井上彼方・編『京都SFアンソロジー:ここに浮かぶ景色』に載ります。

 タイトルの通りです。アマゾンページができていたのでお知らせです。

 

 織戸久貴「春と灰」が載っております。京都のとあるところが大変なことになってしまう……という話です。要約が難しい話ですので、みなさまよかったらお手にとってくださいませ。なんと巻末。トリを務めます。8月31日発売だそうです。

 というわけでよろしくお願いいたします。

 同時発売の『大阪SFアンソロジー:OSAKA2045』もよしなに。

 

 

 以下は最近聴いてよかった曲三選。


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短編ミステリ「ミスディレクションは割り切れない」「淡い密室」をnoteで公開しました。

 タイトルの通りです。自作のデッドストックができたので、とりあえず気に入っているものをnote創作大賞に投げ込みました。

 短編なので書籍化等はあんまり期待できないでしょうが、お楽しみいただければ幸いです。表紙? ヘッダー? はなんかオリジナルのがあったほうがよい気がしたので突貫で描きました。よくわからないときにスキルが活かされている……。

  

「ミスディレクションは割り切れない」

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 ライトノベル=ラブコメを意識したミステリです。エラリー・クイーンみたいなロジックで悪ふざけをする日常の謎になります。

「ミスディレクションは割り切れない」ヘッダー。女の子はヒロイン・駒田かざりさんです。

 

 

「淡い密室」

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 こちらはロス・マクドナルド風味の暗めの青春ミステリです。姉ミステリでもあります。今年1月頒布の『黒い背表紙の探偵 ロス・マクドナルド・トリビュート』に掲載されましたが、在庫がつきましたので。

「淡い密室」ヘッダー。女性は主人公の姉・弓原岬さんです。

 

 選考にはさまざまな要素が参考にされるらしいので、よろしければ「スキ」やツイートなど押していただけると幸いです。二作ともども応援よろしくお願いいたします。

百合短編小説レビュー企画『名づけられなかった花たちへ』第3回:三島由紀夫「春子」

 本記事は百合短編小説レビュー企画『名づけられなかった花たちへ』の第3回です。 前回の記事は以下になります。読まなくても本記事の内容は読めます。 

saitonaname.hatenablog.com

【※ただし今回につきましては三島由紀夫「春子」の内容に深く言及しますので、未読の方はご注意いただきますようお願いします。】

 

 

 まず、作品の話に入る前に(念のため)、三島由紀夫に関して、触れておかなくてはならないのは伊藤氏貴『同性愛文学の系譜』(勉誠出版のなかで語られている同性愛表象に関するくだりだと思う。

 伊藤は「「性的指向」や「性自認」があくまで当人の「内面」の問題であるかぎり、それがいつどのようにして生まれたのか」を知るための材料として内面を語ってきた文学があることを語り、そのうえで「同性愛者」は「近代の特定の時期に発生した明確な歴史性を持つもの」として以下のように説明する。

「同性愛」に関しては、たしかに男性同士と女性同士とをともに含むこうした包括的概念はなかったが、「男色」や「衆道」など行為や関係性としては現在「同性愛」と呼べるものが確実に存在していたと言える。しかし「同性愛者」に関しては、それにあたる語もなく、そのような「性自認」は存在していなかった。今のわれわれからすれば不思議に思えるかもしれないが、「同性愛」はあっても「同性愛者」のいない時代が長く続いていたのである。

 結論部を切り取ってしまうと(しまわなくても多分に)差別的な表現として成立しかねない記述・態度であるので、この文学史的な考えには賛同したくない。が、じっさいにいつ(伊藤が言う意味での)「同性愛者」が誕生したかについての部分については、論としては魅力的な案にみえる。

 文学において「同性愛者」をはじめて受け入れたのは、三島由紀夫の『仮面の告白』(一九四九年)である。

 さて一方、『仮面の告白』のおける主人公の「同性愛」に関する認識は全く異なる。それはれっきとした〈告白〉の対象であり、主人公は終始罪悪感につきまとわれている。つまりは同性愛を恥じているのであり、だからこそカミングアウトが主題化されるのだ。だから『仮面の告白』は「同性愛文学の嚆矢」では全くないが、「同性愛文学の元祖」と言うことはできる。そしてここから現代に至るまで、「同性愛」をテーマとする文学は「同性愛者文学」一辺倒になっていく。

(太字傍点)

 以来、「同性愛者」たちは

 

  ①自分が同性愛者であるかどうかの葛藤に苦しむ者

  ②同性愛者として生きることを当然のことと受け入れている者

 

の二つのパターンで描かれる(…)

 といったかたちで、「同性愛文学」「同性愛者文学」のあいだに時代を大きく区分けし、その境界線が生まれた瞬間を三島由紀夫仮面の告白に見出している(1949年以前・以後)。たとえば同様の区分の試みとしては、昨年刊行された『給仕の室日本近代プレBL短篇選』(中公文庫)が挙げられるだろう。これは収録作すべてが1949年以前の作品であり、それらによってアンソロジーが編まれている。

 じっさい『仮面の告白』の影響力が(文学史的に)すさまじいものであることは否定しがたい(正直いっておもしろい)。よって、悩むにせよ自明視するにせよ、同性愛への自覚を持った主体としての同性愛者が、これ以前には文学史上にいなかった、という説が事実かどうかはともかくとして、魅力的だということであれば同意したい*1

 また、伊藤が差別的な意図というよりは、(おそらくは)べつの問題意識を持ったうえで書いて上記のことを書いていることがうかがえる部分もあるため、その箇所には触れておく必要がある。以下はそのくだりだ*2

 ではいかにして「X」や「なんでもないもの」で踏みとどまりつづけるか。同性愛を描きつつ、それを点景ではなくテーマとするには、この途しかないのではないか。ことばは本来名づけの道具だったとしても、文学の一つの重要な役割は、ことばを使いつつも安易な名づけに抗することだろう。抵抗すべきは「同性愛者」に対する差別であるよりまず「同性愛者」という括りそのものではないのか。

 ここでいう「点景」とは、要するに興味本位の対象として「同性愛者」を消費することといってよいと思うが、だとしてもそこから導かれる結論もまた、安易のそしりを免れえないと(個人的には)思えてしまう。

 ただ、日本国内の同性愛文学史を論じる書籍として2023年現在、もっとも入手しやすい本がこの一冊のみであり、ほかに参照すべき本がまともに流通していない状況については今後改善されていくべきだと思われる(まず、参照されている作品の数がすくないこと、次に、文学以外に接続できる周辺の話題はもっと多いほうがよいということ)。

 もちろん三島由紀夫という存在は文学史の地層としてはあまりにも見やすい。であるならば、それが「百合」という文脈のなかで、いかに読まれうるかを考えたい。

 

第3回:三島由紀夫「春子」(『真夏の死』新潮文庫 収録)

「伯爵令嬢、お抱え運転手と駈落す」と新聞に載っていた、佐々木春子という名を人は憶えていはすまいか。春子は私の母の異母妹にあたる。女学校時代から春子は、市井の男をふしぎにきらった。おかしなことに、交際相手の男にも接吻さえゆるさないという噂だった。ともかく彼女はその運転手と同棲した。

 昭和十九年の夏のはじめ、春子の良人が戦死したので、彼の妹をつれて祖父の家へかえってきた。私はその妹の路子に恋をした。しかし疎開先の下検分に母と弟が行った日の夜、春子が私の部屋を訪れた。ふたたび春子が泊まった夜、春子が良人の名前ではなく、「路っちゃん」と気ぜわしく呼ぶ声を私は聞いた。やがて私は春子の仲介で路子と親しくなり、彼女と接吻をする。しかし路子の唇からは、なぜか春子の味を聯想したのだった。

 上記の部分はあらすじの中盤部分まででしかないのだけれども、本記事でとりあげる以上、大方の予想どおり、春子と路子の姉妹は作中で言葉として明言はされないものの、レズビアンカップルの関係にあることが示される。

 しかし本作は、そのレズビアンふたりのあいだをさまよう男によって語られる、という単なる三角関係としてみなすのも難しい作品になっている。

 もちろんこれについて、比較的わかりやすい捉え方はできるはずだ。たとえば、橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(新潮文庫には「三島由紀夫が同性愛を明確に書いたのは『仮面の告白』と『禁色』の二作だけである。」と書かれており、女性同性愛については無視されている。これは『新編・日本幻想文学集成』(国書刊行会の三島パートを編んでいた橋本としては、いささか手落ちだ。

 けれどもこれが同性愛文学としての主題が浮かびあがっているように見えない、という意味で解釈するのであれば、いちおうの納得はできる。

 なぜなら三島自身、これを『真夏の死』(新潮文庫の自作解説で、

只今大流行のレズビアニズムの小説の、おそらく戦後の先駆であろう。

『春子』は、ほとんど観念上の操作のない、官能主義に徹した作品である。

 と言い切っているからだ。ここでは「レズビアニズム=官能」といういささか単純すぎる図式が簡単に取り出され、語られている。

 じっさい、戦後生き残ったらしい男性の回想(「春子」の発表は1947年)のなかで語られるヒロイン・春子は、ゴシップ記事にとりあげられるような存在(つまり男性の性的興味をそそる対象として)として語られている。

 とりわけ序盤、「私」のもとに夜這いにやってくるくだりは、背徳的な描写もふくめて、まさしくそれ「らしい」表現といっていい。つまり本作は、現代的な同性愛文学というよりは、官能をテーマに描いたものとして捉えられていた、ということになる。

 もちろん上記の三島のいう「只今大流行のレズビアニズム」というのが文庫が刊行された1970年時点のことを指しているかどうかについては自明ではないものの、たとえば加藤明日菜「日本文学の中のレズビアン*3において「春子」は、谷崎潤一郎『卍』堀辰雄「水族館」と並べられ、レズビアン「好奇的に眼差すような作品」のひとつであるみなされる。じっさいたしかに、この指摘は描写の内容からして否定することがむずかしい。

