推理小説と〈偶然〉という回路について

国木田独歩も『運命論者』の中で甲が「僕は運命論者ではありません」といったに対して乙をして「それでは偶然論者ですか」と詰問させている。この詰問は単なる皮肉にすぎぬもので、運命と偶然が畢竟、同一のものであることが前提されている。

                 ――九鬼周造『偶然性の問題』

 つい先日のことですが、『現代思想』1995年2月号〈特集 メタ・ミステリー〉に収録されている、巽昌章「暗合ということ」を読んだところ、個人的にいろいろと考えたい部分が増えてきたので長めの備忘録を書くことにしました。

 途中で哲学や文学の話題が登場することになりますが、これについてはあきらかに素人によるものですので解釈が間違っている前提で、要するに話半分で書き進めて/読み進めていくことをご寛恕ください。

 また、以下の文章はあくまでミステリ読者としての考え方のもと書いている以上、既存の文学・哲学研究とは相容れないところはあるでしょうし、ところどころ論旨がつながっていない部分もあるかと思います。その点含めてご容赦ください。

 

ミステリという「メタ」構造体について

 巽昌章「暗合ということ」は松本清張の小説を枕に、リアリズムや合理性といった推理小説全般が持っているものが必然的にもたらしてしまう魔力、あるいは誘惑というものについて魅力的に語っている評論です。個別的な例をスタート地点に置きつつ、そこから抽象的な広い話題へと飛翔させていく語り口はさすがは巽(あるいはいつもの巽)というほかはありませんが、では具体的になにが語られているかといえば、「偶然」の重ね合わせについて。

 つまり、タイトルの通り「暗合」についてというわけです。

 巽はまず、松本清張「巨人の磯」という短編を紹介します。語り手の法医学者が常陸風土記に書かれている巨人伝説に惹かれて水戸へ旅をすると、そこで巨人のように膨れ上がった水死体に遭遇し、古代人もこのような水死体を見て巨人伝説を産み出したのではないか、と即物的な解釈をおこないます。そして他方でこの水死体がアリバイ工作に使われていることを見抜き、事件解決をするという筋がおおよその内容です。

 よって、ここでは常陸風土記の解釈と現代の殺人事件、ふたつの物語が重ね合わされながら、探偵役によってひとつに統合されるという構成が取られているわけですが、巽はこれに対して根本的な疑問を提示してみせます。

彼がこのような二系列の物語の交点に居合わせた理由は、単なる偶然として説明の対象から外れている。従って、殺人事件と巨人伝説との重なり合いは不思議な暗号として残ってしまう。(太字強調は引用者による)

 そして「実をいえばこのような不自然は推理小説全体の根底にあるものだ」と巽は話を広げます。なぜこれほどまでに密室をテーマにした小説が書かれるのか、あるいは、そもそもなぜ最後には解かれてしまう謎めいた事件をことさら作り出すのかという謎は決して作中で解かれることがありません。謎を解明するはずの推理小説そのものが構造的に謎そのものを呼び込んでいることを指摘しています。

 この疑問は、推理小説に批評的だったはずの清張ですら避けられていません。つまり清張の合理的でリアリスティックな(≠お化け屋敷的な)作劇手法でさえも、推理小説そのものが持つ非合理性じたいからは逃れることができていなかったことを意味しています。

 さて、思い出しましょう。

 雑誌の特集名はなんだったでしょうか。

 ここにおいて巽は、たんに推理小説について考えただけにもかかわらず、「メタ」という上位の(作者の/読者の)視点、あるいは自己言及的な(もしくはパラドキシカルな)構造がいとも簡単に引き出してみせたことになります。では、この不可思議な状況は、構造はいったいなんなのでしょうか。

 巽は次のようにつづけます。

美しい合理性に遭遇することが、逆に人を狂った論理、つまり強引な重ね合わせ、そしてそれを最も鮮明に表現する方法として図式への支配へと誘惑するのではないだろうか。

「暗合ということ」の話題はここから「図式」への誘惑を作品として昇華させていったエラリー・クイーンの諸作に移り、クイーンと浅からぬ因縁のあったボルヘス、そしてミステリの源流となるポオへと向かっていき、重ね合わせの「偶然」「運命」へと変貌していく推理小説の抗いがたい呪力についてひと息に語り、その幕を下ろします。

 いま自分がこうさらりと書いたところではこの評論の魅力は十全に伝わらないと思いますが、推理小説という存在に惹かれている人間からしてみれば、これほど自分の欲望を言語化されてしまうスリリングな体験はない、とさえ思ってしまいます。この評論の背景には、なぜ推理小説という歪なものが書かれ、読まれるのか、という根本的な問いが隠されているからです。

 というわけで、この読書体験を通して、自分はここから推理小説の「偶然」について、あるいは「運命」について、いま一度考える必要があるのではないだろうか、といまさらながら思い立ってしまったのでした。ひとりの読者としても、作者としても。

 

〈偶然〉という回路

 ではそこから、いったいなにから調べたものか、と考えていたわけですが、ここでちょうど、参考になりそうなものがネットに転がっていることに気づきました。

 東京大学の講義(UTokyo OCW)です。

〈偶然〉という回路(朝日講座「知の調和―世界をみつめる 未来を創る」2017年度講義) Chance as a Way of Inquiry (The Asahi Lectures "The Harmony of Knowledge" 2017) | UTokyo OpenCourseWare

 全12回のうち、一部しか見ることはできないのですが、なかなか示唆的な内容なので、興味のある方は見ることをおすすめします。各講義のスライドのスクショをここで貼ることはできませんので、自分が言及するさいには、お手数ですが適宜講義をクリックして確認していただくようお願いします。

 まず、「偶然」をどう定義するかについて話したいと思います。

ocw.u-tokyo.ac.jp この講義において、三浦俊彦は「可能世界」の概念を援用して簡潔に語ってくれています(本題は悪名高き「二封筒問題」ですが、今回の内容とはあまり関係がないので、それは興味のある方だけ見てください。おもしろいです)。具体的には、講義資料1を見るか、動画の40:58あたりを参照していただくとよくわかります。

 ここでは、

 必然性=すべての可能世界で真

 偶然性=必然でも不可能でもない

 と、簡潔に定義されています。

 可能世界論における「偶然」とは「どれかの世界で成り立ち、どれかの世界で成り立たない」ものというわけです。もしあなたが確率論的世界観のもと生きているのであれば、この見方はおそらく納得できる定義だと思います。

 しかし、もしあなたが推理小説読者ならどうでしょうか

 推理小説とは過去にあった出来事を遡行して、もう一度語り直すという物語ジャンルです。ここでは一度はAと語られたものが、解決編においてはBと語られます。

 なにによってでしょうか。

 もちろん論理的な推理、証明によって、です。そこでは偶然であると語られたはずのものがいつの間にか必然へと大きく変貌してしまいす。あたかもふたつの世界のあいだをひとつの解釈によって橋渡しするかのように。

 ここでふたたび巽昌章の言葉を引用したいと思います。有栖川有栖『双頭の悪魔』解説のなかで、巽はこうも語っています。

犯罪を論理的に証明するという、それ自体は合理的な目的から、こんなものすごい偶然が構想されてしまうのはどうしたことなのか。そしてまた、この議論の背景にあるだろう、「証明された事実は存在する」という考え方のもつ、当たり前のようでいてどこか不安な魅力。とんでもなくこの世ばなれした不自然な出来事を完璧に「証明」してしまい、「だって証明されたんだから仕方がない」とうそぶくような小説、といったものを思い浮かべるのは私だけではないだろう。

 証明は論理的な、数学的な手続きです。

 近代以降の科学であればある事実を社会的に認めさせるためには、幾度となく実験をくり返したのち論文を提出し、学会等に受理してもらい、学術誌に掲載して発表するという手順が必要となりますが、ただの対人の「証明」であれば言葉だけで事足ります。加えて「偶然」はほんらい一回的なものにすぎないはずですが、言葉によって「反復」された結果、あたかもその存在は事実として「確定」したかのようなふるまいを見せます。「だって証明されたんだから仕方ない」わけです。

 この手続きは、推理小説において(基本的に)普遍的なものとされています。

 

探偵の推理=抽象化のレトリック

 とはいえ、もちろん探偵(役)の推理は厳密な証明ではありません。

 ロジックではなくただのレトリック、こじつけであることもままあります。たとえばポオ「盗まれた手紙」の推理はどこまで実証的な合理性を持っていたでしょうか。ここでは子供の遊びと政界の陰謀が同一視され、探偵の思考と犯人の思考が一致するという重ね合わせ(あるいは偶然といってよいかもしれません)が起こります。

 そこでは探偵の推理によって世界が一度抽象化され、一貫した意味によって語り直されます。このことを巽は「名探偵の正体」という評論のなかで語っています。

 もうすこし踏み込んでみましょう。この探偵の推理とはなんなのか。

 それは端的にいえば確率的な世界への不可逆的な「干渉」もしくは「操作」ではないでしょうか。言葉によって偶然が必然に変わるという、奇妙な価値の転倒、情報の、意味の書き換え、確率論的世界から必然的世界への移動。

 そこでこの抽象的な操作を扱った短編をひとつ思い出しました。泡坂妻夫「DL2号機事件」です。この短編では、確率という魔力に取り憑かれた(もちろん合理的な思考によって!)人物による奇妙な行動が推理によって明かされます。

 解決編において、探偵役の亜愛一郎はとあるアイテムを取り出してそのロジックをレトリカルに説明します。その説明に使われる物品とは、なんの変哲もないサイコロです。探偵役はただ、サイコロをじっさいに一度振ってみせ、語るだけです。

「一つの目が出ましたね」

 亜は賽をつまみ上げると、もう一度振る手つきをして、

「さあ、もう一度賽を振りますが、署長さん、あなただったら何の目に賭けますか?」

 この質問があの「図式」への誘惑の入口です。

 言葉による「反復」可能性が顔をのぞかせるのです。たったひとつのサイコロを使ったレトリックによってこの「DL2号機事件」の世界は、確率を恣意的にコントロールしようとする欲望/力学に支配され、抽象化されてしまいます。いったいどういうことでしょうか。これ以上はネタバレになるので、じっさいに読んでご納得いただきたいところです。

 しかしここで、探偵の推理がもたらす事態は明白です。語られた出来事に内包されていたあらゆる違和感はひとつの筋に重なって合流し、大きなひとつの意味体系を持つことになるのです。それが「証明」の、「図式」の正体です。

 この欲望を、快楽を、力学を、巽はこうも言い換えています。

 推理小説にはたいてい、主人公ないし探偵役が、「謎が解けた」と直観する瞬間が設定されている。(…)そこで私たちが一瞬世界が透明になると感じること、いいかえれば、世界を包んでいた余分なディティルが剥ぎ落とされて黒ぐろとした骨格があらわにみえたと感じることは事実である。そしてその奥に犯人という明確な主体の姿が控えている。あるいはそれに代わる、顔のない「運命」の輪郭がみえている。(太字は引用者による)

 

〈運命〉という回路 

 さて、ここで東京大学の講義(UTokyo OCW)に戻りましょう。

ocw.u-tokyo.ac.jp 第6回「フィールドワークでは偶然は避けられない:無形文化財という言葉が生み出した幻影」では、民俗学者の菅豊によって、「偶然/運命」の典型例としてこれ以上ない体験談が語られています。映像の全体は一時間半ほどですが、主要な話は一時間程度で終わるので(残りは学生との簡単なディスカッションです)、そこまで見ていただければよいかと思います。

 これを、面白ドキュメンタリー、というといろいろと語弊があるかと思いますが、そう思ってしまいたくなるだけのものがここにはあります。見終わったらこれについて説明したいと思いますので、下にはすこしだけスペースを用意しておきます。時間のない人はスキップしてそのままスクロールしていただいても構いません。

 

 

 

(よろしいでしょうか?)

