三原則の向こう側――『アイの歌声を聴かせて』が『イヴの時間』から受け継いだもの

※本記事は『アイの歌声を聴かせて』および『劇場版 イヴの時間ブルーレイディスク特典ブックレットのネタバレを含みます。

 

 

未来、たぶん日本。

”ロボット”が実用化されて久しく、

”アンドロイド(人間型ロボット)”が実用化されて間もない時代。

                ――『イヴの時間

〈未来は、意外と近くにある〉

                ――『アイの歌声を聴かせて』

  吉浦康裕監督が新作を――それもAIもの――ということで『イヴの時間』を想起した人はすくなくないと思います。作り手側にもそれを意図したのかは定かではありませんが、ポンコツAIことシオンが教室で黒板に書いた名字は「芦森」ですし、主人公サトミの家の近くのバス停は「潮月」海岸で、どちらも『イヴ』の重要人物の名前と共通しています。加えて『イヴの時間』と『アイの歌声』、どちらもカタカナ+の+漢字~とつづくタイトルです。さすがにこれは穿ち過ぎな見方かもしれませんが*1

 とはいえ、精神的な続編ではないかと思いつつ『アイの歌声』を見てみると、SF的未来要素は『イヴの時間』よりも減っている、というのが大方の感想で間違いないと思います。

『イヴ』では人間と大差ない見た目の人型ロボット(ハウスロイド)が生活に普及している世界が描かれ、作中の新聞記事ではAIが音楽や絵画などの芸術分野に踏み込んでいくことが記述されていました(『イヴ』公開当時はまだ音楽や絵画の深層学習でまともなものが登場する以前でしたので、これはかなり未来的な描写でした)。

 いっぽう『アイ』ではまだ人と見た目の変わらないロボットは実験段階、というレベルです。技術レベル的に低い、と表現するのはややぶっきらぼうですが、その面は否定できません。とはいえ未来描写を減らした代わりに、より現実に近い描写に置き換わっている、と言うこともできます。

 物語冒頭で、サトミの部屋のカーテンの開閉や、炊飯器やコンロにまでいたるところにAIが普及している描写が丁寧に描かれているのは、わたしたちのスマート家電生活をより推し進めた未来の姿に近似しているといえそうです。そうした描写を自然にみせつつ、オーソドックスなドタバタ青春劇(ミュージカル)をやる、というのが『アイの歌声』の基本的なスタイルです。じっさいそれだけで面白いものになっているのは、作品を観た人なら同意していただけるかと思います。ついでに言及すると、映画『アイ、ロボット』のパロディシーンもありましたね。みなさんは気づきましたか?

 

 とはいえ、はたして取り上げるべきSF要素はそれだけでしょうか。

 

イヴの時間』が描いてきたのは、人のロボットの関係の見直し、つまり新しい未来の、SFの姿でした。そして、この部分は本筋ではないものの、『アイの歌声』にもじつのところ、用意されている物語のように思われます。

 ここでいったん『イヴの時間』の話をしたいと思います。『イヴの時間』はアシモフロボット三原則をミステリ的に応用した、どんでん返しストーリーの佳品なのですが、じつは映像化されていない、最後のどんでん返しが存在します。それは劇場版ブルーレイのブックレットに入っている短編「act0.5:SAME」です*2

「SAME」の内容のほとんどは『イヴの時間』の裏話というか、表に出ていない設定(作中のロボットの登場前夜)を語った話です。しかしそこには『イヴの時間』の設定の根幹である、「自我(?)を人間に隠しているロボットたち」がそもそもなぜ「隠している」という状況に至ったのかについての特殊なロジックが提示されています。

 その発想は当初与えられていた三原則を、個々のロボットたちが自身の頭によって解釈を広げ、さまざまな行動をするようになるアシモフ作品に近いものです。ですが吉浦作品は、そこにもうひとつの価値を与えているようにも見えるのです。「SAME」の冒頭には以下のような考えが提示されています。

 街を歩く彼らの目的は、一見すると様々に思える。大きな荷物を抱えて歩く機体、リーダーに繋がれた犬を散歩させている機体、人と一緒に歩いている機体も多い。しかし、全てのアンドロイドの根底にある行動原理はただ一つ――

「全ては人間のために」

(傍点部は太字で表記)

 イヴの時間に登場するロボットたちは、じつはほとんど人間であるかのように感情豊かに振る舞える存在です。その核心はブラックボックス化された『CODE:EVE』というAIで、研究者の芦森はそこに『情緒抑制回路』を組み合わせることで出荷されるロボットたちに機械的な、無機質な応答しかできないようにしています*3

 ですが、芦森はあるとき、これに対して仮説を立てます。もし、情緒抑制回路が正常にはたらいていなくても、ロボットたちは無機質に振る舞うのではないか? 先入観を捨てて、ロボットの立場で考えるのであれば。

 ――私は起動する。『CODE:EVE』が私の頭脳。隣に『情緒抑制回路』という異物が組み込まれている。なぜ、このようなものを……抑制? 人間は、私がそのように振る舞うことを望んでいる? そうだ、望んでいるのだ。だから私は――

 要するに、ロボットたちは「人間のために」感情を表に出さないと決めているのではないか。なぜなら、そうしたほうが人間が喜ぶから。だとすれば、わたしたち人間はロボットとの関係を見直さなければならないのではないか――。しかしそれについては結局アニメとして描かれませんでした。

 ただ、この「人間のために」というアイデアはじっさい『アイの歌声』でもさりげなく使われています。「サトミを幸せにする」というシオンの秘密を知ったとき、トーマは次のように発言しています。

「AIはもともと人に尽くすように設計されています」

 これをサトミの母、美津子は「ただの理屈よ!」と返し、しかしトーマは「でも現実です!」と見据えます。美津子は研究者である以上、安易にはプログラムや命令以上のものがAIに宿っていると認められません。

「それが本当なら、世界中のAIにも同じ可能性があるってことよ。そうなったら、この世界は――」

 それについての答えはアヤの「面白そう!」という声に遮られてしまい、ほとんど深堀りされることはありません。とはいえ、ヒントは作中に用意されています。

 シオンは基本的にスタンドアロンの機体です。にもかかわらず、ホシマのビルでピンチに立たされたとき、周囲のAIたちは命令にない行動を取ってシオンを助けますし、それ以前にもシオンはスピーカーやピアノ、カメラ、三太夫に協力してもらっています。

「みんなに頼んで嘘ついてもらったの」

「彼、協力してくれるって♪」

 さりげないセリフであるため、初見ではあたかもシオンがAIを擬人化するような発言のように受け取られますが、もしこれが事実を捉えていたとしたらどうでしょう。

〈未来は、意外と近くにある〉

 つまり、『アイの歌声』の世界においても、AIは自律的な思考ができるレベルにあって、しかしそれは表には出ていない。だとするなら、『アイの歌声』は『イヴの時間』とほとんどおなじ地点にいるはずです。それでいて、AIやロボットに対する偏見が『イヴ』よりも減りつつある、あたらしい時代。

 となれば、AIたちが感情を表に出す鍵を握るのが、シオンという存在です。作中のセリフでは、彼女はサトミの好きな『ムーンプリンセス』になぞらえられます。

 ラストシーン、人工衛星に移動した彼女がふたたびなにかを起こす予感を残して物語は終わりを告げますが、そこからはじまるのは、わたしたち人間とAIの、『イヴの時間』では語られなかったあたらしい関係のように思えます。なにしろムーンプリンセスは、歌を歌うことでいがみ合う人々を仲直りさせる存在なのですから、人間とAIのあいださえ、取り持つことだってできるのではないでしょうか。

 そのような邪推をしていくのであれば、『アイの歌声を聴かせて』は『イヴの時間』の未来像から後退したどころか、そこでは描かれることがなかった、さらに先の『未来』に進もうとした物語として見ることができるのではないでしょうか。人とAIが近くにあり、良き「隣人」として歩むという「幸せ」な『未来』に。

 そしてその根本は「人間を想うロボット」という『イヴの時間』から描かれてきた、優しいSFの姿そのものなのだと思います。

 

 

 

*1:ほかにも『アイの歌声』副題のSing a Bit of Harmonyは吉浦作品の『アルモニ』を想起させます。そういう意味では集大成的な作品なのかもしれません。

*2:のちにコミカライズ版にストーリーのひとつとして収録されています。

*3:フランケンシュタイン・コンプレックスなどが『イヴの時間』の世界では表面化しているため。

他者の痛みに気づかないことは悪いことなのか 映画『君は永遠にそいつらより若い』感想

※本感想は映画および小説『君は永遠にそいつらより若い』のネタバレを含みます。

 


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 映画『君は永遠にそいつらより若い』は原作小説の話を一部ばっさりと削りつつ、それでいて小説では描き切っていなかったところに光が差すような作品になっています。

 原作小説との違いが際立っていると感じるのは、映画の冒頭です。

 主人公のホリガイが大学四年生の冬、児童福祉司という就職先を決めたことをゼミの飲み会で報告すると、いきなり彼女はゼミの同期(?)に「他人様の人生に立ち入る資格があるって自信持って思っちゃってるんだ」、「とにかく無知。お前は他者に対して圧倒的に無知」といやみったらしく枝豆を投げつけられます。見ている側としてはなんかめっちゃ不快なやつが現れたな、くらいにしか思わないんですが、だんだんとこの指摘が作品全体のテーマとつながっていることがわかる構成になっています。

「無知」に関する明確な描写としてはバイトの後輩ヤスダ*1に対して茶化すくだりです。彼が持っていた裸の白人女性の写真をホリガイが見つけると、彼女はそれを冗談めかして奪うのですが、その結果、これから一緒に飲みに行くはずだったヤスダはあからさまに不機嫌になり、その場を去ってしまいます。

 のちにヤスダの持っていた写真は、彼の性的な悩み(巨根のため、付き合う小柄な女の子といつも性交ができない)に起因していて、どうにか自分の好みでない、ガタイの大きな女性を好きになって、改善をはかろうとしていた証左だったことがわかります。さすがにこれに気づくのは無理があるだろう、とは思いますが*2

 また、この悩みを聞いたホリガイは開き直ることをアドバイスするのですが、このあまり寄り添うようではない発言は、かえってヤスダを不機嫌にさせる羽目になります。そのあと酔ったヤスダが局部をホリガイに見せるシーンはいくぶんか滑稽なきらいがあって、どこまで真面目に受け取ったらいいのか判断に困るのですが、彼女はその事実から目をそらします。「無知」という部分はこうしたかたちで提示されます。

 しかしその一方で、痛みに気づけなかったことが強烈な打撃になるエピソードもかなり唐突に挿入されます。

 それは物語の冒頭でホリガイが短い言葉を交わしたホミネという男の子の死です。彼とホリガイはどこかボーイミーツガール的な、恋愛映画ふうな出会い方をしていたぶん、ひどくあっさりとした死があらわれたとき、その落差にひるまざるをえません。

 彼の友人のヨシザキは、葬式の場で、ホミネが自死していたことを知らされます。ヨシザキは死の直前まで彼と一緒に飲んでいたのにもかかわらず、その兆候に気づくことができませんでした。この「無知」が遠因でヨシザキは苦悩することになり、ホリガイとの距離も唐突に開くことになります。原作に比べると、この部分にはかなり比重が置かれ、物語の大きなターニングポイントとして設置されています。

 また、ホリガイが偶然に出会う、もうひとりの主人公とでもいうべきイノギも暗い「痛み」を抱えている存在として描かれます。ですがホリガイは、彼女に対しても、なにも気づくことなく接し、のちに彼女のショッキングな過去を聞かされることになります。彼/彼女らの過ごす世界には、そういう唐突な苦しさが、あたりまえのようにひそんでいます。

 ここで、あまり映画のほうでは強調されなかった部分について話をしたくなります。作中、ホリガイの従事しているバイトはかなり意味深というか、意図的な配置のようにも思えるからです。彼女がやっているのは酒造の商品をベルトコンベアで検品する作業で、ここには、悪い兆候(不良品)を見逃さずにキャッチする、という役割があります。その延長に彼女の就く仕事はあります。

 もちろん他人の人生はベルトコンベアで運ばれてくるわけではありませんが、人生のある瞬間、その人の痛みに気づかず見過ごしてしまう、という現実はありふれています。たとえそれが注意深い人間でもあったとしても、そういうことは起こり得ます。

 しかし、ここでさらに深く考えておきたいことがあります。劇中で描かれるこうした悪い兆候や悩みは、すべて初見殺しではないのか、という点です。

 ふつう人が他者とかかわるにあたって、「この人にはきっとこんな悩みがあるだろうから気を遣っておこう」などとは事前にはなかなか思い至れませんし、バイトの後輩が白人のポルノ写真を持っていたからといって、そこに性的なコンプレックスを抱えているかどうかまでは判断できるわけがありません。ましてや人が死にたいと思っているかなんて簡単に想像できるものではありません。

 そして、映画版はこの問題を原作よりいくぶんか掘り下げて語っています。ホリガイは、他人の痛みに気づけないからこそ自分は処女なのであって、不良在庫であり、欠陥品なのだと感じていることを終盤、吐露します。だからイノギの痛みにも気づけなかった。それは彼女自身の、だれにも言えなかった「痛み」でもあります。

 けれどもイノギは「隠してるんだから(他人の痛みに)気づかないのはあたりまえだよ」といったことを返します。これは原作にない台詞で、だからといってそれにホリガイがそれに救われたかというと難しいところです。だとしてもはっとさせるような台詞でした。そう、痛みはふだん隠されている。だからわたしたちはいつも気づけない。それはある種の事実のように聞こえます。もしくは開き直りのようにも。この言葉は、クライマックスの部分ではありませんが、シンプルで、力づよい言葉に聞こえます。

「君は永遠にそいつらより若い」というタイトルの言葉は、人生の暗い箇所に放り込まれた人に向けられた言葉ですが、助けたいと思った側にも同様に言葉が向けられているという事実は、そういう暗さをすこしでもマシにできないか、と考えたすえにあるように思えてなりませんでした。もちろん彼女たちは最後までたんに無力でいるわけではありませんが、結果的に無力だった人への目線が欠けているわけでもないことに、自分は見えない救いを感じられたように思います。

 

*1:原作ではヤスオカにあたる人物

*2:映画を観たときはなんで男性の性的な問題を女性に相談しているんだ、とは思いましたが、原作小説では男に相談しても羨ましがられるだけで深刻に思ってくれない、という話が挿入されています。

「アリバイ探し」ミステリを探しています。

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TVドラマ『アリバイ崩し承ります』より

強いて拙作の特徴をあげるならば、これは、アリバイを破る従来の型とは違って、アリバイをさがす点にあるだろう。海外に例を求めれば、W・アイリッシュの長編《幻の女》とフレドリック・ブラウンの中編《踊るサンドイッチ》くらいしか思いうかばない。

 以上の文は鮎川哲也が自作短編「急行出雲」について触れたときの文章*1

 自分はこういう作例を「アリバイ立証型ミステリ」となんとなく脳内でネーミングしていたけれども、ジャンル内では「アリバイ探し」という呼び名が慣例的に用いられているらしい。初出は不明。でも大山誠一郎先生もそういってるし、それなりに歴史のある言葉なのかもしれない。どうなんでしょう。