 またその傍証として、三島がレズビアンを書いた短編として「果実」(1950年)も挙げられる。こちらは女学校を卒業した女性ふたりが赤ん坊を融通してもらいふたりで育てるという小説だが、ここではあきらかにレズビアンに対する、いまふうの言葉でいえば「生産性のなさ」が退廃的な雰囲気のなかで内面化されて語られている。

 さらに、こうした視線がなぜあったのかの前段階として、戦後の雑誌による影響があった、といってもいいかもしれない。セクシュアリティの戦後史』(京都大学出版会)に収録された、赤枝香奈子「戦後日本における「レズビアン」カテゴリーの定着」では、カストリ系雑誌などで「女学生時代の同性愛(=エス)」のポルノ化が1940年代後半にあらわれていたことや、『婦女界』などの一般雑誌でも、戦前にはなかった女性の性に関する告白記事が書かれた経緯を概説している。

 よって、こうした性的に解放された文化が生まれていくなかで、文学史的には比較的「先駆」として三島がレズビアニズム小説を書いた。ということであれば、それほど突飛ではないことになる。

 ただ、これで終わってもつまらないので、もうすこし本作のなかに踏み入ってみることにする。本作の序盤では、たしかにふたりの女性はもっぱら、語り手の男性の性的対象として描かれる。しかし次第に彼女たちはその視線から抜け出ていく構造にもなっていることも同時に指摘できるはずだ。

 たとえば、春子の死んだ「良人」の異様なまでの存在感のなさ、「路っちゃん」という春子の思わせぶりな台詞、わざわざ対で買われる花瓶、姉妹ふたりが一緒に「呆れるほど長い風呂」に入った、といった複数の記述が伏線のように敷かれ、それは終盤に近づくと路子が自分の手で春子の「裾をかき立て」ているのを「私」が目撃して、「気狂いのように」動転することにつながっていく。

 これは(たしかに戦前の価値観であれば)じゅうぶん意外な真相で、スキャンダラスな内容のはずだ。そしてむろん、その出来事が戦後から性的なまなざしのもと回顧されていることについて暴力性があることは前述の通りだ。

 けれども、それを見たのちも、「私」は姉妹たちとの関係に絡め取られ、抜け出すことができていない。おそらく「私」は路子を性欲の対象にしたかったのであって、物語の最後までそれをおこなおうと動きつづける。しかし彼は、あたかもふたりの女性のあいだで「何か」を遣わせられる存在になっていく。

 隠れたふたりの行為を目撃してから三週間後、私は春子から路子が一人暮らしをするようになった住居の場所を聞き(つまり暗に性交渉の同意を姉からも得て)、夜の電車に揺られながら路子のもとに向かい、しかしそのあいだ「まだ夜間空襲というものはなかった」と時間のずれた語りをおこなう。

 暗い死のイメージがちらつくなか、アパートにたどり着き、「お互いの顔は暗くてほとんど見えない」状態で「私」と路子は話す。

「宏さんね」――闇のなかから意外に落着いた声がこたえた。「ええ」「お姉様が行けと仰言ったの」「ええ」「そう、それならいいわ」

(…)

 ふしぎな部屋であった。何もかもが対でおそらいだった。箪笥までが。(…)美ではなくて何かを目ざしている。

 そうして寝る段になり、路子は私に「女浴衣」を投げてよこす。「私」はそれに着替える。「あの神もおそれぬ女の無恥な優しさが身内にこもって来るような気」がする。

「紅つけてあげる」

「僕にかい?」

「あら、あなたの他に誰もいないじゃないの」――そうだ。私のほかに誰もいない。しかし果して誰もいないだろうか。

 このようにして「私」という存在は、春子と路子のあいだを結びつける媒介者になってゆく。あくまで主の側は春子と路子ふたりの姉妹であり、彼自身は女の浴衣を着て、紅を引き、あたかも戦死した良人のように希薄な存在にまで下げられ、そして「何か別の唇」が自分の唇に「乗り憑ったのが感じられ」て、物語は幕を下ろす。

 これについて、橋龍晃「性的体験としての戦時下――三島由紀夫「春子」論――」*4では、春子は同性愛を肯定的に解釈することで「戦争未亡人の規範の内部において抵抗」しつづけていた、さらには終盤「私」が男性性への欲望を結末において手放したことで、作品じたいが「男性性神話と戦争未亡人への搾取が温存されていた戦後への批判たりえている」とみなしている。

 かつ、このような春子の戦略性が、男性の語り手も実情を認識できていない状態のまま記述しているのであって、多くの読者もその視線に絡み取られていたのではないか、といった指摘をしている。

 これにはかなり同意できる。けれども、さらに踏み込んでいきたい。というのも終盤、語り手の「私」が暗闇のなかで路子と会うのは、いわば序盤の春子による夜這いのシーンの変奏/反復として書かれていると思われるからだ。

 序盤で春子は「私」の「母の浴衣」を着て、部屋にやってくる。いっぽう、私はそれを母親ではなく春子であると「わかったと思いながら、一瞬他人事のようにぼんやりと」することで状況を承諾する。

 つまり、すでに最初の段階で「私」の意思は希薄になりかけている。同様に終盤においても、「私」は路子の言われるがままに女浴衣を着ることを受け入れる。対のものだらけの部屋で「私」が路子と交わるためには、だから「春子」をふたたび唇に受け入れなくてはならない。そして路子のほうといえば、すでに「春子」を受け入れている。

 なによりこの段階で、はじめて春子の良人について、路子からほとんどはじめて言及されている。それは以下の言葉だ。

「私何でも知っているのよ。あなたとお姉様のことだってみんな知っているわ。あの」と鴨居にかけた死んだ兄の写真を指さして、「お兄さんのやったことだって何から何まで知っているわ。ただ私、お姉様の云うことを決してそむいたことはないのよ。(…)あなたのことだって、あなたを好きになれってお姉様が命令したのよ」

 ここで読者は当然、姉の命令に従う妹の姿にショックを受ける。けれども、ほんとうに大事なのはこのあっさりと言及される「良人」のはずだ。では、路子のいう「お兄さんのやったこと」とはなんだったのだろうか?

 これを解釈するには、そもそもの前提を洗い直す必要がある。まず、女学校時代から春子は「市井の男をふしぎにきらった」とある。

(…)庭師とか商人とか、街で見かける与太者とか労働者とか。そんな人たちばかりではない、友達が自分の若い家庭教師の自慢をしても眉をひそめた。街を友達とあるいていて、店員風の若者が自転車をよろめかせてまで振向いたりすると、春子の顔にはほとんど苦痛にちかい蔑みの表情がうかんだ。いきおい彼女は同じ階級の上っすべりな貴公子面が好きなのだと思われていた。おかしなことにその貴公子面とも一応の交際だけで、接吻さえゆるさないという噂だった。

 しかしわざわざ一連の出来事について触れたうえで「――そんな話はどうでもよいのだが、ともかく彼女は運転手と同棲した。」と語り手は記述して時間を飛ばす。もちろんこれは、じっさいのところは「どうでもよくない」事実なのであって、わざと読者の注意をそらしているといっていい。

 どういうことか。

 つまり、「春子」とその「良人」がかつておこなった「駈落」というのは、そもそもかたちだけのものだったのではないだろうか?

 作中、サブプロットとして「許嫁」がいる路子の友人が語られる。彼らは戦争に出兵するのと前後して関係が結ばれている。またストーリーの表面上、ぎりぎり出兵できない年齢の「私」はそれにも忸怩たる思いを抱えるわけなのだが、これが、もし、異性愛規範が前提とされている社会をじゅうぜんに説明している記述であるとするのなら、春子は「駈落」という方法で、そうした旧来的な家族関係における役割から、どうにか脱出をはかっていた可能性を見出せないだろうか。

 もちろん春子は作中で「私」と性的な結びつきを持つようになるのだが、しかし駆け落ちした相手と性的な交わりがあったとしても、路子のいう「お兄さんのやったこと」といった特別な言い方の説明にはならない。なぜならそれはあって当然のことだからだ。

 であれば、良人が生きていたとき、すでに春子と路子の関係は成立していたのであり、良人はそれをある程度のレベルで容認していた可能性すら浮かびあがる。よって春子の目的は、安全なかたちで路子との関係を維持することではなかったか。しかし良人は亡くなり、あらたに擬態する必要が生まれた。その役割を果たすために、「私」は使われていたのではないか。

 よって本作「春子」はそうした、女性が戦略的に、男性との関係を表面では結びつつも、同性愛者としてサバイブする小説として、読み方を更新できはしないだろうか。

 であれば文学史における「同性愛者」たちは伊藤氏貴のいった「①自分が同性愛者であるかどうかの葛藤に苦しむ者」でもなければ、「②同性愛者として生きることを当然のことと受け入れている者」でもなく、「異性愛規範が自明とされるなかで、生き残るために潜伏し、しずかに戦う者」として、戦後すぐの段階ですら書かれていることになりはしないだろうか。

 なにしろ、こうしたかたちで生き延びようとする(あるいはときに失敗してしまう)性的少数者はこれまでの文学史でも多く存在している。

 たとえば宮木あや子『あまいゆびさき』(ハヤカワ文庫JAで男女の関係を表面で演出することで周囲に溶け込み、生きていく人物はまさしくそれであるし、男性と結婚してもなお、ほんとうの相手を(過去・未来にわたって)見出そうとする作品はいくつもある。

 ゆえにその種はすでに「春子」の時点で、1947年の段階で蒔かれていた。あるいはミソジニックな男性性がどこまでも肥大して語られるなかで、それでも女性がその視線や規範にさらされながら、したたかに生き、抜け出ていくということであれば、鹿島田真希「99の接吻」「湖面の女たち」といった作品群につながっていく。