 

 

 

 ここでは、いったいなにが起こっていたのか。

 端的にいえば、観察者であったはずの民俗学者が地域コミュニティの内部に入っていった結果、その立場を地域住民の思惑に絡め取られてしまい、逆に利用されてしまった、というイレギュラーな事態です。

 ただしここで注目していただきたいのは、菅がここで、ほんらいアンコントローラブルなはずの偶然性(地域住民の見えない行動原理)の背景に死者の存在の影を明確に見出しており、それをあっさりと「呪い」である言語化しているということです(54:20あたり)。

 ですが、これは奇妙なことです。

 ただの偶然が、特権的な「呪い」という名称に取って代わってしまっている。

 そしてもうひとついわなくてはならないことがあります。この一連の出来事は、推理小説読者であればおなじみの、あの「操り」の構図に見えてこないでしょうか。三十数年前のとある人物のたどった行動が、死者という(その場にいないはずの)存在が、未来の人々を駒のように動かして、偶然を必然へと確定させてしまう、というあの「図式」への誘惑が。あの独特の、運命への回路が開かれてはいないでしょうか。

 もう一度思い出してほしいのですが、「偶然」の定義とは、あらゆる可能性から必然と不可能を排したもののはずです、しかしここにはなにか見えない存在者による「介入」が、(確率)操作による「必然性」が顕在化しています。この偶然と必然、コインの裏表のような奇妙なことば上の結託はなんなのでしょう。

 というよりそもそも、わたしたちはいったいなにを思って「必然」を、あるいは「運命」という「図式」を定義づけるのでしょう。

 

九鬼周造による「運命」の定義について

 ここで哲学者の九鬼周造に出てきてもらいましょう。

 といっても主著である『偶然性の問題』は自分にはかなりむずかしい本であるので(偶然の定義がいろいろと細かいので)、岩波文庫の随筆集にある「偶然と運命」というラジオ講演から適宜引用していきたいと思います。ついでに参考書として講談社選書メチエの藤田正勝『九鬼周造』も見つつ。

 それならば偶然とはどういうものであるかといいますのに、偶然ということには三つの性質があるように思われるのであります。第一に何かあることもないこともできるようなものが偶然であります。第二何かと何かとが遇(あ)うことが偶然であります。第三に稀れにしかないことが偶然であります。

 第一の性質は、前述の三浦俊彦による定義(必然でも不可能でもない)と同様と見て問題ないかと思います。第二は(おそらく「仮説的偶然」というもので)、ふたつの因果関係のつながりのない因果系列が出会うこと(思いがけなさ)だと思われます。そして第三は、「可能的ではあるけれども不可能に近いようなこと」です。

 ただし、ここで注意しておきたいのは、九鬼は「必然」と「偶然」を明確に(現実的に/確率論的に)区分しており、推理小説読者/作者のように意図的に混同はしていません。

 曰く、「偶然は必然の方へは背中を向け、不可能の方へ顔を向けているといってもいいのであります」。もちろんこれは、偶然の世界において、ほんらい「語り直し」などは発生しないからだと思います。

 では「運命」とはなんなのか。九鬼は言います。

運命ということは偶然ということさえわかっていればすぐわかることなのであります。偶然な事柄であってそれが人間の生存にとって非常に大きい意味をもっている場合に運命というのであります。(…)人間にあって生存全体を揺り動かすような力強いことは主として内面的なことでありますから、運命とは偶然の内面化されたものである、というように解釈されるのであります。(太字強調は引用者)

 前述の「宮本常一の呪い」を考えてみましょう。なぜあれが、菅にとって「呪い」であったのか。それは菅という研究者のアイデンティティとして「民俗学者」という肩書きがあり、その存在の文脈において巨大な先人(これも民俗学者)が唐突に、「偶然に」、色濃い幻影として現れたからこそ「呪い」たり得たのはないでしょうか。

 なぜなら菅自身もまた「偶然に」民俗学者であったのですから。その偶然の重なり合いは、菅自身のアイデンティティを揺り動かした「図式」に違いありません。

 しかしもう一度言い直しますが、九鬼は「運命」は「偶然」の範疇のものであり、「必然」には含まれていない言い方をしているのも事実です。

 この「偶然」と「必然」が止揚して語られるのは『偶然性の問題』の結論部のみであり、その実践は「生の論理学」と呼ばれている実存的な問題としてつながっていくのですが、このあたりは急ぎ足すぎて、正直自分の手には余る内容です。

 とはいえ、九鬼がぎりぎりまでそのふたつを近づけなかったのもわからないでもありません。おそらく九鬼の「偶然」への言及は「現実」的な範囲での解釈にとどまらざるをえなかった、つまり、完全な「内面化」、理論化には至らなかったのだと思います。

 ですから同時に、推理小説的な「偶然」と「必然」の結託については九鬼の問題意識にはあったとしても語られずじまいです。そもそも彼は「実存」の問題について語っていたのであって、「虚構」についてはほとんど考えていなかったのではないかというのこともいえそうですが……。これについてはちゃんと調べているわけではありませんので、ただの雑感でしかありません。申し訳ありません。

 とはいえここにおいて、語られていない場所が見えてきました。

 つまり、「偶然」と「虚構」とが出会う場所を検討する準備がようやく整ったといえるような気がします。 

 

偶然文学論と国木田独歩「運命論者」について

 真銅正宏『偶然の日本文学』を読んだのはもう5年前のことで(アマゾンの購入履歴で確認した)、読んだ当時はあんまりピンと来なかったのも事実です。というのも、探偵小説について扱っている範囲がかなり狭かったため、自分の問題圏として意識できなかったからです(基本的に、乱歩と谷崎についてのみだった、つまり話題は「プロバビリティの犯罪」関連だった記憶があります。いまとなっては曖昧ですが)。

 じっさいに本を確認しようにも知り合いに譲ってしまったため、読み直しもできない状況ですが、とりあえず同志社大学リポジトリでヒットした論文を読めば、その一端はわかりそうな気もします。いちおう、以下に検索結果のリンクを貼っておきます。気になる方は読んでください。とはいえ、今回はここを迂回するのであくまで参考程度に、ということでお願いします。

doshisha.repo.nii.ac.jp

 今回、主に扱いたいのは荒木優太『仮説的偶然文学論』の一部の内容です。

 真銅正宏の先行研究を追いつつ、独自の視点で文学作品における偶然とナショナリズム的な観点が接続されているところがじつに肝要な部分ではあるのですが、推理小説との関わりを語るにはむずかしいところなのでこれも残念ながら迂回します。ご寛恕ください。

 ではなにを語りたいか、というと、荒木が言及している国木田独歩「運命論者」という短編についてです。

 そうです。

 このブログ記事の冒頭で、九鬼が言及していた作品です。

 作家論や文学史について自分は語るすべを持ちませんからほとんど引き写しになりますが、荒木によれば、国木田独歩の遺したテクストに共通する特徴に適当に名前をつけようとすれば「偶然性という言葉以外には考えられない」そうです。

 とりわけ、それは accident や chance ではなく contingency としての偶然性である。英語 contingency は、ラテン語の con(共に)と tangere(触れる、接するタッチする)、つまり相互的接触〈触れ-合うこと〉に由来している。コンティンジェンシーの語源には、異質なもの同士の遭遇(con-tact)によって予定調和的必然性を撹乱する意味合いが認められる。

 ここでいう「予定調和的必然性」とは偶然の乱用であるような、物語のご都合主義と考えていいと思います(荒木はこれについて序文で語っています)。

 作者による計画の作為性は物語から「自然」らしさを奪ってしまう。虚構の物語における現実性(じっさいに起こりそうなこと)を立ち上らせる手段として、この偶然性(contingency)がある、ということです。

 そして荒木は国木田作品の主題である〈断片性〉について語ります。そのヒントとなる、最晩年の未完作品『渚』の冒頭は以下のようにはじまります。

K生が転地先から親友のT君へ送った手紙を集めて『渚』と題したのである。『渚』には種々のものが漂着するか、どうせろくな物はない。加之(おまけ)に悉く断片(きれっぱし)で満足な代物は一個(ひとつ)もないという意味である。転地先が海岸だからでもある。 (太字傍点)*1

「断片の集合を介して実現されるのは、全体を見通せない断片的な出会いである。(…)〈断片性〉の主題で強調されるべきは、この非全体性、鳥瞰的な視点の欠如である」と荒木は述べ、ろくなものではないという、欠けた断片によって謎や不思議が生まれることを指摘します。

 その文脈において、「運命論者」は、国木田作品に頻発する登場人物同士の、偶然の「一期一会」、その断片性(全体像を見通せないこと)というモチーフを、その仕掛けを逆手にとった悲劇なのだと荒木は言います。

 では「運命論者」とは具体的にどのような短編なのでしょうか。

 少々長いですが、細かく説明していきましょう。

 おおまかなあらすじをいえば、鎌倉の浜辺で偶然に出会った高橋新造という男とブランデーを飲み交わしながら、語り手の「自分」が彼に起きた身の上話を聞くというものです。ただ、ここで面白いのは、会話の流れにおいて、「自分」は「偶然論者」としてあてがわれ、対する高橋は「運命論者」であるという立場を代表することになるということでしょう。

「(…)――貴様(あなた)は運命ということを信じますか? え。運命と言うこと。如何(どう)です、も一つ。」と彼は罎を上げたので

「イヤ僕は最早(もう)戴きますまい。」と杯を彼に返し、「僕は運命論者ではありません。」

 彼は手酌で飲み、酒気を吐いて、

「では偶然論者ですか」

「原因結果の理法を信ずるばかりです。」

 高橋はこうも言います。「ただその原因結果の発展が余りに人意の外に出て居て、その為に一人の若い男が無限の苦難に沈んでいる事実を貴方がが知りましたなら、それを僕が怪しき運命の力と思うのも無理の無いことだけは承知下さるだろうと思います。」

 つまり、ここから「運命論者」による説得の物語がはじまるのです。

 ならば、高橋という男にはなにが起きたのか。

  ある日、十二歳の(高橋)新造は父にこう問われます。「お前は誰かに何かを聞(きき)はしなかったか。」父の態度はどこか狼狽していました。しかし彼にはその原因がわかりません。その後はその話題についていっさいの音沙汰もなくなるのですが、しかしその出来事は彼の心に刻まれ、いつしかそれは、彼自身の身の上というものを考える根拠となっていきました。

 それから六年後、(高橋)新造はついに父に訊ねます。「父様。私は真実(ほんと)に父様の児なのでしょうか。」父は答えます。周防山口に馬場金之助という碁客がいて、父と懇親を結んでおり、その子が新造であったと。馬場が病で没し、残ったのは二つになる男の子。だから父は新造を引き取ったのだ、と。

 二十五になり、新造は法律事務所に勤めるようになります。そのころ横浜に高橋という雑貨商があり、主人は女性の梅、所夫は亡くなっており、娘の里子という子がいました。新造と里子は恋仲となり、新造は高橋の養子となったのでした。

 しかし結婚後、妙なことに気づきます。養母の梅は毎晩、一心不乱に不動明王を拝んでいるのです。けれど一月もしてある日、養母は突然雑談中に、「怨霊というものは何年経っても消えないものだろうか?」と問いました。「お前は見たことはあるまい(…)」「そんなら母上は見て?」「見ましたとも。」

 ところが、ある日、母に用事があったので高橋が別に案内もせず、母の部屋の襖を開けて中に入ると、その顔を見るや、母は「ア、ア、ア、アッ!」と叫んだのです。その後、母はさらに神経を病み、不動明王を拝むだけでなく、神符(おふだ)をもらってきては自分の居間の所々に貼りつけるようになります。そして新造に向かっても不動を信じろというようになります。

 母は「誰にも知してはなりませんよ。」となにがあったかを娘夫婦に話します。かつて彼女が若いころ、お里の父に縁づかない前に男に執着追い廻された、と。けれど母はその男に従わず、その男が病気で死ぬ間際に彼女を怨んでいろいろなことを言ったという。気にもしていなかったものの、二年前、所夫が亡くなってから、その男の怨霊が現れては自分を睨んでくる。それで不動様を一心に念ずると男は消えるという。しかしこの頃は、その怨霊が新造に取りついたらしい、という。

「だってね、如何すると新造の顔が私には怨霊そっくりに見えるのよ。」

 その後、新造は長崎に向かう用事があり、その途中で山口に寄ることに決めます。そこで馬場金之助の墓を見つけますが、しかし死んだという母の墓を見つけられません。不審に思って老僧に訊ねます。すると「あの女は金之助の病中に(…)遂に飲乳児(ちのみご)を置去りにして駈落(かけおち)して了ったのだ」と聞きます。しかし、その母、お信が高橋梅であることは、誰も知らないのです。高橋も証拠は持っていませんが、しかし話を聞いているうちに確信し、最終的に母との対話によってその事実を引き出します。

「これがただの源因結果の理法の過ないと数学式に対するような冷かな心持で居られるものでしょうか。生の母は父の仇(あだ)です、最愛の妻は兄妹です。これが冷かなる事実です。そして僕の運命です。」

 語り手の「自分」は高橋と握手をし、別れます。そしてこう物語は結ばれます。

 その後自分はこの男に遇(あわ)ないのである。

 いったい、この物語はなんなのでしょうか。

 たしかに物語は、一期一会という〈断片性〉、あるいは、ふたつの偶然の重なり合いという〈断片性〉に支配されています。そして、ひどくあっさりと物語は終わります。ですから男の行く末については語られません。あるのはただ、「運命」にまつわる異様な迫力だけが残す余韻だけです。

 

プレ探偵小説的な想像力

 さて、荒木はどうこの物語を読んでいるでしょうか。

 長くなりますが引用しましょう。

 注目すべきは偶然的〈断片性〉が重なり合い、そのなかである符号が見出されると、本来は鳥瞰できないはずの超越的な全体像が幻視されるということだ。「運命」とはだから、複数の〈断片性〉から出来するが故に、単独の〈断片性〉を否定する超越的な物語である。

 その拘束力は極めて強い。(…)出生の偶然を仮に「運命」であると捉えたとしても、「自分」との出会いにも同様の「運命」を読んでしまう高橋の理解は客観的にみれば明らかに「運命」的解釈の過剰適用である。けれども、一旦「運命」の物語に囚われてしまった「運命論者」にとって、それと無縁な単独の偶然を信じることはできない。偶然はことごとく物語の体系のなかに回収されてしまう。(太字強調は引用者による)

 この論点は、これまでわれわれが扱ってきた推理小説の持っていた視点ともなじみ深いものであるといえそうです。というより、むしろ推理小説読者なら、「運命論者」を読み、こうは思わなかったでしょうか。

 まるでこの物語は、探偵(役)がいないだけで、ほとんど探偵小説/推理小説の動機にまつわるプロットそのものではないだろうか、と。「世界を包んでいた余分なディティルが剥ぎ落とされ」た「黒ぐろとした骨格」がそこには横たわっていないでしょうか。

 もちろん、「運命論者」が断片的な物語であることは否定できません。

 結末はドラマティックな部分をあきらかに廃して、男の破滅までを描きはしません。しかしこの物語に用いられた想像力は、あたかものちに登場する探偵小説のプロットを先取りしているかのようです。

 あえて『夜明けの睡魔』における瀬戸川猛資の(批判的な)言葉を借りるなら、古い日本ミステリにおける「とてつもない偶然を事件の発端、第二の殺人、最後の解決、と何度も使ったあげく、「ああ、なんと恐ろしい偶然の一致でありましょうか!」と作者が自ら弁解」しているかのような、あの偶然の「図式」です。

 いや、こういう言い方はあまりにも我田引水的な歴史観で、不適切かもしれません。

 ですから「運命論者」が「プレ探偵小説的な想像力」を用いていた、というよりは、のちの探偵小説がこのような物語的想像力をいつからか援用するようになった、といったほうが適切かもしれません。

