ふたたび青い悪夢②-『リズと青い鳥』とピンク色の研究

【※】本記事は、映画『リズと青い鳥』の内容に深く触れています。未見の方はご注意いただきますようお願いします。

 

saitonaname.hatenablog.com

 私はあとを追いかけて力まかせに真実を吐かせてやりたいと思った。だが、それは私のやり方ではない。そう言ったばかりだし、その言葉に嘘はなかった。

 ――ロス・マクドナルド象牙色の嘲笑』(ハヤカワ・ミステリ文庫)より

  というわけで『リズと青い鳥』解釈のつづきです。本題になります。ただし、激的な解釈といったものはありません。

 まずは前回から引き続き、いくつかの誤謬と思われる説について確認をしておきたいと思います。具体的には、鎧塚みぞれと傘木希美の瞳の色について。

 作中作「リズと青い鳥」の登場人物の瞳の色(ブルー)およびリズが青い鳥に与える果実の色(赤)と対比され、あたかもその色彩設定が現実パートの後半部(鎧塚みぞれ≒青い鳥)を先取りしているかのような説、もしくはみぞれと希美の瞳中央に置かれた色が互いの瞳の色を映している、といった説*1がネット上にはあるようですが、これは正確性を欠いたものと思われます。

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鎧塚みぞれの瞳

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傘木希美の瞳

 写真は再生したテレビ画面をキャプチャせずスマホで撮影したものなので画質については諦めてください。色調も若干カメラのレンズを通して変化しています。詳しく確認したい方はブルーレイかDVDを買ってみなさん自身の目でしっかり見ていただくようお願いします。

 それはさておき、鎧塚みぞれの瞳は縁が茶に近い「赤」で虹彩部分は「暗い赤」に縁とおなじ「赤」の模様、光が入り込む部分は「ピンク色」で中心部には「緑色」がアクセントになっています。瞳孔は「黒」でハイライトは「白」。

 いっぽう、傘木希美の瞳は縁が「青」で虹彩部分は「暗い青(紺色?)」に「青」の模様、光が入り込む部分は「水色」で中心部には茶に近い「」がアクセントになっています。瞳孔は「黒」でハイライトは「白」。

 正確なRGB値は測っていませんが、だいたい上記のような色の配列になっているかと思います(あくまで記載したのは系統色です)。以上のことからわかる通り、中心部の色(アクセント)がふたりの瞳の色を互い違いに映しているわけではないことがわかります。

 また、赤い実の色を瞳に宿しているからといって鎧塚みぞれ≒青い鳥、と逆算して意味を取ろうとするのもよく考えれば不自然だとわかります。「リズと青い鳥」においてリズも青い鳥も瞳の色は「ブルー」なのですから*2、その前提を無視し、赤い実という色にだけ飛びつくのは直感的な判断で、意図的な取捨選択といえそうです。

 加えて、赤の系統色ということであれば、全体的に青みがかった色調のなかビビッドに映り込む傘木希美の腕時計の色(ピンク)があります。赤い実と鎧塚みぞれの瞳の色(赤・ピンク)をつなげそれらを独立して考えるということであれば、それは同時に傘木希美の存在を無視していることになりかねません。よって瞳の色とストーリーを結びつける考え方はどこか短絡したもののように思われます。

 とはいえ『リズと青い鳥』を冒頭から見ていると、タイトルが出る前からこの腕時計のピンク色は数度にわたって大胆に映り込み、観客はそれを見逃すということがおそらくできません。また同時に、このビビッドな色はどこか浮いているようにも感じられます。仮に本作の落ち着いた雰囲気の色調に馴染ませたいのであれば、もっと薄く淡い色か、あるいはシックな暗い色のほうがあきらかに向いている気がします。

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希美の腕時計(ピンク)①

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希美の腕時計(ピンク)②

 では、どうしてこのような特徴的な色遣いになっているのでしょうか。

 今回はこの主観的な疑問点を念頭に置きつつ、台詞や画面上に映る情報を頼りに『リズと青い鳥』のストーリーとピンク色を追いかけていきたいと思います。ただしあきらかに飛躍のある解釈、たとえば「この描写は○○というモチーフを象徴的に表している」といった解釈はできるだけ避けていきます。あくまで見て受け取ることのできるテクスト(声と文字と絵)をベースに読み込んでいきます。探るのは、直接的に見えてくる意味とイメージだけです

 改めていいますが、以降、劇的な解釈はありませんので興味のある方だけ読んでいただければと思います。

 また、作中作「リズと青い鳥」については理解の混乱を避けるため、あまり触れません。これまで指摘してきたように、現実パートと「リズと青い鳥」の物語パートの描写を同軸で考えることによって行き過ぎた解釈を引き起こすのを防ぐためです。

 Aパート*3

 本題に入りましょう。このあと画面に映り込むピンク色は、ふたりが音楽室に入ったときに中央に提示される「disjoint」の文字です。この単語は「互いに疎」という意味で、作中では数学教師が授業中にその意味を語っており、ストーリー終盤で画面に映り込む生物学室の機材に書かれた数字も「互いに疎」となっています*4。そしてふたりが演奏したさいに表示されるタイトルもピンク色のようです。

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「disjoint」

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ふたりの演奏に合わせてタイトル『リズと青い鳥

 この(裏といってよいのでしょうか?)タイトルと正式タイトル両方が偶然ピンクだった(見栄えの関係からそうなった)という可能性もじゅうぶんにありますので、ここではとりあえずその事実をあげておくだけにします。特別な意味を感じ取りたい人はご自由にどうぞ。正直、筆者にはよくわかりません。

 演奏後、ふたりは短い会話を交わします。

「希美は、練習、が好き?」

「好きだよ? めっちゃ好き」

「この曲、も?」

「すごい好き。だって……本番楽しみだね」

 

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「だって……」と同時に映り込む譜面(solo)

 口にはしていませんが、傘木希美はこの時点で自分がソロパートを吹くことを意識しているようです。注意しないとわからない伏線ですね。

  シーンは移って音楽室での練習後。片づけをしている鎧塚みぞれが傘木希美の声を聞きつけます。

「それ、かわいーよねぇ」

「本当だ、かわいー」

「のぞ先輩のクロスもかわいいですねー」

「のぞ先輩って呼ぶのかわいー」

「かわいー。のぞ先輩」

「きみら、そんなにかわいい重要?」

「「「重要ですよー」」」

  さて、ここで言葉通りに受け取ってみます。「重要」なのは「可愛い」ということ。そしてその台詞のなかで「可愛い」が「傘木希美」という存在に紐づけられていること。こう考える理由は後述します。またここで提示される「可愛い」という概念はその後ストーリーが進むにしたがって(フルートの子たちの会話のなかで)変遷していきます。しかし希美のクロスは画面に映っていません。

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「かわいー」と談笑する希美たち

 次に「可愛い」が出てくるのはフルートの後輩たちと傘木希美が音楽室でパンやお菓子を食べてながら話すシーン。

「かわいいって言われちゃってー」

「おなじクラスの生物研究会の男子なんですよ」

 いっぽう、鎧塚みぞれはひとり生物学室で水槽を見つめ「フグ」とつぶやいています。ネットの知見によれば飼われているのはミドリフグだそうです*5。それから目を閉じ、走る希美の背中。そしてフルートの光。

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フグを見つめるみぞれ

 その後、音楽室。フルートの後輩たちの会話を耳にする傘木希美。

「もうすぐオーディションだよ」

「だねえ」

「フルートのソロはさ……たぶんのぞ先輩だよね」

「だよー。上手いもん」

  すこしだけ頬を赤くした彼女の視線の先にあるのは、タイトル後に映っていた譜面とおなじページ。ただし「solo 吹く!」と書き込まれています。ここは紛れもなく差異と反復ですね。隠れていた意志が表に出てきているようです。冒頭の「だって……」の意味に気づかなかった観客もここで彼女の内心を察することができます。

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「solo 吹く!」

 その後、また生物学室でフグを見ている鎧塚みぞれ。新山先生がやってきて音大のパンフレットを渡します。みぞれがおじぎしている姿を音楽室からのぞいている傘木希美。渡り廊下で合流するふたり。「フグにごはん、あげてた」「リズみたい」「うん」と会話。パンフレットを手に取った希美。

「わたし、ここの大学、受けようかな」

「じゃあ、わたしも」

「えっ?」

「希美が受けるなら、わたしも」

  ここでAパートは終了です。

Bパート

  音楽室。吉川優子、中川夏紀、鎧塚みぞれ、傘木希美の四人。模試と志望校の話。希美は「みぞれ、音大受けるんだよ」と報告。みぞれは「希美が、受けるから、わたしも」そしてあがた祭りの話へ。