 なにより、すでにそうした男性優位の世界から抜けて出ていくという思想を、ほぼ完璧なかたちで三島由紀夫じしんが書いている。『近代能楽集』(新潮文庫に収録された「班女」はまさしくその体現であり、いかに古典を読みかえてその思想をかたちにしたかについては木谷真紀子「能楽「班女」と日本古典文学における〈花子〉と〈実子〉の系譜」*5に詳しい。

 と、長々妄想を述べていったところで、今回は終わります。

 今回は突発的にネタバレ前提で書きましたが、テクストの内容によっては今後もこうしたことが起きるかもしれません。ご了承ください。

 

 

参考文献一覧

三島由紀夫『真夏の死』(新潮文庫

三島由紀夫『鍵のかかる部屋』(新潮文庫

三島由紀夫『復讐 三島由紀夫×ミステリ』(河出文庫

三島由紀夫仮面の告白』(新潮文庫

三島由紀夫『近代能楽集』(新潮文庫

橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(新潮文庫

・伊藤氏貴『同性愛文学の系譜』(勉誠出版

・小山静子・赤枝香奈子・今田絵里香 編『セクシュアリティの戦後史』(京都大学学術出版会)

・加藤明日菜「日本文学の中のレズビアン : 日本近現代文学における女性同性愛表象研究の方法論試案 (ロザリー・レナード・ミッチェル記念奨学金論文)

・本橋龍晃「性的体験としての戦時下

・大森郁之介「「春子」と「暁の寺」の間の虚空 : 三島由紀夫のlesbianismの位相についての一仮説

・木谷真紀子「三島由紀夫「班女」論 : 能楽「班女」と日本古典文学における〈花子〉と〈実子〉の系譜 | CiNii Research

宮木あや子『あまいゆびさき』(ハヤカワ文庫JA

鹿島田真希『冥土めぐり』(河出文庫

鹿島田真希「湖面の女たち」『新潮』2009年 08月号

 

*1:ただし、同性愛を扱った田村俊子「匂ひ」は1911年発表であるが、結末において語り手は「私は何うしてだかお瀧を思つて泣く、と云ふことを誰れかに知られたら、羞かしい思ひをしなければならないと云ふことを考へていた。」と語って終わり、伊藤説ははたして正しい史観なのかはわからない。

*2:ただし、何度も述べるが、これに筆者は賛同するわけではない。

*3:日本文学の中のレズビアン : 日本近現代文学における女性同性愛表象研究の方法論試案 (ロザリー・レナード・ミッチェル記念奨学金論文) | CiNii Research

*4:性的体験としての戦時下

*5:三島由紀夫「班女」論 : 能楽「班女」と日本古典文学における〈花子〉と〈実子〉の系譜 | CiNii Research

百合短編小説レビュー企画『名づけられなかった花たちへ』第2回:梨屋アリエ「つきのこども」

 本記事は百合短編小説レビュー企画『名づけられなかった花たちへ』の第2回です。 前回の記事は以下になります。読まなくても本記事の内容は読めます。

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第2回:梨屋アリエ「つきのこども」(『プラネタリウム講談社文庫 収録)

 夜な夜な、わたし(斎藤磨布:さいとうまふ)は家から抜け出し、太刀衣生(たちいなり)のヘーベルハウスに窓から入って、朝まで過ごす。

 わたしと衣生がほんとうの意味で出会ったのは三年になる春休みの夜だった。秘密の散歩に出る習慣が身についていたその日、「ねえ、斎藤さん」「皆明塾の斎藤磨布さんでしょ?」と、ベランダから衣生が見ていた。

「こんな時間に、ひとりでどこへ行くの?」

「月に、帰らなくてはならない」

 ふいにこぼれ出た言葉に、わたしは自分のしていた行動の意味を知った。

 少しの沈黙のあと衣生は言った。

「あたしは、森になりたい」

 それ以来、わたしたちは夜に会い、互いに自分でつけた傷をなめ合っている。

 これをただ、痛々しい、と言い捨ててしまうことは、おそらくできない。起きている出来事がファンタジーであるから、絵空事だと笑って決めつけることも、きっとできない。なぜならここに書かれている「月」や「森」といった言葉の裏にある感情は、たんに「ここではない場所」への淡い憧れとして扱うには、あまりにも切実なものにもとづいているからだ。

 おそらく彼女たちは、この現実ではうまく生きることができないことを、心の深い部分でわかっている。だからこそ、ふいに「月」という言葉が出てしまうし、お互いの言葉や視線を介して、自身の似姿としての相手を見つけ、肌を触れ合わせることになる。

 彼女たちが直面している事態はかなりシリアスで、重く、暗い。序盤は文字通り傷をなめ合っている描写から、どこか退廃的な作品にも読めてしまうところがあるものの、中盤あたりから示される情報によって、「わたし」も衣生も、家という空間やしがらみのなかで、長いあいだその自由を奪われてきたことが伝わってくる。

 だから、夜という世界が眠りきった時間のなかでふたりが秘密の逢瀬を重ねるのは、ある種の正常さとして示され、同時に彼女たちを脅かす昼の世界からエスケープしてゆく手段のひとつなのだ。つまり、あたりまえとされる正しさに対する、ささやかな反抗がそこにはある。

 そしてあるときを境に、衣生は「森になることにしたんだ」と「わたし」に告げ、文字通り、彼女の身体は植物へと変化してゆく。ここにはファンタジー的な飛躍はあるかもしれないが、しかし精神的な飛躍といったものにはまったくならない。あくまで現実と地続きの感情によって、彼女は森になってゆく。

 またここで重要なのは、植物となった衣生が、有性生殖的な、つまりヘテロセクシュアルな社会の構造から解放されているということだろう。「わたし」が図鑑で調べたところ、衣生の姿はブナに似ていた、ということがわかる。

 衣生が桜や藤の木にならなかったことが、わたしは嬉しかった。彼女は、花を愛でるために生きるのではなく、花よりも大きな喜びを持っている。衣生は、多くの生き物たちに命の糧を与える木となったのだ。

 ブナ科の植物にも花はあるが、雌雄同株であることをおそらくここでは意図されているのだろう。もともと衣生は「将来それなりの男性と結婚して子どもを生んで育てること」が家のなかでの「存在理由」とされていた子だった。また同時に、家族とはうまくいっていないことが察せられている。だからこそ「わたし」はそのような従来の役割から解放され「森」になった彼女を見て、嬉しいと思ったのではないだろうか。また同時にその森のなかで「わたし」自身も救われていく。

 わたしは森にいるだけで、衣生の子を身ごもったように、幸せだった。そして、衣生の胎内で夢を見る胎児のように、幸せだった。

 彼女たちはその関係のなかで生まれ直し、結ばれること想像する。彼女たちにとっては、そうした想像の世界のほうがずっと現実より優しい重みを持っている。

 

「森」になるということ

 女性と植物、あるい森といった表象関係は、吉屋信子花物語』(河出文庫ほか)に触れている/いないにかかわらず、百合や少女小説といったジャンルのなかでは、いつ知ったかはわからないが、すでにあたりまえのものとして広く内面化されている世界観といってよいだろう。

 百合ジャンルの作品にそれなりに触れている読者であれば、一度や二度ならずとも、植物や花の名前を冠するキャラクターが登場する作品に出会ったことはあるはずであろうし、おそらくそれらをすべてを個人が網羅することはもうできない*1

 ただ、さらにその源流を探すとなると、ヒントになるのは渡部周子『〈少女像〉の誕生 近代日本における「少女」規範の形成』(新泉社)かもしれない。本書では、明治期の段階ですでに「白百合」が女性に対する表象に持ち込まれていることについて述べているからだ。

 少女が見習うべき徳としての表象=「白百合」と国家により精神・肉体の「純潔」教育が明確に現われたのは明治末期とされる。これにはさまざまな文脈がさらに前提としてあるのだが、同時期には少女雑誌をの投稿を中心に、自発的に「白百合」という文字をペンネームに取り込む少女たちの言説が増えていく。1909年には青山学院高等女学校のエンブレムとして白百合が校章として用いられることもあった。

 百合というジャンルがこうした表象を前提として生まれてきたのかは、正直、資料不測であるためわからないものの、ただ日本国内において、女性が植物の表象と結びつけられることじたいは、百年以上前からすでにメディアを介したムーヴメントとして起こっている。

 よって、おそらく百合作品(などの蓄積された作品群)において、女性が植物と結びつけられるとき、それは大きくふたつの面を持つことになる。

 ひとつは将来的な結婚や妊娠を約束され、大人や国家に管理されてしまう、つまりは良妻賢母教育や異性愛主義のなかに含まれる、教科書的な都合のよさを持った「少女」像のための言説として。もうひとつは、それら大人や国家が持つ論理からは離れた、アンコントローラブルな存在、排除ができないほどしたたかに生きていく植物たちという価値転倒のためのイメージとして。

「つきのこども」における植物の表象は、おそらく意図的に後者を選び取っている。ものすごい勢いで生長して広がり、少女が森になっていくさまは、人間やシステムに支配されないつよさを持った存在として見出される。加えて自己完結した植物になるということは、生産のための肉体をだれかによって所有されないことを示唆している。都市のなかから「森」が生まれていくという演出も、それらの社会が持つシステムへの抵抗だとみなすことができる。

 もちろんこうした表現の潮流は、令和の現在でもつづいている。今後取り上げる予定の百合作品のなかでも、その二面のどちらか、あるいは両方が強調される作品はすくなくない。

 もちろんこの表象にも難しい面は残っている。たとえば前述した「純潔」にまつわる思想やまなざしは、「百合とレズは違う」といった偏った見方をいつまでも担保しつづけている前提としていまだ存在しているであろうし、植物という表象を戦略的に受け入れたゆえの価値転倒も、たんに作品の表層だけを見ているあいだは伝わらないことも多い(あるいはだからこそ戦略として機能するともいえるのだが)。