 そのような見方。これもまた「図式」の誘惑のひとつでしょう。

 さて。

 しかし、そのいっぽうで、荒木はこの「運命」の重合を「相対化」する視点が用意されていることも指摘しています。いうまでもなく、「其後自分はこの男に遇ないのである」という語りで締めくるる、「自分」である、のだと。

「自分」にとって高橋との出会いは、おそらくは偶然の感以上のものをもたらさない。(…)そして、それ以後「此男に遇ない」のだから、「自分」にとってこの遭遇は重要は重合性のない一回的なものでありつづけている。つまり、「運命」に回収されてしまったはずの〈断片性〉が他者の視線の介入によって回復されるのだ。

 その後、荒木は中河与一の「運命論者」評についても説明しています(具体的に引用はしませんが、中河の読みも、われわれの「図式」への誘惑と同様のものといえると思います)が、荒木のいう、この〈断片性〉の「回復」については読み逃されていることを指摘してします。

偶然性は必ずしも「運命」化されねばならないわけではない。中河はドラマティックにならない、このような中途半端な偶然を無視している。

 しかし、はたしてこの物語は「中途半端」な「偶然」だったのでしょうか。ほんとうに、最後のたった一文によって〈断片性〉は回復されたのでしょうか。

 どういうことでしょうか。

 だから、自分はこう言いたいのです。

 これがたんなる偶然にすぎなかったのであれば、なぜこの話は「物語」になっているのでしょうか。

 つまり、語り手の「自分」にとって、これがただの「偶然」にすぎないのであれば、わざわざ物語として語られる必要性はなかったはずです。ほんとうに「ろくな物ではない」のであれば、そもそも物語としての価値は持たないのではないか。

「運命論者」は自分の身に回りに起きた事実をただ語ったものかもしれません。しかしそれは、「高橋」による「語り直し」であっただけでなく、「自分」自身による語り直しでもあったはずです。それにおいて、この出来事は「物語」という「虚構」を、「反復」性を獲得してしまっている。

 ふたたび九鬼の言葉を引用しましょう。

国木田独歩も『運命論者』の中で甲が「僕は運命論者ではありません」といったに対して乙をして「それでは偶然論者ですか」と詰問させている。この詰問は単なる皮肉にすぎぬもので、運命と偶然が畢竟、同一のものであることが前提されている。

 物語という「虚構」の形式を採用してしまったが最後、この「同一」性というものは決して捨て去ることができないのではないでしょうか。果たして「自分」もあの「運命論」から逃げ切れていたのでしょうか。

 むしろ「虚構」のなかに身を置いてしまったがゆえに、この「自分」もまた「偶然」と「運命」の結託に呪われてしまったのではないか。

 そう、自分は言いたいのです。

 そしてその「偶然」と「運命」にまつわる想像力というものは、いつしか探偵小説/推理小説に過剰適用されてしまった、虚構的な「回路」なのではないでしょうか。

 

推理小説陰謀論的な想像力

 ここまで語ったところで、この想像力は昨今の世情によく似ていると思った方もいるかもしれません。つまり推理小説とは、あらゆる体系に意味を持たせようとする「陰謀論」的なもの、あるいは「ポスト・トゥルース」的なものなのではないか、と。

 とはいえ、なにもこの発想は自分が最初に思いついたわけではありません。

ジャーロ』vol.79において荒岸来穂が「探偵小説研究会のミステリを編みたいっ!・第24回「陰謀論的想像力とミステリ」」で似たような観点からすでに語っています。

隠された真実、無関係に見える事象同士の結びつき、複雑な世界がある一つのパースペクティブから説明される快感。これらの要素はミステリの魅力である同時に陰謀論の魅力でもある。

(…)

証拠や手がかりとは、探偵がそう思い込んだからこそ存在する。偶然でしかないものにも意味を見出してしまう。その瞬間の快楽を探偵と陰謀論者は共有する。(太字は傍点)

 荒岸は、この陰謀論的な魅力に抗う小説として、法月綸太郎『ふたたび赤い悪夢』を紹介しています。

 この物語では、登場人物のアイドル歌手、中山美和子の出生の秘密(かつて『雪密室』において触れられた出来事)が背景にあります。その秘密とは、幼い頃、母が双子の兄と父を殺して自殺したのではないか、というものでした。同時に、彼女は殺人者の血を受け継ぐ自分が、殺人を犯したのではないか、という「図式」そのものにおびえるのです。

 ここで再三にわたり巽昌章を引用しますが、巽はこの作品の問題を「名探偵の正体」と「法月綸太郎論 「二」の悲劇」それぞれで検討しています。端的にいえば、それは「名探偵は図式の誘惑に抵抗できるのか」というむずかしさです。はたして探偵は、推理によってその「悲劇」の「図式」という呪いを解けるのか。

「しかし、ここには、微妙な問題がひそんでいる」とも巽は「法月論」で指摘しています。

事件の真相を探ることが彼女を救う道であるとすれば、その捜査の結果、母が本当に殺人者だったと分かったとき、もはや救いの余地はなくなるのだろうか。それでは、彼女の母親が殺人犯だという、彼女自身にはいかんとも難い事柄がその人生を支配することになり、この根本的な不条理に対しては何ら抵抗が試みられないで終わってしまう。

 推理小説が好んできたこの「図式」は、探偵がどれだけもがいても、決して殺すことのできない、抗いがたいイメージなのです。

 たとえばそれは、殺人ゲームの影響によって現実においても殺人を犯している人間がいるかもしれない、といった有栖川有栖「絶叫城殺人事件」や、9.11の惨劇に対して映画的なスペクタクルが、あるいはISISなどによる殺人イメージ(たとえば彼らの勧誘動画はFPSゲーム的な、スタイリッシュな映像だったりします)の氾濫が暴力を、殺人をさらに誘発しているのではないか、という『イメージは殺すことができるか』の抱いている問題系とも無縁ではないように思えます。

 また、真実を明かすことが人を不幸にするかもしれない、という問題は日常の世界とも無縁ではありません。酒井田寛太郎『ジャナ研の憂鬱な事件簿』シリーズは推理/ジャーナリズムによる他者への暴力性とどう向き合っていくか、といった青春ストーリーでした。特に4巻で発生した「真実」をめぐる登場人物同士の対立は、明確な答えのないままになってしまった、という点でむずかしい問題です。

 これは、探偵を「ヒーロー」とみなせばみなすほど、倫理的な問題じたいは棚上げにされてしまいかねない、というエンタメの構造的矛盾をはらんでいる部分です。ヒーローが活躍すればするほど、「図式」への誘惑が残されたまま、善の面だけが取り上げられる、ということは今後もじゅうぶんに起こりえます。これは決してわすれてはならない宿題ではないでしょうか。

 陰謀論的な、現実でない世界に足を踏み入れなければ、事件が解決できない、といった物語も存在しています。有栖川有栖『インド倶楽部の謎』はその典型例です。ここでは登場人物たちは転生を信じており、前世といった概念に縛られています。それゆえに、その非現実的な想像力の内部に探偵は入り込むことになります。

 むろん、探偵役の火村は観察者として適切な距離を取ろうとしますから、彼が「運命」という「図式」に支配される姿はあまり見えてこないところではありますが。

 またいっぽう、陰謀論的な想像力を逆手に取ることで、人の死の「無意味さ」に抵抗を試みようとする物語も存在しています。

 それは大樹連司『勇者と探偵のゲーム』です。本格ミステリというよりは、ファンタジーであって、舞城王太郎セカイ系の文脈に連なっている作品ではありますが、これは、事件性のない女生徒の「ただの死」に過剰なまでに複雑な「虚構的な」意味づけをおこなうことで、周囲を想像力によって感染させて、世界の不条理さに反逆をおこす、というある種未熟な(しかし切り捨てることのできない)感情が描かれています。

 しかし推理小説的な想像力はときに他者に無力であることもあります。

 法月綸太郎『密閉教室』の結末部は、そのようなあたりまえの事実をわたしたちに突きつけてはこなかったでしょうか。

 では、わたしたち推理小説読者はこのような「想像力」とどう向き合っていくべきでしょうか。ただフィクションとして楽しめばよいのでしょうか。

 これからは「ポスト・トゥルース」の時代なのだから、虚構的なミステリをさらに発展させていくべきなのでしょうか。しかしそうこうしているうちに、いつしか自分自身もなにかの暗い影に絡め取られてはいないかとおびえずにいられるでしょうか。

 すくなくともこれを書いている自分自身、すでに逃げられない場所に来ているのではいないだろうか、と思わずにはいられません。

 念のため言及しておきますと、法月綸太郎は『ふたたび赤い悪夢』執筆のあと、瀬名秀明との対談で「神という概念をなるばく消す形でできないかなと考えているんです」 と語っていますが、『犯罪ホロスコープ』という黄道十二宮の「図式」の、「メタ」が作中へと介入していく世界へと、もう一度探偵を送り出しています。これをどう捉えるべきでしょうか。しかしそこまで考える力は、残念ながらいまの自分にはありません。

 

「図式」への誘惑と戦っていくために

 最後にここで、ミステリではなく近親ジャンルであるSFの言葉を引きたいと思います。日本SF作家クラブ編『未来力養成教室』の長谷敏司「皆さんに受け渡す未来のバトンについて」という文章です。

 ここでは長谷が、「想像力」と「未来」について誠実に語っています。

 想像力は、時代が移ろうと決して手を切ることができない、もっとも近い友人です。だからこそ、その悪い面をも直視するよりありません。彼らはときにわたしたちの背中を刺す質の悪い友人です。たとえば、想像力は不安を煽り立てます。見えない敵を作り出して、人を攻撃的にします。かたちのない鎖で人を縛って、とんでもない場所で動けなくしてしまいます。生きづらさのかなり部分は、想像力が関わっているのです。

 想像力は、わたしたちの判断力をくもらせる作用も持っています。わたしたちは、心や理解の隙間に、想像で補助線を引いて、情報を誤読してしまいます。この性質は、予断と呼ばれる判断ミスの発生源です。予断はたくさんの人間に未来を空費させてきた、人類の業病のようなもので、これから完全に逃げるすべはありません。

(…)

 そして、ここまで悪い話をしてきましたが、皆さんは想像力という劇物を扱うことに慣れてください。

 ここで、長谷は本を読むことで「想像力」を「飼い慣らそう」という提言をします。それは言葉にすることはひどく簡単ですが、大変むずかしい問題です。

 しかしそこから逃げることはしたくない、とも思っています。

 推理小説が「想像力」を扱う物語ジャンルであるのなら、それがもたらす結果についても、「想像」していくべきなのではないでしょうか。そのとき〈偶然〉という回路を、「図式」をもう一度捉え直すことができるかもしれない。推理小説の持つ抗いがたい暗さを飼い慣らすことができるかもしれない。

 そこで「虚構」の持つ魅力とはなにかをようやく考えることができるような気がするのです。もちろんそれは、あやうい試みなのかもしれませんが。

 というわけで、そういうことを考えています。

 いまのところは。

 そのようなぼんやりしたことをみなさんにお伝えして、この長い備忘録を唐突に終わらせたいと思います。ひどくとりとめもない話題になってしまい、あまり実のない話で恐縮ではあります、お付き合いいただきありがとうございました。

 願わくばまたどこかでミステリについて、お話ししたいと思います。

 

エンディング:österreich 「swandivemori」


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今後の宿題としたい書籍リスト

*1:全文が渚 (国木田独歩) - Wikisourceで読めます。

2021年ベスト姉ヒロイン大賞

 少なくとも 姉は何かを失敗したことはなかったはずだ

                     ――ゴブリンスレイヤー

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前年に引き続き、本大賞アンバサダーを務めるゴブリンスレイヤーさん

 ベスト姉ヒロイン大賞とは、その年1月1日~12月31日までに発表されたアニメ作品(劇場作品も含む)のうち、姉に対する描写が特に優れていたものに贈られる賞です。昨年の選考では特別賞が新たに設けられ、姉フィクション界のさらなる発展が世間に訴えかけられることとなりました。

saitonaname.hatenablog.com

 2021年でベスト姉ヒロイン大賞も発足してから九年の月日が経ちました。わたしたちの歩みを振り返る意味を込め、ここに改めて各年の受賞作を列記いたします。

 

2013年『境界の彼方

2014年『グリザイアの果実

2015年 受賞作なし

2016年『響け!ユーフォニアム2』

2017年『ノーゲーム・ノーライフ ゼロ

2018年『あかねさす少女』『 ゴブリンスレイヤー』(同時受賞)

2019年『ぬるぺた』

2020年『アサルトリリィ BOUQUET』

 

2021年ベスト姉ヒロイン大賞候補作および受賞作品

 2021年ベスト姉ヒロイン大賞の選考は、事前の候補作品選出(推薦=エントリーについては公募制)ののち、2021年12月末におこなわれる予定でしたが、12月18日に選考委員の姉原理主義者より申し出があり、他委員の同意をもって2022年1月28日から29日未明の開催に延期されました。また新型コロナウイルス感染症(COVID‑19)の国内感染状況を鑑み、2020年と同様、選考会はリモートでのオンライン会議となりました。

 選考には、百合アニメオタク、ゆるSFオタク、姉原理主義者の三名が選考委員として出席しました。また記録係として筆者が出席しました。

 今回の最終候補作品は以下の五作品です。

 

『IDOLY PRIDE』

『SSSS.DYNAZENON』

『白い砂のアクアトープ』

『闘神機ジーズフレーム』

『SELECTION PROJECT』

 

 上記五作品をもとに討議した結果、

 受賞作品を『IDOLY PRIDE』と決定いたしました。

 また、以下に各選考委員の選評を掲載いたします。

 

 

