという、ただそれだけの場面です。もちろんケイコ自身はなにも声に出しません。しかし、シートに座って揺られているあいだ、彼女は窓の向こうを見つめ、細かく目を左右に動かしているのがよくわかるのです。決して美しい撮り方をしているわけでもなく、ただ日常的にあるなにげないしぐさを撮っただけのシークエンスにすぎないのですが、それでも、ひどく目に焼き付くのです。むろんこのシーンは謎かけでもないため、バスから彼女が観ているものが具体的になんであるのかは、最後までわからないままなのですが、それも含めて、印象的に「想像させてしまう」シーンとしてできていて、それは、きっとこの映画の持つ力だと思いました。

 ケイコという(一見、孤独にみえがちな)主人公にとって、この世界が豊かで、美しいものであるかどうかは、おそらく観客の判断に委ねられています。もちろんとあるシーンでは、彼女の観ているものの一端に触れることはできますが、しかしそれは当然ながら一端にすぎません。だとしても、彼女が闘っている姿にわたしたち観客は、「耳を澄ませる」ことから差異を知って、そうしてだんだんと、次第に「目を澄ませて」いくようになっていきます。

 もちろん本作はボクシングという激しい動きをともなう競技(それこそ肉体言語といえるかもしれません)のシーンに仮託される部分も多いのですが、たとえば彼女が何度も訪れる川辺の波打つ光や橋の柱に映った水紋など、ただ「そこにあるもの」への関心を惹いてならない部分も数えきれないほどに描かれています。

 加えて、そうした場所を映しながらも、彼女の主観というものをあえて直接は撮らないことで、かえってわたしたちにことばにならない「なにか」をつよく語りかけるつくりになっています。たしかにそれは遠回りで、不便で、不完全で、ちぐはぐなコミュニケーションのかたちなのかもしれません。そもそも最初に言ったように、この映画を観るわたしたちはなによりまず、タイトルの言葉に裏切られることからはじまります。

 ですが、他人と世界を共有していくということは、おそらく根本的にそういうことなのかもしれないと、むろん決して否定的なかたちでなく、ケイコという諦めない人の姿から、教えてくれるのもこの映画なのだと思います。もしかするとそれは他人と殴り合うことからはじまるのかもしれないし、見えない場所から相手の肩を叩いてあげることからつながっていくのかもしれません。ですからまずは、このタイトルに裏切られる体験からはじめてください、とあえてここに共有したいと思ったのでした。

*1:「ろう者」と呼ぶこともあると思うのですが、作中でケイコ自身がどのようなアイデンティティを持っていたり、文化圏に属しているかについて、すくなくとも脚本上では語られないため、それを留意したうえで聴覚障害者、と書いています。

*2:日本語対応手話でしょうか? 筆者には日本手話と日本語対応手話を区別することができません。

2022年よかった音楽を振り返る(アルバム/EP10選&単曲10選)

 タイトルの通りです。

 こいつ最近振り返りしかしてないな。 2022年になってAMAZON MUSIC unlimitedからSpotifyに切り替えましたが、移行がほんとうにめんどくさかったのでもうぜったいしたくないです(手動で千枚以上のアルバム検索と登録をぜんぶやった人の感想)。

 ピックアップしているのは趣味が反映されているのでインディーおよびシューゲイザーが多めです。

 

アルバム/EP編

10. simsiis『white hot』


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 EPの一曲目から気持ちのいい歪みが来てよかった。ギターが二本とも高音のジャキジャキした感じを出してくれているのと女性ボーカルの日本語が心地よくて、Aメロからブリッジミュートもこのくらいの音作りならぜんぜん悪くないなと思いました。ポストロック風味のあるギターのフレージングもバンドの色になっていて、いい音源だなと思う。けれどこれを知ったタイミングで活動休止したのがかなしい。

 