 また短編ではないが、現代の作品として、いくつか言及しておきたいものもある。たとえば昨年刊行された雛倉さりえ『森をひらいて』(新潮社)では、戦争のさなかで少女たちがつくりだす「森」がストーリーの鍵となっている。隔離された環境で一見のびのびと過ごす少女たちだが、次第にみえてくる背景には、あきらかに男性が利益を得るためにつくられた社会システムが存在する。よって少女たちはその犠牲者として用意されている。彼女たちはひとりひとりは無力だが、しかし手を取り合って抗うことはできる。「森」はその象徴的な存在として用いられている。

 ほかにも川口晴美『やがて魔女の森になる』(思潮社は男性的・異性愛的・従来的な家族の価値観からエスケープするための場所としての「森」を表現する。「世界が魔女の森になるまで」や「生き延びる」という詩はとりわけそのような意味合いがつよい。以下にその一部を引用する。

 ひとりになったら森へ行く

 毎日そればかり考えながら目が覚める

 アラームはちゃんと鳴ったのにお母さんが起こしに来て

 のろのろパジャマを脱ぐわたしの身体をこっそりチェックしてること

 気づいているけど黙ってる

 わたしは妊娠なんかしないよそれより森に行きたい

                 ――「世界が魔女の森になるまで」

(…)

 かわいそうな男の寝息を背に

 森へ行く

 ひとりきりでゆっくり歩く

 ここではおかあさんとかねえちょっととか呼び止められはしないから

 わたしはこっそりわたしの名を呼ぶ

(…)

 マユミ、

 アズサ、サツキ、カエデ、

 ミズキ、ナツメ、フヨウ、モモ、イブキ、カリン、ナギ、

 森のどこかにいるわたしのようなひと

                     ――「生き延びる」

 また「魔女」というのは、古くは共同体の外部に位置する存在であり、社会の決まったルールではない場所で生きる存在として、いま現在も表象されている。

 植物にしろ、魔女にしろ、男性中心的な既存の価値観をあえて受け入れて、それを脱臼させていくのは、なんども言うように、戦略的な読み換えといっていい。だから迫害されている対象である魔女と森のふたつが手を取り合うようにつながって語られることも決してめずらしくはない。

 なにしろ森は魔女のすみかだからだ。彼女たちは男のルールを自分たちに適用せず、それでも生きていくことのできる表象とまでなっている。こうした魔女表象と百合の結びつきについては、今後、杉元晶子「今日から魔女の材料になります!」でも語ることになるはずだ。女学校ものと森の関係については、明治女学校での体験をベースにした野上弥生子『森』(新潮文庫を読んでおきたいが、まだちゃんと読む時間が取れず未着手の状態であるため、それは宿題とさせていただきたい。

 

梨屋アリエ作品と百合について

 なお「つきのこども」は、世田谷ではなく、”世界谷”を舞台に書かれた連作短編集プラネタリウム』(講談社文庫)の四話目にあたる。各短編で舞台はゆるやかにつながっているが、それぞれ独立した短編として読むこともできる。続編としてプラネタリウムのあとで』(講談社文庫)もあるが、こちらから読むことも基本的には問題ない。

 上記のシリーズ内で共通しているのは、登場人物のまわりでは不可思議な出来事があたりまえのように起こることだ。ドキドキするたびに空を壊してしまい、割れたカケラを降らせてしまう少女やいつも15センチ宙に浮かんでいる先輩などが日常のなかに存在している。類例とまではいかないものの、ファンタジーと日常がまったくの地続きであるという感触は、衿沢世衣子『うちのクラスの女子がヤバい』シリーズが近いかもしれない。

 また本作以外の梨屋アリエ百合作品として、『ピアニッシシモ』(講談社文庫)キズナキス』(静山社)を紹介したい。

『ピアニッシシモ』は亡くなった隣のおばあさんが弾いていたピアノの行方を追った先で新しい持ち主の女の子に出会う話。高飛車で、しかし「本物だ」と思えてしまうほど音楽の才能を持っている女の子に振り回され、次第に主人公はそのふるまいに傷ついていく。

キズナキス』は近未来の日本が舞台。内心が表面化され、コミュニケーションがエスカレートする「マインドスコープ」というICT技術が試験的に運用されている学校(主に吹奏楽部内の関係)を描いた作品。背景にあるのは企業による管理社会とSNSだが、その奥にはどうしたらこの社会でサバイブできるのかという感情に怯え続ける女の子たちの息苦しさがあり、終盤のたたみかけには圧倒される。

 上記二作品もまた、「つきのこども」と同様に、生きているだけで痛みを感じている少女たちの話だ。苦しみを抱えている彼女たちが幸せな場所にたどり着くことができるかどうかは、物語のなかでも保証されているわけではない。それでも届くべき場所に届いてほしい作品群であることに違いはない。

 

参考文献一覧

梨屋アリエプラネタリウム講談社文庫、2004年

梨屋アリエ『ピアニッシシモ』講談社文庫、2007年(現在は青い鳥文庫版がある)

梨屋アリエキズナキス』静山社、2017年

・渡部周子『〈少女〉像の誕生』新泉社、2007年

本田和子『女学生の系譜』青土社、1990年

稲垣恭子『女学校と女学生』中公新書、2007年

・雛倉さりえ『森をひらいて』新潮社、2022年

川口晴美『やがて魔女の森になる』思潮社、2021年

・『文藝』2022年冬季号、河出書房新社

野上弥生子『森』新潮文庫、1996年

 

 

*1:名前以外にも、キャラクターと花との結びつきを強調した演出は多い。たとえばアニメ『やがて君になる』のOP映像など。

映画は夢というか悪夢である――『フェイブルマンズ』感想

スピルバーグの自伝的作品」ということを念頭に入れる。


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 これはたぶん、夢という名前の悪夢についての物語だ。

 具体的な理由とまではかたまっていないが、自分のなかでは、長年ずっと映画礼讃映画というか、”映像の力を信じろ”系の作品にはぬぐいがたい違和感が残っている。いや、べつに小説礼讃小説でも漫画礼讃漫画でもどのような芸術その他題材ものでもいいのだけれど、人々がそこにある”魔法”と信じているものの大半は(最初はたしかに魔法であったのかもしれないが、最後にやってくるのはただの)自己肯定感であってほとんど魔法とはいいがたい。汚れたなにかになっている。

 とはいえ「映像に魔法がかかっている――」というのは体感としてよい映画に触れているとき、”いまここ性”があるな、とか、”このフィルムにこれが映ってしまっているのはもう奇跡みたいなもんだな”だとか、”ここにはもうこれだけしか存在しないしほかはきっと全部嘘だな”とかいう現前性、卓越性の謂いとして受け止めることはできる。とはいえ、とはいえですよ。

 でもそれって結果論じゃないですか。

こういうこと言っちゃう小説家映画だってあるわけで。

 じつのところその”魔法”の正体が小手先のテクニックに起因していたり、俳優自身の持つたたずまいの魅力であったり、脚本の力であったり、光の差しこみぐあいであったり、その場の工夫というかいたずらであったり、劇伴演出のバランスのよさであったり、名も無きひとびとの努力であったり、たんなる偶然であったりするということもわかる。

 だから”魔法”という言い方をして、それらをどうにか魔術化して、スキップして、うまいこと煙にまいて、嘘にしたくないのもわかる。わかるが、創作物が出てくるフィクションのなかで人が面白さ=魔法に感動していくのってじっさいは少数例というか、本質的には嘘であるわけじゃないですか。それに向きあってくれる作品のほうが、個人的にはうれしい気がする。気がするだけかもしれない。

 だとしても、世界の人々の多くはべつにフィクションのために生きているわけではない。だからそんな簡単に思い通りなかたちでは世界は変えられないし、社会現象にはならないし、じゃあ創作対決だ!みたいな盛り上がりを仮につくろうとして、往々にして現実は片方のオーバーキルによって終了しちゃったりして、いい感じのドラマにはならない。なんかこう、創作によって感動すること、浄化されること、なにか現実の問題が解決することって、さすがにフィクションの持っている絶妙なぐだぐださをなめすぎじゃないですか? みたいな感じがしている。

 さらにいうと、作中作がそこまでおもしろくできるんだったら、そもそも創作者はそれを作中作というかたちでお出しせず、そのままおもしろい作品として発表したほうがずっといいのだと思う。だからふつうは作中作フィクションはいうほどおもしろくなってくれない。あるいは駄作であることをうまく説明することで逃げ切ろうとする。

 じゃあそれもできないときにどうするか。というと、こういうとき、作中作をおもしろいとあえて”思わせる”には料理漫画、あるいはバトル漫画メソッドを採用して、どのように「なぜ面白くなったのか?」を説明して、勝利のロジックを嘘でもいいから構成し、観客の気持ちをうまくハックして高揚させてみせるか、観客と作り手の感情をうまく同期させるルートを使うことで画面に映っているもの以上のものを現前させようとする。ちなみに『フェイブルマンズ』のなかではどちらも採用される。

 え、こわいね。

 さて、前置きが長くなった。

『フェイブルマンズ』本編の話に戻ろう。本作は、そういった中途半端な映画もの映画どころではすまないくらいに、映画がうますぎる化け物みたいな人間のはなしだ。

 そのために冒頭で、すでに”魔法”の在処は説明されている。主人公は人生ではじめてみた映画に魅せられてしまい、帰り道、ずっとうっとりとした表情を浮かべつづける。そしてそれから長い時間を待たずに、カメラとフィルムと投影機を手に入れて、自身の手のひらにそのすべてをおさめることに成功してしまう。

この画面は色相もあいまってドリーミーであると同時に英雄的な予言にもみえる。

 なので、この画じたいが魔術的で、完璧だし、すばらしいのだが、主人公の持っているマジックはたんなる創作の領域、つまりすばらしい映像を撮れてしまうどころではなかったことが物語のなかで、次第に明らかになっていく。