「みぞれは? だれかほかに行きたい子、いる?」

「いない」

「そっか」

  「そっか」の台詞に合わせて、机を掴んでいた左手の腕時計(ピンク色)が奥に隠れます。このあとも腕時計は最初に比べると隠れがちになります。

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机を掴んでいた手

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「そっか」という台詞に合わせて奥に引っこむ腕時計

 空き教室(オーボエパートの練習場所)。「みぞ先輩」と鎧塚みぞれを呼ぶ剣崎梨々花。「わ。みぞ先輩、綺麗ですね、これ。白いやつしか売ってなくないですか」と青い羽根を褒めます*6。また、合わせてみぞれの読んでいた「リズと青い鳥」の文庫本がはじめて大きく映ります*7岩波文庫の赤っぽいデザイン。ピンク色ですね。

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岩波文庫らしき「リズと青い鳥

 高坂麗奈による「相性悪くないですか」のあと、教室。傘木希美と中川夏紀。模試の話。ちらちらとは見えますが、絶妙な角度でピンクの腕時計が隠れています。そのままみぞれについて訊ねます。そしてふと「リズと青い鳥」について。

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絶妙に隠れる腕時計(ピンク)①

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中川夏紀の背中で隠れている腕時計②

「わたしさあ、リズが逃がした青い鳥って、リズに会いたくなったらまた会いに来ればいいと思うんだよね」

「えーっ、それじゃあリズの決心が台無しじゃん」

「んー。でも、ハッピーエンドじゃん?」

  と、青い鳥を閉じ込めていたい鎧塚みぞれとそうは思わない傘木希美で「リズと青い鳥」に対する考えが違うことが明かされます。ここでBパートは終了です。

 Cパート

 部活練習に橋本先生と新山先生がつくようになります。演奏中は隠すものがないので、しっかりとピンクの腕時計が映っています。しかしそれが終わるとすぐに隠れます。それから廊下で新山先生に声をかける傘木希美。「わたし、音大受けようと思ってて……」「あら、そう。頑張ってね。わたしでよかったら何でも聞いてね」に対し「はい」と文字通り一歩引く希美。後輩たちからその演奏技術を「上手い」と評価されていましたが、新山からは特になにも思われていないようです。

 雨の日。新山先生の指導を受けている鎧塚みぞれ。それを離れた場所から見ているのは傘木希美。浮かない表情。合わせて、フルートの子たちの台詞が入ります。

「それで、なんとかっていうフグのところまで行って」

「うん」

「この魚見せたかったって」

「へえー」

「わたしにそっくりだって」

「かわいいんでしょ? その魚」

「でもフグなんですぅ」

「かわいいならいいじゃん。ねえ、希美」

「えっ? あっ、うん」

 希美は気を取られてちゃんと聞いていないようですが、ここで「可愛い」という価値が「フグ」のようなものに変わっています。前に言及されていた「生物研究会の男子」というワードが補助線のような役割を持っていたことがわかります。視線に気づき、手を振るみぞれ。そこから目をそらす希美。廊下に出て大好きのハグを求めるみぞれ。「今度ね」と去っていく希美。

 高坂麗奈黄前久美子によるソロパート披露前後。ここでも傘木希美は後ろで手を組み、腕時計は見えません。窓辺に立ってふたりをのぞくときも奥側に手を置いています。その後、普通大学という選択肢を鎧塚みぞれに相談しておらず、さらに「なんで?」と無関心なふうに訊き返す希美。それに怒る吉川優子。この前後になると腕時計が大きく映ります。ぎゅっと一瞬だけ自分で手を握ったあと、希美の視界に映る手と時計。どこか委縮しているかのような手つきです。

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久しぶりに大きく映る腕時計(ピンク)

 いっぽう生物学室。新山先生と鎧塚みぞれの対話。そこでなにかに気づくみぞれ。希美もそこに同期していくようにパラレルに「リズと青い鳥」と自分たちの関係を語っていきます。また、みぞれがはっとした瞬間、がちゃりという音(鍵の開く音?)が鳴っています。

「わたし、ずっとリズに自分を重ねようとしてました」

「『リズと青い鳥』ってさ、わたしとみぞれになんか似てるなって思ってた。みぞれが――」

「リズで、希美が――」

「青い鳥」

「「でも、いまは――」」*8

    全体練習。第三楽章の通し。フルートを構える傘木希美。楽譜に隠れていた部分からピンクの腕時計が顔をのぞかせます。やはり隠れる場所はありません。そして鎧塚みぞれの演奏に打たれたのか、膝の上に置かれるフルートと手。楽器を手で持っているので、こちらでも時計を隠すことはできません。

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構えると同時に映り込む腕時計(ピンク)

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膝の上に置かれた手と楽器、そして映り込む腕時計(ピンク)

 演奏終了後、「圧倒されました」と後輩たちや吉川優子に囲まれる鎧塚みぞれ。彼女の視線はさまよい、傘木希美のいた場所へ。しかしすでにそこに希美はいません。

 ここで注目すべきなのは、みぞれの視線の先に一瞬だけ映り込む椅子と置き去りにされたフルート、そしてなによりクロスです。「かわいい」と以前評されていたはずのクロスが一秒もないであろうこの瞬間、はじめて画面に映り込みます。

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置き去りにされたフルートとクロス(ピンクの刺繍入り)

 刺繍のワンポイント*9。これもまたピンク色です。しかし前述の通り「可愛い」という価値は「フグ」のレベルにまで落とされています。むきだしになった可愛かったはずのピンク色はもはやだれにも見向きもされないものとなっています。

 そして生物学室。傘木希美とフグが並んで映ります。ここで、観客は彼女とフグを同列に見ることができます。新山先生と話していたときの鎧塚みぞれのシーンにも似たカットはありましたが、奥行きがあって直線上に並んではいませんでした。

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並んでいる傘木希美とフグ

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鎧塚みぞれとフグは並んでいない

  そこに追いかけてやってくるみぞれ。希美は彼女に言葉をぶつけていきます。「わたし、みぞれみたいにすごくないから」「わたし、普通の人だから」と突き放すように言います。それに合わせて、ピンクの腕時計がまた顔を出します。

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握っている腕時計(ピンク)

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「わたし、普通の人だから」に合わせて腕時計が顔を出す

 しかし、みぞれは「聞いて」と言い返し、一年のころに希美が辞めたことを話します。そして「昔じゃない。わたしにとってはずっといま」という言葉とともに希美の手はずり落ち、腕時計はふたたび覆われます。そこからみぞれは言葉を重ねていきます。

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ずり落ちていく手

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また覆われる腕時計(ピンク)

 対して、希美は「わたし、みぞれが思ってるような人間じゃないよ」「むしろ、軽蔑されるべき」と返します。合わせて腕時計をさらに強く握ります。

 ですが、みぞれの「大好きのハグ」によって後ろに組んでいた腕は離され、ゆっくりと彼女に向けて回されます。

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みぞれに回される腕

 それから希美は廊下に出て、みぞれを吹奏楽部に誘ったときのことを思い出します。息を吸い、ゆっくりと吐き出します。そのあと一瞬だけ画面に映るその腕は、先ほどとは反対に組まれています。彼女はもう、自分の腕時計を握ってはいません。文字通りどこか解放されているかのようです。

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希美は腕時計を握らなくなっている

 ここでCパートは終了です。残すはエピローグと呼ぶべきDパートですが、野暮になってしまうのでこれ以上は語らないでおきましょう。

腕時計について

 では改めて傘木希美のピンク色の腕時計とはなんだったのかについて、考えたいと思います。

 これまで拾ってきた描写を改めてさらっていくと、冒頭(アバン)では軽やかな歩みとともに大胆に画面内に映り、みぞれが新山先生に声をかけられたあとのBパートに入ると物や人の影に隠れるようになります。しかし演奏時や意思を見せるときにはまた現れて、終盤のシーンでは自身を戒めるかのような台詞とともに意識的に覆われ、のちにみぞれのハグを介することで解放されています。また触れてはいませんでしたがDパートで問題集に向き合っているときも、彼女の腕時計は隠れていません。

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問題集を解く際、映り込む腕時計(ピンク)

 となると、腕時計は傘木希美という存在の浮き沈みとパラレルに描かれているもののように思われます(むろん時計は装身具なのですから、持ち主とパラレルに描写されるのは当然なのですが)。とはいえフルートを吹く際にその姿がむき出しになるのは、彼女の演奏技術がそのまま浮き彫りになってしまうことのあらわれといえるかもしれません。そういう意味では図書室で解く問題集のシーンもおなじ路線の解釈となります。中川夏紀との会話のさい(Bパート)にも問題集は映っていましたが、希美はまだその時点では本格的な受験勉強をしていませんでした。