9.結束バンド『結束バンド』


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 ぶっちゃけベストではない。というかベストだと認めたくない。音作りの古さとかも含めて、熱が冷めた二か月後くらいには聴き飽きているんじゃないかと思うのだけれど、でもあのころの記憶を想起させる「こんな感じのバンドいたよな感」はすさまじく、そのディレクションだけでなんか下北沢OMOIDE IN MY HEAD状態になってしまう、マジックディスクではある。

 ベースはずっとせわしなく動き回って主張するし、ドラムは加速したいときにわかりやすいくらいにスネアめっちゃ叩きまくるし、リードギターはハードロック通ってましたが?みたいな態度でベッタベタな速弾きをするか、とりあえずチョーキングとオクターブ奏法で乗っていく、みたいなその青臭くて音をまっすぐぶつけてくる感じは間違いなく「あのころの高校生が考えた最強のバンド」だ。

 つまり「あのバンド」や「ギターと孤独と蒼い惑星」などの楽曲群はわたしがゼロ年代の高校生だったころ異様なくらいに聴き続け、間違いなく生きる指針としていたランクヘッドの5th~6thアルバムの時期を否応なくフラッシュバックさせる。付点八分ディレイつけてくるあたりとかさ、、、というわけで結束バンドのファンはアートとかシロップ聴くのもいいけどランクヘッドも聴いてほしいんだ。

 というかいろいろ考えてみると、このアルバムのよさってべつにぼっちちゃんのギターヒーロー感ではなくて(じっさい原作の描写を加味すると彼女は実力を出せていない/もちろん作中のストーリーから生まれた演奏シーンは彼女に寄り添っているのだけれど)、リード曲の派生形で完結しない手数の多さによる山田作曲のポップス感とそれに逐一対応できる喜多ちゃんの歌唱センスかもしれない(ここまで早口)。

open.spotify.com

 

8. PELICAN FANCLUB『三原色』


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 じゃあかっこいい現代のバンドをあげろ、と言われたらここ数年はペリカンファンクラブになってしまう。ギターの歪みの狂暴な感じは十年前のa flood of circle を思い出させるものの、適度に垢抜けた音作りに加え、ボーカルとサビのメロディの抜けがよくて、リズムも時折変則的になったりして、シューゲイズも好きそう、電子音にも迷いがない、言葉選びもポップとひねくれの中間をよくよく通る。もうこれでいいじゃん、みたいなところがある。このアルバムのあと体制が変わってしまったけど、じゃあこの先なにがあるの、という期待は捨てたくないんですよね。

 

7.KARAKURI『Re:SONANSE』


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 KARAKURIのファーストアルバムが出るまで七年もかかったのかと思うとぞっとするけれど、秋奈さんの歌唱力はもうちょっと広く知られてほしい。この数年でプロセカとか電音部とかでようやく偉い人たちが気づきはじめてきた感触があるので、あともうすこし、頑張って届くところまで届いてくれ……。おれが唯一行ったことのあるオタク・ライヴビューイング・イベントで感動したのが秋奈さんの歌だったんだ。そのときは持ち曲が二曲しかなくて一瞬だったね。

 

6.kurayamisaka『kimi wo omotte iru』


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 ”ジャケットに描かれた2人の学生 “向井あかり”と“松井遥香”が、移り変わる季節の中で別れ、日々を離れ、それぞれの暮らしを歩み始めていく、そんな人生の一部を切り取るようなコンセプトアルバムとして制作された”……百合じゃん。もう言うことないな。

mag.digle.tokyo

 

5.Superfriends『Night Thinkers』


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 このバンドをSpotifyでおすすめされるまで、ぜんぜん知らなかったのですけれど、ギターポップ感と適度な肩の力の抜け感、音のバランスがすごいよい。ベランダを聴いたときのよさがあるな、、、と思って調べたら過去に対バンしとるやんけ。かざらない歌がこの歳になると染みるんだよな……。数年前にぜんぜんピンとこなかったPolarisもめちゃくちゃ聴けるようになってきたし……。

 

 

4.RYUTist『(エン)』


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 Vtuberや電音部といった割と短期的になってしまう可能性を秘めている企画はともかくとして、かなり長期に渡って作曲陣に恵まれているアイドルはRYUTistだと思う。なんでかは知りません、詳しくないので……でも聴いちゃいますね。