 彼は映画が隠し持っている魔術というものを本能的に操れてしまうし、ちょっとした工夫で観客を笑いの渦に巻き込むこともできてしまう。なにをするのが正解なのかわかってしまう。だから彼自身には表面上、創作のクオリティそのものへの鬱屈や屈託といったものがまったくといっていいくらいに描かれない。彼はなにひとつイマイチなへっぽこ創作者ではないし、常に作品を面白くさせつづける才能を持っている。

 だから彼をおびやかすのは、むしろその外部にあるものだ。彼は将来の成功を約束されているという意味で(英雄的なかたちで)映画そのものに愛されている。しかし、その能力を持っているがゆえに、多くの人以上にものが「見えて」しまう。なんならカメラを構えることで、人々のなかにある「大事なもの」を生々しいままに引き出したり、あるいは自由に「ねじまげる」ことができてしまう。

 作中でその点が扱われるのは二回(厳密には三回)ある。具体的にはどういうものかはここに書かないが、二時間ほどの映像による彼の来歴としての観客の脳裏に残るのは、映画は多くの人を幸せにできるかもしれないが、べつに被写体自身は幸せになっているわけではない、という強烈な矛盾であり、皮肉である。

 つまり、映画は多くの人にとってはたしかに夢みたいなものかもしれないが、特定の個人にとっては拭いがたいくらいの悪夢でもある。表面のきらびやかさに隠されているその両義性を、わたしたち観客は嫌でも意識せざるを得ない。

 ラストシーン。仕事に就いた主人公は、とある人物との出会いをはたし、映画に関する短いアドバイスを与えられる。そうして建物を出た彼もまた、映画のなかの住人となっていることにふと気づく。そのような「気づき」の演出が、まるで、スクリーンの向こうから制作者がウインクでもしてみせるようにおこなわれる。

 だからそのときようやく、主人公である彼もまた、被写体という魔法の素材の一部となって、スクリーンの向こうに消えることができてしまう。しかしそれは嘘だ。ただの嘘だ。しかし嘘である以上、それはやはり”魔法”でしかありえない。

 なぜならそれが”魔法”であり”夢”であるために、酷い話だが、わたしたち観客はなにかすごいものを観たと誤解を起こし、なんなら感動できてしまう。しかしエンドロールが終わって映画館が明るくなったとき、なにも映さなくなったスクリーンの、その誤解の先に、起きていたことのおそろしさに心のうちで気づいてしまう。

 なぜなら”彼”はついに、醒めない夢を見るために、ついには自分自身にたったひとつの魔法をかけてしまった。

「じゃあ、いったい”彼”は映画の中で/外で、はたして幸せだったのだろうか?」

 しかしいま、それはとけない魔法となってしまった。そうして生まれた彼の夢は、だからいつまでも答えは導かれないまま、光のなかで残りつづける。

 

エンディング:ArtTheaterGuild「Papermoon」


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ジェフリー・フォード「創造」を誤読する。

 タイトルの通りです。先日、個人的に参加している読書会で「創造」が課題短編となり、数年ぶりに再読しました。そこで考えたことを忘れないうちにメモしておきます。

 

 

 

【※本記事では、ジェフリー・フォード「創造」の内容に言及します。未読の方はご注意ください】

 

 

 

 

※参考テクスト:ジェフリー・フォード「創造」谷垣暁実訳『言葉人形 ジェフリー・フォード短篇傑作選』(東京創元社)収録。

「創造」の概要

  ジェフリー・フォード「創造」は、プロットが進んでゆくにつれて、複数のジャンルフィクションのレイヤーが織り重なるようにして語られてゆき、しかし最後には人生の豊かな側面を教えてくれる短編として受け取ることができます。

 まずはこの、作中ストーリーのそれぞれのレイヤーについて、ざっくりと整理したいと思います。

 ①:子供の語り手「私」が聞きかじった「創世記」のエピソードをもとに、自分も「人間」をつくる「ごっこ遊び」的な行為をおこなうジュブナイル

②:しかし空想であったはずの「私の人間」がほんとうに動き出してしまい、森のなかを徘徊するようになってしまうというホラーあるいはファンタジー

③:一連の出来事を父に相談し、「私」は父とともにその人間=「キャヴァノー」を捕まえようとする。森の奥で「私」は「人影」を目撃する。声をかけると「ありがとう」という相手の囁きが聞こえ、どさりという音を耳にする。「私」はそれを「キャヴァノー」が「つくられる前に戻った」のだと考える。

④:しかし20年以上経った大人になってから、あのとき「キャヴァノー」を演じていたのはもしかすると父だったかもしれない、と真実に気づくミステリー

 これらのプロットを順に追っていくことで、読者は「父」という存在の意外な一面に触れ、親子間の心のふれ合いがひとしれずあったことを理解します。そこには子供の未分化な「空想」すなわちファンタジーの世界を壊さないようにふるまう、父親から息子に向けられた優しいまなざしが流れているように思われます。

  ですが、「創造」とはほんとうにそれだけの短編だったのでしょうか。

 

父と子の対比について

「創造」の物語は「私」という主観的なフィルターを通して語られています。つまりは不完全な回想形式です。もちろんそれによって多くの読者は自然とこの「私」に寄せて事実を理解することができるわけですが、場合によっては、そこにはなんらかの読み落としが起きているかもしれないことについて、今回は考えてみたいと思います。

 つまり、本作において「私」から見た「父」というエピソードによって父子の関係は物理的にも精神的にも「守る→守られる」ものとして理解されています。ですがほんとうにそれだけだったのでしょうか? 自分はこれを考えたいのです。

 もちろんこの「守る→守られる」の一方的な関係は、一読すると、ストーリーの結論部にまで、じつにテクニカルなかたちで保持されているように思われます。なかでもわかりやすいのは「筋骨隆々」とまで書かれている「つよい父親」像のふるまいを序盤の段階でこれでもかと読者に対して見せつけてくれるくだりでしょう。

(…)あるとき、近所で飼われていた、ポニーほどの大きさのドーベルマンがどういうわけかひどく興奮して、うちの前の通りをプードルを連れて散歩していた女の子に襲いかかった。父は(…)犬をめった打ちにして殺した。(…)

 いっぽうで、「私」はキリスト教の信仰に親しんでいるため、まったく正反対の言葉を、ひとりでに歩き回っているキャヴァノーに対して思います。

(…)いずれにせよ、今となっては彼をばらばらにすることはできない――汝、殺すなかれ、だ。(…)

 十戒は動物を殺すなかれ、とはいっていなかったと思いますが、すくなくとも暴力を行使できる父と、それを行使できない私という対比がここには見られます。また、両者の違いは、その前に語られている信仰面においても記述されています。

 アダムがつくられたことについてどう思うか、あとで私は父に尋ねた。父は私が宗教にかんする質問をしたときにいつも示す反応をした。「あのな」と父は言った。「それは話としてはよくできてる。だが、死んだら誰だって、蛆虫のエサになるんだ」あるとき、体調不良の母に頼まれて、父が私を教会に連れていったことがあった。父は司祭とまともに向かい合う最前列の席にすわった。ほかの人たちが片膝をつく敬虔なお辞儀をしたり、立って歌ったりしている間、父はその場にすわったまま、腕組みをして、脚を組んだ姿勢でにらみつけていた。(…)

 こうした記述から、父が信仰を持っていないことはあきらかです。

 とはいえ、わざわざ「にらみつけてい」るとなると、なにか、恨みのようなものがほのかに感じられるかもしれません。もちろんこの段階で、父の内心を完全に理解するのは作中の記述からはとてもむずかしいところなのですが、ただ、この父が単なる「つよい父親」ではないことが語られる瞬間が作中にあったことは指摘できます。

 

父≒キャヴァノーという重ね合わせ

 つよい父親ではない姿。それは、何度かくり返される、「キャヴァノー」の声によって間接的に描かれています。私は彼のいる森から逃げる途中、「大きな叫び声」を耳にします。それが次第に父親のものと、しらずしらずのうちに重なっていくのです。

(…)私は通ってきた道を駆け戻った。逃げていく途中で、大きな叫び声が聞こえた。砦も動物でも人間でもなく、オークの古木から大枝が裂けて離れるような叫びだった。

どのような肺、どのような声帯がそれを生み出したのかはわからないが、彼は呻き声をあげた。それは私がそれ以前に一度、聞いたことがある声だった。父が悪夢に包まれて眠っているのを見ていたときに。

(太字は引用者)

シダの髪が茶色くしおれているキャヴァノーが、死んだリスたちの祠を見つけたところだった。切り開かれて、広げられ、壁にかけられている亡骸の毛を、彼が優しくなでているのが見えた。彼はカバの木の脚が折れそうになるのもかまわず、両膝をつき、もの悲しい叫びをもらした。その声は私の心に突き刺さり、いつまでもそこにとどまった。

 このキャヴァノーの姿を見聞きするのは「私」(の内面の投影といってもよいの)ですが、父に似た声を通して「私」は自分がつくりだしたもの、生み出したものが抱いてしまう悲しみや苦しみ、痛みに触れてゆきます。単純にストーリーテリングとしての関係を見出すのであれば、あるいはこれを「父=キャヴァノー説」の「伏線」と捉えてもよいかもしれません。ただそれはいったん措きましょう。

 そうして彼の「声」に何度も触れていったあと、物語の終盤、出来事の経緯を「父」に伝えた「私」はなにができるかを考え、こう言います。

「せめて何か言ってやりたい」

 森の奥、父と別れた私は「背の高い松の木の幹に半ば隠れている人影」を見つけます。「キャヴァノー?」私は叫びます。「きみなのか?」「そこにいるのかい?」

 それに対して、姿のはっきりしない人影は「なぜ?」と訊きます。わたしは言います。「だいじょうぶかい?」しかし相手はまた「なぜ?」とおなじ問いをくり返します。つづく記述は以下の通りです。