フグについて

 ところで、作中に登場する「フグ」とはなんだったのでしょうか。

 こちらもこれまで拾ってきた描写から判断するのであれば、前半部で持ち上げていた「可愛い」の価値をあとになってから下落させていくための伏線、あるいはそのように変化させていくためのクッションとでもいうべき存在かと思います。

 フルートの子たちの「かわいいって言われちゃってー」のやり取りの直後に鎧塚みぞれが「フグ」とつぶやくシーンが置かれているのも、その予兆であったのでは、とさえ読んでしまいたくなります。

 そして第三楽章の演奏のあとに一瞬だけ映り込むクロスの刺繍(彼女の存在を強調するかのように、それもまたピンク色でした)。あれをより残酷に、より穿ったかたちで捉えるのであれば、それはフグの身体と左右のヒレという小さなシルエットに見えはしないでしょうか。彼女の所有していた「可愛さ」は「フグ」のようなものだったのだという重ね合わせの欲求をそこに憶えたくなります。

 ですが、それだけだったのでしょうか。

 鎧塚みぞれが最初から興味を向けて見ていた対象は(「リズと青い鳥」という物語を除くのであれば)作中にはふたつしかありませんでした。すなわち傘木希美とフグです。そして第三楽章の演奏ののち、音楽室を出た希美はフグとおなじ画面のなかに並びます。その状況で、希美自身から放たれた言葉は「わたし、普通の人だから」でした。しかしそれを「わたしの特別」だと、「全部特別」と言い返したのはみぞれでした。

 どういうことでしょうか。

 ストーリーの後半になって、「可愛い」「うまい」という言葉を受けていたにもかかわらず「普通の人」とまったく違う評価を下したのはほかのだれでもなく傘木希美、彼女自身でした。けれどもそんな彼女を「可愛い」でも「上手い」でもなく、ただ純粋に「好き」と言い切ったのは鎧塚みぞれでした。彼女はずっとそう思っていました。

「希美の笑い声が好き。希美の話し方が好き。希美の足跡が好き。希美の髪が好き。希美の、希美の全部」

 ですから、みぞれの向ける視線には、最初から「可愛い」や「上手い」といった価値が含まれていなかったことになります。そして彼女が視線を向けていたフグもおなじです。「可愛い」の価値を一方的に下落させていたのはフルートの子たちで、みぞれにはそのような意図はありません。

 ゆえに「フグ」という存在はむしろ価値を最初のものに、フラットに、夾雑物のない「普通」という意味を、そして「好き」という言葉を担保しておくための存在だったのではないでしょうか。そしてそれは卑屈になって自身を覆い隠そうとする少女にとって、ある種の救いとして用意されていたもののように思われます。

 だれにも目を向けられなくなった「普通」の傘木希美に視線をいち早く向けたのは、鎧塚みぞれでした。思い起こせば、『リズと青い鳥』というストーリーの最初から傘木希美の足音に耳をすまし、やってくる彼女を見つめていたのは鎧塚みぞれだけでした。最初から最後まで、みぞれというキャラクターの視線だけはどこにも揺れていませんでした。

「かわいい」という言葉から離れ、ひとり静かにフグを見つめていた鎧塚みぞれが目を閉じて思っていたのは、傘木希美のことでした。そして、その思いの先にはフルートに反射し、差し込んでくる光がありました。

 光が、ありました。

 そしてそれに気づくことができるのは、水槽を泳ぐ三匹の魚たちと、この物語の観客であるあなただけなのです。 

 不意に、はばたきの音が梢の青葉を揺るがした。三人は無言で空を見上げ、その彼方に鳥が吸い込まれていくさまをどこまでも追い続けた。

 ――法月綸太郎『ふたたび赤い悪夢』(講談社文庫)より

 

*1:ともに初出は不明。しかし複数の人による証言が確認できるようです。

*2:ちなみにリズと青い鳥それぞれのキャラの瞳は青の系統色ですが、正確にはおなじ色ではありません。

*3:正確には「disjoint」より後がAパート。録音台本準拠

*4:生物学室における機材の数字についてはブルーレイの特典であるキャストコメンタリーでも語られており、意図的な演出であることがあきらかになっています。

*5:ミドリフグ - Wikipedia

*6:みぞれの持ち物は「綺麗」で希美の持ち物は「可愛い」というささやか対比の可能性がありますが、あまり深く立ち入らないでおきます。

*7:すでに何度か映っていますが、ここまで大きいのははじめて。

*8:ここではバトンを渡し合うかのようにして鎧塚みぞれから見ていた解釈、つまりひとつなぎになった「みぞれがリズで希美が青い鳥、でもいまは――(みぞれが青い鳥)」という考えを観客に向けて語っていますが、傘木希美の発言はぶつ切りになっているため、青い鳥のことを最初からみぞれと思っていた可能性があります(この説もまたネットで散見されています)。ですから希美が口にした台詞は「みぞれが青い鳥。でもいまは――」と読むこともできるでしょう。その場合、みぞれから飛び立ったのちも会いたいときは会いに行く希美という彼女なりの「リズと青い鳥」解釈が生まれます。どちらが正しいかはわかりません。ただしその後につづく「籠の開け方を教えたのですか」というリズのモノローグをつぶやく希美とのつながりを考えると、さすがに穿った見方なのでは、とも思います。「それはリズの行動で、気持ちではないわね」

*9:設定資料集を見る限り、ウサギでしょうか?

ふたたび青い悪夢①ー『リズと青い鳥』解釈における誤謬にまつわる話

【※】本記事は、映画『リズと青い鳥』の内容に深く触れています。未見の方はご注意いただきますようお願いします。

 

 「鳥を見ていたんです。ほら、あそこに」

 ――法月綸太郎『ふたたび赤い悪夢』(講談社文庫)より

 

 2018年4月に公開されたアニメーション映画『リズと青い鳥』は息を止めてしまいたくなるほどに静謐でありながら、おびただしい数のイメージに彩られた作品です。昨年12月にブルーレイディスク・DVDが発売されましたが、その人気は公開から一年以上経ったいまもなお衰えたようには思えません。

 また本作は作中作および楽曲「リズと青い鳥」に対する読解(解釈)と登場人物の関係に対するある種の鞘当てをおこなってみせる(リズは誰で、青い鳥は誰だったのか?)という推理小説のような構造を持っています。傘木希美の「なんかちょっと、わたしたちみたいだな」といった台詞やフグに餌を与える鎧塚みぞれを「リズみたい」と評する演出は、観客をその物語「リズと青い鳥」の筋書きとパラレルに照応させようとする欲求をごく自然に喚起させています。

 むろん、このような演出は台詞だけに限りません。劇中で何度も画面に映る鳥の姿や、リズとおなじように青い羽根を握りしめる鎧塚みぞれ、軽やかに(あたかも鳥のように)歩いてみせる傘木希美、空を見上げるような角度のカメラ・アイ、窓の鍵を開ける音、互いに疎である数字の羅列など、あたかも画面に映るそれらが「リズと青い鳥」の物語に対する暗号であるかのように横切っていきます。

 そうしたイメージの奔流と反復、そしてその終盤における解決としての鮮やかな図の提示は、当然のように「このシーンの演出は何を意味しているのだろう?」という考えを遡行的に植えつけ、誘います。結果として、インターネットには『リズと青い鳥』めぐる考察記事が数えきれないほど存在しています(もちろん本記事もそれに含まれています)。

 しかし、とりわけ暗号とその反復というものはわたしたち観客の目には意味ありげに、そして魅力的な解釈の題材として映り込みます。そしてそれは、いとも簡単に作品イメージに対する行き過ぎた虚像をつくる欲求を呼び出しかねません。

 虚像は、「個」よりも抽象的で、それゆえに輪郭がくっきりして美しい。反復とは、他者の上にどこかでみた美しい虚像を重ね合わせてしまうことに他ならない。

 ――巽昌章法月綸太郎論「二」の悲劇」『本格ミステリの現在(上)』(双葉文庫)より

  その虚像を扱った好例が、以下にリンクを貼った考察記事でしょう。「リズと青い鳥 フグ 種類」でグーグル検索したところ、一番上に表示されました。人気の記事のようです。