 

3.蒼山幸子『Highlight』


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 ねごとというバンドには正直あまりいい印象がなかったというか、デビュー曲の「ループ」は閃光ライオット応募時のデモ音源のほうがぜんぜんよかったし、わざわざ要らない音を足してごまかすなよくらいに感じてしまいそのまま聴かず、それから数年後に『ガリレイドンナ』のOPをふと聴いて、え、こんなボーカルかっこよかったっけ? オケの使い方めっちゃ印象的でうまくねってびっくりした(ガリレオガリレイのときも数年後にアニメタイアップ曲を聴いてびっくりした)のだった。

 そのあとも折り合いは悪いままであまり聴かなかったけれど、蒼山幸子ソロ名義のはバンドとしてどうかとか、こちらが肩に力を入れて聴く必要がなくなった部分が大きくて(でもやっぱ四つ打ちは好きなんだなとか思ったりして)、なんかこのアルバム、自分は運転はしないけど夜の高速を車で走りながら通しで流したらめちゃくちゃ気持ちいいんだろうな、と思えてしまい、あのころからの時間の経過を考えたりし、しみじみと打ちのめされてしまった。

 

2. fhána『Cipher』

www.youtube.com アルバムを一本通した場合の出来はバランスが悪くてまったく聴けたものではないのだけれど、一曲目目の「Cipher.」が十年以上越しにボーカル音源として届けられたことにすべてが打ち勝ってしまってなにも言えない。

 わたしはFLEET時代から佐藤純一氏の音楽に触れてきたし、初音ミクが出てきたときのインターネットに生まれた異様な熱や高揚感も思い出せる。そのあと出てきた『廃墟で歌う天使』という本には失笑もしたけれども、あのころ、まだほとんど文芸書の表紙を担当する仕事もしていなかったであろう大槻香奈氏のイラストに高校生で憧れて、京都の片隅でやっていた個展に行き、そしてネットでまた音楽を聴いていた。

 そういうなかで若手のクリエイターたちが音楽と冊子というセット販売形式で発表した『TRANSIT LOUNGE』を注文し、震災でテレビ画面越しになにもかもがぐちゃぐちゃになっていく状況をまざまざと見せられながらも、どうにか「Cipher.」と「kotonoha breakdown」をリピート再生することでぐるぐると嫌なことを考えつづけたりつづけなかったりしていた自分をもう否定も肯定もできない遠くに置いてきてしまったんだなと改めておもいました。

 ってかこいつメンバー脱退したり活動休止したりするバンドの曲ばっか聴いてるな。

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1.Polly『pray pray pray』


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 あまり意識していなかったので12月になってSpotifyが教えてくれるまで、このアルバムの二曲の再生数が一位と二位だったことに気づかなかった。そのくらい生活になじんでいたってことですね。もちろん適当にアルバムを再生したあとの自動再生機能がその再生数のほとんどをになっているから自分の意思の結果なのかは判別がつかないけれど、すくなくとも今年いちばんのシューゲイザーアルバムであってほしい気持ちは嘘ではないので、一位とします。決定。ありがとう。

 

 

単曲編

10. 夏川椎菜「すーぱーだーりー」

open.spotify.com このイントロのギターの音作りといいメロディといい、cinema staffじゃん!! とめちゃくちゃテンションが上がったけれど、笹川真生氏作曲だった。

 

9. 雨模様のソラリス「Forever and Ever」


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 というわけでcinema staffメンバーによる提供曲を探したらあった。これもいい。

 

8. Codie「世界未知的終點」


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 この系統のコード進行からはじまる楽曲は腐るほど聴いてきたけれど、これが2022年の完成形でいい。逆にこれ以上なにを足す必要がある?