 私にはその問いの答えがわからなかった。そして、彼が生まれた日に、教理問答書の問いではなく、答えを読んでやればよかったと思った。(…)自分が嘘をついているのは、ほぼ確かだと思いながら、叫んだ。「ありあまるほどの愛があったから」と。

 すると聞きとるのもやっとなぐらい微かな、彼の囁きが聞こえた。「ありがとう」

 そうして「彼」はまるで呪いが解けたかのように「つくられる前に戻」ってゆきます。「私」は自分のつくったもの(≒被造物)に「愛があったこと」(≒神の愛)を伝えたことで、一連のホラー/ファンタジーめいた出来事を終わらせたのでした。

 しかしここではあきらかになっていない部分があります。だとすると、このとき問われた「なぜ?」とは具体的にどのような意味の問いかけだったのでしょうか。

 

痛みの問題

 自分は教理問答書というものに触れた経験がないのですが、物語冒頭のシーンで「誰があなたをおつくりになりましたか?」に対して「神さまがわたしをおつくりになりました」と答えているのを作中の記述にあたったことで知っています。

 ですから、これをもとに誤読してみましょう

 つまり、物語終盤の「なぜ?」という問いは、上記の問いを発展させた「なぜ神はわたしをおつくりになったのですか?」だったのではないか、と仮定します

 また仮にそれを前提としたうえで、大人になった「私」の出した結論(父=キャヴァノー説)が真であるとした場合、不信心者であったはずの父が、姿を隠した状態で、わざわざキリスト教的な「なぜ?」という問いかけを息子に向けていたことになります。

 しかし、これはいささか不可解です。

 なぜなら「なぜわたしをおつくりになったのですか?」という問いかけが彼のなかに抱かれ、「私」に投げかけられていたということは、一見つよく見えていたはずの「父」という存在が、人知れず苦しみや痛みを、まったき生に対する疑問を抱えていたのではないか……という可能性を示唆することになり、「つよい父親」像を正面から破壊してしまうことになってしまうからです。これでは、終盤まで維持されていた、「守る→守られる」の優しい関係は瓦解します。

 ならば、これはいったいどういう事態なのでしょうか。

 しかしすぐには結論に飛びつかず、いったん話を脱線させてみましょう。脱線といっても最終的には合流する予定です。ただ、その脱線という解釈のための副読本として、C・S・ルイス『痛みの問題』の記述を引いてみたいと思います。

 もちろんキリスト教といっても、ルイスは英国国教会の信者ですので、フォードの描いたアメリ東海岸部でのキリスト教信仰とはおそらくニュアンスが異なっています。とはいえ、ここで語られているのは普遍的な問いかけとしても成立するものであると仮定して考えていきたいと思います。

 さて、作中の「なぜ?」とは、かなり曖昧な問いにも思えましたが、具体的には以下のような問いかけに変換できるのではないでしょうか。すくなくとも、ルイス『痛みの問題』にはこう書かれています。

「もし神が善であるとしたら、被造物を完全に幸福にすることを願うでしょう。またもし神が全能なら、そうした願いを実現することができるでしょう。しかし被造物は幸福ではありません。とすると、神は悪しき神であるか、それとも力を欠いているか、もしくはその両方ということになりますが?」。さて、これは最も単純な形に還元された「痛みの問題」です。

 こうした「痛み」があることによって「現に救われていない以上、神を信じることはできない」という考え方を「父」が持っていたとするなら、彼の口癖は大いに積極的な意味を持ってわたしたち読者の前に現われます。

 つまり、父の人生に横たわっていたのは、作中の言葉を借りるのであれば「蛆虫のエサ」になるような生そのものの陳腐さ、あるいは死そのものへの諦観、ニヒリズムだったのではないでしょうか。無神論者であれば、こうした感覚はごくありふれたものでしょう。なにしろ神という存在は、生活の実感としては、個々人の苦しみを簡単に解消してくれるわけではないからです。

 もちろんルイス自身も、この問題解決は容易ではないことを語っています。

 人間の苦しみと愛の神の存在とを矛盾なく理解しようという問題は、わたしたちが〈愛〉という語に通りいっぺんの意味を付している限り、つまり人間こそがすべての中心であるかのように思いなすかぎり、解決できないのです。(…)わたしたち人間は本来、わたしたちが神を愛するためにではなく(もちろんそのためもありますが)、神がわたしたちを愛してくださるために、愛の神の「心にかなう」ものとなるように、造られたのでした。神の愛があるがままのわたしたちで満足してくださるように願うことは、神に対して神たることをやめてくださいと願うにひとしいのです。

 この部分はキリスト教の教義と絡まるように存在している道徳観として捉えるべきかとおもうのですが、だとしてもこのロジックは、無神論者からすれば、大いなる矛盾と欺瞞があるものとして映るに違いありません。

 とはいえ、造られるということと、そこに愛があった、ということは「創造」の物語のなかでも用いられていたロジックでした。

 また、もうひとつ言えることがあるとすれば、「創造」という短編は聖書の物語をベースにしたお話であると同時に、ゴーレム伝説にも近いということでしょう。

 神のまねごとをして生まれた命、それが「言葉の力」によって最後にはつくられる前に戻ってゆく(土に還ってゆく)。このような文脈を付け足して理解するのであれば、「なぜ」という問いかけは、より切実な言葉として響くのではないかと思うのです。

 どういうことでしょうか。

 つまり自分は、ここには祝福されることのなかった生命の物語であるフランケンシュタイン』の怪物のこだまが聞こえないだろうか、と考えたいのです。

 

「なぜつくったのか」という問いかけについて

 メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』の思想の源流とおもわれる言葉は作品に付されたエピグラフに書かれています。以下にそれを引用します。以降、『フランケンシュタイン』の引用として使うのは、すべて光文社古典新訳文庫小林章夫訳に準じます。

 創造主よ、土塊(つちくれ)からわたしを人のかたちにつくってくれと

 頼んだことがあったか?

 暗黒からわたしを起こしてくれと、

 お願いしたことがあったか?

           (『失楽園』第一〇巻 七四三~七四五行)

 これが『フランケンシュタイン』冒頭に使われているエピグラフです。

 わたしはミルトンについて明るくありませんし、『失楽園』は未読ですから、それについて、なにひとつ歴史的な背景や作品の位置づけを語ることはできません。ただ、上記の引用部が反語的表現であるとは理解できます。

 それらの言葉には強烈な苦しみと怒り、「なぜ/どうしてわたしをつくったのですか?」という創造者への訴えかけが(『フランケンシュタイン』という作品を通すことで)見えてくるはずです。

 なぜなら『フランケンシュタイン』の中核部分を占めるのは、この生み出された怪物自身による告白だからです。造物主に見放され、愛を求めて得られなかった男の苦悩。この怪物はアダムのようで、しかしまったくアダムではありません。怪物がフランケンシュタインに直接、語りかけていたように「おれはおれをつくったおまえにも嫌われている」のです。

 ですから、その怪物は、決して祝福されることはないのです。『失楽園』を読んだ怪物は、生みの親にこう言い、訴えかけます。

(…)自分の境遇を思わせる箇所が目につくたびに、おれはわが身と引き比べた。アダムと同じく、自分もこの世の存在とまったく無縁に見える。しかしアダムの状況は、ほかのどの点を取っても、自分とは似ても似つかない。彼は神の手から生まれた完璧な存在で、創造主の特別な配慮に守られて、幸福と繁栄を謳歌している。自分より高い存在と会話を交わし、そこから知識を得ることも許されている。

「呪われし造物主よ! おまえすらも嫌悪に目を背けるようなひどい怪物を、なぜつくりあげたのだ? 神は人間を哀れみ、自分の美しい姿に似せて人間を創造した。だがこの身はおまえの汚い似姿に過ぎない。おまえに似ているからこそおぞましい。サタンにさえ同胞の悪魔がいて、ときに崇め力づけてくれるのに、おれは孤独で、毛嫌いされるばかりなのだ」

 そうなのです。「なぜわたしをつくりあげたのですか?」という問いがここにもあるのです。またこのあと『フランケンシュタイン』の怪物はそこで自分の望みを造物主に告げますが、それは聞き入れられることはありませんでした。

 だとするなら、ジェフリー・フォードの「創造」は、この『フランケンシュタイン』の物語をなぞるようなかたちで展開しつつ、しかしバッドエンドにはならない展開での「再話」をおこなっていたのではないでしょうか。

 だからこそ「創造」の終盤において、「キャヴァノー」は「なぜ?」と問いかけ、造物主である「私」はそれに対して「神の愛」があることを告げたのではないでしょうか。そうして命を祝福することによって、悲劇を回避したのではないでしょうか。

 

ふたたび、父≒キャヴァノーという重ね合わせ

 さて、これまで長ったらしく誤読してきたように、「キャヴァノー」という被造物は、造物主による愛を告げられることで、その生を祝福され、元の姿に戻り、その生を終えることができました。ですがそれは、おそらく表面上に起きていたことにすぎません。なぜならそれはあくまで「私」と「キャヴァノー」のあいだでの関係だけにすぎないからです。

 ですからここでさらに進んで考えるべきなのは、「父」と「神」の関係、つまりは信仰の問題ではないでしょうか。ふたたび父の記述に戻りましょう。

(…)あるとき、体調不良の母に頼まれて、父が私を教会に連れていったことがあった。父は司祭とまともに向かい合う最前列の席にすわった。ほかの人たちが片膝をつく敬虔なお辞儀をしたり、立って歌ったりしている間、父はその場にすわったまま、腕組みをして、脚を組んだ姿勢でにらみつけていた。

 先にこれを引いたとき、自分は語り手の「父」はたんに「信仰を持っていない」人物である、という解釈をしました。しかし『フランケンシュタイン』の物語をあえて挟んでから考えると、その先のものがおぼろげながら見えてきます。