彼女がフグを愛でる理由――映画『リズと青い鳥』における脚の表象と鳥かごの主題系 – ecrit-o

 上記記事では『リズと青い鳥』の監督、山田尚子が脚に対するショットを執拗に使っていることを手掛かりにして、それが作中のテーマそのものとしての「脚」と「脚がない」フグという存在(天と地の中間にある存在とのこと)にオーバーラップさせています。作中作「リズと青い鳥」における鳥が変身して翼を失った代わりに頑丈な脚を得ることや、パンフレットでの吉田玲子と山田尚子の対談における「鳥かごのような作品」という言葉を頼りに、作中で反復される鳥と籠のモチーフに注視しています。

 しかし、上記の記事はあきらかに先行するイメージ(脚というモチーフとその効用)とそれによって用意された結論にとらわれているようにも見えます。キャラクター間の関係性における前提*1は明確に描写された事実ではなく、記事の書き手による映画を見たうえの主観のように思えますし、そう語る根拠がどこにあるかわかりませんでした*2

 また記事にはあきらかに言葉の意味をずらすレトリックによって生まれる矛盾が散見され、意図的にそれを無視しながら論を進めている節があります。これは見逃してはいけない部分だと思います。

 たとえば「人間の脚は、足枷であると同時に、青い鳥にとっての翼に相当するような、両義的なものなのだ。青い鳥の飛翔に仮託されているのは、みぞれが希美への過度の依存を断ち切り、自らの音楽的才能を(もちろん比喩的な意味で)自由に羽ばたかせる姿である。」と書かれていますが、そもそも作中では「足枷」といった言葉やイメージはどこにも描写されていません。これは意図的に書き手が物語の外部でつくりだし、持ち込んでしまったものであると指摘できます*3

リズと青い鳥」の物語において「脚の存在は、青い鳥の自由を縛る枷となっている」と書き手が語るのも同様です。人間の姿になった青い鳥が空に向かって飛べないのは客観的に考えれば、翼がないことと、体重があること、でしょう。脚の存在が飛翔の妨げになっていると考えるのは、あきらかにレトリックによる誇張表現です。そしてこれは、行き過ぎた解釈をもたらす原因になっています。

 どういうことでしょうか。

 外部から持ち込んだ概念をもとに物語を解釈するということは、作品内に明確な論拠を見つけられなかったことを意味しています。あるいは作中で描かれたものを別様に捉え、拡大解釈してしまったことを意味しています。場合によってはそれは、描かれていないことをさも描かれているかのように語ることになりかねません。

 こうしたイメージへの固執とそれに伴うほころびは全体を通して感じられます。「みぞれにはまだかごから飛び立つための心の準備ができていない」説明として籠球とも訳されるバスケットボールのシーンに触れ「バスケットボールは本作にあって学校や水槽とともに鳥かごの主題系をなしている」ことを述べている部分もおなじです。鳥かごから出る物語のはずが、鳥かごに向かう競技を描いているという矛盾を、記事の書き手は意図的に省いて語っています。体育館の天井に見える鉄骨を「鳥かご」と類比させるのも先に決めた答えが先行しているがゆえの判断でしょう。

 ほかにもみぞれたちが学校の外で遊ぶさいにプール(人工的な水槽≒別種の鳥かご)を選んだことが「かごから解き放たれることの困難さがあらわれている」と評していますが、海でも川でもなくプールに行ったのはたんに彼女たちが京都府宇治市周辺に住んでいるからという地理的な理由が先にあるはずです。そのさいに撮った写真を「液晶画面という新たな水槽」と記すのはただの言葉遊びの枠を出るものではありません。仮にそれを妥当な、普遍的なものとみなしてしまうとするならば、さすがにそれは誤謬と呼ぶべきものです。

リズと青い鳥』に登場するフグが(鳥でも人間でもない)中間的な存在であり、みぞれを導く存在だとする考えはたしかに魅力的な発想ではありますが、そのロジックを取り巻く部分がほとんど書き手の内部だけで敷衍したイメージによるもののように思えてなりません。また、みぞれがフグ(のような安逸な日常生活)から鳥(のように外部へ羽ばたいていくように)になる、というイメージも「本作の現実パートで展開される物語は、絵本パートで青い鳥が自らの自由を縛る足枷から解放される寓話と軌を一にしている」という部分とはところどころでずれ、異なっているように思われます(フグ自身に足枷はなかったはずではなかったか)。論はいくつかのイメージを取り違えながら、その取り違えごとに必要なシーンを抜き出して書かれています。ですから、そこにはあるべき一貫性が見えていないように思われます。

全体の一部を引いてくる作業は、批評である。そこから全体にさかのぼり、引用の仕方がじつは恣意的なものであったと示すのもまた、批評の仕事のひとつだ。

 ――堀江敏幸「頑なに守るもの」『坂を見あげて』(中央公論新社)より

  もし作品そのものの解釈をおこないたいのであれば、わたしたちは、氾濫し、先行し、外部からやってくるイメージに重ね合わせたいという夢のような誘惑をいま一度、断ち切らねばなりません。あるいは恣意的な引用によって論を語るのであれば、その恣意性を甘んじて引き受ける必要があります。

 ではどうやってその恣意性から抜け出すことができるのでしょうか。あるべき妥当性をもう一度、獲得することができるのでしょうか。

 ウンベルト・エーコは、以下のように語っています。

 テクストの意図についてのある推測が妥当なものであることをどのように証明できるのでしょうか。唯一の方法は、ひとつの一貫したまとまりとしてのテクストにその推測を照らし合わせて検証してみることです。このアイディアは古いもので、アウグスティヌスの『キリスト教の教え(De Doctrina Christiana)』に由来します。テクストのある特定の部分の解釈は、それが同じテクストのほか部分によって裏付けられる場合のみ妥当と認められる(もしほかの部分によって反証されるようであれば、その解釈は却下されねばならない)という考えです。このような意味では、テクスト内の一貫性こそが、読者の制御不能な衝動を制御しているのです。

 ――『ウンベルト・エーコの小説講座:若き小説家の告白』(筑摩書房)より

 

 わたしたちはもう一度『リズと青い鳥』というアニメーションそのものに向かい合う必要があります。

(つづく)

 

saitonaname.hatenablog.com

 

 

坂を見あげて (単行本)

坂を見あげて (単行本)

 
ウンベルト・エーコの小説講座: 若き小説家の告白 (単行本)

ウンベルト・エーコの小説講座: 若き小説家の告白 (単行本)

 

 

*1:「希美との関係性を考えたとき、みぞれにはそこで希美の実力をはるかに凌駕するような演奏をすることはできなかった。みぞれと希美の音楽的才能が同程度であることは、二人の関係の前提となっているからである(二人は各楽器のエースとしてほとんど互角の実力を持つと他の部員から思われている)」と記述されている。

*2:筆者はパンフレットや原作を読んでいないのでそのように記述されている可能性もありますが、そのような部分の引用であることが示されていないので、書き手の主観によるものと判断しました。

*3:また「本作で描かれる鳥かごに入れられた青い鳥」という記述が記事内にありますが、そのようなシーンは『リズと青い鳥』には存在していません。鳥かごは存在しますし、その内部に青い羽根が置かれているカットはありますので、おそらく書き手が想像して補ってしまった描写だと思われます。

2019年のあたらしい百合、アプリ『ガールズラジオデイズ』の関係性の演出について

 こりずに百合を語りたいと思います。

 わたしはもう十年近く百合というジャンルについて悩んでいる人間なんですが、ここ最近とみに(むろん主観ですが)「関係性」という言葉を聞くようになりました。

 

saitonaname.hatenablog.com

 ちょうど一年ほど前には上記のようなことを考えていました。簡潔に言いますと、個々の「百合」を定義することはできないものの、それらを理解するうえでは女の子同士の「関係」というものが共通項になりうる、ということが言えるという感じです。たぶん。おそらくは。

 

 2019年2月現在、確認できる見解として、百合展2019の公式サイトには次のような文言があります。

女性同士の友情や愛情を意味する「百合」

 と、最大公約数的な表現でありますが「百合」というジャンルの現状をそのまま表した言葉だと思います。というより、そうとしか説明ができません。先月末に募集を終えたコミック百合姫×pixiv 百合文芸小説コンテストの応募要項にも、

女性同士の恋愛や友愛をテーマにした小説を募集します。

 とあるくらいで、ほとんど同義の内容が語られています。むろん細分化しようと思えば人間(キャラクター)のことなので無限に分けることができますが、短い言葉でまとめることはほぼ不可能です。

 現在、アニメ・漫画・ゲーム・小説・映画・その他あらゆる媒体で百合作品はあふれています。先日、近所のらしんばん(オタク向け中古ショップ・古書店)に行ってみたら店の入り口すぐの空間に「百合」専用棚がつくられていました。すごい。

 なかでもその方面で恐ろしく強いのは『BanG Dream!バンドリ!)』というコンテンツだということはみなさんもご存知だと思います。企画スタート四年で武道館3DAYSってすごいですね。昨年SF・ライトノベル作家の宮澤伊織先生も「関係性」について述べておられました。日々アプリ上でアップデートされつづける25人もの関係性の波(詳しくはhttps://www.hayakawabooks.com/n/n0b70a085dfe0

を参照のこと)。

 

 とはいえ、いまはもう2019年に入って二か月が過ぎようとしています。伴名練の投下した爆弾*1によってすべてが破壊された百合界(SFだけか?)ですが、すでにあたらしい潮流が、芽が生まれつつありました。

 というわけで本題です。

 女の子同士の関係性描写において風穴をこじ開けようと現在進行形で奮闘しているコンテンツ、『ガールズラジオデイズ』の話に移りたいと思います。

 

ガールズラジオデイズ(ガルラジ)とは何か?