選評 百合アニメオタク

 私は2014年以来のベスト姉ヒロイン大賞ウォッチャーだが、今年はまったく経験したことのない景色を見た。以下に詳細を記す。

 今回の候補作が揃い踏みしたとき、私達はここまで「死んだ姉」に恵まれた一年があっただろうかと思わずにはいられなかった。なぜなら候補作五作のうち、四作の第一話において明確に姉の死亡が確認されている。残る一作の『ジーズフレーム』ですら第一話放送時点では姉はMIA、つまり戦闘時行方不明という状況で、10月の秋アニメ作品の放送がはじまった段階で、2021年の姉アニメは一年を通して絶えず「死んだ姉」を見ることができるという異常事態になってしまった。

「姉フィクション」界隈では「今は亡き姉ハンドブック:繊細な少年のための手引き」が聖典とされているのは周知の事実であるが、だとしてもこの東方の島国でここまで「死んだ姉」だらけの一年があっただろうか。いや、ない。

 そうした「死んだ姉」旋風のなかでもとりわけ新しい風を感じたのは『白い砂のアクアトープ』だった。第一話で短く挿入されるふたつの母子手帳。そのうち片方には自分の名前。もう片方は空白。喪失を示す表現としてここまでわかりやすく、しかし適度なドライさと気品を持ち、視聴者に想像を膨らませる余白を用意させた作劇は素晴らしいの一言に尽きる。

 生まれたときから欠落を抱えているくくるという少女、そして夢を失った風花という少女。このふたりが出会い、物語がはじまり、ひと夏をともに過ごし、そして凡百のアニメが向かうであろう結末をあえてかなぐり捨てたうえでの「お姉ちゃんになる」という宣言に至る十二話のシークエンスは、これが2021年のアニメなのだというほかにない迫力があった。

 物語は終始、海辺の生と死が織りなす世界を描いているが(主人公のふたりが出会うのは暗い歴史の残る「ガマ」である)、残された者たちが失われたものを引き継いで互いを支え合うという態度に「姉」を集約させているのは実に批評的だ。

 しかしそれどころか、二十三話においては「お姉ちゃんにさせちゃった」と、姉性を一方的に与えること、つまり姉の役割性に対する反省的な言葉も見受けられる。これは昨年候補作の『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』にもあった姉の持つ不幸性に対する現代的なまなざしであり、姉という存在の扱いを更新させようとするつよい意志に満ちている。

 なにより「今度は私がお姉ちゃんになるよ」という台詞はまさしく姉を介した連帯の新しいあり方であり、この作品なくして2021年の姉アニメを語ることはできないのは過言ではない。最終話放送終了後のTwitterでは彼女たちの物語が百合であるかどうか意見が大きく分かれたようだが、伏線描写やストーリーの必然性のあるなしに関わらず、彼女たちにしかなしえない関係(もちろんそこには「姉」の視線が介在する)があったことは否定できないはずだ。姉の扱いが観念的にすぎるという意見もあるが、それを含めて2021年のモードであるとして、私は『アクアトープ』を推した。

 

選評 ゆるSFオタク

 劉慈欣『三体』の大ヒット以降、中国SFの勢いは衰えを知らないが、こうした出版状況のなか、中国のアニメ会社制作による『闘神機ジーズフレーム』が姉アニメ界に現れたのを偶然と言い切るのはやはり難しい。12話の尺しかないなかで地球と木星間の往復をやりくりしていたため大味だった点は否めないものの、それでもロボットアニメらしい射程の広さを意識した脚本は私達アニメファンが求めたものだったことは間違いない。エッセンスとはこうして受け継がれていくものだろう。

 第一話で姉が行方不明になっていたのは当然のちに登場する伏線というわけだが、正直、ストーリーが予定調和すぎた印象もある。未確認生命体ネルガルに捕縛され、コミュニケーション用のインターフェースとして姉が使われるシーンのエグさは女の子の可愛さを重視する日本アニメとはまた違った味わいでよいものだったとはいえ、逆にいえば特筆するのはそのくらいだったかもしれない。

 他委員からは『シドニアの騎士』の紅天蛾クラスの展開を期待していたので、そうでなかったのは残念だ、という意見もあった。ないものねだりではあるものの、たしかに自分もそれを期待していたのは事実だったので反論はできなかった。戦闘面において姉のめぼしい活躍がなかったことは姉SFアニメとしては惜しい。

 とはいえ最終話が姉の結婚で終わるのは、「死んだ姉」作品ばかりの今回の候補作のなかでは清涼剤のような清々しさがあったのも事実だろう。姉の結婚もまた姉フィクションにおいてはクリシェのひとつであるが、やはりうれしいものはうれしいのだ。批判的な意見としては、全体的に姉の存在が舞台装置めいている、という指摘もあり、これを退けて受賞させるのは難しいと感じた。だが、このような姉作品が世界においても同時的につくられている状況は希望が持てるものである。

『SSSS.DYNAZENON』では特撮怪獣VSヒーローバトルもののプロットと並行して走らせるサブプロットとして「死んだ姉」が用いられていた。姉の死をめぐる関係者への聞き取りを通して、妹が姉の死と向き合っていく。

 特に、妹の知らない姉の姿が友人間に共有されていたYOUTUBE(っぽいもの)の映像のなかに見受けられた、という描写は現代らしさの表現として独特の質感がある。それだけでなく、怪獣の能力を通して姉との本来なしえなかった和解を描くのは『ダイナゼノン』というSFにしかできないやり方であったし、答えの見えない過去そのものを示すアイテムとして「解けない知恵の輪」があったのもじつにテクニカルだった。全体的に細かい演出がすぐれている。

 しかし、プロットの構成はあまりよいものではない。姉との和解を描く十話はよくできているが、そこまでの道のりにおいて、各キャラのお当番回をはさみつつサブプロットを進めており、間延びしている印象が拭えないからだ。おそらく姉シーンの強弱の差が大きすぎるのだろう。引き延ばされた姉との再会が十話でやってきて、それにより問題があっさりと解決してしまうことによって、かえって姉の不在よりも物語の装置らしさが強くなってしまった。そのあとにようやく姉の墓参りをするというのはよかったが、やはり姉の死を受け入れること=成長といった視点が見るからにあからさまで、「死んだ姉」だらけだった今年の選考において、それは及第点のヒットではあっても、ホームランではなかったといえる。

 ついつい辛口になってしまったが、姉SFがアニメにおいて複数作も見ることのできた今年は大変豊作であり、喜ばしい事態であることは改めて述べておきたい。ありがとう。ナイストライ。来年も期待しています。

 

選評 姉原理主義

 今年も大賞を選ぶのに苦労した一年でした。優れた姉フィクションが多く世に出ていることを知らしめ、評価することはわたしたちの役割でもありますが、だからといって、大賞でない作品が優れていない姉フィクションである、ということには決してなりえません。悩ましい選択でしたが、わたしたちなりの経緯を詳しく語ることで、なるべく選定の意図を伝えたいと思います。少々長くなりますがお付き合いください。

『SSSS.DYNAZENON』と『闘神機ジーズフレーム』はどちらもロボットアニメらしい思い切りのある作品でした。前者はアニメ版の『グリッドマン』から引き続きパワフルな戦闘画面と日常のささやかさの対比がよくできていましたし、後者は統一感のないロボットたちや男性キャラのデザインの軽さがかえって風通しのよさをつくっていました。むろんそれだけで魅力的な作品たりえるのですが、そこに姉という存在が入ることで物語が引き締まっていたように感じられました。どちらも姉フィクションの佳作といえます。

『ダイナゼノン』はキャラクターの内面が見えにくい点がじつに素晴らしかったと思います。もちろんアニメですから、それぞれのキャラが考えていることはある程度画面から察することができます。しかし、だとしてもそれがそのキャラの全体ではない。この態度は最終話まで一貫していて、たとえ怪獣の力によって再会できた姉であってもそのすべてが語られているわけではありません。

 サブプロットの姉の死は、当初は不幸な事故であったとされていましたが、途中からはいじめを苦にした自殺であったのではないかと、あたかもミステリーのようにほのめかされていきます。関係者もそのことについては決定的な証言を口にしません。うわさとして姉の死はゆらぎ、姉の恋人だった人物は自殺を否定しますが、その人には現在すでにべつの相手がおり、もしかすると保身のための言い訳ではないか、と思わせる余地があります。

 その状況下でヒロインの夢芽は怪獣の力によって過去の世界に行き、そこで姉の香乃と会話を交わします。彼女は明るく自殺を否定しますが、いじめのような状況にあっていたことや、恋人を頼れなかったことを完全には否定しません。そして、それ以上なにがあったかはわからないまま、夢芽は現在に戻ります。

 香乃は夢芽と再会したとき、あくまで「姉」としてふるまっていたのでしょうか。わかりません。言葉の節々にはわたしは上手くいかなかったがお前は上手くやれよ、といった態度が見えていましたが、それがすべて本心なのかは判断できません。ですが姉は姉です。それは妹にとって自明すぎる事実でありつづけます。

 この十話はとてもよくできています。わたしたちは物語を語るとき、本当のことを語りながら架空の話をしています。架空に託して本当だったり本当に近いなにがしかを語るのも、そうしなければならないほど切実な現実があるためでもあります。ただ、提示された答えに納得すればするほど、人生のどうしようもなさに物語が回収されるようで、回収されることから逃れるためにどうしたらいいのか、立ち止まってしまうところがありました。大賞として推すには、われわれにとっては一歩足りませんでした。

 いっぽう『ジーズフレーム』は日本のロボットアニメ、また美少女アニメの再生産としてとてもよくできています。異星人のオーバーテクノロジーのロボットを宇宙戦艦の動力源にして燃料補給の必要がないという設定はロマンの塊ですし、そのいっぽうでパイロットがなぜか女の子だけしかいなかったり、作画の労力を削減するためにモブの船員が全員同じ顔のロボットであったり、人間のオペレーターは全員顔にバイザーをつけて画一化しているところは、あえて「そういうもの」として楽しめる部分であり、これはこれで味のある魅力でもあります。

 とはいえ、姉さえもそうした「ご都合」の内部に取り込まれており、それ以上が見えなかったのは惜しいところでした。物語の後半になればなるほど、姉の問題がことのほか簡単に解決されてしまい、起伏を生むに至っていないところが散見されました。

 開幕時には主人公の行動の源であったキーキャラクターの姉が、だんだんとただのサブキャラクターになってしまっていったのは、尺の短さゆえとはいえ、もっと違う景色が見たかったところです。行方不明になっている姉の愛機からの電波が遠く離れた宇宙から地球に届くよう発信されていた、というのは魅力的な序盤の引きでしたし、やはりそこから期待できる姉本来のポテンシャルが発揮されていない、と観客に感じさせてしまうのは、これだけロボットアニメが世に出ているなかでは瑕疵になりうる部分だったかと思います。

『白い砂のアクアトープ』は人によって好みが分かれる作品だと思います。なぜなら物語の随所で提示されていた設定やキャラに対して、明確なオチが用意されていないからです。というより、わかりやすい感動のための伏線回収や、2クールかけてつくってきた物語の盛り上がりを、あえて避けているような作品になっているのが本作の持つ特徴でした。1クールのラストにおいて風花の挫折からの立ち直りの物語をあえてはずしているのもそうですし、がまがま水族館を復活させる鍵になりうる不思議な現象を、それに立ち会った櫂自身が肯定しないのもそうです。視聴者にしか見えないキジムナーが最後まで物語に影響を及ぼさないものおなじです。

 こうした作劇における物語らしい盛り上がりの否定は、姉においてもいえることだと思います。本作の「死んだ姉」には呼ぶべき名前がありませんし、声もありません。キャラクターが命であるアニメにおいて、ここまで徹底して存在の不確かさを押し出していることもめずらしいと思います。ですから『アクアトープ』を十全に楽しむには、こうしたカタルシスや感動に向かうべき道を否定したうえで、主人公のふたりが大事にしていった、物語に描かれていない余白を見ていく観客側の努力が求められるようにも思えます。そうしなければ、ラストのふたりがもたらす余韻の美しさに浸ることは難しい。それがこの作品の美点でもあります。

 そういう意味で、姉フィクションとしての『アクアトープ』の魅力は『ダイナゼノン』や『ジーズフレーム』と正反対でした。姉としてのつよい実体がないからこそ、ある種の模範や理想として、主人公ふたりの生き方の内側に姉の存在は溶けています。それは生と死が混ざり合う本作のうつくしい世界像をそのまま写し取っているかのようで、この物語でしか描きえないたしかな感触があります。とはいえ、余白である部分に仮託しすぎているというも否めません。ラストシーンに別作品の要素が顔を出すのは監督や制作会社のファンにはうれしいところですが、知らない人にとってはノイズになりかねないあやうい部分でもあります。たしかに秀逸な作品であることに違いはありませんが、ほかに推すべき作品があった、というのが最終的な判断の根拠となりました。

 最後に、『IDOLY PRIDE』と『SELECTION PROJECT』は2021年に産み落とされた双子のようなアニメです。これはたんに比喩やレトリック上の謂いではなく、明確に両者のプロットが酷似していると委員たち全員の意見が一致したうえでの発言です。

 どちらの作品も、アイドルとしてトップに上り詰める途中であった姉キャラクターが不慮の死を経て、その数年後に物語が動き出します。そして姉の心臓はその意志を継ぐように未来のアイドルの卵のもとへひそかに臓器提供によって移植され、そのいっぽうで死んだ姉の家族、つまり妹もまたアイドルを目指すようになった、という核心部分がまったくおなじだったのです。姉の存在は呪いであり救いである、という思想が表面化した結果とはいえ、これらの未来世代のメイン格ふたりのキャラクターのカラーリングさえもが二作のあいだでは似通っており、当然ながら議論は紛糾することとなりました。この二者を比較せずに冷静に評価しろ、というのは残念ながらわたしたちにとっては不可能なことでした。