 つまり、語り手「私」の「父」はフランケンシュタインの怪物のように「生そのものを呪っていた」のではないでしょうか

 なぜわたしはほかのだれかのように幸福をまっとうに受けることができないのか。神はこの世のすべてを最善とされたのではなかったのか。ならばなぜこのわたしは不幸であるのか。なぜわたしは醜くつくられたのか。なぜこの苦しい生はあるのか。そのような憎しみの感情を抱いていたからこそ、教会で信者たちのような敬虔なしぐさをすることはなく、彼はただただ「にらみつけていた」のではないでしょうか。

 

ほんとうのことがわかるまで

 そのような苦悩を抱えていた(かもしれない)父は、物語の終盤、森の奥で「キャヴァノー」という影となって語り手である造物主と対峙します。さながら生みの親と再会した「フランケンシュタインの怪物」のように。そして彼は問いかけたのです。

「なぜ?」

 ですからここにおいて、父と子の関係は「空想」という世界のなかでまったく逆転しています。そのなかで、父は子に向かって喋っていると同時に、親に向かって、あるいは神に向かって「なぜ?」と切実に問いかけていたのです。

 あの当時、なにが「父」の心にあったのでしょうか。

 これについては、ほとんど推測というよりは妄想でしかないのですが、「創造」という短編において、もしかすると、あまりにも存在感の希薄であった「母」の側になにかがあったのではないか、と勘ぐることはできないでしょうか。

 加えて、その事実は、語り手の「私」は知ることがなかったか、あえて語ろうとはしなかった。作中の記述をひとつ拾うことができるとすれば、父が私を教会に連れて行ったのは、母が「体調不良」であったためという部分です。

 であるならば、このさりげない一文のなかに、いずれはだれもが「蛆虫のエサ」になりゆくという、死の影を感じ取ることはできないでしょうか。もちろん穿ちすぎな見方であることは承知しています。

 そのうえで、森の奥で「なぜ?」を問われた「私」は考えます。

 私にはその問いの答えがわからなかった。そして、彼が生まれた日に、教理問答書の問いではなく、答えを読んでやればよかったと思った。(…)自分が嘘をついているのは、ほぼ確かだと思いながら、叫んだ。「ありあまるほどの愛があったから」と。

 ですからこのとき、つよかったはずの(しかしじっさいは弱い、悪夢にうなされるような存在であった、苦悩を抱えていたかもしれない)父は「だいじょうぶ?」と息子にはじめて声をかけられていたのではないでしょうか。

 よって、ここにおいて、父と子の「守る→守られる」という関係は、ファンタジーという空想のクッションを挟むことで、はじめて崩されたのではないでしょうか。あるいは『フランケンシュタイン』風にいうのであれば、そのとき父のもとには「創造主の特別な配慮に守られ」る瞬間が訪れたのではないでしょうか。

 だからそれは、無垢な子供の声として、しかしまっすぐに届けられたのです。そうして父は、息子の嘘を、ひとつの真実として聞き入れた。つまり「信仰による救い」という「よくできた話」が虚構であることをじゅうぶんに理解しながら、しかし自身の生はまったく呪われていたものではなく、じゅうぶんに愛されていたものである、と。そう考えたのではないでしょうか。そうして彼はそのときになってようやく、苦悩に満ちた人生を、はじめて受け入れることができたのではないでしょうか。

 だからこそ、父はこう答えることができたと考えることはできないでしょうか。

「ありがとう」

 そうして、物語は終わりに向かいます。

 幼いころの出来事もはるか遠く、語り手である「私」が結婚してから二十一年の時間が経ち、彼は二児の父となりました。「母は何年か前に世を去っ」ており、彼女についての言及はそれ以上はありません。すべては墓のなかにある以上、わたしたち読者はただ、その余白を想像で埋めるほかありません。

 とはいえ、母という存在になんらかの秘密があったのかもしれないことは、作者自身もおぼろげながら示しているように思われます。かつて「キャヴァノー」を生み出し、森で怖れを感じた「私」が家に帰った夜の記述に、それはさらりと書かれています。

 その晩、灯りを消してベッドに横たわり、傍らにすわっている母がクルーカットの頭をなでながら、優しい声で「ほんとうのことがわかるまで」を歌ってくれていたとき、(…)

 もしかすると、彼女はぜんぶ知っていたのかもしれません。少年のいたずらめいた生命の創造のことも、父のうなされていた悪夢の正体も、なにもかも。

 とはいえ、残念ながら、自分には英語圏の文化に関する知識をまったく持っていない以上、この歌のタイトルからだけでは、じっさいに曲そのものを確定することはできませんでした。もしかしたら、その歌詞になにか大切なものが書かれているのかもしれません。もちろんただの思い過ごしであるのかもしれません。

 だとしても、奇跡のような瞬間の訪れは、だれにも知られないうちに起きていたのではないかと、この短編を読んだわたしは思わずにはいられないのです。

 もちろんそう息巻いて訊ねてみても、きっと作中の「父」は決まってこう言うでしょう。生命の息吹をくゆらせながら。もうじき「蛆虫のエサ」になっていくことを待ちかねながら。土に還ることを理解しながら。

「いったい何の話をしているのか、さっぱりわからないよ」

 とはいえ、これはべつに、悪い結論ではないのだとも個人的には思っています。しかしそれだとさすがに拍子抜けかもしれません。ですからここまで付き合ってくださった読者のみなさんに、わたしも問答書のようにひとつ、あえてわかりきった問いを投げてみます。

 みなさんは、あの有名なゴーレム伝説のなかで、粘土からできた人形に命が宿るとき、額に書かれていた文字のことを覚えていますでしょうか。

 そうです。あの土人形の額にあった、

「emeth(真理)」

 は、一文字だけ削られてしまいます。そうして、

「meth(死)」

 となることで、すべては土に還ってゆき、「真実」というものはだれにも知られず、ただそっと、安らかに埋葬されるのでした。ですからその墓をあえて暴こうとするのは、じっさいは野暮な行為なのかもしれません。

 というわけで、この誤読はみなさんとわたしとの秘密にしておきましょう。

 

 

エンディング:odol「時間と距離と僕らの旅」


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※なお、本記事を書くにあたり、金森修『ゴーレムの生命論』および種村季弘『怪物の解剖学』が念頭にあったことをここに付記しておきます。

第2回星々短編小説コンテスト一次通過作品「彼女のチケット」

 昨年末にささっと書いていた小説が一次通過していました(最終には残りませんでした)。発表するあてもないのでここに置いておきます。お暇つぶしにどうぞ。

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 第2回「星々短編小説コンテスト」の募集テーマは〈映画〉でして、そういえばむかし地元に潰れた映画館があったなあ、と思いながら〈日常の謎〉を書きました。地元ではふたつかみっつくらい映画館が潰れていたんじゃないでしょうか。

 5000字、というとミステリをやっているだけで細かい描写ができず、むずかしいなあと思っていましたが、いま見直すと、もっと細部はちゃんとコントロールできたなあ、と反省し、すこしだけ手直しをしました。直したあともワードで5000字以内にしています。以下、本文です。

 

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 一週間ほど前に親戚が亡くなって、しばらく塞ぎ込んでいた三木が、その日の放課後、図書委員の当番をしていたわたしのもとへとやってきた。

 そして唐突に訊ねた。

「映画を嫌いな人が、その半券を大切に保管してたら、どう思う」

「ほんとうは映画好きだったんじゃないの」

「でも嫌いだったんだよ」

 と、言い返され、残念そうな目つきを向けられる。

 どうしてこの日にかぎって、図書室の受付カウンターには本の貸し出しを求める人がやってこないのだろう、とわたしはつい内心で毒づいてしまう。この状況では、忙しさを理由にして、苦手なクラスメイトを避けることができなかった。

 三木は可愛い。それに愛想がいい。

 先生からの信頼も厚いし、生徒間でも人気がある。けれどそれは外面だけなのだと、幼稚園のころから親同士が知り合いであったわたしはよく知っていた。

「結城、ミステリ好きでしょ。憧れの人はホームズだってむかし言ってた」

「だから」

「こういうの、得意かと思って」

「本だけ読んで名探偵になれるんだったら、世界はもっと平和なんじゃないかな」

「じゃあ、なんで本読んでるの」

「あのさ、喧嘩売ってる?」

 ほんらいのわたしたちであれば、このあたりでひと悶着あってもいい気がしていた。けれども相手の態度はいつもと違って、どこか弱々しく萎んでいた。

「そっか。結城でもだめか」

 そうこぼし、幼なじみはきびすを返そうとする。

 不思議とその背中が小さく見えた。

「待って。べつに話くらいなら聞くってば。コーヒーもあるし」

「ミルクティーは」

「文句言わない」

 わたしはカウンターに「離席中」の札を置いて、奥の準備室へと彼女を連れていった。ほんらいは部外者を入れるべきではないのだけれど、そんなつまらないことをいちいち守っているような優等生は、残念ながらこの学校の図書委員にはならないのだった。

 

              *

 

 年代物のストーブの灯をつけ、その上に水を入れたやかんを置く。準備室と呼ばれている狭い事務室兼休憩室があたたかくなるまで、しばらく時間が要る。窓の外は二月で、冬の白さを帯びた空気の向こう、灰青色にくすんだ海が広がっていた。

「三木」

 と、わたしは振り向き、パイプ椅子に座っているクラスメイトに質問を投げる。

「こないだ亡くなったの、恵さんだよね」

「うん」

「そっか」

 わたしたちが住んでいるこの海辺の町は、ひどく狭いコミュニティで成り立っている。三木のはとこである岡野恵さんがその家の養子であったことは親戚じゅうに知られていたことだったし、当然、外部の人間にも知られていた。