 公式サイトです。

garuradi.jp

 以下はサイトのイントロダクションの冒頭部です。

「ガールズ ラジオ デイズ」(ガルラジ)は、地方で暮らすごく普通の女の子たちが、ふとしたきっかけでラジオ番組を自主運営することになる——。
そんな彼女たちの日常と番組制作に悪戦苦闘する姿を描いた青春物語です。
愛知県・岡崎、静岡県富士川山梨県・双葉、石川県・徳光、三重県・御在所と、実在する5つの高速道路のサービスエリアが、彼女たちの拠点=スタジオ。

13人5つのチームが、個性豊かに物語を展開していきます。

 簡単に言いますと、アプリ(およびインターネット)上で、(アニメ等に準ずるデザイン・気質の)キャラクター本人たちが隔週で30分ほどのラジオ番組を配信するという企画です。

 先日知り合いに概要を説明したところ「声優ラジオみたいなものですか?」と返されましたが違います。声優さん自身ではなく、終始、自律したキャラクターがちゃんとしたラジオ番組をやっています。そういう意味ではアニメや漫画のドラマCD形式に近いかもしれません。

 ただし、素人が実際にラジオ番組を運営している(というストーリーに沿っている)ため、キャラクターたちは不意にセリフを噛んでしまったり、トチったりします。なぜなら彼女たちは実際に各地のサービスエリアから生で配信をしている(というストーリーである)ので。ただ、それが当初から用意された台本によるものなのか、声優さん自身がミスしたものなのかはわかりません。そういう意味では編集ができない生の演劇らしい面白さもあると思います*2

 

 昨年の12月から配信が開始し、2月末現在、5つの番組のうちふたつが第1シーズン(計6回)*3の配信を終了しました。残り3チームもちょうど明日、最終回が配信される予定です。とはいえ、これらも純粋なラジオ番組とは毛色が違っています。

今回選ばれた5つのチームには、番組の再生数、リスナーのコメント数、評価指数などを総合したポイントがつけられ、最も高い成績を収めたチームは広域ラジオへの格上げが約束されている。
逆にデッドラインを下回ったチームは解散の憂き目も……。

(…)

彼女たち一人一人に熱い思いや思惑を抱いて、華やかなラジオの裏側で、手を取り合って立ち向かい、また、ライバルたちと競い合う彼女たちのドラマが今、始まる……。(太字強調は筆者)

 簡単に言いますと、公募企画で選ばれた5チームの女の子たちは、それぞれの運営するラジオ番組で人気を競い合っています。青春をかけたバトルロイヤルが水面下でおこなわれていくわけです。そして、この側面が回を増すごとにつよくなっていき、限られた時間を過ごす青春ものとしての熱いストーリーが展開されていきます。ドラマというものがつくりにくそうなラジオっていう媒体で、こうも話をつくりあげていけるのか……とわたしは感嘆しました。

 

なにが百合なのか?①

 で、実際、どのあたりが””百合””なのかと言いますと、この戦いのなかで、彼女たちチーム(内外)の関係性が回を進めていくたびにどんどん移ろっていくさまが、青春ものとして素晴らしく、また同時に激エモなのです。

 

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仲良しチーム、こちらオカジョ放送部。

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知り合いでない個人を集めた急造チーム、FUJIKAWA STATION。

 以上の画像は5チームのうち、2チーム。ほかにも個性豊かなキャラクターとチームがいます*4。詳しくはサイトを確認ください。オカジョ放送部の面々は、ラジオという形態と向き合うなかで、たんなる仲良し「だけ」ではいられないことに気づきますし、富士川の面々はその急造チームだからこその「弱点」に直面します。そういったなかで試されるのが、彼女たちのあいだにある「絆」です。「友愛」です。つまり百合です。

なにが百合なのか?②

 そしてもうひとつ面白いのは、配信されるラジオ番組はあくまで彼女たちの関係性の「一側面」に過ぎないということです。

  というのも、

 計13人のキャラクターたちには、それぞれのラジオ番組上では直接語られることのないバックストーリー(背景)が存在しているからです。

 

ch.nicovideo.jp

 

  上記サイト(とてつもなく見にくいのがほんとうに惜しい、PCのブラウザだとかなり下のほうまでスクロールしないとたどり着けない)から、計0+5話のそれぞれのチームにフォーカスしたラジオ番組のプレ(およびサイド)ストーリーのブロマガ小説を読むことができます。

 文章はライトノベル作家の多宇部貞人先生。電撃文庫の『シロクロネクロ』シリーズが有名ですね。いや、これが短いながらも素晴らしいんです。とにかく(こういうのはあまり使いたくないんですが)騙されたと思って、第二章まで読んでください。

 ですからこのブログを読むのはいったんやめてください。ほんとうに。

 終わったら戻ってきてください。お願いします。

 

 

 読みましたか?

 読みましたよね?

 

 

 めーーちゃっくちゃよくないですか。これ。

 

 

 適度にさびれた地方都市独特の空気感といい、その隔絶された環境と年齢ゆえに振り回されてしまうどうしようもなさ、それにどうにかして抗おうとしている彼女らの考え方が、もう思春期の青春そのものじゃないですか。なによりこの地方都市感は第四章で最ッッ高にブチ上がるんですが、それはみなさんの目でぜひ見届けてください。

 それからもう二章まで読んでくださったらわかると思いますが、二兎春香と年魚市すずの関係性ですよ。

 転校する前にたまたま自分の夢を口にして肯定してくれたクラスメイト(それほど仲良くはなかった)の名前を競い合う相手チームのなかに見つけて思わず関係者を介し連絡先を手に入れたけれど結局電話をかけることができない状態(しかし負けたくないという強い気持ち)……。これだけでもう彼女たちの行く末が気になるじゃないですか。それぞれのストーリーがどう交差していくのか知りたいじゃないですか。すでにここだけで特大のエモが観測されているわけじゃないですか。

  でも、この関係性はラジオ番組には、ほとんど表面に出てこないんですよ。

 彼女たちのチームにはそれぞれの思惑が、企画が番組があり、リスナーもありますから当然なんですが、その水面下でうごめくエモーションや関係性について、われわれ(アプリユーザー)はいち番組リスナーの立場でしかないのでただ想像をめぐらせることだけしかできないんです。漫画やアニメや映画における第三者視点(カメラアイ)を持つ観察者にはなれない。ただの外部者でしかないんです。

 つまりどういうことかと言いますと、

 彼女たちの究極的な関係性の在りかについては、完全な””聖域””になるんです。 

 これはとても画期的なことだと思います。2018年はアプリ『バンドリ!ガールズバンドパ-ティ!』や映画『リズと青い鳥』によって人間が壁や観葉植物になることが証明されましたが*5、2019年にもなると、

 人間は、壁や観葉植物になることも許されません*6*7

 われわれ(アプリユーザー)に許されている権利は、番組の配信と配信のあいだにアプリ上に投稿されるSNS風のつぶやきを遠目から確認することだけです。

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専用アプリ上に表示されるつぶやき。

 たとえば上の画像。つぶやきからチーム富士川がみんなで初詣に行く(行った)ことが語られるものの、その出来事の詳細についてはほとんど触れられません。

 たまに番組内で言及され補完されることはありますが、基本的には彼女たちのプライベートなので得られるのはほぼ外面的な情報のみです。アプリユーザーといえど、そこに踏み込む権利はありません*8

 この情報の少なさは、一見、キャラクター同士の関係性を把握したい”百合”を楽しむ層にとっては、ある種ストレスのある環境に感じられるかもしれません。

 

なにが百合なのか?③

  とはいえ、また素晴らしいのがこのつぶやきによって生まれる空白でもあります。

 基本的につぶやきは、リアルタイムで投稿されます(おそらく)。番組を聴取しているアプリユーザーは、このつぶやきを見ることによって、彼女たちがチームで一か所に集まって次の番組企画を練っていることや、日常で起きたささいな出来事の報告を受けることになります(もちろん概要だけです)。