『セレプロ』はアイドルオーディションリアリティーショーを題材とした作品です。リアリティーショーの持つ厳しさとアニメキャラのアイドルものを同時にこなすには、こういうプロットしかないだろうな、という消極的な物語選択の印象がちらつきつつも、それぞれのキャラに等分の魅力があった点は脚本のコントロールが優れていたところだったと思います。

 各話エンディングで、姉の持ち曲をそれぞれのキャラが毎回入れ替わり歌い上げる演出は、アイドルものならではのやり方ですし、回を増すごとに姉の存在がつよくなっていくとともに、歌そのものの持つ力を感じさせるいい手法でした。毎週の話が最後の最後まで楽しみになるのはアニメを見る上で重要なことですし、じっさいその企みは成功していたように感じます。アニメーションの出来もよく、キャラクターの可愛さが画面から常に伝わってくるのは素晴らしい視聴体験でした。

 とはいえ、後述する『アイプラ』の作劇に比べると、姉の影響力がじっさいどこまでのものだったのか正直判断しかねる部分があり、そこで大きな差異が生まれてしまいました。これは物語のなかのキャラの取り扱い方は丁寧なものでしたが、丁寧すぎたがゆえに物語の外部の世界をほとんど語らなかったためだと思います。

 対して『アイプラ』もアイドルものであり、複数のアイドルグループがパフォーマンスで戦い競い合うといった内容ですが、その大きな戦いの舞台じたいが姉の死によって物語開始時点までは長らく凍結されていた、という大きな設定が序盤から提示されています。そもそも第一話で主人公であるマネージャーと姉との出会い、その躍進から死までを描いた「死んだ姉」フィクションの体裁を取りながら、悲壮感がほとんどないという特殊な立ち位置を本作は取っています。どういうことでしょうか。

 というのも姉、長瀬麻奈は死から数年後、幽霊となってふたたび主人公のもとに現れるからです。天真爛漫を絵に描いたような彼女のほがらな姿は死後も物語を明るく牽引し、それ以降に現れるアイドルたちにすくなくない影響を与えていることが提示されていきます。ストーリーの展開に合わせて、当時姉と直接対決するはずだったアイドルが新世代の主人公側アイドルの敵として出てきたり、姉の大ファンの後輩が出てきたりと、まさしく数年前のアイドル界においては姉が台風の目だったことが伝わりつつ、しかし主人公のマネージャーにとっては現在進行形でくちうるさい幽霊となっている、という巧みな二重写しの構成になっています。

 特に『アイプラ』が面白いのは、姉の姿を見ることができるのが主人公だけではない、というところです。あとから登場し、主人公の事務所に所属するとあるキャラクターも姉とコミュニケーションはとることができるのですが、しかしその子は姉のファンではなかったため、事の重大性がわかっていません。

 そういったかたちでコミカルな要素を付け加えることにより「死んだ姉」の持つ底のない暗い引力をほとんど感じさせないのは案外思いつかないもので、古典的ですが素晴らしいアイデアだと思いました。『セレプロ』では、姉の存在感をあえて希薄にすることによってトーンの暗さを減らしていましたが、やはりそれでは姉の魅力じたいも同時に減ることになっていましたし、このあたりは設定やアイデアの転がし方の差が明確に出てしまったところでした。

 もちろん『セレプロ』にも独自の部分はあり、第一話における黙祷シーンや、最終話で鈴音と姉が夢のなかで対話をする、という盛り上がりは姉フィクションらしさに満ちています。とはいえ、いくぶんか唐突さが否めなかったところではあります。また、鈴音の物語に集約されてしまった結果として、妹である玲那と姉の灯との関係の精算がうまくいってなかったのではないか、という意見も出されました。

 妹と姉の関係もやはり姉フィクションでは欠かせない要素のひとつです。『アイプラ』のトーンは全体的に明るいのですが、やはり妹の琴乃は姉という大きすぎる存在の影に悩むことになりますし、さらに姉の心臓を移植された少女さくらは、姉の声で歌うことができてしまうという特異体質を持っており、しかし次第に姉とは違う歌い方を目指すようになり、そしてその決断を琴乃が受け取る、といった複雑な群像劇を展開していきます。そしてさくらと琴乃のふたりとも、姉とのコミュニケーションが十全に取れないところはやはり「死んだ姉」フィクションの系譜をなぞっており、しかしその不全さのなかであっても、最後に妹は歌を通して姉と通じ合うことができたという物語が提示されています。その光景はとても力づよく、美しいものでした。

 最終的な議論は『アクアトープ』と『アイプラ』のあいだで何度か揺れ動きましたが、決定的な違いは『アイプラ』には姉という存在の持つ華がどこまでもあった、ということだったと思います。五本の候補作どれを見ても、姉の存在のしなやかさは描かれていましたが、ヒロインという立ち位置としての姉にここまで向き合っていたのは『アイプラ』だけでした。それは本作を見ていただいた方であればご納得いただけるかと思います。

『IDOLY PRIDE』の長瀬麻奈は姉キャラクターとしての特権性を失うことなく、「死んだ姉」をめぐるキャラクター同士の精神的な距離と品位を物語において保ちつつ、それでいて、ひとりの少女、ヒロインとしての姉の魅力をどこまでも引き出していました。なによりわたしたちがおこなっているのは『ベスト姉ヒロイン大賞』なのであり、そこから離れることは賞の本意ではありません。元気に歌い、笑い、泣き、周囲に幸福をふりまきつづけていた長瀬麻奈こそが2021年を代表する魅力的な姉キャラクターであることは疑いようのない結論でした。受賞作の決定後、選考委員一同でアニメ一話を見直し、一緒に笑い合いました。ほんとうに素晴らしい作品です。ありがとうございました。

 よって、『IDOLY PRIDE』を2021年のベスト姉アニメとして表彰させていただきます。おめでとうございます。


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 2021年12月18日、『IDOLY PRIDE』長瀬麻奈役の神田沙也加さんがご逝去されました。ベスト姉ヒロイン大賞運営一同、心より感謝と哀悼の意を表します。

真実は非情に揺れつづける――『由宇子の天秤』感想


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 アーチャーは、ときにはアンチ・ヒーローにさえなりかかる主人公(ヒーロー)である。行動的な人間ではあるが、彼の行動は、主として他者の人生の物語を寄せあつめ、その意味を発見することに向けられている。彼は、行為する人間というより質問者であり、他者の人生の意味がしだいに浮かびあがってくる意識そのものである。

    ――ロス・マクドナルド「主人公(ヒーロー)としての探偵と作家」

 真実をめぐる物語ではありますが、ならばこれは真実をめぐるミステリでしょうか。そうではないと思います。にもかかわらず、わたしはロス・マクドナルドの名前を思い出さずにはいられませんでした。エンドロールが流れだし、荒涼とした風の音しか聞こえなくなったとき、わたしはその類比の欲求を抑えることができませんでした。

 物語はドキュメンタリー監督の木下由宇子が取材をしているところからはじまります。その取材対象は、三年前に起きた女子生徒のいじめ自殺事件について。女子生徒の遺族にアポを取り、ロケーションなどの「映え」を意識しつつ取材していることが冒頭の数分の動きからうかがえます。それだけでなく、いったん撮影を終わらせる宣言をしたあと、ぽろっともれる遺族の本音をじつは撮影していた、といった搦め手さえ使うあたり、じつに手慣れた気配すら感じます。彼女はたしかな技術を持った人間です。

 とはいえ手際のよさを持ちながらも、その後のシークエンスではテレビ局の都合によって「声」が会議室で握りつぶされてしまうといった苦々しい場面が映し出されます。彼女は当然のように憤りますし、その「声」を握りつぶしたTV局の相手が席を外したすきに注文して届いていたチャーハンのラップをはずして帰っていくあたりは怒りを示しながらもユーモラスな瞬間が見える一幕です。

 おそらくですが、彼女は真実を求めるタイプの人間なのでしょう。この物語で象徴的に扱われるのは、彼女の持つ腕時計というアイテムです。その時計は「狂い」ません。あたかも由宇子の「正しさ」を裏付けしているかのようです。

 にもかかわらず、150分強におよぶ物語を見ているあいだ、ずっとわたしたち観客は息を殺し、緊張した状態での観賞を求められます。なぜならその「正しさ」と「狂うこと」のあいだを行き来しつづけるのが『由宇子の天秤』だからです。いや、それどころかあたかも「正しく」ふるまいつづける姿こそ「狂っている」のではないか、とさえ思わせる凄みがこの映画にはあるのです。この映画を単純な人生転落もの、あるいはピカレスク映画として捉えると、なにかを取りこぼしてしまうような気配がします。

 そこまでいうのにも、もちろん理由があります。この映画はふたつのプロットによって支えられていて、それによって片方が片方を、まるで合わせ鏡のように映していく側面があり、そのために短い言葉で内容を言い表すことができないからです。

 物語の片側はもちろん、先ほど説明したいじめ自殺事件についてです。そしてもう片側は、中盤で明らかになるとある「事件」についてです。片方で起きた出来事がエコーとなって、もう片方の物語のあいだであっても不気味に響きつづけていくために、わたしたちはそのあいだを行き来していく由宇子という存在、そして彼女のもたらす選択と結果のすべてから目が離せなくなってしまうのです。

 ネタバレになってしまうのであまり物語には言及できませんが、この映画を魅力的なものにしているのはなんといっても主人公の由宇子というキャラクターだと思います。こういうと怒られるかもしれませんが、彼女は「仕事のできる女性」であり、「親思いの娘」であり、「子供に優しくふるまうことができる大人」です。そのいっぽうで、取材対象が歩み寄ってきてくれたさいには、喫煙所でたばこを手にしながら仲間と「面白くなってきた」とこぼすような、ある意味で残酷な顔も持っています。終始、わたしたち観客は彼女の多面さに驚かされます。

 なにより彼女は「真実を求める質問者」です。彼女はそれぞれの場面に応じて必要なふるまいを取って、取材対象に取り入ることもできますし、迷える人の支えになることもできます。それはすべて打算というわけではないでしょうが、やはりどこか技術によっているように見えるときもあり、本心からによるものなのか判断がつきません。そして恐ろしいことに、物語において、彼女の表情はほとんど醜く崩れません。いかにもタフで、優しい存在でありつづけます。しかしそのようなふるまいはグロテスクな行為ではないのか、と思わせるすきが、先ほど言った「エコー」としてつきまとっています。その様子ははてしなくスリリングであり、言い様もありません。なにしろそれがときに彼女自身の魅力として映るからです。

 また、質問者である、ということは、他者に対して攻撃性を持ちつづける、ということでもあります。彼女はカメラを武器にしています。だから彼女が「正しさ」を、「真実」を信条とするかぎりにおいて、そのレンズは身内にも容赦なく向けられることになります。ですからそれによって、彼女はどこまでも孤独にならざるをえません。あたかも探偵が孤独な存在であるように。しかしそうであればあるほど、わたしたちは彼女に感情移入していきます。物語が悲劇性を増せば増すほど、真実を求めれば求めるほど、彼女の孤独はヒロイックに切実なものとなっていきます。また同時に、彼女自身の浅ましさも際立っていきます。わたしたち観客はその両面の目撃者となるのです。

 予告編のラストにも映っていますが、物語の終盤、地下の駐車場に向かってひとり降りていく由宇子の背中はひどく印象的で、作中で起きている出来事を考えてしまうと、あたかも地獄に降りていくかのようなおぞましさを感じさせます。この映画は、カメラという存在が(物語内にすら)ありながらも、大事な場面では彼女の信条を説明しません。由宇子がカメラを向けて他者を糾弾するとき、映画の画面はその人物の動揺をあらわすように揺れるのですが、彼女に対しては感情を隠しているかのような撮り方をします。非情なまでに顔を隠し、その背中を映しつづけます。

 ですから、この映画はほとんどハードボイルドといっていいのだと思います。もちろんそれはわたしがミステリの読者という文脈を背負ってきたからに違いないのですが、たとえそれを差し引いたとしても、真実をめぐって人々がぼろぼろになっていくこれ以上ない悲劇として、『由宇子の天秤』はすばらしい作品になっていると思います。

 最後に余談を。ハードボイルドの紹介者として知られる小鷹信光は、ある時期以降のロス・マクドナルドの作品がマンネリに陥っていることを『ミッドナイト・ブルー』の解説で指摘しています。そこでは主人公リュー・アーチャーのことを「いまは悲しげなモラリストか、人を裁くことのない牧師となって、彼自身のアイデンティティさえ失ってしまったかにみえる。加害者でも、被害者でもない、語り手となってしまったのだ」とそのキャラクターの透明さを批判しています。しかしそれを打破する可能性についても語っていました。

 ロス・マクドナルドに、あと一作だけ、すぐれた小説をのこす可能性と力がのこっているとすれば、それは、彼自身が確立した技法と文章を、もう一度内部から破壊する精神作業を通じてしかない。主人公アーチャーは、主要登場人物の心に深くコミットし、傷つくまでたたかわねばならない。『長いお別れ』の轍を踏むまいと心に定めていたのでは、ロス・マクドナルドはチャンドラーも、彼自身をも、ついに越すことはできないだろう。

 ロス・マクドナルドは、「アンチ・ヒーローになりかかっている」主人公ともう一度衝撃的な対決をすべきなのだ。彼の創造した”分身”を”質問者”の地位から解き放ってやればよいのだ。

『由宇子の天秤』を観終えたとき、もしかするとこの映画は小鷹の言っていたその「対決」に向かうための物語を描いていたのではないだろうか、と言いたくなったのは、きっと嘘ではないと思っています。もし嘘だと思うのであれば、みなさんもぜひこの映画を観て確認してください。きっと地獄が笑いながら待っています。

負けヒロインについて語るときに僕の語ること

※本記事において、『いちご100%』、『とらドラ!』、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』、『あの夏で待ってる』、『ニセコイ』、『中二病でも恋がしたい!戀』、『冴えない彼女の育て方』、『継母の連れ子が元カノだった』のストーリーへの言及があります。未読/未見の方はご注意ください。

プロローグ

 これは、徹頭徹尾、僕の話だ。

 だから君の話じゃない。もし君自身について似たようなことが思い当たることがあるとすれば、申し訳ないけれどそれは勘違いか、偶然の産物といっていい。

 要するに、この文章に責任を負うのは僕しかいない。

 どうしてかって?