 季節の節目など、地域の会合やお祭りがあって、ビールや日本酒が自治会費によって振る舞われるとき、わたしや三木のような子供は両親の代わりに顔を出すことが多かった。そして時折、それなりに年配である大人の口から出てくる声を耳にしていた。

 だからそこで聞いたのは、

「貰い子」

 という単語だった。

 最初はよくわからなかった。ただすくなくとも、肯定的な意味で使われていないことは想像がついた。彼女が経済的な理由によって養子として迎えられたのか、もとの家庭環境に問題があったためなのかは、知らない。

 三木の話によれば、亡くなった恵さんはまだ三十代の後半に入ったばかりで、勤め先は町からだいぶ遠いところだったそうだ。きっと彼女の同僚は、そのような、どこか蔑むような呼び方が田舎で横行していることなんて想像もしていないのだろう。

 彼女の育ての親のうち、片方はすでに亡くなっていて、もう片方は介護施設に入っている。だからその、つまらない言い方もいずれは廃れていくはずだった。そういった経緯もあり、恵さんの遺品を整理するのは喪主を務めた三木家と即座に決まっていた。

「そこで映画の半券を見つけたの」

 と、三木は淡々と述べた。

「正確には、それらを保管したスクラップブックだけど。でもおかしい」

「なにが」

「わたしは、生前の恵さんと話したことがある。あの人は、映画が好きだなんて一度も言わなかった。むしろ苦手だって話してた」

「苦手って、大きな音が得意じゃないとか、そういうこと」

「ううん、違う。もっと精神的な話」

 その言葉に首を傾げる。ニュアンスをうまく掴めない。

 すると三木は窓の向こうをじっと見つめ、つづけた。

「養子として引き取られたばかりの恵さんは、月に一度、必ずお養母さんに手を引かれて、映画館に連れて行ってもらってたんだ」

「それだけを聞くと、なんだか美談にも思えるけど」

 幼い子供をアミューズメント施設に連れて行くのは、たんに親子間でのコミュニケーションの方法がわからなかったからではないか、と訝ってしまう。つまり子供に与える愛情の不器用な証明として、わかりやすい行動が求められた。そう聞こえる。

 でもね、と三木はこちらの考えをわかったうえで答える。

「恵さんの育ての親は、彼女を席に連れて行くと、いつもどこかにいなくなった」

「どういうこと」

「つまり、上映中の映画館のなかに、恵さんを放置してた。いつも決まって、暗くなってから、声を出せなくなったタイミングで。だからあの人には、最初から最後まで家族と一緒に映画を観た経験がなくて、あまりいい思い出がなかったの。大人になっても、嫌な記憶ばかり思い出すから行きたくもないって話してた。でもたぶん、あの半券は、恵さんが子供のころに集めたものだったんじゃないかって思う」

 たしかにそれは辻褄の合わない話だった。ふつう人は、わざわざ手間をかけてまでして、思い出したくない記憶や物品を保管しておこうなどとは考えない。

「実物、持ってきたんだけど。結城も見る」

「いいの」

 うん、とうなずき、三木はビニール袋に包んでいた、文庫本よりもすこしだけ大きな冊子を取り出した。見たところ、それほど厚みはない。表紙は驚くほどに白かった。大切に取り扱われていたらしく、角などが折れた形跡もなく、染みひとつなかった。

「お菓子の缶箱に入ってたから」

 どこか言い訳をするみたいに三木は答えた。

 その冊子を受け取り、頁を開いてみる。

 うすいクリーム色の紙に、ただ日時と映画のタイトルのみが印字された半券が等間隔に糊付けされていた。それ以外はなにもない。チケットに対して、コメントのひとつすら書かれていない。けれどもかえって、それがなにかを訴えかけていた。

 半券は、一九九五年から二〇〇二年まで、合計七年に渡って年代順に並べられていた。だいたい月に一度のペースだった。

「三木」

 わたしはなにかを言おうとしたけれど、適切な言い回しを思いつけなかった。同時に、ストーブの上のやかんがしんしんと鳴りはじめた。

「うん」

 だから結城のとこに来たんだってば、と三木はかすかに笑った。

 

              *

 

「このチケット、シネコンのじゃないよね」

 頁に貼り付けられた半券には、日付と作品名はあったものの、座席番号がどこにも印字されていなかった。わたしたちの町の近隣には映画館がふたつあって、ひとつはショッピングモールに併設されている比較的小さなもの。もうひとつは大手のシネマコンプレックスだ。どちらも座席はチケット購入時に指定するはずで、映画館じたいの名前もそこに印字される。けれどこの半券には、どちらも記載されていなかった。

「どういうことだろう」

 けれども三木もかぶりを振った。

「わからない」

「お、若人どもが熱心に仕事をサボってるな」

 と、そこで準備室のドアが横に開けられ、軽い調子の声が届いた。

 入ってきたのは司書教諭の石塚さんだった。厚手のセーターにコーデュロイのパンツが学校の制服よりずっとあたたかそうで、つい羨む視線を向けたくなる。

 椅子に座っていた三木は頭を下げる。

「お邪魔してます」

「いいよ、うちは来る者拒まずだから。休むついでに本でも借りてってね」

「はあ」

 公然とサボりを見逃す教諭にどう対応していいのか、三木は少々戸惑っていた。

 そうだ、とわたしは石塚さんに冊子を見せて訊いてみる。

「先生。これ、どこの映画館のものかわかりますか」

「なにこれ」

「三木さんの親戚のものなんですけど、ちょっと来歴がわからなくて」

「ふうん」

 石塚さんはわたしたちの学校の卒業生で、本人の話によれば、三十代のはずだ。岡野さんとほとんど近い年代の生まれだから、なにか手がかりを知っているかもしれない。

 すると、あ、と思い出したように声を上げた。

「これ、《オリオン座》だ」

「知ってるんですか」

「まあね。それ、きみたちが生まれる前に潰れた映画館のチケットだよ」

「詳しく教えてもらってもいいですか」

「うーん、ただの思い出話になっちゃうけど」

 それでいいなら、と丸い眼鏡の奥で石塚さんは目を細める。

 あの、とそこで三木がおずおずと口を開いた。

「どうしてこの半券には座席番号がないんですか」

「お、面白い質問だね」

 正解はね、と石塚さんはいたずらっぽく笑ってみせる。

「古い映画館には、いまみたいな座席指定なんてシステムはなかったからだよ」

「え」

 そうなんですか、とわたしたちは声を揃える。

「まあ、現代っ子にはわからない話かもね。チケットは売れるだけ売って、満席になろうともおかまいなし。劇場の端っこや後ろのほうに立ち見客はいたし、途中でトイレに行こうとして席を立とうものなら、知らない人がすぐさまそこに座ってた」

「信じられない」

 と、三木はすこしばかり引いた声をこぼす。

 しかし石塚さんは悠々とした態度のまま、インスタントコーヒーを淹れはじめる。

「懐かしいなあ。たしかここで『千と千尋の神隠し』も『ハリー・ポッターと賢者の石』も観たんだよね。『オトナ帝国の逆襲』なんかもうすごい人気でさ、子供だらけ。たしかあのとき、席と席とのあいだの通路になってる階段に座って観たんだっけな」

「先生は、いつもご家族と一緒に観てたんですか」

「そうだけど、ほとんど別々に座ってたんじゃないかな。隣はいっつも知らない人でさ、でもあれはあれで、ひとりじゃないって感じだったよ。不思議とね」

「そう、ですか」

 わたしはつぶやき、数秒遅れて、はっとした。なぜだか映画館で隣に座った知らないだれかの、スクリーンの光を反射して青白くなった横顔を見た気がした。

 だからそれが答えかもしれない、と内心で思った。

 

              *

 

「三木」

 帰り道の別れ際、わたしは幼なじみを呼び止めた。

 冬の田舎道は、都会よりもずっと暗い。時折、街灯の人工的な光は差し込んでも、商店などはなく、夜空にちりばめられた星座を探すほうがずっと簡単だった。

 その空の下で、わたしたちは向かい合う。

「なに」

「あのさ、これはただの仮説でしかないんだけど、聞いてくれる」

「わかったの」

「たぶん」

 そう伝え、わたしはゆっくりと息を整える。それから答えを告げる。

「あれは、恵さん自身のスクラップブックじゃない。きっと恵さんを育てたお養母さんが保管していたものだと思う。それをあとになって恵さんが見つけて、真相に気づいた。その答えがあったからこそ、チケットは捨てられずに残ってた」

「ごめん、急に話が飛躍しててわからない」

「じゃあ前提から。恵さんは、貰い子だったんだよね」

「そうだけど」

 言い方、と三木はつよい視線を向けてくる。

 わかってる、とこちらも言い返す。

「でももし、その恵さんの、ほんとうの親が養子縁組をしたあとも生きていたらって思ったんだ。この町では、世間の、周囲の目があるから、ちゃんとした場所では恵さんとその親は直接会うことはできないはずだった。でももし、だれひとり他人を気にせず、顔も見られないような暗い場所があったならば、それは可能だったかもしれない」

「それって」

 だから、とわたしは考えを述べていく。

「いつも映画がはじまると、恵さんを育てていたお養母さんは、彼女をひとり置いていくように席を立った。そして、その代わりに、ほんとうの生みの親が隣に座った。月に一度、彼女の成長を見守るために。それはきっと、親同士の秘密の約束だった」

 それが果たしてほんとうによい出来事であったのかは、正直わからない。きっとそれは当事者たちのあいだでしか決められない、繊細な領域であるはずだ。

「ただ、それでも恵さんは、チケットを自ら捨てようとはしなかった」

 それだけは、たしかな事実だったと思う。

 幼なじみはしばらく言葉に詰まったのち、そっか、と深く息をついた。

「結城」

「うん」

「教えてくれて、ありがとう」

 その日以来、わたしたちが恵さんの話をすることは、もうなかった。

 

 

〈了〉