 ただ、ネタバレになってしまうため詳細は伏せますが、第1シーズン中盤、急遽チーム富士川のつぶやきがかなり具体性を帯びなくなります。

 当然、アプリユーザーはそのつぶやきを通して、チームの面々になにかが起こったことだけを間接的に把握します。そして次の回の配信を聴くことにより、どうもその数日のつぶやきのあいだでとんでもないことが起きたことを察します。

 どういうことでしょうか。

 この状況に際して、(われわれアプリユーザーの脳内における)彼女たちの関係性は、以下における複数の文脈に大きく依存して変化、いや発火します。

 1.プレストーリーにあたる小説(テクスト1)

 2.アプリ上におけるSNS風のつぶやき(テクスト2

 3.配信されるラジオ本編(テクスト3)

 簡潔に述べると、この三つが混じり合った瞬間にとてつもないエモが発生します。

 それ以上は伝えることができません。

 ただしそれらのテクストを脳内で突き合わせた結果、あなたはあたらしい百合の関係性の把握の仕方を知るはずです。

 そうです。

 いわば百合の空即是色です。

 もちろん前述の通り、彼女たちのあいだで起きた出来事の詳細を知る手段は、存在しません。ですが、われわれ(外部者)の参照可能な世界にそれが存在しないことにこそ、大切な意味を見出せるようになるのです。この点は2019年の百合を考えていくうえで、とても重要な概念だと思います*9

 その意味を知りたければ、いますぐ『ガルラジ』アプリをダウンロードして、ラジオを聴いてみてください。答えはすぐそこにあります。

 

 

 百合とはなんなのか、なにが許されるのか

 ところで、哲学者のイマヌエル・カントは以下のことを考えたそうです。

理性の一切の関心(思弁的および実践的関心)はすべて次の三問に纏められる。

1 私は何を知り得るか was kann ich wissen?

2 私は何をなすべきか    was soll ich tun?

3 私は何を希望することが許されるか   was darf ich hoffen?

(カント『純粋理性批判岩波文庫(下)篠田英雄訳、Ⅱ先験的方法論 第二章 純粋理性の基準 第二節 純粋理性の究極目的の規定根拠としての最高善の理想について より)

 百合について考えること、またそこに対する態度をどう取っていくべきかについてわたしはつねづね悩んでいるのですが、この問いはもしかすると、カントが提唱したこの問いかけそのものであるような気がしてきました。

 

 どうか怖れないでください。わたしはいま、とても正気です。

 

 大雑把に説明しますと、カントは人間が理解する力について考えました。その理解する純粋な形式をカテゴリー(簡単にいうと場合分けの基準のようなもの:純粋悟性概念)といい、その基準を取りまとめる上位の推理・論証の力を「理性」と呼びました。

 そして百合の一切の関心もまた、この3つの問いに収斂するのではないでしょうか。

  そこに対する問の1「何を知り得るか」についてカントは「もし知識を問題とするのなら(…)解決は与えられ得ない」と断言しています。わたしたちは知り得ないことを知ることはできません。たとえばこれは『ガルラジ』を含めたあらゆる創作物のキャラクターたちに対する情報の断絶と捉えてもよいでしょう。われわれの参照可能な場所に彼女たちの本質はありません。それは小説でも、映画でも、漫画でも、おなじです。そこに描かれているものはごく一部だけです。

  では問の2「何をなすべきか」について。これはカントいわく「道徳的問題」であるがゆえ、理性そのもの(わたしたちが彼女たちに対して理解できること、またすること)から即座に発展させることはできません。むろん『ガルラジ』であればアプリから「おたより」を送ることはできるでしょうが、彼女たちの関係性について考察することはできても、直接的なかたちで彼女らの生活などに干渉をおこなうことはできません。別(次元)の問題だからです。

  そして問の3「何を希望することが許されるか」。すなわち『私がなすべきことをなしたら、私は何を希望することが許されるか』。残された最後の問題です。そしてカントは言います。「およそ希望はすべて幸福を目ざしている」。これは法則であり、ふたつの側面を持っています。すなわち、

「我々が幸福を得ようとするならば、我々は何をなすべきか」。

「我々が幸福に値いするためには、我々はいかに身を処すべきか」。

 このふたつは、何者かによって幸福であるに「値する」と認められ、それによって幸福が授けられることを求めている、といえます。

 つまりここでは、わたしたちはたんに幸福(希望)を得ようとするだけでなく、与えられるに足る存在として在らなくてはならないということです。

 しかし、問の2の時点で断絶されたわたしたちになせることはほとんどないことがあきらかになっています。だとするなら、この残された幸福(つまり希望)とはいったいなんなのでしょうか。第1シーズンの終わる『ガルラジ』の続きは、まだ明言されてさえいません。この先の物語があるかどうかさえ、わかりません。

 そのような状況で百合(希望)を望むことができるものなのでしょうか。

 しかし、カントは謳い上げます。「可想的世界(…)という概念においては」「一切の障壁(人間の自然的傾向)はまったく問題にならない」と。

 そう、許されているのです。希望も、幸福も。たとえわたしたちと断絶されている世界のものであっても、それはたしかな理念として存在しているのです。

 そしてカントはその条件を次のように語ります。

「かかる理念の実現は、理性的存在者の一切の行為が、あたかも最高の意志[神的意志]、即ち一切の個人的意志をみずからのうちに、またみずからのもとに統括しているように意志から生じたものであるかのようになされるという条件によってのみ可能である。」

 少々難しく書かれていますが、その希望の実体は次のようにまとめられます。

「かくて最高存在実体は理性の単に思弁的な使用にとっては、つねに単なる理想、しかしそれにかかわらず誤謬を含むことのない理想であり、人間の認識を深めてこれに王冠を与える概念。その客観的実在性は思弁的方法によっては証明されないが、しかし反駁されることもできない概念」だと。

 百合(希望)とは、可想的な世界の産物なのかもしれません。

 われわれにとっては本質的に届かないものなのかもしれません。

 しかし同時に、それを否定する手段もどこにでもないのです。

 ですからわたしたちは、このカントの考えから、ほんとうの2019年の百合をはじめるべきなのだと思います。百合を望み、願い、求めること。それだけはできるはずです。いや、そこからしか真の幸福は与えられないし、値しうるものにならないのです。

 

garuradi.jp

 

  われわれにできることは、ほんとうにささいなことしかありません。

 

 『ガルラジ』アプリをダウンロードし、ラジオを聴くこと。

 

 それはささやかながら、いま、この瞬間に、許されているのです。

 その先に希望は、百合は、あります。

 あなたには、何が許されていますか?

 

 

 

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

 

 

純粋理性批判 中 (岩波文庫 青 625-4)

純粋理性批判 中 (岩波文庫 青 625-4)

 

 

純粋理性批判 下 (岩波文庫 青 625-5)

純粋理性批判 下 (岩波文庫 青 625-5)

 

 

 

*1:百合SFの完成形の話 伴名練「彼岸花」を読んで思ったこと。 - ななめのための。

*2:とはいえ実際にはスタジオで収録をしている音源なので編集はおこなわれているはずです。

*3:第1、と銘打ってはいますが、今後の配信予定はまったくの未定。企画としてアプリとしてどこまで存続するかわからない状況です。

*4:わたし個人はチーム双葉のたまささsistersのごきげんラジオを推しています。姉妹間で繰り広げられる適当な会話(特にアプリのSNS上の)がどこまでも素晴らしい。ずっと見ていたい。

*5:——壁の話を聞いて、先日公開された『リズと青い鳥』を思い出しました。「映画を観て、誰に感情移入したか」という公式ツイッターのアンケート項目に、主人公の女の子2人と並んで「壁とか机とか」と書かれている。

宮澤 『リズと青い鳥』は僕も観てきました。初出はBLの文脈なのかな、カップルのどちらかに感情移入するのではなく、「部屋の壁とか観葉植物になって2人を見守りたい」という感想があると思うんですけど、本作の場合そもそもカメラが具体的に壁や床を映すんですよね。

 詳細はhttps://www.hayakawabooks.com/n/n0b70a085dfe0

*6:いや、ふつうにリスナーでもいいのですし、Mika Pikazo先生やひづき夜宵先生のイラストを参照することはできますが、基本的にラジオのリスナーは視界(カメラアイ)を持ちません。