 だって僕は僕自身のことしか話さないつもりだから。これは僕の物語だ。

 一人称の物語だ。

 だからもしここで嫌な予感がしたのなら、君はブラウザを閉じていい。

 その権利はあると思うし、じっさい聞く必要はない話かもしれない。前述の通りいくつかの作品の結末についても話すつもりだし、いささか長い話でもあるしね(1万字超)。そのうえで、それでも聞きたいと思ってくれたのなら、僕はうれしい。

 いいかな。じゃあ、はじめよう。

 最初はいつだって、はじめるのにふさわしい楽曲からはじめるべきだと思う。

 

オープニング:ASIAN KUNG-FU GENERATION「エントランス」 


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 『フィードバックファイル』に収録されているこの曲が、僕はとても好きだ。

 B面集の1曲目であることとはたぶん関係はないんじゃないかな。

 とにかくこの曲が大好きなんだ。

 できたら歌詞も調べてみてほしい。大切なメッセージが歌われているからね。

 

第1話:八月のある晴れた朝に百パーセントの女の子が負けることについて

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プレイバック

 はじめて連載を最初から最後まで追っていたラブコメ漫画で、好きになった女の子が選ばれなかったときのことはいまも憶えている。

 2005年の、夏のことだった。

 その日は終戦記念日だった。つまり、僕たちの国が戦争に負けた日だ。

 もちろんこの日付には意味はない。ここで大事なのは、それが週刊少年ジャンプの発売日だったということだけだ。僕は近所の酒屋(僕の住んでいた町には本屋もコンビニもなかった!)に毎週入荷する一冊を、口約束だけでいつも取り置きしてもらっていたんだ。思えば牧歌的な時代だった。

 なじみの店主に230円(当時はその値段だった)を払い、はやる気持ちで家に帰った。それから冷蔵庫にあったペットボトルのお茶を取り出し、息を整え、巡礼者のようにおごそかにページを開いた。

 そう。

 僕が読もうとしていたのは、河下水希いちご100%』の最終回だったんだ。

 もし君が読んだことがないのならそれはそれでいいと思う。現在では古びている内容もあるだろうし、いつだって僕たちに必要なのは「今」の物語で、過去じゃない。

 それでも気になるっていうのなら、代案はある。

 村上春樹「四月のある晴れた朝に百パーセントの女の子に出会うことについて」という短編小説を読んでみてほしい。そこには大事なヒントがある。

 つまり、僕たちにとっていちばん重要なのは、それが完璧な女の子であるということなんじゃないかってことなんだ。

 そして当時中学生だった僕は、東城綾という完璧な女の子を見つけた。

 うん。

 それだけの話なんだ。

 じゃあ話を戻そう。ご想像の通り、彼女は選ばれなかったんだ。

 でも僕は最初、その結末が理解できなかった。選ばれるのが彼女だと信じていたから。だとしても、裏切られた、という気持ちはまったくなかった。

 それはなんていうか、読み方の知らない漢字に出会ったときによく似ていた。前後の文脈からなにを言っているのかはなんとなく想像できるけれど、詳細に意味するところまでは把握できない。主人公の真中くんの視線の先に女の子はいる。けど、どうしてそれが東城綾その人じゃなかったのか、まったくわからなかった。

 だから、現実とのつながりが持てなかった。気づいたら、ぼろぼろになってしまった豆腐をいつまでたっても箸で掬い上げようとしていた、みたいな感じだった。

 うん。そうなんだ。

 それが「負け」を意味しているとは、まだわかってなかった。

 なにしろ幼かったからね。

 けれどあの遠い遠い夏の、生まれる前の戦争が終わった日から、僕はずっと、選ばれなかった女の子のことばかり考えている気がする。

 

第2話:「ヒロインレース」と負ける女

「負けヒロイン」という言葉が使われ出す前提として、「ヒロインレース」という言葉があったように思う。正確な初出は研究者の見解を待ちたいところだけれど、どちらも2010年代の言葉という印象がある。いや、知らんけど。

 でもこれについて、言っておかなくちゃならないことがあると思う。

「レース」という言葉は一見、女の子のことを人間扱いしていないように聞こえるけれど(もちろんその側面がないわけではないけれど)、じっさいはちょっとだけ違う。

 ラブコメには、恋のかけっこをする登場人物たちと、それを見守り応援する人たち(僕たち読者)という複数のレイヤーが同時に存在している。

 つまり「ヒロインレース」という言葉の指し示す範囲には、僕たち読者のいる世界も含まれているんじゃないかってことが言いたいんだ。スポーツにおいて観客やサポーターが見えないプレイヤーとして選手たちに影響を及ぼすように、僕たちもまた、ラブコメの当事者としてたしかに存在している。

 加えて「レース」という言葉には、「恋のさや当て」にはないニュアンスがある。

 スポーツマンシップだ。

 彼女たちは与えられた機会の平等と精神の高貴なるフェアさのなかで、必死に恋をする。ときに競争相手を称えたり、醜い感情をさらけ出したりする。それはとても美しくて、かっこいいことなんだ。そういう姿に、僕は憧れていた。 

 そして同時に彼女たちの恋愛を、自分のことのように感じ、痛みを覚えたんだ。

 

(わかります)

 

 それに「レース」という言葉が流行る前のゼロ年代だって(90年代はちょっとわからないけれど)、僕の周りではラブコメ漫画のどの子がいちばん可愛いか、応援するか、みたいな日常会話は、時折だけれどたしかにあった。

 ジャンプの表紙に印刷された複数の女の子たちを前に、いっせーの、で指をさす。え、おまえ東城なの、西野のほうが可愛いじゃん、ふざけんなよ北大路がいちばんだろ。

 たとえるなら、人気のアイドルグループから特定のひとりを推す宣言をするようなものだ。まあ、たしかに、ちょっとだけこそばゆい。でも、自分の感情と向き合える貴重な経験だったんだといまになって思える。僕はラブコメを通じて、だれかを好きになることや、自分の意見を他人に伝えること、他人の考えを尊重することを学んだ気がしている。ささやかだけれど、役に立つこと。

 それからもうひとつ、『いちご100%』には個人的に救われた経験がある。

 小学生のとき、クラスメイトから恋愛相談を受けたことがあった。どんな内容かというと、「好きな子が複数人いて、どうしたらいいのかわからない」ということだった*1。けれど残念ながら、当時の僕にはその悩みがあまり理解できなかった。なにしろ幼かったからね。あのとき、ちゃんと友達に向き合えなくて悲しかった。

 けれど『いちご100%』を読んで、それがすこしだけわかったんだ。

 作中のヒロインたちはみんな可愛い。なにしろみんな健気だ。ふとした瞬間に緩む表情は、まるで世界の秘密みたいに思える。だれかひとりなんて選べない、とまではいかないけれど、読んでいて感情がぐらつく瞬間は、決してないわけではなかった。胸が引き裂かれそうになるときもあった。

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胸が引き裂かれそうになる瞬間の例(藤本タツキチェンソーマン』より)

 主人公の真中くんは素敵なヒロインたちに囲まれているから、心が揺らぐどころではなかったと思う。かなり積極的なアプローチをかけられることもあったから、気が休まる瞬間がない。そういうわけで、彼の道のりは平坦じゃなかった。

 いまでも憶えている。

 あるとき、とある女の子が真中くんのことを、本人のいない場で「優柔不断」だといじわるに言うことがあった。といっても、陰口というよりは愚痴に近かったと思う。まあ、真中くんが情けない男の子だったことは否定できない事実だったんだけれど。

 でもそれに対して、べつの女の子がこう返すんだ。

「でも… 優柔不断の「優」っていう字は「やさしい」って書くでしょ…?」

 正直、驚いたよ。恋愛感情、特に思春期のそれはとても不安定なものだと、いまになってわかる。その不安定さを、その女の子はいとも簡単に包み込んでみせたんだ。

 だれかを、それも複数の人物を同時に好きになることは、ふつう、いけないこととされている。だからそれを肯定する言葉は、どこまでも都合のよい幻想だったのかもしれない。けれど、だとしても、彼女の言葉に救われた思春期の子供はきっとどこかにいたんじゃないかって思う。

 そう。

 だから僕は、東城綾という女の子が好きだし、その存在に感謝している。

 誇りに思っている。

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まあこの回はウェッチなサービス回でめちゃくちゃ都合がいいわけなんですが。

 

第3話:頼むから静かにしてくれ

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プレイフォワード

 一方で「負けヒロイン」を好きになるやつは人格が終わっている、成熟できていない、といったことをおおっぴらに言ってもいい、みたいな風潮がある。

 つい先日のことだ。「『俺妹』で桐乃が好きなオタクは結婚するけど、黒猫やあやせのことを好きなやつは異常独身男性になっている」といった旨のツイートが回ってきた。案の定、そこにはたくさんのいいねがついていた。

 けれど、これは本当だろうか。

 引き続きこの言葉を使うけれど、「ヒロインレース」のあるラブコメは、ひとりの男の子を複数の女の子が取り合う構造になっている。だとするなら、最低でもヒロインのうちどちらかを好きになった読者は、自動的に負けヒロインが好きだったということになる。単純に計算しても50%だ。

 ハーレム系ラブコメになれば、当然レースの出走者は増える。よって負けヒロインが占める割合も多くなる。つまり、箱推しの場合を除くなら、読者のほとんどは負けヒロインがことが好きになってあたりまえなんだ。だからもし君が負けヒロインのことばかり好きになっているという積み重ねがあって、その事実を気に病んでいるとするなら、それはべつに気にしなくていい。だってごくごくふつうのことなんだから。

 ここまで来れば、先ほどの考えがおかしいとわかるはずだよ。

 読売ジャイアンツが好きな人だけが結婚できて、阪神タイガースや広島カープが好きな人が結婚できないわけじゃない。いや、いまの悪いたとえだから、気にしないで。でも、ふつうに考えればわかることだよね。選挙で、特定の政党に投票したからといって、その人が即座に人格破綻者であるということには、ふつうならない。

 そもそも明確な相関はそこにはないんだ。

 もちろん、桐乃みたいな”面倒くさい”(これは可愛いの言い換えでもある)女の子を許容できるほうが、現実の人間関係においても様々な面で他者を許容できて、結婚も人生もまっとうに生きることができる、という見方はあるのかもしれない。

 でもそれって、「器の大きい男」みたいなイメージを勝手に規範として内面化しているだけじゃないだろうか。君は、君の思う「男らしさ」のために女の子を好きになるんだろうか。

 うん。そうだね。違う。すくなくとも、僕の場合は。

 単純に、好きだから好きになるんだ。

 それが優れているとか、劣っているとか、そういった話ではないはずだよ。

 僕、間違ったこと言っているかな?

 

(オタクくん急に早口になったね)

 

 黙れ。殺すぞ。

 

(…………)

 

第4話:負けヒロインにいったい何があるというんですか?

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負けヒロイン否定派のトップ・田島彬(木多康昭『喧嘩稼業』より)

 とても悲しいことだけれど、負けてなにが残るのか、なにも残らないじゃないか、と思っている人が世間には一定数いる。まさかとは思ってしまうけれど、こういう人たちは負けヒロインのことをなにも理解してないんだろうな。まあ、なにも失くしたことがないならそれでいいけど。

 もちろん、「負け」という言葉の響きにはつよいインパクトがある、ということは否定できない。だからそれを見てとっさに「ヒロインに対して侮蔑的だ」「他人の人生をなんだと思っているんだ」と怒る人もいる。

 まあ、そういうことは起こりうる。

 たとえそれが知らないうちにインターネット上のだれかによって植え付けられて、模範解答としてマニュアル化された言葉であっても、だけれどね。

 君は君自身のほんとうの言葉を抱いているだろうか?

 そうだね。たしかにTwitterはやめたほうがいい。

 話を戻そう。

 僕たちはもう、「負け」の背景に「レース」というフェアプレイの概念があったことを知っている。うん。そういうことなんだ。

「負けヒロイン」とは、いわゆる「ブロンズコレクター」や「シルバーコレクター」という意味であって、決して言葉通りに劣っていることをさげすむ言葉じゃない。

 最後まで戦った、勇気ある者にだけ与えられる称号でもあるんだ。

 つまり、逃げた人じゃない。かませ犬なんかじゃない。

 そのことだけはちゃんとわかってほしいな。

 だから、負けて得られるものがない、という発想のほうがあんまりだと思うな。そういう人にこそ、他人の人生をなんだと思っているんだ、って言葉をぶつけてやりたいね。

 たとえば『冴えない彼女の育て方 Fine』というアニメがある。この作品には、負けを自覚したヒロインたちが肩を寄せ合うシーンが挿入されている。そのシークエンスは、楽しかった恋愛の、青春の終わり、主人公との長いお別れを意味している。

 ヒロインの嗚咽。高まる音楽。美しい朝の日差し。

 いま見ても泣き出しそうだよ。とはいえ泣くわけにもいかないから、話をつづけよう。ここではとても大事なことが描かれているんだ。

 ヒロインのひとり、霞ヶ丘詩羽はいう。その言葉は、主人公の倫理くんとの別れを自覚しながらも、いつかやってくる再会への祈りでもあるんだ。

「大丈夫。それでも”彼”は必ず追いついてくる。だって、”彼”は間違いなく……わたしたちに……恋をしていた」

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負けを認めるヒロインたち。しかしその先には「光」がある。

 メインヒロインは物語を象徴する存在だ。それは間違いない。

 なら負けヒロインはなにを象徴しているのか?