 やってみなくちゃわからない、わからないならやってみよう、と萌黄えもさんも言っているわけだし、「アリバイ探し」型のミステリ短編はどのくらい作例があるのか探してみた(インターネットで)。ついでにアリバイ崩しの名作長編も読みたいわね、と思いましたが光文社文庫から鮎川哲也『アリバイ崩し』という短編集が出ているおかげでインターネットは汚染され、なにも見つかりませんでした。だれもおまえを愛さない。

 

シャーロット・アームストロング「アリバイさがし」

 『ミステリマガジン700【海外編】』に収録。宇野輝雄訳。《ミステリマガジン》1965年5月号掲載で、原題は”The Case for Miss Peacock”。訳題がずばり「アリバイさがし」であることから、この概念がわりと前から存在したことが想定できる。

 ある日、ミス・ピーコックは洋品店の店員を倉庫に閉じ込め、そのあいだ店員のふりをして一日分の売り上げをかすめ取った犯人だと指摘される。もちろん本人にはそのような記憶はない。しかしアリバイを証明しようにも、ミス・ピーコックは二か月まえにカリフォルニアに引っ越してきたばかりのひとり暮らしで、知り合いはどこにもいない。ミラー刑事とミス・ピーコックは、ふたりで彼女のアリバイを探しはじめる。

 謎解き本格ミステリというよりは、地道な捜査小説。しかしこの小説が目的としているのはアリバイ探しによって、人ひとりの生活が案外他人には見られていることが判明してしまう皮肉というか、生活者の悲哀めいたものが浮かび上がるオチのほう。またヒロインのミス・ピーコックはミステリ読者で、時折ミステリオタクっぽい発言をするので捜査過程には適度なほのぼの感もある。小森収によれば、本編はエドガー短編賞の候補になっていたとのこと。

参考:Webミステリーズ! : 短編ミステリ読みかえ史【第123回】小森収

 

フレドリック・ブラウン「踊るサンドイッチ」

 フレドリック・ブラウン『復讐の女神』に収録。小西宏訳。原題”The Case of the Dancing Sandwiches”。訳の初出は1951年の《宝石》。参考:踊るサンドウィッチ - フレドリック・ブラウン

  カール・ディクソンが車のなかで目覚めると、目の前には死体があり、拳銃が転がっていた。昨晩酒をはしごして一緒に飲んでいた相手にはめられたのだ。警察に証言をしても、彼がその夜に飲んでいた相手はいっこうに見つからない。結果、彼は法廷で有罪となり、死刑はまぬがれたものの妻をひとり残してしまった。妻スーザンは刑事ピーター・コールにそれまでの出来事を伝え、探偵を紹介してもらおうとする。カールの証言によれば、彼は事件当夜に「アンシン・アンド・ビッグ」という店を訪れたというのだが……。

 中編。前述のとおり、鮎川哲也はこれを「アリバイ探し」型のミステリといっているのだが、正確には容疑者となったカールのアリバイを直接立証する話ではない。どちらかというと、彼の「証言」の正しさを証明するために奔走する話になっている。よってカールの証言にある店を探すのが物語の目的で、これの特定が真犯人の使ったトリックを看破することにつながっている。古典的だが、見映えのする謎解きは楽しい。

 また、この作品の構成は鮎川に影響を与えたと思われ、三番館シリーズ「春の驟雨」には容疑者の証言にしかない建物を探すパートがある。

 補足だが「踊るサンドイッチ」を含むブラウンのミステリもの短編集その2は越前敏弥による新訳となって9月に出る予定とのこと。旧訳はかなり言葉が古いので新訳で読んだほうがまちがいなく楽しめると思う。

参考:不吉なことは何も - フレドリック・ブラウン/越前敏弥 著|東京創元社

 

鮎川哲也「急行出雲」

 鮎川哲也『五つの時計』ほかに収録。

  ゆすり屋の三田稔が殺された。容疑者となったのは殺害された日に三田の住む宝來莊を訪れた唐沢良雄で、一度被害者を殺したあと、煙草の吸殻を取りに戻ってきたのではないかと考えられたのだった。唐沢は死亡推定時刻には急行”出雲”に乗っていたと主張し、何号車のどの座席に座っていたのかも警察に伝えた。しかし当時座席の周囲にいた人間を呼んできても、唐沢と乗り合わせたとは証言しなかった。唐沢にもその人たちと一緒にいた記憶はない。この奇妙な食い違いはなんなのか。

 鬼貫警部ものの短編。この作品について、鮎川自身は「本編も平均点を越える出来にはなれなかった」と述懐していて、じっさい真相はシンプルな鉄道トリックで構成されている。これをスマートと見るか、一発ネタと見るかで評価は変わると思う。また、アリバイさがしというわりには、鬼貫が目星をつけた真犯人をあげることがメインで、結果的に容疑者のアリバイのほうも証明する構成になっている。

 先にも書いたが、鮎川はアリバイ探しについてはいろいろと思うところがあったらしく、「春の驟雨」では容疑者の証言の確かさを証明しようと動いたり、容疑者が事件当時飲食店にいたというのにだれも目撃していない「新ファントム・レディ」*2などの作品を残している。どちらも三番館シリーズで、このシリーズでは第一容疑者になってしまった人を助けるために私立探偵が捜査を頼まれる、というパターンが多い。とはいえ、これらもアリバイ立証がメインというよりは、べつの真犯人を見つけて濡れ衣を晴らすという筋が基本。

 

西村京太郎「幻の特急を見た」

 西村京太郎『雷鳥九号殺人事件』に収録。

 池袋で宝石商の社長、山本勇一郎が殺された。容疑者はふたり。別居中の妻と、被害者の個人秘書で、マンションで一緒に暮らしていた星野和郎。捜査では星野に容疑が傾いたが、彼は事件当時、静岡県富士川の川べりにおり、橋梁を走る下りの特急電車を見ていた。その車掌に手を振ると、手を振り返してくれたという。この証言が正しければアリバイは成立するのだが、彼が見たという時間に走っていた下りの特急電車は、時刻表を調べても一両もないのだった。

 十津川警部ものの一編。当然ながらこちらも鉄道ミステリ。枚数が少なく、知識もの的なアイデアで構成されているので推理というわけではないものの、時刻表に意外な穴が存在するという鉄道ミステリの楽しみを味わえる出来になっている。アイデア一本のアリバイ立証になるとこういう短さになるんじゃないか、という例でもあるが、アイデアの強さがあるのであまり気にならない。

 

小泉喜美子「オレンジ色のアリバイ」

  小泉喜美子『痛みかたみ妬み―小泉喜美子傑作短篇集』に収録。

 わたしはことし十九歳。デザイン関係の仕事で一本立ちできたらいいなと思って、そのときの名前を自分で考えてみたの。虹丘梨路(にじおかりろ)っていうんだけど、ある日、親友の奈々子が待ち合わせに遅れてきて、その次の日に殺人事件の犯人にされちゃった。被害者の家から『オレンジ色の服を着た女』が出てきたっていう目撃証言があって、たしかにその日、奈々子は目もさめるようなオレンジ色の服を着ていたの。でも――でも、奈々子は犯人じゃありません! それはあたしが証明します!

「小説ジュニア」という少女向け月刊誌(現在の「Cobalt」の前身)に掲載された短編。アリバイ探しの定番の証人探しをこなしつつ、けれども見つかった証言には色の齟齬がある、という構成が光る。肝心な謎解きは小学生でもわかる簡単なアイデアだが、手筋にはむだがなく、違和感を主人公が指摘するところもシンプルだが探偵然としていて気持ちいい。少女小説のノリが合うなら楽しく読める一作。

 

 大山誠一郎「時計屋探偵と失われたアリバイ」

  大山誠一郎『アリバイ崩し承ります』に収録。

 ピアノ教師の河谷敏子が殺された。殺害された当日、被害者はマッサージ店に行っており、その店主は敏子が妹の純子ともめていたと証言する。警察が話を訊きに行くと、事件当時純子は家で十八時間も眠っており、目覚めたとき、服に血がついていたという。彼女は言う、自分は夢遊病の発作を起こし、姉を殺してしまったのではないかと。それだけではなく、その日おかしな夢を見たのだという。つまりそれが夢遊病のせいだったのではないかと疑っているのだった。

 第一容疑者は眠っていたので証言にならず、そのため彼女を陥れたトリックそのものを見抜き、真犯人をべつに指摘することでアリバイを探す構成になっている。よって、こちらもメインはアリバイ探しというよりは、アリバイ崩しの変形パターンといったほうが正確かもしれない。トリックはかなりの剛腕だが、犯人を逮捕するための決め手の見つけ方はかなり計算されている。

 

米澤穂信「金曜に彼は何をしたのか」

  米澤穂信『本と鍵の季節』に収録。

 僕と松倉詩門は図書委員の後輩、植田登に、兄の容疑を晴らしてほしいと頼まれる。上田の兄、昇は学内でも有名な「不良くん」で、学校の窓を割ってテスト問題を盗んもうとした嫌疑をかけられたのだ。目撃証言は「背の高い男子」で、彼だけに嫌疑をかける理由はないのだが、教師に目をつけられてしまっていた。手がかりは部屋にある兄の私物とレシート、と事件当日にかけてきた電話。僕たちはその日彼が何をしていたかを推理する。

 アリバイ探しもののほとんどは被疑者の証言(基本的に嘘はない)をもとにはじめられるのだけれど、この短編ではその中心人物は最後まで登場しない。よって、そもそも被疑者がどこでなにをしていたのかを間接的に推理するつくりになっている。アリバイの立証に関してはシンプルだが、推理じたいがもたらす効果まで物語に含まれており、さすがは米澤穂信といった出来。足がかりとなる根拠も要所要所でしっかりと入れ込んでいるので隙がない。謎は小粒であるものの読後の余韻が残る一作。

 

「コージーボーイズ、あるいは消えた居酒屋の謎」

 『本格王2021』に収録。

 カフェ〈アンブル〉では毎月「コージーボーイズの集い」が開かれている。ゆるゆるとミステリ談義をするという会であるけれど、その日、小説家の福来晶一はやってきて開口一番「ぼくには昨夜のアリバイがない」と言う。どうやら町の嫌われ者が殺されたらしいのだが、福来は事件当時酔っ払いすぎていて、どこで飲んだかの記憶がなかった。とはいえ彼がいた町の規模はそこまで大きくないため、一店一店あたれば見つかるはずと考える。しかし実際に調べてみると、彼が飲んでいた店はどこにも見つからず……。

 ミステリマニアたちが集って推理をしていくワイワイ感の楽しい一編。いかにもミステリ好きらしい推理が出てきたり、盲点をついた真相もわかりやすく、しかし意外性があって驚ける。なによりアリバイ探しの基本である「証言者探し」を「店探し」に置き換えて、謎の興趣を出そうという態度がうかがえるのがよい。この作者のシリーズはまだ単行本になっていないそうだが、出たらぜひ買っておきたいところ。

 

 天藤真「雲の中の証人」

   天藤真『雲の中の証人』に収録。

 製薬会社の会計課員が殺され、アパートに保管していた公金三千万円が奪われた。被害者の部屋はオートロック式で、容疑者とされたのはアパートの鍵を持っており、唯一出入りができた酒井松三ただひとりだった。事件当時、彼は妻とともに公園にいたのだが、配偶者の証言は法廷では効力を持たない。しかしそれを信じた北弁護士はT――探偵社の私を呼び出した。「早い話が、きみは百人の警察官が二か月かかって調べたことを、たった十日のうちにひっくり返さなければならない」。事件当時、酒井夫妻を目撃した人を探し、アリバイを証明しろ、という雲をつかむような話だった。

 短編ではなく中編。枚数があるため事件の描写が詳細で、捜査もかなり足で稼ぐ。容疑者の妻の証言にあった小学生の集団を見つけるために「私」がしらみつぶしに学校へ突撃していく姿は涙ぐましく、そのあいだにも別の陣営から協力を頼まれたり、ヒロイン(人妻)とひとつ屋根の下の生活に悩まされたりと、イベントも忙しい。ラストにはここぞとばかりに裁判パートが用意されている。ほとんど長編のノリといっていい。

 当然、後半には真犯人を推理するパートはあるものの、いかに被疑者のアリバイを証明するか、ということに問題が終始している点は「アリバイ探し」ものとしてかなり好感が持てる。法廷で明かされるその証明じたいはもはや反則レベルなのだけれど、それまで捜査の苦労が実を結んだがゆえの壮大なスケール感なので、これはこれでいいものを見たという気になれる。おすすめ。

 

まとめ

 以上九編を紹介した。これが知識のない個人の限界。

 こうして並べてみると、アリバイ探しものは、基本的には被疑者の証言がおかしいが、真実かもしれないと仮定して証言者(もしくは証言内の建物)を捜す、という捜査スタイルAと、真犯人をあげて濡れ衣を晴らすスタイルB、もしくはその両方を兼ねるスタイルCがあるっぽい。ほとんどのミステリは犯人をあげないと意味がないのでAに終始しているものはあんまりなさそう。

 基本的にミステリの第一容疑者の疑いを晴らす、というのは布石ではあるけれど、物語の決定打として描かれることはすくないので、今回見つけた作例の印象としては全体的に小粒な感じは否めない。天藤真だけはめちゃくちゃダイナミックだったけれども、あれは法廷ものにしたという発想の勝利といえそう。

 なお、今回は見つからなかったが、たとえば意外な物証からアリバイが証明される、とかそういう倒叙ものに近い方法論でアリバイが証明される作例もあってほしい。むしろそういうのが読みたいかもしれない。

 

 また、今回アリバイ探し作品を探すにあたり、アリバイものだけで構成された短編集は大山作品以外にもあるはずと思って適当に調べてみたが、海渡英佑『閉塞回路』、鯨統一郎『九つの殺人メルヘン』、有栖川有栖『臨床犯罪学者・火村英生の推理 アリバイの研究』くらいがヒットする程度で、アリバイものを最初から集めようとして書かれた短編集はめちゃくちゃすくないことがわかった。

 アリバイもの短編集に近い例(アリバイもの含有率は比較的高い)としては天城一とか山沢晴雄とかだろうか。現代の作家がアリバイものを書いていないわけではないが、ひとつの短編集でも多くて二編くらいの印象がある。アリバイものは密室もの不可能犯罪ものに比べるとインパクトに弱くとっつきにくい印象があるが、じっさい読んでみると作者がいかに工夫しているかが楽しめるのでおすすめです。クロフツの長編群に手を出すよりは短編はハードルが低い。

 というわけできっとまだ作例が埋もれていると思うので、これ知ってるぜ、という方は情報提供してくださるとうれしいです。目指せアリバイ探しアンソロジー発刊。 なにとぞよろしくお願いします。お読みいただきありがとうございました。

 

 

*1:初出時はフレドリック・ブラウンの名前をカーター・ブラウンに誤記していたとか。

*2:もちろん念頭に置かれているのはウィリアム・アイリッシュ『幻の女』。

『C.M.B. 森羅博物館の事件目録』を全巻読んだ雑感

 タイトルの通り。知り合いとオンラインで一年ほどかけて読んだ。

『CMB』は同作者の『QED』シリーズに比べると本格ミステリ度は落ちるものの、独特のさめた人間観を結末に持ってくる回や、人間存在の持つ不気味さとしか言いようがない話は金田一少年名探偵コナンではまず見ない。