*7:ただし、映画『リズと青い鳥』のラストシーンにおいて観測者(カメラアイ)はその権能を失っている点だけは留意する必要があります。

*8:こうした外部から一定レベルで遮断された関係性は、もしかするとヴァーチャルユーチューバー(の中の人)同士のプライベートな絡みに近いのかもしれませんが、わたしはvを追っていないので詳しいことはわかりません。

*9:ただし、このSNS(風)のつぶやきを使った演出には前例がある。『ひなビタ♪』では作中のキャラクターがFacebook上でつぶやき、並行してyoutube上でキャラクター本人たちによるラジオ番組を配信していた。『ガルラジ』はそれに近い手法をかなり意図的自覚的にストーリーに絡ませている。

【夕日が海に沈むまで】ゲーム紹介およびセルフライナーノーツ

saitonaname.hatenablog.com

 上の記事のつづきです。

 

 1月13日のコミックシティ大阪118でノベルゲーム(ジャンル的には学園ものギャルゲー)を頒布します。

  タイトルは『夕日が海に沈むまで』

 サークル名は〈留年ソフト〉です(サークル構成員が全員留年経験者なので)。

 スペース番号は〈6号館A も46b〉です。

 パッケージは以下の通り。

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 わたしは、劇中BGMを担当しました(「ななめの」名義になります)。

 

 

 つきましては開発中のスクリーンショットと劇中の使用楽曲を併記して、セルフライナーノーツ(および開発日記)的なものをやっていきたいと思います。なぜかというと水月陵センセーが担当したゲームだと音楽鑑賞モードで作曲の経緯が載っていることがあって、それが好きなんですよね。だからわたしもやろうと思いました。

 

 ※要はコンポーザーの目線からゲーム本編の雰囲気をさらっていく感じです。

 

メインヒロイン①:城ヶ崎マリー

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  ゲームのヒロインはふたり。そのうち片方(パッケージヒロイン)が城ヶ崎マリーというキャラクター。主人公の水木純也とはクラスメイトという関係になります。

 とはいえ彼女の言動は妙に天然で、それゆえか、ほかのクラスメイトたちとのあいだに微妙な壁をつくっています。純也はひょんなことからマリーと出会い、彼女が「ふつうの女の子」として周囲に馴染めるよう手伝ったり、勉強の面倒を見るようになります。

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 いわゆる発注的には、不思議系・天然系ヒロインということで、ギャルゲーとしては一時期流行ったタイプですね。味覚がどこか狂っているのも伝統。ですのでわざとテンポや音をはずすような曲を中心につくりました。存在がギャグ担当に近い部分もあり、主人公とのズレた掛け合いが多く、そこが見どころになると思います。

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 マリー用につくられた曲はなぜか多くて、これなんかもそうです。一部のメロディはリトルバスターズ!の名曲、「えきぞちっく・といぼっくす」能美クドリャフカさんのテーマ)からインスパイアされたものですね。だいぶ変えてますが。こういう引用も楽しんでプレイしていただけたらうれしいです。ほかにも沢山インスパイアされてる曲はあるので。

 

メインヒロイン②:水木夕

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 もうひとりのメインヒロインは水木夕。主人公・水木純也の姉にあたります。生徒会長。美人。そして姉。姉です。出来る姉。パーフェクト姉。過保護姉。

 こちらのルートでは純也は急遽、生徒会の庶務として、忙しい姉のサポ-ト(要は学園祭の準備やその他もろもろの雑務)を請け負うようになります。当初は行く先々で「生徒会長の弟」として認知されていますが、持ち前の知識と推理力で目の前にあらわれる難問を解決していきます。ストーリーはマリーのルートにあったコミカルな雰囲気から一変し、ミステリ風味になります。

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 発注としてはとりあえず「姉っぽさを出せ」といわれた記憶があります(姉っぽい曲とは?)。彼女の場合、生徒会長という役柄が設定にあったので、規律ある雰囲気をピアノの高音部のメロディで出しつつ、その裏で鉄琴を鳴らし、見えない部分でちょっと背伸びしているイメージを意識しました。

 

生徒会のメンバーたち

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 生徒会に関わることで、純也はほかの生徒会メンバーたちと行動をともにするようになります。彼が生徒会に入ってまず起きたのは、文化祭における美術部の展示物のタイトルがなぜか空欄のままで、パンフレットが作成できないという問題。

 スクリーンショットに映っているのはその生徒会メンバー。朝比奈日向(画面左)と草薙拓哉(画面右)。終始口の悪い女子と終始言動がチャラい男子のコンビ。なんだかんだバランスがいい印象があります。放課後、主人公を含めた三人で問題の元凶である美術部員の家を訪ねることになります。

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 生徒会に関して、特にテ-マなどの発注はありませんでした。とりあえずミステリの捜査パートとしても放課後の一幕としても使える曲が欲しかったので、つくった記憶があります。使用楽曲のなかでは、おそらくいちばん最初に完成した曲です。ギターの音を刻むように出すことで一歩一歩足を前に進めていくイメージ。

 冒頭に学校のチャイムのようなメロディが入るのはキミキス』の二見瑛理子さんのテーマがそのような導入だったから以外の理由はないです

 

美術部のエース:沢村ゆい

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 タイトルを提出しない問題の人物、美術部の沢村ゆいです。キーパーソンではありますが、その真意を簡単には教えてくれないため、純也たちは右往左往することになります。その詳細はゲーム本編をプレイしていただければと思います。

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「沢村のテーマ」の作成にはかなり手間どった憶えがあります。キャラクター自身の根っこにある部分は幼く可愛げのある印象なのですが、彼女に関するストーリーは後半部に進んでからでないと明かされないため、そのすべてを出すというわけにもいかず……といった感じで。ローファイな音色のキーボードと後半に鳴る鉄琴が彼女本来の子供っぽい気質をあらわしているイメージです。といっても劇中で流れる回数は片手の指の数よりも少ないんですが……。ほかの場面でも流してもらえるようスクリプターとディレクターに頼んでみます。

 

推理パートに流れる楽曲たち

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 推理パートに流れる曲は発注がないものについてはそれなりにこだわっています(なぜならフリー音源にミステリ用の楽曲はほとんどないので)。

 比較的ある時期までミステリの劇中に流れる曲といえばかまいたちの夜っぽく高く短い音がメロディアスに鳴っているイメージでしたね。ドラマTRICKのテーマとかはまさにその典型でしょう。ネットに転がっているフリー音源にもその影響下にあるものは割に多いと思います。

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 ピチカート(ヴァイオリンの弦をはじく奏法)は音でコミカルな表情をつくりやすいので、日常系アニメなどにもよく使われている印象があります。けいおん!の次回予告に流れる曲(「Have some tea?」)とか(ポンッポンッと跳ねるように聞こえてくるのがそれです)。「聞き取り~」はピアノとピチカ-トで音のブロックをつくり、一歩ずつ証拠を積み重ねていくイメージにしています。

 いっぽう「すいすい~」は冴えたひとことを突きつける感じです。逆転裁判』シリーズほど情熱的ではありませんが。ちょうどこれをつくろうと思ったときにfox capture plan『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない Original Soundtrack』収録の「忍者ごっこ(かえでのテーマ曲?)を聴いてたので、そのリズムが元になっています。さすがはお兄ちゃん、ブタ野郎だね。

 

 演劇部員たち:橘と七瀬

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 美術部の事件をなんとか片づけたのち、純也は生徒会と演劇部が文化祭でおこなう劇にも(なかば強制的に)参加するはめに。当然、演劇部の面々とも顔を合わせることになるわけで、そこにいる人々とも接するようになります。

 キーパーソンは生徒会と演劇部を兼任する橘京香(画面上)とその演劇部の後輩にあたり、橘に憧れる七瀬奈々子(画面下)。純也はふだんから推理小説を読むこともあり、脚本家志望の七瀬の書いた作品を読んで感想を求められる一幕も。そんな演劇部と生徒会合同による練習が佳境に近づくにつれ、彼女たちのあいだに隠された確執を垣間見ることになります。

 そして本番直前には大きなトラブルが発生。純也は今回もその解決にいそしむことに。

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「七瀬のテーマ」はだれよりもヒロインらしいテーマ曲になっているのでは、と思います(メインヒロインではありませんが)。

 わたしがコンポーザーをやるにあたって、やっぱりキャラひとりに一曲ずつテーマが(ギャルゲーの伝統的に)ほしいなと思うわけで、作中キャラのなかでも優しい性格を設定されているのが七瀬以外にいなかったため、柔らかいメロディラインをここぞとばかりに出しています。

 作中でも言及されますが、七瀬と朝比奈は仲が良い設定です。「朝比奈のテーマ」は押しの強いその性格に加え、女の子らしさも出そうということで木管楽器を使っています(勝手な偏見)。七瀬のほうにも木管が入っていますね。あと橘のテーマもつくりたかったんですが、忘れました。