 

7.ぽかぽかイオン「やじるし→」


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 2022年アニメソング界の収穫。

 

6.楠木ともり「タルヒ」


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 2021年発表だけど2022年の半ばに知った。轟音系からはじまらない、かつ深めのリバーブとコーラスエフェクトを中心に構成する現代シューゲイザーが声優さんのCDから??? という感動でずっと聴いている。なんでこんなことができたのか、と思って作詞作曲が楠木ともりさんご本人だったのにはたまげたが、編曲はやぎぬまかな氏だったので、たしかにその人選ならこういう曲ができても不思議ではないな……と思い直した。でもやっぱラスト一分で歪みがゴリっと入ってくるのは最高だよな。

 

5. airatitc「フィルムリールを回して」


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 ぶっちゃけART-SCHOOLの「14souls」じゃん!!! しかもライヴアレンジ版とCD音源版のアレンジを組み合わせてる!!! 作曲はFor Tracy Hydeとエイプリルブルーのギター菅梓氏なので納得。

 

4. Fragile Flowers「機械仕掛けの天使の詩


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 おれは数年前に『最終兵器彼女』のちせのイラストとともに投稿されたこの曲がサブスクで聴けるようになるのを、ずっとずっと待ってた。最高のセカイ系ソング。

 

3. odol「三月」


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 ぜんぶ佳い。さっさとくるりみたいな扱いをされてくれ。

 

2. クレナズム「ふたりの傷跡」


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 開幕がめちゃくちゃいい歪みだな、と思っていまYOUTUBE検索して知りましたが、映画『ふたりの傷跡』の主題歌だそうです。

”親友のハルを文化祭前に自殺で失い自己嫌悪を抱きながら生きる高校生のミナは転校生のドラム演奏者の黒田ハルカとハルの未完成楽曲を形にしようと希望を見出す。文化祭に出演も決まり二人の思い出の夏が始まろうとしていたが…。”

 離別バンド百合(名前を一部重ねて代理存在っぽく扱う可能性がめちゃくちゃ高いやつ)はやめろ!!!!!!!!

 

1.アメリカ民謡研究会「貴方だけが、幸せでありますように。」


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 ボイスロイドポエトリーリーディング界隈に疎くて今年になってようやく知ったけれど、クール。すごい。バンド青春漫画『ロッキンユー!!!』に出てくる某曲の元ネタがこの人だそうです。2022年に配信した曲ぜんぶいい。好き。

 ってかこの人VRchatのWorldもつくってるな。多才。

 

 

エンディング:Beachside talks「海辺の話」


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 どうしてか、自分の人生を振り返るような聴き方になっちゃったね。つまり老いたんだね。高校時代楽器屋さんの店員のお兄さんが「元気な曲は聴けない」と言っていたのが日に日に染みてくる。助けてくれ。

 最後に、Spotifyで2022年よく聴いていた曲のプレイリストを置いておきます。必要な人は使ってください。よしなに。

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2022年のお仕事、書いたもの、その他告知

 あけましておめでとうございます。タイトルの通りです。

 昨年はいろいろ書いて、かたちになったりならなかったりしました。そのまとめ記事になります。今年もたぶんかたちになったりならなかったりするかと思います。なにとぞよろしくお願いします。

 

ユリイカ11月号 特集=今井哲也』主要作品解題

www.seidosha.co.jp

 今井哲也さんの作品(商業・商業アンソロ・同人含む)およそ60作品ほどのデータを整理しました。けっこう頑張ったと自負しているので、よかったらご参照ください。他の方の寄稿もめちゃくちゃ面白く、なんならインタビューや対談、単行本未収録作品が読めてとてもお得です。よろしくお願いします。

 各出版社さんはこれを機に、今井哲也短編集を企画してはいかがでしょうか。お待ちしております。

 

第4回百合文芸小説コンテストpixiv賞「綺麗なものを閉じ込めて、あの湖に沈めたの」

novel.pixiv.net なんの因果か『よふかし百合アンソロジー』に寄稿した作品が賞をいただきました。夏休み最終日の前日、中学生の女の子ふたりが猫の死体を湖に沈めに行く、という百合です。ホワイダニットのミステリでもあります。

 