 トリック観も小説で発表している作家とは違う態度に見える*1。なにより漫画という媒体でミステリを描くスタイルが完成されていて、情報量の多さに戸惑うということがほとんどない*2。とにかく読みやすい。

 45巻も読むと、その決まり切ったスタイルに飽きる部分がないとはいえないが、ある程度読むと、やっぱりCMBはこの味なんだよな、みたいな気持ちにもなる。

 

東大・京大セレクション

 話数がとにかく多いので、出来もまちまちではある。そういう意味では東京大学新月お茶の会京都大学推理小説研究会がそれぞれセレクションしている、

『C.M.B 森羅博物館の事件目録 THE BEST 東京大学SELECTION』(加藤 元浩,東京大学新月お茶の会)|講談社コミックプラス

と、

『C.M.B 森羅博物館の事件目録 THE BEST 京都大学SELECTION』(加藤 元浩,京都大学推理小説研究会)|講談社コミックプラス

を読めばおいしいところはだいたい読める。収録作は上記のページからだと東大のほうはなぜか載っていないが、両者とも試し読みのページで確認できる。

 とはいえ、派手な作品やシニカルな真相に偏っている部分もあるので、連載漫画を追う楽しさは得られないし、作者の興味がどこにあるのか、という部分までを概観することはできない。これはすべて読んだ人間にしか得られない体験だと思う。 

 

 個人的によかった回(*は上記BESTに収録)

・「青いビル」(2巻)

  CMBとしては連載当初のまだスタイルが固まってない時期の作品なのだけれど、真相は島田荘司的な絵面の気持ちよさがある。

 

・「鉄の扉」(7巻)

 意外な密室の解き方が面白い。けれどそれだけでなく盲点原理を使ったオチも見事。どちらもシリーズ内で反復されるモチーフだけれど、この時点で完成されているんじゃないか。無駄がない短編本格ミステリ

 

・「一億三千万人の被害者」*(8巻)

 タイトルの意味とはなんなのか? ミステリ的なイメージのインフレ処理によって見えてくる構図。人を喰ったような論理。

 

・「太陽とフォークロア」(9巻)

 歴史的発見と事件が絡んでいくというCMB長編スタイルの典型的な例。壮大なロマンが語られることの興奮を味わえる。

 

・「ヒドラウリス」(10巻)

 シリーズ屈指の異様な装置。オチの処理は博物学者的にどうかと思うけれども、とにかくこういうガジェット的なものは、本格ミステリの読者なら好きだと思う。

 

・「夏草」*(13巻)

 一人の他者をどう理解するか、の話であり、デタッチメントの話でもある。日常の謎ともいえるけれども、なにかに沿って人を推理し、落とし込めるというより、人という存在そのものが目の前に現前するという話。

 

・「キルト」*(15巻)

 もし、推理の果てに見えるものが見たくないものだったら? わたしたちにはそういう物語にいつも惹きつけられてしまう弱さがある。

 

・「湖底」*(21巻)

 シンプルかつ大胆なトリック。ミステリでは比較的見るアイテムだけれど、あんな使い方をしているのを見たことがない。

 

・「ライオンランド」(26巻)

 死の危険が迫るサスペンスが読ませる。心に傷を負った少年が出てくるだけでかなりポイントが高く、そこに対する物語的な処理もよい。

 

・「空き家」(28巻)

 加藤ミステリの到達点のひとつ。物語の転倒。現代的な問題意識。ぞっとするようなラストの絵。冷え切った人間観。完璧。

 

・「マリアナの幻想」(34巻)

「幻想のなかに入り込んでしまった人間」は加藤ミステリが得意とするシチュエーションなのだけれど、じゃあその呪いをどう処理するか、ということ自体にも毒が用いられる。魔女という存在が物語のなかで多重化している。

 

・「鉱区A-11」(37巻)

 ロボット三原則もの。SF観は割と古いというか、出てくるガジェットはすべて戯画化されたSF表象という感じだけれど、真相の絵面にはミステリならではの迫力があり、同時に加藤作品特有の人間観も語られる。SFミステリのお手本のような作品。

 

 

 

 どうしても気に入った作品(ついミステリとしてどうかを考えてしまう)を並べるとシリアスに傾いてしまうが、CMBにはコメディ色のある話や人情もの短編なども多くあって、それらを挟みながら読むことでようやくCMB味になるという気もする。

 そう思うと、なんだかCMBはQEDに比べて妙に愛嬌のあったシリーズに感じられる。じっさいそうかもしれない。サブキャラクターが出る回はなんだかんだとワイワイしてて楽しい。

  めちゃくちゃ巻数の多い漫画はなるべく読みたくないので、QEDiffもCMBサイズまで連載が膨らむ前に読んでおきたいものですね。ですね。

 

 

*1:これは『QED』シリーズでも同様

*2:作者が意図的に事件を錯綜させていることは多々ある。

岡田麿里を考える会――『空の青さを知る人よ』を誤読する。

 突然ですが、みなさ~ん!

岡田麿里に傷つけられたことってありますか~~???」

 ありますよね~~。わたしもそうです。

 ついこないだ発表された新作もめちゃくちゃ傷つけてきそうでどきどきですよね。

www.youtube.com

 というわけで、今回は最近アマゾンプライム入りした『空の青さを知る人よ』の全編を通して、岡田脚本作品の技法について考えていきたいと思います。自分を傷つけてくる相手のこと知って、積極的に備えていくという企画です。強くなりたい気持ちなので……。

 なお、以下の文章では『空の青さを知る人よ』のネタバレをかましまくるので、ちゃんと映画観てから読んでください。本ブログはファスト映画的ふるまいを称賛しません。よろしいですか。

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(※)またこの作品には前時代的・閉鎖的と受け取られかねない価値観のキャラクター・台詞が多数登場しますが、作品がつくられた当時の時代背景や作者の人格を考慮し、誤読していきたいと思います。小説版には触れていません。よしなに。

 

 ①*1

 冒頭。くしゃみ。肌寒くなってきた季節かと思われる風景の質感(物語の時間は秋ごろ)。画面に出てくる橋は『あの花』を見てるとおなじみ感があります(秩父橋)。開始5秒でやるファンサービス。ためらいがない。そしてザッピング的な映像の切り替えが入ります。

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ベースケースを開けるしぐさ(あおい)

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棚を開けるしぐさ(慎之介)

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車のドアを閉めるしぐさ(あかね)

 台詞はなく、映像のテンポだけで見せます(開ける、開ける、閉める)。主要キャラの三人。顔を見せない。顔を見せないので、自然と観客の「気になる」気持ちを引き出します。つまり、この時点でファンサービスだけでなく、映画に入り込ませるための技巧が用いられています。

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慎之介の部屋。暗いがギター、ビール缶、キャリーケースが見える。

 また、ここでギターケースを取り出そうとする慎之介の部屋が映っています。手前にギターのヘッド、ビール缶、窓際にキャリーケース。畳。ワンルームかもしれないし、家賃は低めかもしれません。

 物語のあとで詳細は伝わりますが、「東京で成功したわけではない男」の一人暮らしがこの時点で語られています。やや古っぽいというかやさぐれすぎですが(フローリングの部屋に住むくらいの収入はあるでしょうが)、絵的なわかりやすさはあります。おそらく意図的なものでしょう。

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VOXのamPlug2 Bass

 VOXのジャック型アンプ、amPlug2 Bassをベースに刺す。サウンドハウスで3000円くらい*2。高校生が使う機材としてはありがちですね。

 次いで環境音。子供の声、ヘリの音、犬の鳴き声。それらを遮断するようにイヤホンをつけるタイミングで、あおいの顔がはじめて大きく映ります。音が聞こえなくなり、ベースを指で弾きます。ブーブーと歪(ひず)んだ音。

 VOXのアンプでそんなにべろべろな音が出るかどうかはじっさいに機材を使ったことがないのでわかりませんが、周囲の音を遮断して、自分の世界に入り込んでる感がめちゃくちゃあります。正直自分だったらこんな自我の強そうなベースの音作りしてるやつとはバンド組みたくないですが……。それはそれ。

 弾いているのはベースラインではなく、主旋律のメロディですね。この物語で何度も登場するゴダイゴガンダーラ」。

(いつも、探してる。ずっと探してる)

 新海誠っぽいモノローグのあと、大胆な回想。えっ、まだ主要登場人物の紹介も終わってないのに回想使ってもいいのか!? こわ……岡田麿里こわ……。昆布のおにぎりを食べるしんの。ベースの音は遠のきますが、メロディはつながっています。

「ハズレ。また昆布」

「今日はオール昆布です」

「ええっ!? なんでだよあかね。ツナマヨがいいって俺一万回言ったよな」

「昆布がいい」

「だって」

  練習に戻ろうとして赤いギターを構えるしんの。「俺のあかねスペシャルが火噴くぞ」、と楽器に女の名前をつけていますね。えー、古来よりバンドマンのあいだでは「楽器は女のように扱え」とありまして*3、彼もその文化圏の人間なのかもしれません。いや、端的に好きな女へのアピールでしょうが。

「あおいも……やりたい」

「じゃ、あお。でっかくなったら、うちのベースな」

 時間はすこし飛んで、演奏。(そこに行けば)のモノローグ。ワンマンライヴのフライヤー。高校生がワンマンライヴやるのはかなり入れ込んでますね。観客がそれなり多いのでチケットノルマは捌けたと信じたい。モノローグに呼応するように「そこーにいーけばー」と「ガンダーラ」が歌われます。

(でも、そこはきっと……)

 切り替わって、チーン、と木魚。葬式。転調。

(あまりにも、遠くて……)

「事故だってねえ……」

「ふたり一緒だなんて……」

(……)

「あかねちゃん、いま三年生でしょ」

 関係者に頭をさげるあかね。

「あおいちゃん、お姉ちゃんの言うことをよく聞くのよ。これからふたりで頑張っていかなきゃなんだから」

  そして一瞬だけ、ベースを弾いている現在に戻り、また回想。

(わたしは行けない)

 神社の裏手。しんのとあかね。

「なんで。どうしてだよ。一緒に東京の専門学校行くって約束……あかねっ!」

「あか姉いじめんな! バカ! あか姉連れてくな! バカ! デブ」

(……)
「あか姉連れてくな! あか姉連れてくな! あか姉とあおいは、ずっと一緒なんだからぁ!」

 (わたしはまだ、探している)とモノローグ。現在。

 音楽を中断したのはあかねからのメッセージ。車で迎えに来たあかね。現在の時間まで「一緒」だったことが明確に示されます。車に駆けていくとき、一瞬だけ振り返って印象的なカット。顔見世終了といったところでしょうか。

 慎之介の部屋。さっきのカットのつづきです。ガムテープでぐるぐるだったギターケースを開けるところで、お堂のギターにパスするような画面のつなぎ。

(探している。どんな夢も、叶う場所を)

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ノローグの締めに、うつくしいタイトルカット。

  ここまでで7分26秒。冒頭40秒ほどは製作会社のロゴ出してたので、実質6分台。ここで過去なにがあったかをここでほぼ全部説明するというめちゃくちゃなテンポのよさです。(どんな夢も叶う)は「ガンダーラ」の歌詞から来ていて、あおいのメンタリティがそこにあることが次第にわかるつくりになっています。タイトルの文字には青と赤が混じってますね。作品のモチーフとなる色です。

 ところでバンド経験者ならすぐに察することができますが、しんのの使っていたギターはギブソンのファイヤーバードで、あおいのベースはエピフォンのサンダーバード。エピフォンはギブソンの廉価版ブランドと思っていただければだいたいよく*4、ファイヤーバードとサンダーバードは姉妹機です。

 要するに「あおいがしんのへの憧れから楽器をはじめた」ということが機材面でも説明されていることがわかります。機材の詳細は以下の記事で。

guitar-hakase.com

bass-hakase.com

 タイトル明けて、学校。10月25日、金曜日、と黒板にあります。本作が劇場公開された2019年の日付ですね。そしてあおいは開口一番、

「東京行きます」「バイトしながらバンドで天下取ります」

「バンド。メンバーは」

「あたしひとりです」

 高圧的な喋り方。あっ、協調性なさそう、友達いなさそう、という感じが出ています。ついでにこのとき大滝とすれ違っています。

 時間は飛んで、車であかねに送られるあおい。

「盆地ってさ、結局のところ壁に囲まれてるのと同じなんだよ。あたしたちは、巨大な牢獄に収容されてんの」

「出た~。あおいの中二リリック」

「なんとでも言えし。とにかくあたしは、ここから出ていくから」

  あおいのマインド、メンタリティが連続で語られ、強調されています。田舎に対する思想を観客に刷り込んでいく手法。ここであかねの顔アップ。眼鏡のフレームの色が赤から青に変わっています。

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13年前の眼鏡(赤)

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現在の眼鏡(青)

 現時点ではあまり伝わってきませんが、作中に出てくる色はタイトルに使われている以上、重要なモチーフです。作品を見た最終的な判断としては、あかねの眼鏡は楽器とパラレルな存在といえそうです。

 赤はしんのとあかねの色、青はあおいの色。あかねは自分としんのの人生よりも、あおいとの人生を選んだ、というわけですね(それをメガネフレームで説明するのか……)ですがこの段階ではそのような内面は説明されません。あくまで、時間が彼女を変えたのだろう、ということが察せられる程度です。

 そしてご近所コミュニティ描写。すぐさま手伝うあかね。閉鎖的な場所で村八分にされたくないですからね*5。手伝ったら梨をわけてもらうのも地域コミュニティっぽい。

「ほんといいお姉ちゃんね。感謝しなよ、あおいちゃん」

(感謝しろって言われすぎると、むしろ、反発したくなる)

  寄合。「第一回 音楽の都フェスティバル 説明会」と黒板。参加者の平均年齢が高め。さっきおばさまがたの会話にあった正道の登場です。「そうそう、けっこうこれ、動いたらしいって市役所でも噂なんですよ」と手でお金を示すあかね。若い人が率先して盛り上げる空気をつくっています。

 いっぽう、台所にいる子供ふたり。あおいはお茶に使うお湯をポットに注いでいます。あおいは難しい顔。

「あおちゃんも参加すれば」

「町おこしになんて利用されたら、それはすでに音楽じゃないよ。音が苦しむって書いて『音が苦』だよ」

「いまいいこと言ったと思ってるかもしれないけど、まったく言えてないから」

(……)

「とにかく、ここいらは音楽によって生まれ変わんだよ」

  と、正道の声が「音が苦」に聞こえるような台詞のバトン。オチがついていますね。なめらかで上手い脚本。なんか当然のように男の子がいますが説明はされず、でもお互いの鞄を並べて置いているので仲がいいことはわかります。

 外。「あおいー、つぐー」と正道。「父ちゃん」。男の子が正道の息子だったとわかります。キャラの関係説明をあとにするスタイル。演奏を夜するなと注意をし、おずおずと、

「防音室、うちにあんぞ」

「は?」

「兄貴、欲しくないか?」

「はあ?」

「父ちゃん……突然切り込むなあ……」

バツイチにはさすがに渡せない」

「こっちは相手に浮気された被害者なの! 清く正しいバツイチなの!」

  コミカルな会話で(一対一ではなく三人で、ツッコミ役を入れているところがポイント)キャラの説明。ただの説明台詞にはしたくないという意志を感じます。そして本題。

「しんのって覚えてるか」

「ああー、なんとなく。なんで?」

「ああいや、覚えてないならいいんだ」

「ふーん」

  あえてあおいの顔を映さず、観客の想像をあおる手法。このとき「ん?」となっているつぐを映すのがニクいですね。彼はあおいの観察者なので。

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なぜならラブコメで重要なのは感情の矢印を向けているのがわかる描写なので。