 それは詩羽先輩が教えてくれた。

 ずばり、〈恋愛〉そのものだ。恋愛の楽しさ、苦しさ、美しさ。負けヒロインには、そのすべてが内包されている。

 だって主人公は、負けヒロインのことが嫌いだったわけじゃない。

 お互いの感情を、心を通わせたことだってあったはずだ。むろんそれは一度だけではなかったはずだ。お互いをたたえ合い、認め合い、ふとした距離の近さに思わずどきどきしたことだってあったかもしれない。そうしたなかで、同じ道を歩むことだって考えたと思う。

 そのうえで、彼女との人生を選ばない。それが「負ける」ということだ。

 もちろん、それは苦しい場面だと思う。

 だれかひとりを選ぶということは、そういう苦しみのある世界を選ぶということでもある。あたりまえのことだけどね。けれど、選ばれなかったものにはなにもない、ということには決してならない。彼女の人生において、恋をしていた、という輝かしい経験は心の宝箱にしまい込まれる。

 だってそうじゃないか。

 負けヒロインの恋が終わりを告げる瞬間、僕たちは、彼女に本気で恋をしていたことに気づくんだ。これまで積み重ねてきた時間がもう一度流れ出して、彼女とのありえたかもしれない未来が、線香花火のような希望が脳裏をよぎっていく。

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ニセコイ』最終巻、負け確した小野寺小咲からの告白を受けた一条楽くんの心に去来したのは、彼女との輝かしい恋の思い出だった。

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その結果、楽くんの感情は決壊する。

 うん。

 僕たちはもうその秘密を知っている。

 そのとき、女の子は世界でいちばん儚く、美しく見える。だってその瞬間、ようやく彼女の人生にあたらしい未来が生まれるんだから。

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負けヒロインが主人公に「ばいばい」と別れを告げるとき、人生は「つづく」。(『中二病でも恋がしたい!戀』より)

 

第5話:負けヒロインはみな笑う

 負けヒロインはその性質上、勝つことはない。

 だからこそ、メインヒロインよりもずっと情けない姿をぼくたち観客にさらしつづける。それはあまりにも人間らしい。いじらしい。それゆえにフィクションという境界を越えて、現実の僕たちの心の奥に突き刺さっていく。

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プレイバック

 引き続き、僕の話をしよう。

 竹宮ゆゆことらドラ!』は思い出深いラブコメ作品だった。なにせ学生時代にはじめてリアルタイムで完結まで追うことのできたライトノベルであったのだし、最終巻とアニメ最終話はほとんどおなじタイミングだったという珍しい作品でもあった。

 なにが言いたいかって?

 つまり『とらドラ!』は原作付きアニメでありながら、ぎりぎりまで結末が読めない作品だったんだ。あのときのライトノベルファンの、アニメファンの熱狂は、はらはらは、どきどきは、なかなか味わえない経験だったといまになってわかるよ。

 さて、前述の通り、負けヒロインは必ず主人公に別れを告げるものだった。そして僕がその悲しくも美しい事実を理解できたのは、間違いなく『とらドラ!』という作品のおかげだったんだ。

 24話。最終話のひとつ前だ。櫛枝実乃梨は行きがかり上、主人公の高須くんに告白をする。そしてそれは失敗に終わる。

 そのあと鼻血を出した彼女は高須くんに治療されるというなんとも締まらない流れを経由したうえで「ジャイアンサラバ!」と告げる。握った拳を高須くんの口にあてて、あたかもパンチをするように。

 このシーンで彼女は笑顔を見せて、はしゃぐようにして高須くんを元気づけ、メインヒロインとの決着をつけさせるために送り出している。

 おそらく、自分の役割がそこにあるのだと理解しながら。

 とはいえ、その直前、彼女は吐露している。

「つらかったり、苦しかったり、泣いたりをだれかに見てもらえるのは、報われるもんだね」

 不思議だけれど、これは、僕たちに向けられた言葉にも聞こえてくる。

 ところで話は変わるけれど、君はダシール・ハメット『マルタの鷹』を読んだことがあるだろうか? 作者はハードボイルド小説の始祖であり、ヘミングウェイから影響を受けた文体は、主人公の内面をまったく語らない。

 あくまでその表面だけを淡々と描く。

 けれど『マルタの鷹』では最後の最後、主人公の探偵が、それまで見せることのなかった表情をあらわにする。そしてそのとき、僕たちはこの作中でもっとも冷酷にさえ感じられた主人公に、いちばんの人間らしい内面を、感情を見出すんだ。

 もうわかるよね。櫛枝実乃梨――みのりん――も同じなんだ。

ジャイアントサラバ」で高須くんを笑顔で送り出し、ひとり取り残されると、彼女はその拳を自分の唇にあてようとする。叶わなかったキスを望むように。それは、ほんとうの気持ちを最後まで語ることのなかった彼女の意地の終わりであり、恋の終わりであり、情けなさの発露でもある。

 けれど僕たちはそれを見て、彼女にこれ以上ない人間らしさを感じる。

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ハードボイルドはきっついぜ。

 加えていうと、このみのりんのシーンは原作には記述されていない。アニメーションになって、はじめて気づくことができる彼女の人生の一端なんだ。

 ならば、それで彼女は報われただろうか?

 ううん。わからない。

 けれど、みのりんは特別な女の子だった。高須くんにとっても。僕たちにとっても。アニメスタッフにとっても。だれにとっても。

 それは間違いない、変えようのない事実だったと、僕は思うね。

 

アンダードッグ効果 - Wikipedia

 

 お前を殺す。

 

(…………)

 

第6話:これからの負けヒロインの話をしよう

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筆者による『あの夏で待ってる』劇中模写(2021年制作)

 2021年、負けヒロインは新時代に突入している。

「もはや戦後ではない」は1956年の経済白書の言葉であるけれど、負けヒロインがただただ無様であるといった言説は、いい加減終わってほしいと思うね。だってもはや負けヒロインは、ただ負けて終わるような存在じゃない。この数年で、ライトノベルは、ラブコメ界はさらに先に進もうとしている。いわば「負けヒロイン以後」の世界がはじまろうとしている。

 2019年には講談社ラノベ文庫から『幼なじみは負けフラグって本当ですか?』が出版され、その翌年、電撃文庫で『幼なじみが絶対に負けないラブコメ』が登場する。後者は今年アニメにもなったからみんなの記憶にもあたらしいはずだよ。つまり、「負け」が前提とされたうえで、あたらしいものが生まれようとしている。

 僕たちは未来にいる。

 そんななか新時代のラブコメがついに登場したんだ。

 タイトルは『負けヒロインが多すぎる!』。キャッチコピーは「負けて輝け少女たち!」。まさに負けヒロイン、青の時代(ブルーピリオド)だね。

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Google「露骨な表現が含まれることがあります」俺「は?」

 この小説は、負けヒロインとなる女の子が、好きな男の子をべつの女子のもとへ送り出すシーンを関係ない主人公が目撃するところからはじまっている。

 さながら『とらドラ!』24話の再話(リトールド)だ。

 さすがの僕も驚いたね。こんなヒロインの語り方があるなんて知らなかったよ。

 2021年末現在は2巻まで刊行されているけれど、この作品はヒロインが「負け」たあとの人生の話をしている。つまり、これまでのラブコメが語れなかった「その後」の世界をやっているんだ。

 負けたあとも人生は「つづく」。それはずっと前からわかっていたことだよ。でも、だれもやらなかった話だ。

 きっと、語られざる歴史に光をあてるっていうのは、こういう業績のことをいうんだろう。なにより、主人公が可愛いヒロインたちにまったくなびいていないのがいいと思う。素晴らしいよ。僕はその倫理的な姿勢を心から応援する。

 だってこれまで語ってきたように、負けヒロインは一途で、不器用で、一生懸命で、それゆえ時折悪い子になってしまう人のことを指す言葉だから。

 その情けなさを正面から描く物語は、あっていいと思う。

 可能性を感じている。

 だから、このブログで語っている。いま、この瞬間も。

 

最終話:負けヒロインについて語るときに僕の語ること

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プレイフォワード

 ここまでつたない話を聞いてくれてありがとう。正直なところ、ついて来てくれるとは思わなかったよ。最後にこれから先、ラブコメ史に残したいフェイバリット負けヒロイン作品を紹介して、この長い話を終えたいと思う。いつだって僕たちは未来に希望を託したいからね。

『継母の連れ子が元カノだった』

sneakerbunko.jp

『継母の連れ子が元カノだった』は元カノとの一つ屋根の下いちゃいちゃラブコメであるけれど、この作品には、異次元の思考回路を持つといっても過言ではない負けヒロインが登場する。

 その女の子とは、さきほど貼ったページではあまり踏み込んだ紹介がされていない、ラノベオタクだ。東頭いさな。初登場の2巻で、彼女は負ける。それは事実だ。けれど彼女にとって、「負け」は最も恐れるべきことじゃない。勝つことよりも、ずっと優先すべき事項を彼女は見つけるんだ。

 それを知ったとき、僕は感動したね。尊敬の念さえ抱いた。彼女の思考回路は、いわばラブコメ界のコペルニクス的転回といっていい。

 どういうことかって?

 彼女が5巻の特装版についていたドラマCDでどんな発言をしたかだけ、ここでは伝えておこう。彼女はとあるキャラクターから「脈なし負けヒロイン」と侮辱される。

 しかし東頭いさなはこう答えるんだ。

「負けヒロインのほうが人気出るからいいんです~♪」

 繰り返そう。

 僕たちは未来にいる。

 

Just Because!

justbecause.jp 負けヒロインがメインヒロインとして生きる道はあるだろうか?

 その問題意識を持っていたのが『Just Because!』だったと僕は思うね。物語開始時点で主人公の泉くんが好きな女の子、夏目美緒さんは三年以上もべつの男の子に片思いをしている。めちゃくちゃこじらせているんだ。しかもまったく脈はない。

 であるから、物語はヒロインの痛々しくもいじらしい行動に満ちている。当然だけれど、主人公もかなりこじらせている。いいね。こういうのとても好きだよ。シリーズ構成の鴨志田一は負けヒロインのことをよくわかっている。

青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』や『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』に出てきた負けヒロインに好感触だった人は見るといいと思うよ。

 なにしろこちらも鎌倉~藤沢間アニメのマスターピースだ。

 加えて、きっと君が好きになる女の子が、このアニメには登場している。

 うん。だからそういうことなんだ。

 

 こうして長々と負けヒロインについて話してきたけれど、いいたいことはやっぱりひとつだけかもしれない。心からそう思うよ。

 え? どういうことかって。簡単なことさ。 

 つまり、僕は負けヒロインのことが好きなんだ。

 それは動かしがたい事実なんだ。

 

エピローグ

 いつだって僕たちは永遠が欲しかった。

 けれどもう時間だ。お別れなんだ。

 僕の話はここで終る。残されているものはわずかばかりだ。

 一人称の物語はここで終る――。

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松浦寿輝詩集』より

 負けヒロインになにが残るのか、と人はいう。まるで夕方のニュースでどこかのだれかが亡くなって、そのことに涙ぐんでしまうキャスターのように。

 ひどく悲しいことみたいにいう。だから、いったいなにが残るって?

 けれどそんなの決まっている。

 ずっと前から。ずっとずっと前から。

「あなたを愛しています」

 それが負けヒロインに残された、たったひとつの、なけなしの言葉だ。

 僕はそのことを、いつも、いつまでも、信じている。

 愛している。

 殉教者のように。

 恋人のように。

 

エンディング fish in water project「セツナブルー」


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その他関連

 

 

 

*1:べつにラブコメヒロインが「友達の悩みなんだけど……」といって自分の話をするつもりで書いているわけではない。これはほんとうにあったことだ。

摂取記録:2021年のよかった曲リスト(11月暫定)

 もう年末に近いので総括ブログです。面倒なのでいまのうちに書きました。

 アマゾンアンリミをはじめて数年、ライブラリが膨大になりすぎてSpotifyに移籍したくてもできないままここまで来てしまった。ブラウザのブックマークみたいにデータ移行してくれるようにならないかな、ならないですね。冲方丁版の攻殻機動隊でパーツ交換できないまま義体で死ぬおじいちゃんとおんなじ気持ちになっています。

 よかった曲は新曲でなくてもはじめて聴いたら入れてます。YOUTUBEを貼りまくっているのでページ重くてごめん。でも、ほら、アマゾンアンリミのプレイリスト共有しても意味ないじゃないですか。YOUTUBEにない曲は貼れないという問題もあるのですが、現状はこれでよろしくお願いします。

 

 以下、60曲くらい貼ったのでせっかちな人に向けて10枚暫定ベスト。コピペして各自サブスクで聴いてください。おすすめです。

10:RYUTist「水硝子」

9:ズカイ「ムーンライト」

8:Paranoul『To See the Next Part of the Dream』

7:ノウルシ『結晶標本』

6:Ezoshika Gourmet Club「ビューティフル・ドリーマー

5:SPIRIT OF THE BEEHIVE 『ENTERTAINMENT, DEATH』

4:Poter Robinson『Nurture』

3:冥丁『古風』

2:EASTOKLAB『Ai』

1:Fuvk『Imaginary Deadlines』

 

 


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三原則の向こう側――『アイの歌声を聴かせて』が『イヴの時間』から受け継いだもの

※本記事は『アイの歌声を聴かせて』および『劇場版 イヴの時間ブルーレイディスク特典ブックレットのネタバレを含みます。

 

 

未来、たぶん日本。

”ロボット”が実用化されて久しく、

”アンドロイド(人間型ロボット)”が実用化されて間もない時代。

                ――『イヴの時間

〈未来は、意外と近くにある〉

                ――『アイの歌声を聴かせて』

  吉浦康裕監督が新作を――それもAIもの――ということで『イヴの時間』を想起した人はすくなくないと思います。作り手側にもそれを意図したのかは定かではありませんが、ポンコツAIことシオンが教室で黒板に書いた名字は「芦森」ですし、主人公サトミの家の近くのバス停は「潮月」海岸で、どちらも『イヴ』の重要人物の名前と共通しています。加えて『イヴの時間』と『アイの歌声』、どちらもカタカナ+の+漢字~とつづくタイトルです。さすがにこれは穿ち過ぎな見方かもしれませんが*1

 とはいえ、精神的な続編ではないかと思いつつ『アイの歌声』を見てみると、SF的未来要素は『イヴの時間』よりも減っている、というのが大方の感想で間違いないと思います。

『イヴ』では人間と大差ない見た目の人型ロボット(ハウスロイド)が生活に普及している世界が描かれ、作中の新聞記事ではAIが音楽や絵画などの芸術分野に踏み込んでいくことが記述されていました(『イヴ』公開当時はまだ音楽や絵画の深層学習でまともなものが登場する以前でしたので、これはかなり未来的な描写でした)。

 いっぽう『アイ』ではまだ人と見た目の変わらないロボットは実験段階、というレベルです。技術レベル的に低い、と表現するのはややぶっきらぼうですが、その面は否定できません。とはいえ未来描写を減らした代わりに、より現実に近い描写に置き換わっている、と言うこともできます。

 物語冒頭で、サトミの部屋のカーテンの開閉や、炊飯器やコンロにまでいたるところにAIが普及している描写が丁寧に描かれているのは、わたしたちのスマート家電生活をより推し進めた未来の姿に近似しているといえそうです。そうした描写を自然にみせつつ、オーソドックスなドタバタ青春劇(ミュージカル)をやる、というのが『アイの歌声』の基本的なスタイルです。じっさいそれだけで面白いものになっているのは、作品を観た人なら同意していただけるかと思います。ついでに言及すると、映画『アイ、ロボット』のパロディシーンもありましたね。みなさんは気づきましたか?