 ただ、演劇の練習中に流れる曲(「課課題題」)は橘をイメージしています。力強い声(ヤジ)が舞台に向かって飛んでくるイメージ。

 

メインテーマ

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 最後に、タイトル画面で流れる曲です。ストーリーについては今回頒布する本編(文化祭まで)だけでなく、その後の話などもライターから聞いていたので、それを加味してつくっています。テーマは姉弟のあいだにある見えない思い、絆ですね。確固たるものではなく、空気みたいな、触れることのできないもののような。

 タイトル用に流す曲は数パターンつくっていて、意図したわけではないんですが、なんとなく心地よいメロディを拾っていったら全音階(全・全・半・全・全・全・半)を逆に下っていくようなコードになったこの曲が採用されました。作曲や理論についてはまったくの素人なのでよくわかっていないんですが、すとんと腑に落ちていく感じがありますね。つくるときもそこまで悩まなかった記憶があります。

 

 ほかにもゲーム内では、タイトル曲をアレンジしたものや、おなじメロディを曲によってちがったアプローチで反復させているものがありますので、実際にゲームをプレイしながら「おっこれはさっきの曲のアレンジだな」などと思っていただければ幸いです。

 

おまけ

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 デバッグ中の風景です(キャラクターに浮遊能力はありません)。

 

 

 それでは1月13日(日)、インテックス大阪でお会いできればと思います。

 

百合SFの完成形の話 伴名練「彼岸花」を読んで思ったこと。

 読み終わり、三時間ほど発狂していました。いまはあの、正気に戻り、鎮静剤を打ちました(だから正気です)。いまから伴名練「彼岸花」の気持ち悪い感想を述べたいと思います。小説を読み、人生でここまで打ちのめされたのは三度目くらいです(前回は円居挽センセーの「丸子町ルヴォワール」という同人小説でした。前々回はジョン・クロウリー『エンジン・サマー』でした)。

 あの、どうしてここまで「彼岸花」が響いたかといいますと、これまでの百合SF(と呼ばれるもの)ってSFの物語世界内で百合をやるっていう、言ってしまえばとても非対称的な話だったとおもうんですよ(ろくろ暴論)つまりその特定人物の物語は構造的にも人間個人的にもワンオブゼムの関係性でしかない、むろん反論としては生物学的に女性しかいない環境を描いたSFもありますがしかしそれはどうしても現実の枠組みと対比されジェンダーSFというかたちで(あるいはIFストーリーを楽しむものとして)語られてきてしまっていた、だからこそ(男性はいるものの)主要人物には女性しか出さないことによってそういう向きを回避するという消極的な戦略を取らざるを得なかったわけです(ここも暴論)。

 しかしどちらにせよわれわれ現実の読者からすればその発想そのものが非対称的であるし、百合というジャンルがそもそも世評的にワンオブゼムの関係を描くものだという前提がある以上そこは覆せなかったわけじゃないですか(ふたたびろくろ)ですから従来の百合SFはつまりワンオブゼムオブゼムというじつに限られた環境だったわけで(クソデカため息)。わたし個人はそこに忸怩たる思いがあったんです。

 でも「彼岸花」は違うんですよ、吉屋信子花物語』てきにリミックスされた冒頭部はとてもそこに対して自覚的でかつどこまでも計算的なんです。現実を下敷きに(もしくは発想的な前提と)した百合は結果的に非対称的な発想をする読者しか要請しない、たしかに物語には彼女たちしかいないが、その外部(現実世界)は遠くに見えてしまっている状況にある。であるならば、いちから読者内部にある(無意識の)歴史そのものを作り直すしかない(あるいは破壊するしかない)。

 その選択として(われわれ現実の読者の持つ)世評的に凝固した、完結した世界を利用することにしたんです。つまり『花物語』という少女小説の世界から語りをはじめるっていう手法を取っているんです。われわれが百合を読むときに感じる現実ベースの思考や感情を架空の「歴史」に落とし込むことでストップさせているんですよ。いわば『花物語』ってミームによって読者の思考をハックしているんです。

 だからもう、この時点で読者の持つ観念が現実から完全に逸れている。ワンオブゼムではなくて完全な実体、そこにあるものになっているんです。百合が実在しているんですよ。あれだけできなかった百合の現実からの汚染がここでもう防がれているんです。当然ながらそんな無菌室てきな世界の構築なんてふつうの書き手にはできません。ですが伴名練という天才ですよ、天才の持つ圧倒的文章技術レベルならこの途方もない発明ができるんですよ(ここで大きく机をたたく)。

 そしてページを進めるとその百合物語の背景がじつはSF的な歴史によって構築されていたものとして明かされていく。百合のミームにハックされた脳が、今度はSFによって撹拌させられるわけです。ですから「彼岸花」はSFの世界で百合をやっていないんです。百合の世界でSFをやっている。そしてこの瞬間に世界がつながる。百合とSFが同軸上のものになる。ワンオブゼムだった、百合<SFの非対称性が消失するんですよ。そしてその非対称性の消失を味わわせたのちのあのラストですよ。現実が帰ってくる。百合とSFが現実と地続きのものになるんです。

 けれどこれは読めばわかりますが、一度きりの発明なんです。二度目はない。読者はもうその奇術を見てしまったから。この、百合とSFと現実をつなげるトリックは一度きりしか見せられないんですよね。そしてそれを(内心)やりたかった人間(筆者です)が見たら、そりゃあレバーが粉々に破裂するじゃないですか。そういうことです。ありがとう伴名練センセー。あなたがこの世界にいてくれてよかった。大好きです。

 

 

SFマガジン 2019年 02 月号

SFマガジン 2019年 02 月号

 

 

 

第三回文学フリマ京都に参加します。

 お知らせです。

 

saitonaname.hatenablog.com

 

 上の記事にも書きましたが、2019年1月20日開催の第三回文学フリマ京都に参加します。詳しい情報は以下の通りです。

 ストレンジ・フィクションズ

  •  
     出店履歴 |   
     
     すとれんじ ふぃくしょんず
  •  
     小説|SF
 
 う-43 →配置図 (eventmesh)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 前述のブログ記事に書いた解説以外にも、伊吹亜門先生のロングインタビューの聞き手を担当させていただきました。二万字越えの大ヴォリュームで、先生およびその作品である『刀と傘 明治京洛推理帖』(東京創元社)の裏側にせまる内容になっています。ファンは必読です。

 

 また、異色作家短篇集トリビュート競作のほうにも小説を書かせていただきました。

「時間のかかる約束」

 という短編(サイズ的にはほぼ中編)で、TVアニメ『天体のメソッド』とシオドア・スタージョンの一部作品を足していろいろ煮込んだ感じのSFになっています。テーマは姉妹百合です。

 

 どうしていま『天体のメソッド』なのか、というのは自分自身書いていてもよくわかっていなかったのですが、編集や校正作業が大詰めになったところで新作エピソード制作決定の報が流れてきて、このためだったんだな、と思うようになりました。世界は意外なところでつながっています。

 

 ほかの参加者の作品や記事も面白いものが揃っているので、読み応えのある同人誌になっていると思います。ご興味のある方はぜひ。

 

 

コミックシティ大阪118に参加します。

 お知らせです。

 

 大学サークルの先輩・後輩と一緒にノベルゲームをつくりました。いわゆるギャルゲー的な作品です。ミステリ要素もあります。現在絶賛デバッグ中です。

 

 つきましては来年1月13日のコミックシティ大阪118で頒布します。

 

 サークル名は〈留年ソフト〉です(サークル構成員が全員留年経験者なので)。

 スペース番号は〈6号館A も46b〉です。

 わたしはテキストでもイラストでもなく劇中の一部BGMとエンディング曲を担当しました。主催は城乃さん(城乃@1月13日コミックシティ6号館A モ46b (@Shiranojou) | Twitter)です。

 

 一般参加の場合は当日パンフもしくは入場券をお買い求めする必要があるそうですので、お気をつけください。詳しくはCOMIC CITY 大阪 118でご確認いただきますようお願いします。

 

 以下、わたしが担当した曲の抜粋です。

 合計でだいたい35、6曲くらいつくったんじゃないかと思います。十数年ぶりにちゃんとキーボードに触れ、あまりの下手っぴさに驚き、引き出しの少なさにさらに驚きました。作曲に関してはドがつく素人ですが、一般的なギャルゲーと比べても曲数だけは劣らないかと思います(クオリティはアレですが)。出涸らしになりました。

 

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 それでは当日、スペースでお待ちしております。