第4回ことばと新人賞最終候補作「アフターワード」

note.com ミステリと純文学のあいだみたいなメタフィクション(?)です。選評といいますか、最終選考の座談会が本誌で読むことができます。受賞作品も読めて、選考座談会も読めますので、いろいろと比較できて面白いかもしれません。

 

第2回日本SF作家クラブの小さな小説コンテスト一次通過「n番目の共生空間」

www.pixiv.net ジョン・ロールズの「無知のヴェール」から考えた「夢」についてのお話です。近いうちに削除するかもしれません。

 

Kaguya Planet果樹園SF選外作品「時間のかかる密室」

saitonaname.hatenablog.com

 正直、SFという題材は得意ではないのですが、ミステリにしたらいけるやろ! と思って密室のお話を書きました。イメージは作中でも触れたロナルド・A・ノックス「密室の行者」です。タイトルはスタージョンのもじりです。選外にはなりましたが、のちにスペースで「印象に残った作品」として井上彼方さんに最初に取り上げていただいて嬉しかったです。

 

For RIKKA ZINE vol.1 Theme : Shipping(rejected)「宇宙移動美術史のために」

saitonaname.hatenablog.com

 こちらも選外作品になります。設定を煮詰められていなかったので、すこし書き直しましたが、まだ粗があります。ただアイデアとしてはけっこう気に入っています。2021年末に観た『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』三部作に対して、自分なりに捉え直したかったゆえに書きました。ぜんぜん違うお話ですが。

 

『ストレンジ・フィクションズvol.3』収録「瞬きよりも速く」

booth.pm

 200枚くらいの中編です。「犯人当て」というものが囲碁や将棋のように競技化された世界での熱い戦いを書きたくて書きました。現在は購入ができませんが、1月15日の文フリで少部数のみ頒布いたします。電子化の予定は未定です。

 

『犬飼ねこそぎデビュー前作品集 犬猫未満』企画・編纂

strange-fictions.booth.pm

 昨年の春ごろから企画を練りはじめ、犬飼ねこそぎさんのアマチュア時代の作品を40作ほど読み込み、ミス研時代から犬飼さんのウォッチしてきた鍵入たたらさんと協議しつつ、つくりました。ご本人インタビューもあります。こちらも現在は購入ができませんが、1月15日の文フリで少部数のみ頒布いたします。電子化の予定は、前向きに検討したいところです。あと表紙をAIと一緒に描きました。

 

2022マンガベスト10

exust.hatenablog.com ふぢのやまいさんにお誘いいただき、2022年のマンガベスト10を寄稿しました。いいとおもった作品をあげつつ、他の方との被りを減らしたつもりですが、案の定被っています。寄稿者全員を読むと面白漫画リストとしてめちゃくちゃよいものになっていますので、ぜひお読みください。

 

 

以下、最新情報の告知になります。

京都文フリ7新刊『黒い背表紙の探偵 ロス・マクドナルド・トリビュート』

note.com

 というわけで、今年1月15日、来る文学フリマ京都7にて、〈ストレンジ・フィクションズ〉の新刊『黒い背表紙の探偵 ロス・マクドナルド・トリビュート』を頒布いたします。いつものメンバーに外部ゲストを加えて、ロスマクの没後40周年を言祝ぎます。スペースは「お-17」です。なにとぞよろしくお願いします。

 わたしは二作品を収録させていただきました。ミステリーズ!新人賞の二次通過作と創元SF短編賞の一次通過作になります。ちょっとだけ手を入れたりしました。あ、ちなみに収録作品はロス・マクドナルドを読んでいなくても読めます。ぜひぜひお楽しみにしてください。

作画/デザイン ななめの

 

 

 

最後に

 ななめの/織戸久貴名義での同人誌への寄稿やお仕事の依頼、募集しております。

 なにか当方に連絡をしたいときは、本ブログのプロフィール欄のメールアドレス、またはTwitter(@nanamenon)にDMをお願いいたします。よほどのことがなければ一両日中にお返事できるかと思います。なにとぞ。

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nanamenon.fanbox.cc

 

 最後になりましたが、2023年もよろしくお願いいたします。