 お堂。

「さっきの父ちゃんさ、俺だって賛成してないよ。けどさ、一応あの人も」

「この場所でその話しないで」

 思い入れがあるっぽいことの回想。回想に対するためらいがない。すごい。目玉スター。造語で絆をつくった思い出。耳に残る造語が特別感の演出になっているんですよね。岡田脚本のマジック。それを思い出し、すこし寂しそうに目を細めるあおい。それを黙って眺めるつぐ。やっぱり彼は観察者なんですよね。そして意味深に映るあかねスペシャル。

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めちゃくちゃ過去の憧れ(恋愛)を引きずっている顔ですよ。この説得力。

 ところでこのようなラブコメにおける感情の矢印の最後尾(いちばん蚊帳の外にいる人物)を観察者タイプのキャラにする、というスタイルは『凪のあすから』でも散々使われてきた手法ですね。あとになって構図が明確化しますが、本作では(慎之介⇔あかね←しんの←あおい←つぐ)という関係になります。正道は、まあ、コメディ担当じゃないですかね。あと話の発端役。

 翌日の市役所。

「へー、新渡戸団吉って前に紅白にも出てたよね」

「あー、なんか思い出した。変なきんきらきんの御神輿乗ってたよね」

  のちに登場する新渡戸についての会話。彼の声は松平健が担当しているわけで、あてがきっぽい印象ですね。マツケンサンバで紅白出てたし。あかねたちとおなじ30代の観客ならなんとなくイメージを持てるはず。そして会話に参加する正道。

「これは俺の大一番になる。俺の、人生をかけた大一番に……」

 正道の言葉に、なにかを察したように微笑むあかね。

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明確な好意を向けられた女性が困ったときにする特有な表情を描くのやめろ。

 そしていつの間にかイベント要員にされているあかね。シーンは変わって帰り道。さきほどのくだりを観客に咀嚼させてあげるパートです。説明台詞ではなく、車のなかでする日常会話として出すのが工夫されています。

「みちんこに好かれてるのわかってるよね」

「うーん、そりゃあね」

「気を持たせるようなことはやめれ」

「幼なじみだし、職場は一緒だし。付き合い上なんとんくわかってても、口に出しちゃいけないこともあるの。それが、大人のマナー」

「大人ってつまんなーい」

「そんなことよりさ、もっかい、考えてみれば」

「は?」

「進学。別に勉強しながらだってバンドはできるんだし」

「もう決まった話じゃんか。これ以上詮索しないって約束したよ」

「うん」

「約束、破んないでね」

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ふたりの食い違いを示すカット。かっけ~。

 台詞に合わせて、画面上は向き合って会話。奥行きによってすれ違っているの説明するカット。開いた車のバックドアによって物理的にもふたりはさえぎられています。うーんキマっていますね。

「じゃあ練習行ってくる」とあおいはお堂に。ベースをアンプにつなぎ、相変わらず歪んだ音で鳴らしまくります。台詞を使わずにいらだちをぶつけているのがわかる。上手い。ピックを使ってさらに音を大きくしたところで「うるせえ!」と観客の声を代弁し、しんのが登場。

 お互いの眼球にあるほくろが順番に画面に映り、「しん、の……」とつぶやき、それから「あか姉~~~~!」と必死の形相で走り去るあおい。お堂から出られないしんの。そして家にやってきて「しんのが!」と言った直後にあかねは肉を飛ばします。わかりやすい動揺。こんな飛ばし方はふつう起こりません、アニメ的な強調。

 また、先日あおいにしんのの話題を振ったときと同様に、すぐには相手の顔を映しません。観客に想像させ、そしてそのあいだに落ち着きを取り戻しておどけるあかね。「生きてるか、死んでるかもわかんないや」脚本的にずるくて怖いのはここであかねは明確に嘘をついていることなんですよね~*6。しかし最後までフォローされない。キャラクターの自律性~~。

 そこにやってくるみちんこ。「イベントのヘルプだよ!」

 駅前。手伝わされているふたり。彼女らの手にはみそポテト? 買収されたということでしょうか。そして背後から新渡戸団吉の登場。みそポテトの串を落とすあかね(小道具の使い方が経済的!!!)。「え、あれって……」「しんの……」そして広げられる幕。「お帰りなさい! しんのすけ」の文字。眼球のほくろが順番に画面に映り(さきほどのシーンの反復)、「ええっーーーー!」これからどうなっちゃうのー!? 的な声で音楽、高まる。

 ここで実質的なプロローグが終了するわけですが、プロローグが過去編、現在編と二部構成になっているちょっと特殊なつくりだったことがわかります。けれどテンポ感がよいので、まったくもったりしていない。ここまで21分。

 

 ③

 家にタクシーで戻り、数珠を持ってお堂に行くあおいとつぐ。「目玉スター、二号」の言葉でしんのは相手があおいだと理解します。「え~~~~!?」と叫び声。これもさきほどの反復ですね。そして状況説明。13年後だということがここで明確に言葉にされます。

「なるほど。浦島太郎だね」。キャラクターに時間差が生まれる状況は岡田作品では何度も使われてきたモチーフです。「生霊、かな」と、つぐ。しんのの存在が具体的にどういうものかは究明されませんが、さしあたっての扱い。しかし未練ではない、としんの。

「未練もなにも、まだなーんも諦めちゃいねえよ、俺は。いろいろ考えて決めたんだよ。とりあえず東京出て、ビッグなミュージシャンになってよぉ! あかねを! ド派手に! 迎えに行こうってよ」

「早くもらってやんねえと」とかだいぶアレな発言がなされていますが、それに対してはなにも現代的な観点からフォローがなされません。これが田舎のメンタリティなのか……。まあ、東京でビッグになるという夢じたいが割とパブリックイメージ的な概念なので、その古さに乗っかって物語をスムーズにしている、というわけでしょうか。

「会って、みる?」

「アホか! いま会えるわけねえだろ! 俺の話聞いてなかったのかよ。ビッグなミュージシャンにちゃんとなってから」

「ビッグかどうかはわかんないけど、もうなってたよね」

(……)

「俺、ちょっと行ってくっから。じゃな」

  見えない壁にぶつかるしんの。登場時の謎が反復されます。

 シーンは変わって焼肉屋(ホルモン)。接待ですね。さきほどあおいたちがタクシーに乗っていたのはあかねたち大人が送ることができなかったから、というわけです。

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女性を隣に置き、酌をさせるムーブ。

 表立って説明はされませんが、かなり安易な発想であかねが新渡戸の隣に配置されていませんか。『凪のあすから』でも女性しか台所仕事をしないシーンがありましたし。ちなみに次のカットでしんのは手酌でビールを注いでいます。そして当然のように肉を焼く仕事をするあかね。クソ~~。「あおいにしんのが戻ってくること話してたんだ」とすこし不機嫌そうにこぼすあかね。こっちはこっちで話の辻褄が合うようになっています。

 いっぽう、お堂では生霊をどうするか問題が語られます。「未来の俺とあかね、ふたりがくっつけば全部丸くおさまんだろ、そしたら生霊の俺は本体にビュンッと戻る」物語の終着点がいちおうここで用意されます。

 外。

「どうするの」

「ん」

「しんのさんの言う通り、ふたりくっつけんの手伝うの」

「悪くないかもしれない」

「そうなの?」

「あか姉が、あたしに、ここに縛られたままでいるよりは」

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最後の台詞に合わせ、カメラが下向きから水平方向に。

 盆地=壁=牢獄のイメージが、あおいの視線に重ねられます。山の向こうは東京でしょうか。慎之介は東京の男なので。

 宴会を終えた大人たち。酔った慎之介。「仕方ないですね。わたし飲んでないですし、車出しますよ」

ガンダーラ」を流しながら慎之介を送るあかね。その曲に触発されるように言う慎之介(歌詞の冒頭には夢が出てくる)。

「俺、夢は叶えたろ。一応」

「ほんと、叶えたね」

「……馬鹿にしてるだろ」

「こんなたちの悪い酔っ払い方するやつだったんだね、しんのは」

「お前。独身ってさ。俺のこと待ってたんじゃねえの」

「うーん。待ってたのかなあ。たぶん、違うだろうね」

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柔らかな否定の言葉に合わせて映る慎之介の手。薬指に指輪はしていない。

 指輪が薬指ないことから、慎之介はあかねを迎えに行きたかったんじゃないか、といったところをにおわせてホテル。

 言い寄ってきた慎之介を背負い投げするあかね。

「んだよ、その歳でもったいつけんなよ」

「本気で言ってる?」

「いいだろ。減るもんじゃねえし」

「十三年ぶりに再会して言う台詞かね。がっかりさせないで」

  あかねが去ったあと。「俺だって、来たかなかったんだよ。こんな俺で、来たかなかった」。『空青』は青春ラブコメホームドラマ、男の帰郷という三本の軸が交差して生まれる群像劇なので慎之介にもちゃんと内面のフォローがなされます。言葉にしてみるとめちゃくちゃなプロットだな。なんでこんなウェルメイドに完成したんだ。

 とはいえ慎之介周りの話はあんまり深堀りされません。あかねやあおいのように親が死んだわけではないでしょうから、この街にも慎之介の実家はあるはず。なのですが、それについては脚本から完全にオミットされています。でも不思議とあんまり気にならないんですよね。このあたりなんらかのマジックがはたらいている。

 あおいが待っている家へ。明らかにさきほどより声音が明るくなっているあかね。

「ね、今日一緒に寝よっか」

「え?」

「いーじゃーん。久しぶりにさ」

 ここが岡田脚本の怖いところですね。あかねは吉岡里帆の演技やあおいとの対比も相まってあまり内面を表出しないふうに見えるキャラですが、よくよく考えるとあかねはさきほどまで男に同衾を求められていたわけで、この瞬間、彼女は感情の上書きを図っているわけです。しかし物語としてはそれをまったく見せようとしない。怖すぎる……。つまり、あかねはアニメにしてはめずらしく、かなり自律的に動くキャラなんですよね*7

 布団を並べて寝るふたり。ずっと彼氏がいないことを指摘すると、「それなりに、それなりはあったよ?」とあかね。観客の期待を裏切る台詞。一瞬でキャラに奥行きをつくるのが上手い。ギャップで見せる手法。「あおいはほんと、あか姉ラブだなあ~」

 翌朝。あか姉のつくった(?)弁当をしんのに食べさせるあおい。ギターには触らないしんの。

「それより、ジャンプ買ってきてくんねえ。こち亀読まねえとどうも調子出なくてよ」

こち亀、終わったよ?」

「はあーっ!? こち亀が終わるわけねえだろ!」

  2019年作品として完璧な情報。『花束みたいな恋をした』できのこ帝国が解散した話をするのとおなじ手法ですね(おなじか?)。現実とのリンクで殴るスタイル。

 学校であかねとしんのの代の卒業アルバムを確認するあおい。あかねの言葉「井の中の蛙大海を知らず」(なんかわたしとおなじようなこと……)「されど空の青さを知る」タイトル回収。

 バンドに誘われるあおい。「自分より下手なやつと組んでも時間の無駄だから」と一蹴。「もったいなーい」とそこで大滝登場。車で送迎してくれるあかねのことを彼氏(↑)と勘違いしています。「じゃ、いまから付き合う?」とあおい。

 市役所。あかねを追いかける正道。

「怒ってるよな。たぶん」

「怒らないほうがどうかしてるよね?」

(…)

「だけど、お前一度決着着けなかったら、ずっと慎之介に縛られたままじゃないかって」

「いい加減にして。わたしの主体性をそこまで疑うの? わたしだってひとりの人間だよ。いままでの人生だって自分で選んで、自分で決めてきた。だれかに振り回されたつもりなんて、まったくないから」

 強いし、重要な台詞だし、実質的なあおい⇔あかね間の物語の答えでもあるはずなんですが、この時点ではあんまり観客には響かないんですよね。演技が比較的淡泊なのと、喋っている相手が正道なので。べつに強がって言っているな、と感じるわけでもないんですが。そしてこのメンタリティが周囲というか、あおいと慎之介に届くには、もうすこし時間がかかります。なんなんでしょうね、不思議な脚本です。

  ジェラードを食べてあかねを待つあおいと大滝。到着したあかねを見てがっかりしますが、「鹿にやられた!?」と問題発生。

 病院。生焼けの鹿を食ってぶっ倒れたバンドメンバー。「うわ~、ロック~、ミュージシャンって感じ」と興奮する大滝。彼女は物語上の役割はほとんどないんですが、いるだけで話のトーンがなごやかになりますね。コメディ要員。群像劇ではかなり優秀です。なにせあおいはめちゃくちゃ協調性がないため観客に対してストレスを与えるキャラなので……。

「まあ一応音源はありますし、最悪生音じゃなくても……」

(…)

「音は生き物ですよ。命です。生音でなければ演歌の心は歌えません」

 ベースもドラムもアンプやスピーカーで音を増幅するんだから厳密には生音ではないんですが。まあ意味は伝わりますね。重箱の隅。

「いるじゃない。ドラマーと、ベーシスト」とあおいと正道に白羽の矢が立ちます。

 リハーサル会場。「ガキの遊びと一緒にされたくないんすよ。こっちはプロでやってるんすから」「お遊びかどうか、見てもらおうじゃない」演奏フェイズ。ガンダーラ

 新渡戸に認められるあおい。第一関門クリアというかたちで、あおいが物語(音楽イベント)に積極的に参加する理由ができました。ここまで39分。エンドロール含めて全体が107分なので、だいたい三分の一とすこしくらい。まあ、岡田脚本はこういう三幕構成っぽいターニングポイントを入れといてもあとではずしてくるんですが。

 

 お堂。しんのにこれまでの報告をするあおいとつぐ。「(あかねと慎之介の)ふたりをくっつけるチャンス到来ってやつだな」「できるだろ。お前は俺と同じ、目玉スターなんだからよ」口元がほころぶあおい。それを眺めるつぐ。何度もいいますが、つぐは観察者なんですよね。そしてつぐはちょっと不機嫌そう。

 そこにやってくるあかね。そしてお菓子を渡し、帰っていくあかね。

「ババアになったな」

「そりゃあ……」

「めちゃくちゃ、可愛いババアだ。モデルよりも、グラビアアイドルよりも可愛くて、綺麗なババアだ」

「……えっと、大丈夫?」

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面白構図。

 ちょっと古臭い台詞なんですが、梁からぶら下がっているという絵的な面白さとツッコミを入れさせることでそのあたりの偏った価値観を誤魔化していますね。逆に言えば絵的に誤魔化せれば古臭い台詞も言っていいのか? どうなのか。「早くあかねにも、幸せになってもらいてえ」やっぱ古いところは古いですね。そういうのにあくまで乗っかるのが岡田脚本。