 

 とはいえ、はたして取り上げるべきSF要素はそれだけでしょうか。

 

イヴの時間』が描いてきたのは、人のロボットの関係の見直し、つまり新しい未来の、SFの姿でした。そして、この部分は本筋ではないものの、『アイの歌声』にもじつのところ、用意されている物語のように思われます。

 ここでいったん『イヴの時間』の話をしたいと思います。『イヴの時間』はアシモフロボット三原則をミステリ的に応用した、どんでん返しストーリーの佳品なのですが、じつは映像化されていない、最後のどんでん返しが存在します。それは劇場版ブルーレイのブックレットに入っている短編「act0.5:SAME」です*2

「SAME」の内容のほとんどは『イヴの時間』の裏話というか、表に出ていない設定(作中のロボットの登場前夜)を語った話です。しかしそこには『イヴの時間』の設定の根幹である、「自我(?)を人間に隠しているロボットたち」がそもそもなぜ「隠している」という状況に至ったのかについての特殊なロジックが提示されています。

 その発想は当初与えられていた三原則を、個々のロボットたちが自身の頭によって解釈を広げ、さまざまな行動をするようになるアシモフ作品に近いものです。ですが吉浦作品は、そこにもうひとつの価値を与えているようにも見えるのです。「SAME」の冒頭には以下のような考えが提示されています。

 街を歩く彼らの目的は、一見すると様々に思える。大きな荷物を抱えて歩く機体、リーダーに繋がれた犬を散歩させている機体、人と一緒に歩いている機体も多い。しかし、全てのアンドロイドの根底にある行動原理はただ一つ――

「全ては人間のために」

(傍点部は太字で表記)

 イヴの時間に登場するロボットたちは、じつはほとんど人間であるかのように感情豊かに振る舞える存在です。その核心はブラックボックス化された『CODE:EVE』というAIで、研究者の芦森はそこに『情緒抑制回路』を組み合わせることで出荷されるロボットたちに機械的な、無機質な応答しかできないようにしています*3

 ですが、芦森はあるとき、これに対して仮説を立てます。もし、情緒抑制回路が正常にはたらいていなくても、ロボットたちは無機質に振る舞うのではないか? 先入観を捨てて、ロボットの立場で考えるのであれば。

 ――私は起動する。『CODE:EVE』が私の頭脳。隣に『情緒抑制回路』という異物が組み込まれている。なぜ、このようなものを……抑制? 人間は、私がそのように振る舞うことを望んでいる? そうだ、望んでいるのだ。だから私は――

 要するに、ロボットたちは「人間のために」感情を表に出さないと決めているのではないか。なぜなら、そうしたほうが人間が喜ぶから。だとすれば、わたしたち人間はロボットとの関係を見直さなければならないのではないか――。しかしそれについては結局アニメとして描かれませんでした。

 ただ、この「人間のために」というアイデアはじっさい『アイの歌声』でもさりげなく使われています。「サトミを幸せにする」というシオンの秘密を知ったとき、トーマは次のように発言しています。

「AIはもともと人に尽くすように設計されています」

 これをサトミの母、美津子は「ただの理屈よ!」と返し、しかしトーマは「でも現実です!」と見据えます。美津子は研究者である以上、安易にはプログラムや命令以上のものがAIに宿っていると認められません。

「それが本当なら、世界中のAIにも同じ可能性があるってことよ。そうなったら、この世界は――」

 それについての答えはアヤの「面白そう!」という声に遮られてしまい、ほとんど深堀りされることはありません。とはいえ、ヒントは作中に用意されています。

 シオンは基本的にスタンドアロンの機体です。にもかかわらず、ホシマのビルでピンチに立たされたとき、周囲のAIたちは命令にない行動を取ってシオンを助けますし、それ以前にもシオンはスピーカーやピアノ、カメラ、三太夫に協力してもらっています。

「みんなに頼んで嘘ついてもらったの」

「彼、協力してくれるって♪」

 さりげないセリフであるため、初見ではあたかもシオンがAIを擬人化するような発言のように受け取られますが、もしこれが事実を捉えていたとしたらどうでしょう。

〈未来は、意外と近くにある〉

 つまり、『アイの歌声』の世界においても、AIは自律的な思考ができるレベルにあって、しかしそれは表には出ていない。だとするなら、『アイの歌声』は『イヴの時間』とほとんどおなじ地点にいるはずです。それでいて、AIやロボットに対する偏見が『イヴ』よりも減りつつある、あたらしい時代。

 となれば、AIたちが感情を表に出す鍵を握るのが、シオンという存在です。作中のセリフでは、彼女はサトミの好きな『ムーンプリンセス』になぞらえられます。

 ラストシーン、人工衛星に移動した彼女がふたたびなにかを起こす予感を残して物語は終わりを告げますが、そこからはじまるのは、わたしたち人間とAIの、『イヴの時間』では語られなかったあたらしい関係のように思えます。なにしろムーンプリンセスは、歌を歌うことでいがみ合う人々を仲直りさせる存在なのですから、人間とAIのあいださえ、取り持つことだってできるのではないでしょうか。

 そのような邪推をしていくのであれば、『アイの歌声を聴かせて』は『イヴの時間』の未来像から後退したどころか、そこでは描かれることがなかった、さらに先の『未来』に進もうとした物語として見ることができるのではないでしょうか。人とAIが近くにあり、良き「隣人」として歩むという「幸せ」な『未来』に。

 そしてその根本は「人間を想うロボット」という『イヴの時間』から描かれてきた、優しいSFの姿そのものなのだと思います。

 

 

 

*1:ほかにも『アイの歌声』副題のSing a Bit of Harmonyは吉浦作品の『アルモニ』を想起させます。そういう意味では集大成的な作品なのかもしれません。

*2:のちにコミカライズ版にストーリーのひとつとして収録されています。

*3:フランケンシュタイン・コンプレックスなどが『イヴの時間』の世界では表面化しているため。

他者の痛みに気づかないことは悪いことなのか 映画『君は永遠にそいつらより若い』感想

※本感想は映画および小説『君は永遠にそいつらより若い』のネタバレを含みます。

 


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 映画『君は永遠にそいつらより若い』は原作小説の話を一部ばっさりと削りつつ、それでいて小説では描き切っていなかったところに光が差すような作品になっています。

 原作小説との違いが際立っていると感じるのは、映画の冒頭です。

 主人公のホリガイが大学四年生の冬、児童福祉司という就職先を決めたことをゼミの飲み会で報告すると、いきなり彼女はゼミの同期(?)に「他人様の人生に立ち入る資格があるって自信持って思っちゃってるんだ」、「とにかく無知。お前は他者に対して圧倒的に無知」といやみったらしく枝豆を投げつけられます。見ている側としてはなんかめっちゃ不快なやつが現れたな、くらいにしか思わないんですが、だんだんとこの指摘が作品全体のテーマとつながっていることがわかる構成になっています。

「無知」に関する明確な描写としてはバイトの後輩ヤスダ*1に対して茶化すくだりです。彼が持っていた裸の白人女性の写真をホリガイが見つけると、彼女はそれを冗談めかして奪うのですが、その結果、これから一緒に飲みに行くはずだったヤスダはあからさまに不機嫌になり、その場を去ってしまいます。

 のちにヤスダの持っていた写真は、彼の性的な悩み(巨根のため、付き合う小柄な女の子といつも性交ができない)に起因していて、どうにか自分の好みでない、ガタイの大きな女性を好きになって、改善をはかろうとしていた証左だったことがわかります。さすがにこれに気づくのは無理があるだろう、とは思いますが*2

 また、この悩みを聞いたホリガイは開き直ることをアドバイスするのですが、このあまり寄り添うようではない発言は、かえってヤスダを不機嫌にさせる羽目になります。そのあと酔ったヤスダが局部をホリガイに見せるシーンはいくぶんか滑稽なきらいがあって、どこまで真面目に受け取ったらいいのか判断に困るのですが、彼女はその事実から目をそらします。「無知」という部分はこうしたかたちで提示されます。

 しかしその一方で、痛みに気づけなかったことが強烈な打撃になるエピソードもかなり唐突に挿入されます。

 それは物語の冒頭でホリガイが短い言葉を交わしたホミネという男の子の死です。彼とホリガイはどこかボーイミーツガール的な、恋愛映画ふうな出会い方をしていたぶん、ひどくあっさりとした死があらわれたとき、その落差にひるまざるをえません。

 彼の友人のヨシザキは、葬式の場で、ホミネが自死していたことを知らされます。ヨシザキは死の直前まで彼と一緒に飲んでいたのにもかかわらず、その兆候に気づくことができませんでした。この「無知」が遠因でヨシザキは苦悩することになり、ホリガイとの距離も唐突に開くことになります。原作に比べると、この部分にはかなり比重が置かれ、物語の大きなターニングポイントとして設置されています。

 また、ホリガイが偶然に出会う、もうひとりの主人公とでもいうべきイノギも暗い「痛み」を抱えている存在として描かれます。ですがホリガイは、彼女に対しても、なにも気づくことなく接し、のちに彼女のショッキングな過去を聞かされることになります。彼/彼女らの過ごす世界には、そういう唐突な苦しさが、あたりまえのようにひそんでいます。

 ここで、あまり映画のほうでは強調されなかった部分について話をしたくなります。作中、ホリガイの従事しているバイトはかなり意味深というか、意図的な配置のようにも思えるからです。彼女がやっているのは酒造の商品をベルトコンベアで検品する作業で、ここには、悪い兆候(不良品)を見逃さずにキャッチする、という役割があります。その延長に彼女の就く仕事はあります。

 もちろん他人の人生はベルトコンベアで運ばれてくるわけではありませんが、人生のある瞬間、その人の痛みに気づかず見過ごしてしまう、という現実はありふれています。たとえそれが注意深い人間でもあったとしても、そういうことは起こり得ます。

 しかし、ここでさらに深く考えておきたいことがあります。劇中で描かれるこうした悪い兆候や悩みは、すべて初見殺しではないのか、という点です。

 ふつう人が他者とかかわるにあたって、「この人にはきっとこんな悩みがあるだろうから気を遣っておこう」などとは事前にはなかなか思い至れませんし、バイトの後輩が白人のポルノ写真を持っていたからといって、そこに性的なコンプレックスを抱えているかどうかまでは判断できるわけがありません。ましてや人が死にたいと思っているかなんて簡単に想像できるものではありません。

 そして、映画版はこの問題を原作よりいくぶんか掘り下げて語っています。ホリガイは、他人の痛みに気づけないからこそ自分は処女なのであって、不良在庫であり、欠陥品なのだと感じていることを終盤、吐露します。だからイノギの痛みにも気づけなかった。それは彼女自身の、だれにも言えなかった「痛み」でもあります。

 けれどもイノギは「隠してるんだから(他人の痛みに)気づかないのはあたりまえだよ」といったことを返します。これは原作にない台詞で、だからといってそれにホリガイがそれに救われたかというと難しいところです。だとしてもはっとさせるような台詞でした。そう、痛みはふだん隠されている。だからわたしたちはいつも気づけない。それはある種の事実のように聞こえます。もしくは開き直りのようにも。この言葉は、クライマックスの部分ではありませんが、シンプルで、力づよい言葉に聞こえます。

「君は永遠にそいつらより若い」というタイトルの言葉は、人生の暗い箇所に放り込まれた人に向けられた言葉ですが、助けたいと思った側にも同様に言葉が向けられているという事実は、そういう暗さをすこしでもマシにできないか、と考えたすえにあるように思えてなりませんでした。もちろん彼女たちは最後までたんに無力でいるわけではありませんが、結果的に無力だった人への目線が欠けているわけでもないことに、自分は見えない救いを感じられたように思います。

 

*1:原作ではヤスオカにあたる人物

*2:映画を観たときはなんで男性の性的な問題を女性に相談しているんだ、とは思いましたが、原作小説では男に相談しても羨ましがられるだけで深刻に思ってくれない、という話が挿入されています。