 外。

「ねえ、ほんとに撮るの。動画」

「なんで」

「いまの自分見たら、がっかりしちゃうかもしれない」

「そうかな」

「そうだよ! しんのはアホだけどさ、なんだかんだ優しいし、絶対に人を馬鹿にしないし、それに……なに」

「べっつにー」

  あおいがしんのに入れ込んでいるのがわかる会話ですね。いっぽう、つぐは淡々と。さきほどあおいが頭を撫でられているのを見たときはちょっと不機嫌でしたが。

 翌日のリハ。なぜか混じっている大滝。演奏終了後、

「なにこれ。ふざけてんの。あおいちゃん」

「え?」

「きみベースだろ。なんで自分が目立とうとしてんの」

 トランペットとサックスの人に視線をやると、苦笑されます。言いがかりというわけではないようですね。冒頭の演奏シーンにもあった自我の強さがここにきて慎之介をいらだたせます。「ったく、女がベースとか、そもそも向いちゃいないんだよ」 体格が向いてない話をしますが、そっちはふつうに言いがかりではないか。

 そこにやってくるキャバクラのお姉さんがた。締まりません。その様子をあおいのスマホに送信する大滝。スマホは現在しんのが持っています。

 というわけでお堂でキレるしんの。しかしプロの演奏をしていることは納得します。「ガツンとキレキレの演奏して、あいつの慢心を木っ端みじんにしてやれよ」「で、できる、かな」「できるに決まってんだろ。絶対。お前ならな。だろ? 目玉スター」ふたたび元気づけられるあおい。それを観察し、ため息のつぐ。

(もし、しんのが、あの慎之介に戻ったら、いまのこのしんのは……)

「ベースはよ。どんなに場がぐちゃぐちゃになっても、正しくリズム刻んで、みんなをフォローしなくちゃなんだからな。周りの音を聴きつつ、自分のペースは乱さない」

「あ、うん」

  昼間注意されたこととだいたい言われていることはダブっているんですが、しんのの言葉は素直に聞いてしまうあおいでした。それを観察するつぐ。

 翌日。慎之介は不在。

「素人に合わせて練習してると腕が鈍るって」

「さいってー。人を馬鹿にすんのもいい加減にしろ。しんのと全然違うじゃん。なにがどうなったらこんな……」

「しんの?」

「ああ、慎之介の昔のあだ名なんだよ」

「ちがーう! しんのは慎之介なんかじゃない!」

「はあ?」

  やっぱりしんのに入れ込んでいるあおいです。「どっちでもいいけど、いないんならかーえろ」と大滝。

 コンビニで買い物をした慎之介。すれ違う高校生バンドマンたちに昔の自分を重ねます。短い回想。あかねに振られたあと、ギターケースをガムテープでぐるぐる巻きにするしんの。

 ここで一瞬だけ映り込むことで明確になりますが、中身のギターはケースに入れてませんでした(物語の最初からお堂にあったので、最初映画館で見たとき自分はギターじたいが分身したかと思っていましたが、そういうわけではない……)。

 ではなにが入っていたのか? ミステリー的な謎になるわけですが、それにしてはあんまり明確に謎として提示されてませんでした。先に言いましたが、慎之介周りの話はあんまり深堀りがされない。

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ギターはケースに閉じ込められたわけではない。

 回想終了。そしてそんな回想をした慎之介の顔は映りません。観客に想像させるいつもの手ですね。そこに大滝が合流。

 時間は飛んで夜。ずっと練習をしていたあおい。そしてしんの。

「勉強とかいいのか?」

「大丈夫だって、別に進学とかしないし」

「へー、どうすんの」

「東京行って、バンドやる」

「お~~! 俺の意志を継ぐ者がこんなところに!」

「そんなまっすぐに褒めないで。あたしのは邪なんだ」

「よこしま?」

「あたしが、地元を出たいのは、あか姉に、好きに生きてほしいから。あたしのせいで、あか姉はやりたいこと、きっといっぱい我慢してきたと思う。あたしがここに残ってたら、あか姉はいつまでもここに縛られたままになる。それに、別にこれといってやりたいことないのに、無駄なお金なんて使わせたくない。あたしのせいで、これ以上迷惑かけたくない」

「んな自分責めすぎだろ。お前のせいなんて思って」

「誰も彼も思ってるよ。近所のおばさんも親戚も」

「あお」

「事実だし、だからあたしがここを出る」

「すげえな。お前」

「は?」

「なーんかよ。どうしてここにいんのか考えてたんだ。生霊って。未練とかじゃねえんだと思うんだ、やっぱ。けど、ほんとは俺、どっかでこっから出てくの、怖がってんのかもなあって。その点、ほんとお前はすげえよ。色々悩んでてもよ、ちゃんと考えて、ちゃんと決めて、こっから出ようって」

 ここまでの本編で一番の長台詞が出てきました。これまでそれなりに短い会話劇がメインだったわけですが、観客にしっかり聞いてほしいところが出てきたというわけですね。主要キャラふたりの表に出なかったん部分が説明されます。

 ここでちょうど50分これまでしんのとあおいのあいだには茶化したり観察したりする役(つぐ)がいたわけですが、ここでは出てこないあたり意図的な演出でしょう。「こないだの、お返し」と頭を撫でてやるあおい。まあ、イチャイチャをやるには邪魔ですからね、つぐ。ほんとごめん。

「お返しって、お前」

「ベースは、みんなをフォローしなきゃだから」

「……フッ。そうだな。さすが未来のうちのベーシスト」

(…)

「覚えてくれてたの」

「覚えてるもなにも、約束したじゃねえか。お前だってそのつもりでベースやってんじゃねえの?」

 「……ん! わたしにも、して」

「なに、撫でりゃいいのか?」

「おでこ! でこぴん! お願い」

「えええー、まあいいけどよ」

「思いっきり」
「うおっし」

「痛ったーい! んじゃ、また明日ーー!」

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キスを迫るようにするのが絵としてよい。でこぴんにずらすのもいじらしい。

 音楽が高まるなか走り去り、「なにやってんだ、あたしは」とあおい。立ち止まり、(あか姉と慎之介さんをちゃんとくっつける。あか姉のためにも、しんののためにも)と思いを新たにします。要するにここで、彼女自身の心は引き裂かれています。ここでは、自分の望むことを言ってくれる相手、好きになった相手の消滅を願わなくてはいけなくなっている。

 つまり、キャラクターにとっての引き返せない点(恋愛感情)が示され、そのいっぽうで最終解決の道筋(自分以外の相手とくっつける)が示される。脚本の教科書的な演出ですが、それにしてもよい手です。これが中盤に用意され、感情移入を誘っていることも物語に深みを出しています。岡田はやはり脚本が上手いんだよなあ……。

 

 翌朝。11月1日(金)。物語開始から一週間が経ちました。教室でイヤホンをはずすと、大滝が慎之介と歩いていたと目撃情報が。トイレに連れて行きます。

「昨日、あんたと一緒にいたのって」

「慎之介さんだけど」

「サイテー」

「え、なに。やっぱ相生さん、慎之介さん好きだったの?」

「好きなわけない! わたしはしんのが!」

(はっとするあおい)

「もー。わたしだって友達の男になんか手出さないよ。しんのって慎之介さんとは違うんでしょ」

「そうだよ」

「で、相生さんはそのしんのが好きと」

「……ああ。好きさ!」

「え、え、なにそのキャラ」

「好きさ! 悪いか!」

「悪いなんてだれも」

(顔を覆い、しゃがみ込むあおい)

「ええー!? なにそれ」

「悪いんだ。駄目、なんだよ……」

 駄目押しのようにあおいの心が引き裂かれます。恋心の自覚フェイズ。さりげなくここで大滝があおいの理解者になっているのが憎めないですね。ちゃんと友達認定もしてくれるし。いいやつ。

 夕方。帰宅するあかね。玄関前の階段にうなだれるあおい。

「どうして、しんの……慎之介さんについていかなかったの」

「え? なに、いきなり」

「あか姉がついていったら、そしたら、慎之介さんはきっとあんなクズにはならなかった。ずっと、昔の、しんののままだったかもしんないのに。あたしは、あか姉みたいになりたくない。やりたいこと我慢して。後悔して」

(違う)

「こんなとこで、ずっと終わってくなんて。そんなの、絶対にごめんだ」

(こんなこと、言いたいんじゃないのに)

「あか姉は、あか姉は……」

(あたしって、ほんと)

「馬鹿みたい。あっ……」

「馬鹿みたい、かあ……」

  反抗期の男の子みたいな爆発の仕方をして、走り去るあおい。

 お堂。出られないしんの。そこにあおいを探しにやってくるあかね。 おにぎりを持ってきています。戻るあかね。ひとつ拝借していたしんの。一口。「まーた昆布だ」あおいのためを思っていることがわかる描写。しかしあおい本人には届いてません。

 つぐの部屋。「メール一本で小学生にベース取ってこいとか、いきなりおしかけて自分の部屋のようにくつろいでるところとかほんと駄目だと思う」「あの慎之介のほうがあたしより何千倍も駄目でしょうが」「あおちゃんパンツ」シリアスからのおねショタで寒暖差を取ります。なんでこんな倫理的ではないことが平然とできるの……。

「決めた」とあおい。ストロング缶を飲んで寝ているみちんこ。だらしない姿ですが、楽譜には書き込みがあり、スティックはささくれています。彼も短いあいだに努力をしているわけですね。

「あたし、みちんことあか姉くっつけんの協力するから」「今のあの慎之介に取られるよりマシです」とあおい。「ありがたいけどな、お前の協力はいらねえよ」

「新渡戸さんに今回の仕事頼んだ決め手はな、しんのがいたからだ」

「は?」

「色々もやついたもん片づけなきゃ進めねえと思ってな。そういう歳なんだよ。俺も、あかねもよ」

 その態度にキレる17歳、あおいです。彼女のなりの問題解決法は一瞬で潰えることとなりました。物語的には結末より先に別解を崩しておく必要がありますからね。

 翌日。設営がはじまる音楽の都フェスティバル。いつの間にか手伝いをしている大滝。あおいは大滝を無視。キーボードの人と話をするあかね。慎之介の話に。「あいつソロでデビューしたことあるんだよ。一曲だけで終わっちゃったみたいだけどね」微笑むあかね。「へえ」

 お堂。つぐとしんの。「言っておこうと思って」「あ?」「俺、あおちゃんのこと好きなんだ。初恋ってやつ」「だからあおちゃんの苦手な勉強も、そのぶん俺が頑張って、それなりに必要価値のある男になるつもり」と宣言。「ただね、ライバルができちゃって」としんのを指さします。

「で、どう思う。あおちゃんのこと」

(…)

「こんな俺を好きになったって、どうしようもねえだろ」

「うん。そう思う。だから――」

 台詞はここで途切れます。最終的にここでなにがあったかは語られません。えっ、脚本内容に明確な抜けがあってもいいのか!? こわ~。

 いっぽう音楽堂。あおいと大滝。

「いつまでシカトすんのー」

「近づくな、マタユル」

「うわ、過激なネーミングセンスー。だから、別になーんもなかったって言ったでしょう?」

「なにもなかったはずがなーい! ロクデナシ+マタユル=不純異性交遊に決ま」

「わたしだって意外だったよ? 全然真面目でさ、へたれかっての。あーあ、わたしをこっから連れ出してくれる王子様はどこにいんだかー?」

  今回は全然下ネタ出さないな~と思ってたけど、やっぱり出すのか……。別に脚本上の必要はほぼないのに出すのが岡田の怖いところですよ。いらつくあおい。

 音楽堂の裏手(?)。「ガンダーラ」を弾き語ろうとしてやめる慎之介。「なんでやめちゃうの」とあかね。「続けて」

「俺、こっから東京に出れば、どんな夢も叶う気がしてた。でも、違うんだな」

「夢、叶えたじゃない。ちゃんとギターを仕事にして」

(…)

「でも、わざわざいろんなもん捨ててまで出る必要があったかはわかんねえ」

「じゃあ、別の曲をリクエストしてもいい?」

「あ?」

「『空の青さを知る人よ』」

「なんで」

「ちゃんと買ったよ。しんののソロデビュー曲」

黒歴史だろ」

ガンダーラとおなじくらい、好きなんだ」

 2019年に31歳だし、彼らは∀ガンダム世代なんですかね。いや、人口に膾炙している言葉ですから世代じゃなくても「黒歴史」は使うんですが。そして演奏される主題歌。ものまねふうに歌う慎之介。笑うあかね。それを目撃するあおい。

(あか姉、それにあんなふうにあか姉を笑わせられるあの人は……しんの……なんだ)

「なんか、やっぱいいな。お前といると。落ち着くっつーか」

「え?」

「俺、戻ってこようかな。別に、いまの仕事で先があるってわけでもねえし」

(駄目)

「なんつーかさ、周りも固い仕事に就きだして、身固めて、俺もいい加減そういう歳なのかなーって」

(駄目。それじゃしんのが、いなくなっちゃう)

「なーに言ってんの。いまの時代三十そこそこっなんて、まだ若造でしょ。落ち着くのはまだ早いっての」

「え」

「ここでしかできないこと、わたしにはある。いろいろまだ、諦めてないよ。うん。これから、これから」

 自然に口説いている慎之介。やんわりと別方向に背中を押すあかね。納得したふうになって去る慎之介。しかしその場にとどまって泣くあかね。男女の機微~~。降り出す雨。

 家。

(あか姉って、あんなふうに泣くんだ。知らなかった。泣いたとこなんて、いつから見てないんだろう……)

 虫刺されがあったのか、ムヒを探すあおい。「あおい攻略ノート」を見つけます。

(なにが、迷惑かけてないだ。あか姉は、なんでもできるような気がした。でも、あか姉が完璧に見えたのは……)

 走馬灯のように流れる映像はあおいが想像できない範囲にまで及んでいるんですけど、全然気にならないのはアニメ特有のマジックという感じですね。ホームドラマ的CM感。これも岡田が得意とする手法です。でも映像のノリはここだけ妙に新海誠っぽいんだよな。マジでなんなんだ。

(あたしのにために、こんなに、頑張ってくれたから。なのに、あたし、なにしてるんだろう……)

 どうしようもなくなって、お堂に駆け込んでくるあおい。

「うおっ、なんだよ、あおかよ。合言葉はどうした合言葉は。ったく驚かせやがって」

「わたしはしんのが好き」

「その、お前の気持ちは嬉しいよ。でも、ようく考えみろ」

「黙ってて!」

「……え?」

「だって、しんのの声、優しいんだもん。そういう声音の人はなんか慰め的なこととか、憐れみ的なこととか言うんだもん一般的に!」

「え」

「慰めとか、そういうんじゃなかったとしても、しんのの声は素敵で、あったかくて、なんか胸が痛くなるから、聞きたくない」

(…)

「わたしはしんのが好き。慎之介じゃなく、いまここにいるしんのが好きなの。ずっと一緒にいたい。慎之介のなかに戻っちゃうくらいなら、いまのままでいてほしい」

「あお」

「だけど、だけどっ! あたしは、あか姉も大好きなんだ! あか姉は、慎之介のことがまだ好きなんだよ。あか姉の幸せを考えたら、でもそうしたらしんのが……もう、どうしていいかわかんない。ねえ、どうしたらいい……」

「……」

「さわんないで! 触られると、どんどん好きになっちゃうじゃない!」

「じゃ、じゃあ、どうしたらいいんだよ!?」

「しんのもわかんないの!?」

「わかるかよ!」

「じゃあ!……もういい!」

(…)

「頼むから待ってくれよ。俺は、追いかけられねえんだ。お前を追いかけたいと思っても、無理なんだ。こっから見送ることしかできない。俺も、もとの自分に戻って、どうなっちまうのかとか全然わかんねえけど、でも、こうやって、ガキみたいに泣いてるあおを見送るしかできねえのは……」

「……泣いてないし。泣いてないし。雨だし!」

 ここでも岡田のお得意の技法が使われていますね。感情が決壊した女性キャラには一方的に喋らせる。ディアローグのテンポをあえて崩していくスタイルです。これをやって強い演技が入ると途端に見せ場になりますね。あおいの言い回しはちょっと乙女チックすぎるというか、要するに古臭いきらいはあるんですが、勢いで乗り切られてしまう感じもあります。

 対してしんのの長台詞。こちらもどことなく演劇っぽい。見せ場の連続になります。ここまで77分。残り30分ほどですから、そろそろ解決への方向性が出てきてもいいころなんですが、問題はどんどん山積するだけです。プロットがどんどん三幕構成から離れていく。

 とはいえ心情描写に使われる雨(舞台装置)を台詞として取り込む貪欲さも見えていて、やっぱり岡田脚本はキャラが吐露する瞬間の活き活きとした感じを出すのが上手いですね。こいつさっきから脚本上手いしか言ってねえな。「なあ、俺どうしてここにいるんかな……」とぼやくしんの。この映画のすごいところは、マジで終盤になるまでこのしんのはまったく動かないことなんですよね。

 

⑥ 

 翌朝。大滝に謝るあおい。ここで唐突に新渡戸がペンダントをなくします。「あれがなければ、地元の心は歌えません」。あかねと目を合わせられないあおい。まだあかねには謝れていないようです。このあたり家でどうしてたんじゃい、みたいな疑問はまああるんですが、アニメ的なマジックというか、見ているあいだはそんな気にはならないですね*8。そしてペンダントを取りに行くあかね。追いかけるあおいですが、結局謝れません。問題は先送りにされます。

 いっぽう、お堂にやってきた慎之介。しんのと対面します。手にはあのころの写真があり、見間違える可能性を小道具でつぶしていますね。

 あかねはトンネルへ。そして揺れ。

 音楽堂。山で土砂崩れがあった報告を受けます。「やっぱさっきの地震だよ」「昨日けっこう雨降ってたしね」そこがあかねの行った場所だとわかります。ただの心象風景、舞台装置(雨)に意味を持たせるというメタ的な精神性で物語が問題へと進みます。しかしよく思いついたな、その演出。スマホの通話がつながりません。駆けだすあおい。

 お堂。対峙するしんのと慎之介。「あかねスペシャル、取りに来たんか」と自分のことながらわかるしんの。説教。そこにやってくるあおい。現状説明。冷静な慎之介。それにキレるしんの。「なんでなんもしねえんだよ! てめえがいかなくてどうすんだよ……がっかりさせんじゃねえよ」と、あかねに言われた「がっかりさせないで」がこちらでも出てきます。意図的な反復でしょうか。

 しんのにこきおろされ、キレ返す慎之介。

「なんも知らねえガキが」

「ああ、俺はなんも知らねえ!」

「ああ?」

「俺は、こっから出ていけなかったからな……」

 物理的と精神的、二重の意味で出ていけないことがここで直感的に説明されます。演技の説得力。そしてさらに説明が重ねられます。

「あの日、あかねに東京行かねえって言われて、すげえショックだった。東京行って、バンド組んでガンガンライヴして、デビューして、毎日楽しくやって。それが俺の夢だったけど、それって、全部あかねがいるってことが前提だった。ビッグなミュージシャンになって、迎えに来るっつったって、実際どうなるかわかんねえしよ。あんときの俺、どっかでもうどこに行きたくねえ、ずっとこのままでいてえって、思った。……でも、お前は出た! ちゃんと前に進んだんだろうが! なあ、思わせろよ。俺はお前なんだよなあ。だったら思わせてくれよ。いろいろ、上手くいかないこともあるんだろうけど、それでも将来、お前になってもいいかもしんねえって、思わせてくれよ!」

 こうして文字に起こすとめちゃくちゃ冗長なんですが、絵的なカットの切り替えと演技の抑揚、音楽があると不思議と持ちますね。アニメノチカラ

 そして腑抜けている慎之介を「もういい」と投げ捨て、見えない壁に挑むしんの。「俺は、止まったまんまだったけどよ、でも、あかねを思うこの気持ちは、ずっと続いてる。これだけは、お前にも、負けねえから、よぉおお!」その手を引っ張るあおい。「あたしだって、負けないから! あか姉のこと、思う気持ち!」空中にぶっ飛び、切れるギターの弦。立ち上がり、「じゃ、俺らは行くけど、おっさんはどうすんだ」「行くぞ、あお!」「勝手なことばっか言いやがって!」そして満を持して流れるあいみょん

 そして空を飛びます。音楽も相まってめちゃくちゃな解放感。

「俺さ、あの写真見ていろいろわかっちまった」

「それって」

「あいつはさ、あんとき、閉じ込めることでしか前に進めなかったもんに、もっかい、向き合おうとしたんだって」

 ガムテープでぐるぐる巻きにされていたギターケースの中身はフライヤーや写真、MD、つまり高校時代の思い出、過去そのものでした。ようやくミステリー的な謎が解けましたね。「俺のなかにもあるこの思いを、後悔なんてしないように」そして慎之介を呼びかける当時のバンドメンバー。「そんな急いでどこ行くんだ?」「ガンダーラだよ!」←笑うとこ

「だから、俺は、あそこにいたんだって」

「後悔。あたし、知ってる」

「ん」

「好きな人の想いを応援できなかったら、ずっと後悔するんだって。あか姉を、応援できなかったから、知ってる」

「あお」

「だから、あたし、しんのと慎之介さんを応援する」

 ここでようやく、右往左往していたあおいのメンタルが落ち着きます。びっくりするくらいめちゃくちゃ声が落ち着いている。まったくオラついてません。

「空、青いね。出たい出たいって思ってたけど、こんなにきれいだったんだね」

「ああ、そうだな」

  空の青が瞳に映ります。タイトル回収。

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タイトル回収

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でも実はその前にお堂を出たタイミングでタイトル回収してたんですよね。

 そういうわけで、みんなみんなが空の青さを知ったことで、なんかオチた感じになります。ここまで94分。残すところ、約13分。ですが、あかねはまだ現段階で助かってないんですよね。なにこの脚本……。めちゃくちゃだろ……。

 

 ⑦

  トンネルにあかねを迎えに来たしんの。信じるあかね。そして姿を見られていたことに、「うわ~マジで~」とくだけた喋り方。あかねはこのときだけ(つまりしんのにだけ)こういう喋り方をするんですよね。は? なんなの。そしておにぎりの話。昆布。

「だけどさ、いまならわかる。井の中の蛙大海を知らず。されど、空の青さを知る。あかねの好きな言葉。ツナマヨじゃあ昆布には敵わねえよな。空の青さを知っちまったら」

(…)

「俺よかった。あおって妹を一番大切にできるお前のことを、好きになれて、よかった」

 空の青さを知ったのは数分前なんですが、なんかいい感じが話が収まります。

 あかねが見つかった報告が各方面に届きます。ひとりで帰るあおい。

 後部座席で寝るしんの。話すのはあかねと慎之介。

「俺さ、俺、ちゃんと前に進んでんだと。けど、まだ全部途中なんだ。途中だったって、思い出した。だから、諦めたくねえんだ。俺も」

「うん」

「だから、お前のことも諦めない」

「んっ、えっ? ……三人でか。そっか、あおい、もうあのころのわたしと同じくらいだったんだ。……今度、ツナマヨのおにぎりでもつくってみよっかな」

「へっ、は? なあそれって――。あれ?」

 消えるしんの。おにぎりの話ではじまり、おにぎりの話で終わるというのが『空青』なんですよね。このホームドラマ感。

 そして走り、しんののように跳ぼうとするあおい。「泣いて、ないし!」そして初恋が終わり、泣くあおい。「あー、空、クソ青い」

 というわけでエンドロールです。実質エンドロールがエピローグなんで最後まで見ていただきたいところです。あと写真、あかねのメガネフレームの色が変わってる気がするんですけど、これはちょっと不確定ですね。アップの画像じゃないし。赤と青の色が混じった感じに思えるので、選んだ人生的には腑に落ちるところなんですが。それについては、まあみなさんの目で確認してみてください。よしなに。

 

感想戦

 爽やかなのに、めちゃくちゃなプロットでしたね。

 なんだこれは。青春ラブコメホームドラマ、男の帰郷という三要素をなぜか過去の生霊という存在を結節点にして物語に昇華する、というたぶんだれにもできないことをやっているわけで……。要素要素に還元すると、ふつうの話なんですが、なぜかそれを二時間に満たない尺でやっている。謎の圧縮力。

『あの花』がめんまという過去の亡霊そのものを出してきて、そこから彼女の成仏のためにあらゆる出来事の清算をするというのはクリシェ化にしているような話ですからプロットとして納得できるものですが、今回はかなり複雑です。

 とはいえ、生霊しんのの果たす役割を考えると演出意図はかなり明確だったことがわかります。今回の話はしんのが亡霊であることを否定していたため、物語の終盤にならないとその出てきた意味がわからなかったわけですが。

 ひとつずつ考えましょう。

 しんのは現在やさぐれてしまっている慎之介を後押しし(見ればわかりますが、しんの以外はだれも慎之介のメンタルを気にしません)、土砂崩れに巻き込まれたあかねを救い、なによりあおいの初恋を終わらせ、進路を変えさせました(エンドロールで彼女は進学しています)。つまり、それぞれのキャラクターが過去の清算をおこない、次に進むという話に一応はなっているんですよね。

 あかねは唯一台詞では過去を引きずってないふうな態度を取っていましたが(これは観客によって解釈が分かれるところかもしれませんが)、慎之介を突き放したとき泣いていましたし、それなりに過去に縛られていたと考えてもいいかもしれません。

 しかし彼女はあおいといっさい衝突はしてません。あおいが勝手に思春期をこじらせて、突っ込んで、ノートを見て思い直して、なんか土砂崩れから助かったからいい感じになっている。で、前向きになった慎之介を確認できたので結婚にも前向きになる(あっ、この人マジで当初の慎之介に失望してたんだ……ということがわかる)。

 つまり、劇的な問題提示とその解決はまったく用意されてないんですよね。生霊をどうするかについては、あかねと慎之介をくっつけたらどうにかなるとは語られますが、それに対してあおいがこじらせたあと空飛んだら勝手にメンタルを持ち直しただけで、彼らに積極的な介入をしたわけではありません。ふつうなら用意されてそうなフェスの演奏シーンで観客のテンションを盛り上げるといったこともなされません。

 というか音楽堂の裏手で好き合ってたのが分かった時点で、サスペンス的な引っ張りは消えてますし、最終的にしんのは消えることは消えますが、あおいとの劇的な別れのシーンさえありません。これは意図的に『あの花』の劣化コピーを防ごうとしたんじゃないか、とすら思える。

 物語上の明確なアクシデント(バンドメンバーが鹿肉にあたる、新渡戸がペンダントをなくす)はそこまでメインキャラに重なりませんし、あかねに対するあおいの八つ当たりも劇的な亀裂を生んだわけではありませんでした。あおいについてはほとんど気の持ちようだった、というだけの話なんですよね。

 むしろ分析すればするほど、意図的に三幕構成的な劇的な脚本から離れようとしていたんじゃないかとすら感じられるつくりになっている。最後の最後に最高の盛り上がりをしないようにしていた(あかね救出前に空を飛ぶのが最高点)ことからもそれはうかがえます。

 でもそうした構成を意図して外しつつ、総合的にはエンタメにできている時点で相当なんですよ。そしてそれを成立させるために、鬼のように技巧を使いまくっている。それはこれまで長ったらしく確認しまくってきたところです。

 もちろんちょっとした小技は余人にも真似できるでしょうが、ここ一番の独特の台詞回しはたぶんこの人にしかできませんし、たぶん一部だけを真似ても『空青』クラスの総合的な爽快感まで持っていくことはできないと思います。

 

結論

 つまり岡田麿里にはだれも勝てない。岡田麿里こそ最強。おまえらは一生岡田麿里に大事なところを傷つけられつづける。

 

 いかがでしたか?

 

 

*1:ブログの便宜上分けているだけで、脚本に沿っているとかではないです。

*2:VOX ( ヴォックス ) >amPlug2 Bass ベース用ヘッドホンアンプ 送料無料 | サウンドハウス

*3:差別的な風習。

*4:正確には違う。

*5:個人の意見です

*6:慎之介のCDを買っているので。

*7:ここでは観客に内面をさらけ出さない、という意味で「自律的」と言っています。

*8:みちんこの家にまた泊っていたんでしょうか。

特殊設定ミステリよもやま話

 タイトルの通りです。

 先日Clubhouse*1内で「特殊設定ミステリとは何か」という部屋が開かれました。登壇者は大滝瓶太、千葉集、円居挽(敬称略)の三名で、途中からほかの作家や翻訳家が登壇するなどしていました。リスナーはたぶん最終的に100人強くらいにまで増えていたんじゃないでしょうか。実作者目線での話が聞けて、ミステリファンおよび創作者にとってはとても有益な時間だったと思います。ただし詳細は省きます*2

 というわけでその感想戦というか、よもやま話です。実益になることはないと思うので、戻るなり、ブラウザを閉じるならいまのうちです。結論はありません。

 よろしいか。

 

特殊設定ミステリの定義について

・たんに特殊(=special)な設定のミステリではない。

・現実と違う物理法則、科学技術、生物など、ほぼ”現実ベース”の世界にひとつ(あるいは複数?)架空のルールを追加するイメージ。それをもとにした謎解きがある。

・むしろ非現実(=unreal)といったほうが適切では。語感が悪いね。

・まあだからSFミステリとジャンルとしては近いのだと思う。

・特殊ルールミステリ? 相沢沙呼は以下のような発言をしている。

 ・また、特殊な条件下(標高数千メートルの山中、砂漠のなか、日本の常識が通じない異国、異教が支配する地など)のミステリは現実世界の話なので特殊設定ではない。

・定義論争は荒れるのでこのくらいで。

 

特殊な条件下の例(これは特殊設定か?)

 これはミステリ研時代、同期が書こうとして結局未完のまま終わった作品の話なのだけれど、まあ時効だと思うし書いていいでしょう。ごめんな。

・舞台は現実ベース。

・ゾンビが出てくる。

・登場人物たちはショッピングモールに閉じ込められるor閉じこもる。

・要するにクローズドサークルになる。

・そこで「人間の手によって」殺された死体が発見される。

・死体には感染していた様子はない。

・犯人は当然、生きている仲間以外にありえない。

・なぜ殺したのか?(whydunit)

・答えについて考えてください。

・考えましたか?

・では答えです。

・「いちばんの足手まといを一人殺したほうがメンバーの生存率が上がるから」

・いかかでしたか?

 正直、自分はこれを面白いと思う。ほかでは絶対みられない動機のはず。

 ただしここで生じるかもしれない問題。これをいわゆる「特殊設定ミステリ」と銘打った場合の印象について。殺人の動機そのものは「特殊な設定」に起因しているわけだけれど、おこなわれる殺人行為じたいに「特殊設定」が関与しているわけではない

 つまり、ゾンビを音や光などで呼び寄せて、それによって殺した、といった特殊なトリックや犯人指摘のためのロジック/推理などがあるわけではない。要するに「見たかったものと違う」というミスマッチが起きるかもしれない。

 またこれに対し、「特殊設定ミステリではない」というお叱りが発生する可能性すらある。とはいえここで自分は詳細な定義はしない。まあ言いたいことはわかりますよね。争いはなにも生まないんだよ。

 

特殊設定ミステリとその真相について

 ちなみに「特殊設定ミステリ」という言葉が流通する前に出たSF・ファンタジー作品に片理誠『屍竜戦記』というのがある。竜の死体を屍霊術で動かし、人々を脅かす竜と戦っていくハイファンタジーふうの物語。ちょう面白い。

 その第1巻では殺人が起きるものの、その真相に屍霊術はかかわってこない(むろん物語の根幹にはかかわる)。ミステリ部分が主軸ではないから当然とはいえ、しかしこれを特殊設定ミステリとして2021年に出されたら読者が怒ると考えるのはむずかしくない。

 つまり、ここでは「特殊設定ミステリ」で提示される設定は、真相にからまなくてはならない、というのが要請されている。すくなくとも、本格ミステリとしてはそれが望ましい。

 また本格ミステリとして特殊設定作品を出す場合、その「特殊設定」は前もってしっかりと説明される必要がある。フェアプレイ精神。『アシモフのミステリ世界』のまえがきにもそう書いてあったはず*3。解決編でいきなり「ワトソン君、じつはここに犯人を発見する秘密の科学技術があってね、問題編には登場しなかったのだけれど」ではお話にならない。読者の推理の余地がない。

 

特殊設定ミステリを書くのは簡単か

 以前、年間ランキング本かどこかのムックで、小林泰三が「SFミステリの書き方」的なコラムを書いていた憶えがある。詳細は忘れたが、記憶を頼りに内容を以下に記す。たぶん細部どころかほとんど間違っていると思う。それを承知で読んでいただきたい。

・物語は近未来。時間移動の技術が発明される。

・密室で人が殺される。

・警察の捜査の手が入る。犯人は殺害後、密室から脱出したはず。

・しかしトリックが使われた形跡が見つからない。

・そのまま捜査が終了する。

・終了後、密室に人が突如現れる。謎の人物はそこから現場を出ていく。

・そいつが犯人だ。

・犯人は時間移動をすることで密室を脱出した。

・四次元密室。概念の拡大されたミステリ。

・ね、簡単でしょ?

 というわけだが、ゼロ年代ならともかく、これは2021年ではパロディにすらならない。捜査は時間移動の技術を前提とするべきだし、だとしても、そのうえで時間移動技術をめぐるなんらかの物語が展開されなければ、正直食い足りないとおもう。時間移動技術を使用できた人物は三名のみ、ではそのなかで犯人を特定する推理はなにか、とか、そういう話。

 要するに、特殊設定ミステリを書くことじたいは決してむずかしくなく、ただしそれを面白く複雑にするのはむずかしい、といったところではないか。すくなくとも設定が作者本位にみえてしまえば、読者としてはつまらないと感じる。

 最悪な例として有栖川有栖の作中の語り手が思いついた叙述トリックがある。これも例によって記憶が死んでいるので詳細ではない。本筋ではないのでネタバレでないと判断する。

・近未来。

・犯人を追い詰める刑事。

・袋小路へ追い込んだ。やったと思う。

・しかし角を曲がってみると、犯人の姿はない。

・消失ミステリ。

・答え。

・事件の起きた場所は月だか火星だかで、重力が地球とは異なっていた。よって犯人はびよーんとジャンプして塀を越えて逃げた。

・はいクソ~。

 こういうことをされたらたまったものではない、という例。作者本位にすぎる。

 また、特殊設定を用いたトリックのさい、読者が提示された解決編以上にシンプルでよい答えを出してしまう可能性すらある。

 いい具体例は思いつかないが、昨年出た『LIFE IS STRANGE2』という傑作ゲームでサイコキネシスの力を手に入れた少年が、アメリカからメキシコに違法な手段で移動しようとして国境にある巨大な壁をその力で破壊するシーンがあった。

 たしかに迫力はあるのだけれど、見ていて、サイコキネシスが使えるなら、自分の身体を宙に飛ばしたほうがずっと楽じゃない? みたいなことを思ってしまった。こういうしょうもない話と思っていただければいい。

 特殊設定は既存のミステリに比べてジャンルとして費やされている検討時間がすくないのだから、作者の想定にない回答が出やすいのではないか。既存のミステリですら可能性の排除ができてないと減点対象とみなされるのだから、いわんや。

 

特殊設定ミステリは面白いか

・ひねたミステリオタクはつまらないと言う(ポジショントーク(ではない))。

・特殊設定ミステリは前提として、必要なルールを明示する必要がある。

・結果、ルールがそのまま重大な伏線になってしまう。

・「ABCDE」と書こうとしたら「ABCDE」と記述されるようなもの。

・答えを言っているに等しい。

・ふつうのミステリは伏線を敷いても、それに注目できるのは注意ぶかい読者だけ。

・つまり、ふつうのミステリのほうが作者にとって有利。

・要するに特殊設定ミステリでは情報を均等に記述できない。

・解決法として、伏線の意味を分散させる(伏線A+伏線B=真相Cを取り出す)方法。

・これをフェアにできるかどうかがたぶんむずかしい。

・解釈を肥大化させた結果、なにを言っているか作者にしかわからない、ということも起きうる。

米澤穂信『折れた竜骨』は伏線の数それじたいを大量にすることで問題を処理した。

・ただし、特殊設定に基づく推理の数は限られている。これをどう思うか。

 

特殊設定ミステリは異なった社会や人間を描けるか

・特殊設定があたりまえとなった世界をミステリは想像できるか。

・正直いって、得意ではないと思う。

本格ミステリが得意としているのはよくもわるくも記号的処理ではないか。

・某SFミステリで、とある技術が普及した描写として、現実世界にある一般名詞の頭に全部おなじ○○をつけて説明を終わらせたものがあり、それはさすがに絶句したが。

・というか特殊な世界の想像がそんな容易にできるのなら、SF(ミステリ)の傑作はもっと増えているんじゃないか、と言わせていただく*4

・その社会でしか起きえない問題などまで手を出したら、殺人をやっている場合ではないかもしれない。それはそう。

・300~400ページかけてひとつの事件を追っている作品で、人物の成長まで描けている作品のいかにすくないことか。ぶっちゃけそんな暇はないんですよ。

・どちらかといえばハードボイルドや日常の謎のほうが人間を描けているとおもう。そっちは人間の話(ヒューマンドラマ)に比重を置くスタイルなので。

 

特殊設定はミステリの可能性を広げるか

・『ミステリマガジン』2019年3月号、法月綸太郎→陸秋槎「往復書簡」

 これは私の個人的見解ですが――「新本格」以降の日本の現代本格は、ガラパゴス的な進化の袋小路に突き当たっているのではないか。とりわけ今世紀に入ってからの「異世界(特殊設定)本格」の流行は、そうした袋小路の最たるものではないか、という危惧を拭えませんでした。

・しかしそれがなければ『元年春之祭』の真価を読み取れなかったのでは、というのが法月の発言の意図。

・特殊設定はミステリの可能性を狭めているだろうか?

人狼ゲームにあたらしい役柄が導入されるたび、ゲームが新奇性を帯び複雑になるように、すくなくとも狭い範囲での変化、面白さの探求、という意味はある気がする。

・ローカルルール・マイナールールの面白さ。

・紙城境介『継母の連れ子が元カノだった』はライトノベルだけれど、主人公たちがミステリオタク。近年、ロジック重視(推理重視といってもよいとおもう)のミステリが増えていて、特殊設定の流行りもその流れのなかにあったのではないか、みたいな話をする(何巻かは忘れた)。

・実感としてはそれがいちばん近い気がする。

作者側が新規かつ独特の推理を模索していった結果、特殊設定を構築する潮流が生まれた、ということにしておくと納得感がないすか、ないすか

・書くほうも読むほうも、そういう模索を楽しいと思っているのではないか。

・ただし、それが普遍的な面白さにつながるかはわからない。

・当然、流行り廃りもあるはず。

・とはいえ、チェスのクイーンがもともとは弱い駒で、のちに強く改変され、それが普遍的なルールとして採用されることになった、というお話もある。

・可能性は汲み尽くせていないのでは。

・ただし、既存のミステリを変える、壁を壊す、ということになるかはわからない。

・そもそも推理の枠組み(論理的思考)はふつうのミステリにしろ、特殊設定ミステリにしろ変わらないのではないか。

・それが変わるなら、もはや変格やアンチミステリなのではないか。

・SF的なアイデアエスカレーションと本格ミステリの両立は可能か。

・法月が本格ミステリ大賞の投票で森川智喜『スノーホワイト』を評したとき、真相を映す鏡がふたつあったなら、それらを向き合わせて真相が無限に生成されたのでは、みたいなことを言っていた気がする。それはたしかにSFっぽいかもしれない。

・そのとき謎とその論理的解明はどこかに行ってしまうかもしれない。

・そのときわたしたちはそれをミステリと呼べるのでしょうか。

 

勝利条件が特殊なミステリ

・推理は現実ベースだが、特殊な条件でそれに合わせた思考を求められる作品がある。

・これを特殊設定と呼ぶ人もいる。

・発想としてはむしろボードゲームに近いのかもしれない。というか実質そういうゲームの話でもある。あとディベート

円居挽『丸太町ルヴォワール』

城平京『虚構推理』

初野晴「退出ゲーム」「決闘戯曲」

・あんまり例が思いつかないな。この話終わり。

 

そんなことより面白い特殊設定ミステリの話をしようぜのコーナー

 厳密な特殊設定ミステリ(そんなものがあるのか?)かどうかの話は措く。

・J・R・R・トールキン指輪物語

(「魔王は人間の手によって(by the hand of man、何人たりともの意味もある)殺されることはないだろう」と予言されたアングマールの魔王の殺害方法。こんなん異世界ハウダニットでしょ)

ラリー・ニーヴン「ガラスの短剣」

(どんな魔法使いにも解けない呪いはいかにしてかけられたか?)

久住四季トリックスターズL』

(シリーズ二作目。前作前提。魔術によって閉じられた密室での殺人)

米澤穂信『折れた竜骨』

(さっきちょっとケチつけたけどその物量ふくめて傑作だとおもっている。魔法による捜査はたしかに化学捜査を魔法に言い換えただけ、という向きもある、しかしそこで描かれている物語がいい)

麻耶雄嵩『さよなら神様』

(一行目で神によって犯人が指摘される。そのうえで展開される物語)

・青崎有吾『アンデッドガール・マーダーファルス』

(教科書的な推理なので特殊設定ミステリ入門におすすめ、人外がいる世界)

北山猛邦『少年検閲官』

(書物が駆逐されたポストアポカリプス?管理社会もの、厳密なSFではないが異形)

相沢沙呼『medium 霊媒探偵城塚翡翠

(タイトル通り霊媒探偵もの。真相にたどり着く推理の道筋が素晴らしい)

アイザック・アシモフ『われはロボット』

ロボット三原則もの。ルールの解釈が異形なホワイへと思考が拡大していく面白さ、厳密な設定ではない)

 ・八十八良『不死の猟犬』

(漫画。死んだら復活するという世界でのサスペンス。敵は完璧には殺さず半殺しにして相手の動きを止めようとするし、味方はフレンドリーファイアで即死させ回復させようとする、というルールを適用したバトルが面白い。本格ミステリではない)

・紙城境介『僕が答える君の謎解き』

(必要な情報が揃うと無意識に答えがわかってしまう女の子(JDCか?)の推理を理解しようとするラブコメ本格)

 

 

 みんなも最強の特殊設定ミステリでデッキを組んで友達に自慢しよう!

*1:音声SNSアプリのひとつ。詳しくは各自検索などしてください

*2:書き起こしなど含め、記録全般が規約で禁止されているため

*3:見つからないので詳細は省く。

*4:じっさいに傑作がどのくらいあるのかについては言及を控えさせていただく。

2020年ベスト姉ヒロイン大賞

 少なくとも 姉は何かを失敗したことはなかったはずだ

                     ――ゴブリンスレイヤー

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前年に引き続き、本大賞アンバサダーを務めるゴブリンスレイヤーさん

 ベスト姉ヒロイン大賞とは、その年1月1日~12月31日までに発表されたアニメ作品(劇場作品も含む)のうち、姉に対する描写が特に優れていたものに贈られる賞です。昨年の選考も大いに盛り上がり、姉フィクション界の誇るべき充実が世間に訴えかけられることとなりました。

saitonaname.hatenablog.com

 2020年でベスト姉ヒロイン大賞も発足してから八年の月日が経ちました。わたしたちの歩みを振り返る意味を込め、ここに改めて各年の受賞作を列記いたします。

 

2013年『境界の彼方

2014年『グリザイアの果実

2015年 受賞作なし

2016年『響け!ユーフォニアム2』

2017年『ノーゲーム・ノーライフ ゼロ

2018年『あかねさす少女』『ゴブリンスレイヤー』(同時受賞)

2019年『ぬるぺた』

 

2020年ベスト姉ヒロイン大賞候補作および受賞作品

 2020年ベスト姉ヒロイン大賞の選考は、事前の候補作品選出(推薦=エントリーについては公募制)ののち、2020年12月30日から31日未明にかけておこなわれました。例年通りであれば関西の某所が選考会の会場の予定でしたが、昨今の事情を鑑みリモートでの開催となりました。

 選考委員には、百合アニメオタク、ゆるアニメオタク、姉原理主義者の三名が出席しました。また記録係として筆者が出席しました。

 今回の最終候補作品は以下の六作品です。

 

『グレイプニル

『泣きたい私は猫をかぶる』

日本沈没2020』

『Lapis Re:LiGHTs』

ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

『アサルトリリィ BOUQUET』

 

 上記六作品をもとに討議した結果、

 受賞作品を『アサルトリリィ BOUQUET』と決定いたしました。

 また、特別賞として、上田麗奈さん(声優)を表彰いたします。

 以下には各選考委員の選評を掲載いたします。

 

選評 百合アニメオタク

 今年は多くのアニメの製作や放映が停止/延期してしまったという点で、製作者側、視聴者側ともに覚悟を問われた年だったのではないか。それでもなお、姉を描くアニメが欠かさず供給されたことには救われる思いがあり、ここで感謝を述べたい。

 候補作にNETFLIX配信作品が入ったことは、昨今の時勢や潮流からして当然のことと思われる。『泣きたい私は猫をかぶる』はもともと劇場上映作品のはずだったが、covid-19の影響によって上映の機会が危ぶまれたのち、即座にネット配信へと舵を切った。英断である。もちろんこの判断自体は作品ほんらいの価値とはなんら関係はない。しかし劇場上映をした場合に比べ、知名度が大きく下がったことは言うまでもない。これは憂慮すべき事態である。

 いっぽう『日本沈没2020』はネットフリックスオリジナルシリーズであるが、のちに二時間台にまとめた総集編を映画館で上映した。これによってネット配信サービス登録者に限らない、新たな視聴者を得ていたように思われる。今後、作品を拡散させていくモデルケースとなるうえで重要であることは間違いない。2021年もこのような枠にとらわれない、変則的なスタイルが見られることを期待する。

 作品個別の話に移ろう。逆風のあった映画情勢に比べると『泣きたい私は猫をかぶる』も『日本沈没2020』も姉フィクションとしては正直言って弱い。前者は昨年『空の青さを知る人よ』で上質な姉アニメをつくってみせた岡田麿里によるオリジナル脚本。最小限の描写で恋愛にうつつをぬかす姉とそうではない弟の対比を手際よく面白おかしく描いていたが、いかんせんサブプロットの域を出ていない。これでは受賞に値しない、と早々に判断を下した。

日本沈没2020』も同様である。歩は主人公というよりは視点人物として、日本の家族のサンプルとして姉の役割が配されているが、だからといって姉が姉であること比重は置かれていない。あるとすれば漂流パートの一部シーンだけだろう。むしろ、これこそが姉のリアルである、という方向で製作側の意図を考えることも難しくはないが、それにしては物語性に欠けすぎている。この淡々とした、残酷にすら思えるストーリーテリングを単独で評価することは可能だが、姉アニメとしては評価できない。

 しかし、声優・上田麗奈が姉キャラクターの声を担当するという事態は三年間連続して続いている。この奇跡のようなめぐり合わせはいつ終わるかわからない。ならばいつ評価するのか。今しかないのではないか。そのように発言した。結果、特別賞ならどうだろうか、という意見が出され、そのまま決議された。

 今年の百合アニメ枠としては『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』と『アサルトリリィ BOUQUET』の二強であったが、後者については姉妹の思想を先行作品、具体的に言えば『マリア様がみてる』から借りている部分が多く、姉アニメのオリジナル要素として評価することは厳しいのではないか、と判断を留保せざるを得なかった。よって、より現代的な観点から描かれていた『ニジガク』を推した。

 

選評 ゆるアニメオタク

『グレイプニル』の序盤は魅力的だった。両親を殺し、失踪した姉。それを追っていくうち、否応なしにゲームと深い謎に巻き込まれていく妹と主人公。消える直前、姉は異形の存在となっており、ようやく出会ったとしてもまともに戦うことも会話もできず、その力は計り知れない。実に手に汗握る展開だ。しかし、その興奮は迂回するようなプロットによって次第に冷めていく結果となった。

 終盤、姉に関する一部の情報は明かされるものの、完結には向かわず、ただその部分に蓋を置くだけで済ませたのがエンタメとしては惜しい。姉の存在が謎であればあるほど戦闘能力が高くなる、というのは姉バトルものとしては定番であるところの描写で申し分ないが、姉の意図が中途半端に開示されたことによる若干の印象ナーフだけでなく、別勢力の登場という”ずらし”と風呂敷広げで終わってしまった。これではやはり消化不良という印象は拭えなくなってしまう。

『泣きたい私は猫をかぶる』および『日本沈没2020』が受賞レベルではない、という点は議論の早い段階で選考委員の意見が一致した。たしかにそれぞれに面白いところはあるものの、突破力という部分でやはり足りない。

 賞の選評という都合上、どうしても言葉が辛口になってしまうが、よくできていた作品の話もしておくべきだろう。2020年の収穫としては『Lapis Re:LiGHTs』と『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』の二作品を挙げておきたい。どちらも思想として通底しているのは「姉が姉であることによって負債を抱え込む必要はない」という現代的なハッピーエンドへの欲求で、姉という従来は(妹/弟を救うために)悲劇性をまとっていた存在に対する批評を伴った答えとして明確に示されている。

 しかし『ラピライ』はそこに至るまでの語りが冗長すぎたのが大きな難点であり、一方で『ニジガク』はたった一話ぶんの尺でじゅうぶんすぎるほどに語り切っていた。特に『ニジガク』は情報の処理があまりにも巧みで、姉描写はまだこんなにも自由であっていいのか、と襟を正したくなる思いだった。具体的にはどういうことか。

 それまでの回では眠ってばかりの怠け者らしき描写で印象づけられていた彼方ちゃんは第7話「ハルカカナタ」の冒頭でアルバイトや家事をてきぱきとこなし、家庭を支えているという最小限の手際で印象の逆転を見せる。しかし一方で妹にとってはしっかりしている姉こそがふだんの姿であり、学校で眠ってばかりいるとは思わない。ここでは姉フィクションでは自然と隠されがちな姉の””秘密””が最初から視聴者に明かされていながら、しかし姉としての存在の””深み””は決して失われていないという超絶技巧が実践されている。この発明は姉描写におけるコロンブスの卵といってよいはずだろう。

『ラピライ』と『ニジガク』ではそのような描写の差が評価に大きく関わっている。結果として『ニジガク』は一気に大賞最有力候補の階段をのぼっていった。ほんらいであればこのまま『ニジガク』の大賞は確定であったかもしれないが、しかし今年はダークホースと呼ぶべきか、あるいは問題作と呼ぶべきか、『アサルトリリィ BOUQUET』の存在があったのである。そうして白熱した議論のすえ、『アサリリ』が大賞となった。おめでとうございます。

 

選評 姉原理主義

 今回の候補作も姉フィクションとして素晴らしい顔ぶれでしたが、賞という運営形態には限界があることを感じた一年でもありました。たとえば「お姉ちゃんに任せなさい」が口癖として広く人口に膾炙している『ご注文はうさぎですか?』も三期の『BLOOM』まで放送されたとはいえ、客観的な評価のタイミングを失ってしまったように思えます。また、この賞の目指す方向性では、姉描写がささやかであるものの佳品であるアニメ、例を挙げるなら『おちこぼれフルーツタルト』や『安達としまむら』、『恋する小惑星』といった作品たちを評価することは難しくなっています。

 そのような観点から、今年はじめて特別賞が設置されたのは一ある種の決まりきった賞レースに対するアンチテーゼ的な、よい傾向だと思われます。特別賞は声優部門賞というわけではなく、姉にまつわるあらゆる事象を評価するための新しい軸ということでつくられました。もちろん読者のみなさんにとっては賛否それぞれあるでしょうが、優しく見守っていただければ幸いです。

 声優・上田麗奈さんは三年間という長期に渡り、『ゴブリンスレイヤー』、『私に天使が舞い降りた!』、『ぬるぺた』、『日本沈没2020』という複数の作品で姉役を務め上げました。前述の通り、特別賞は声優部門賞として発足したわけではありませんが、このようなかたちで姉を評価できることは姉研究の歴史的価値という点でも重要であることは自明です。謹んで賞をお贈りさせていただきます。また今年は『グレイプニル』と『Lapis Re:LiGHTs』の二作で声優・花澤香菜さんが姉を好演しています。受賞には至りませんでしたが、こちらも高く評価すべき、という声があったことをここに記します。

 各候補作品についてですが、『泣きたい私は猫をかぶる』と『日本沈没2020』は他委員の指摘通り、姉アニメとしてはじゅうぶんに力を出しきれていなかったように感じました。姉であることの素材性は両作品にももちろんあったのですが、料理の仕方が姉ではなかった、というべきでしょうか。

 とりわけ『泣きたい~』は姉を描くことで姉の魅力を引き出すわけではなく、姉をサブエピソードとして描くことで弟という存在を浮かび上がらせることに力が注がれていました。そうした間接的な手筋の洗練された上手さは群像劇の脚本家・岡田麿里の真骨頂といえる部分ではありますが、姉アニメという観点ではどこか正解だけを選んでいるパズルのような、機械パーツじみた人工性がかえって浮き彫りになった気配がありました。

 脚本のパズル性・機械的に思えるほどのウェルメイドさは昨年の『空の青さを知る人よ』にも見られた点で、たしかに綺麗にパッケージングされた作品はよいものですが、やはり視聴者としてはそれ以上の、いわば生っぽさを期待したくなる、というのが本心ではないでしょうか。そういう部分に肉薄していたのはむしろキャリアとしては過去の作品のほうに多く、その観点で回帰を望んでしまうファンを軒並み黙らせる作品を書いてほしいというのは高望みかもしれません。しかしポテンシャルは確実にあるはずなのですから、いまはそのような傑作が描かれるのを待ちたいと思います。

日本沈没2020』の姉・歩は中学生という年齢を加味したとしても、人生の先行性や責任性といった従来の姉像を徹底的に排した、じつに能力的にミニマルなキャラクターでした。彼女は常に状況に振り回され、何度も弱音を吐き、傍観者としてありつづけます。積極性や賢さといった部分はむしろ小学二年生の弟・剛のほうが多く持っている資質であり、ここではむしろ、持たざる者としての姉が模索されていたように思われました。

 歩が未来のオリンピック選手の候補でありながら、物語の早い段階で脚に怪我を負うというのは象徴的でした。彼女はストーリーにおいてひたすらに無力な側でいつづけます。そして無力であるからこそ、他者によって支えられ、救われたことに最終的に気づくのですが、それが姉という役割や要素と結びつかなかったのはそこにテーマが置かれていなかったからでしょう。

 テーマとしての扱いの難しさからか、””弱い姉””という観点から描かれる姉フィクションの傑作はなかなか生まれないのが実情です。とはいえその部分を本筋ではないとはいえ、徹底的にミニマルな姉というかたちでやった本作の挑戦は賞というかたちでの評価は難しいところですが、記憶には留められるべきだと感じます。

『グレイプニル』はクラシカルな姉像が使われているという点では、安心して見ることのできる作品でした。異形の姉・江麗奈はどこまでも強く、存在そのものが秘密めいていて、それでいて愛にあふれています。このアニメを見ていて、姉を姉らしくするのは愛のつよさかもしれない、と改めて思うようになりました。そう思わせるだけのパワーがあった作品でした。

 惜しむらくは、この作品じたいがまだ完結していないということでしょうか。序盤を引っ張ってくれた謎も解決しないまま投げられてしまっていますし、全13話のアニメでは真価が問われるまえに終わってしまった印象が残ります。江麗奈と紅愛の姉妹による修一の取り合いといったラブコメ要素も予感させるだけで残念ながら終わってしまいました。

 しかし、異形の姉の姿が不確定のままだった点だけは、かえって魅力を増していたかもしれません。ホラー映画でも敵の正体がわからないときがいちばん恐怖を感じられるように、姉の存在容態がわからないままであったのは、完結していない原作の魅力をそいではならないという製作側の誠実さをあらわしているようでもあります。

 姉の魅力とは、年下との情報格差そのものである、ということは古くから訴えられてきた点です。『グレイプニル』は決して姉作品として新しいことをしているわけではありませんが、歴史的な教条に対するリスペクトのある作品としては、2020年で随一だったのではないでしょうか。とはいえ、魅力を出し切っているわけではない以上、進んで評価するのが難しい作品でした。

『Lapis Re:LiGHTs』の姉・エリザは強権的な、立ちはだかる壁としての姉でした。そのつよさに隠れた優しさがあるという点ではうつくしい姉だったと思います。とはいえ、物語全体に渡ってその強権性だけが強調される脚本になっており、印象として姉のいじわるさのほうが目立っていたのは惜しいところです。できるならその印象の逆転をもっと話数をかけておこなってほしかったところですが、両手では数えきれない大量のキャラクターを抱えるプロジェクトを脚本のマジックだけで解決するのは高難度にすぎたかもしれません。

 最終話で明かされる姉の悲劇性を乗り越えようとするハッピーエンド志向は、前向きでよいものでした。が、前述の通り、いささか急ぎ足すぎるきらいもありました。この悲劇は、むしろこれから長い時間をかけてケアすべき事態であり、それを描いていれば姉作品としてより明瞭に輝いていたかもしれません。じっさい、そこへの予感を以て物語が終わっているのも、製作側がその描写の難しさを理解していたからのように思えます。物語全般に広がっているギャグはよいものでしたし、それと両立するシリアスの重みがあれば……とないものねだりをさせてしまうだけの作品ではありました。結果的に、賞として推すにはいま一歩足りない、というところでした。

ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』はその一話一話が、わたしたちに踏み出す勇気を与えてくれる素晴らしい作品でした。スマホゲームにありがちな大量のキャラクターを抱え込むコンテンツではありましたが、それぞれのキャラクターにしっかりとスポットライトをあてつつ、同時にキャラ同士の細やかな関係も描くというはなれわざで、2020年ベストアニメにあげようと思った人も少なくないと思います。

 姉回としては近江彼方担当回のたった一話ぶんだけではありましたが、それだけでもほかのアニメと同等に扱えるほどの出来でした。家庭的な問題に対して、それまでの平均的なアニメであれば外部の人員が直接的な介入するようなところであっても、『ニジガク』はそうした一時的な解決策をおこないません。非常にぎりぎりのバランスで善後策を見つけようとする、どこまでも現実的で誠実な視点を持っていました。他者へのケアをたんなる物語的な演出の過剰さで解決しない、というのはこれまでの『ラブライブ!』アニメシリーズとはあきらかに異なる質感と方法であり、その挑戦は非常に好感が持てるつくりでした。

 姉と妹の関係も、よりフラットな立場からの見直しをはかっており、これは2020年のフィクションとして誇るべきところではないかと思います。これまでのフィクションであれば姉が妹/弟のためになにかを諦めることはふつうとされていましたが、それはほんとうに望まれるべき関係なのか、と疑義を唱えるのは考えてみれば当然のことです。むしろわたしたちはどうしてこのような発想に至れなかったのか、と反省すら覚えます。フィクションが現実の感覚に対してアップデートをはかろうとする瞬間は時代に制限されるためにごく稀で、姉フィクションともなればなかなか出会うこともかないません。しかし『ニジガク』は誠実さというただ一点でそれをやろうとしてみせました。じゅうぶんに評価に値する作品だと思います。

『アサルトリリィ BOUQUET』は候補作においてもっとも姉を描こうとした作品ですが、同時に選考会で激しい議論を引き起こした作品でもありました。

 作品としては『マリア様がみてる』に代表されるような女子校の姉妹制度を集団能力バトルものに移植しようとする試みで、それじたいはじつにマイナー雑誌連載漫画的なノリであり、その設定の複雑さをすべてテンプレを介したスピード感、およびアニメ演出のクールさで回避しようとする戦略的な作品になっています。演出の時間的配分もかなり気を遣われており、なにがしたいかを確実に視聴者側にみせつける、という点ではむしろ高度にテクニカルな出来の作品ともいえます。

 ここで問題とされたのは、「シュッツエンゲルの契り」という姉妹制度の設定についてでした。姉妹制度は理想的なふたりの生徒の関係を育むためのシステムであり、同時に物語のエンジンでもあります。じっさい『アサルトリリィ BOUQUET』作中でも、未熟な妹を姉が指導し、そのようなイベントの繰り返しによってふたりの関係もまた深まっていくという描写がなされています。加えて、姉の上にもまた姉がおり、より上位の指導者が存在していることで、姉のたましいとでも呼ぶべきものが継承されていく仕組みであるところが魅力となっています。

 しかしこうした在りようはそもそも『マリア様がみてる』によって培われた文化であり、『アサリリ』独自のものではない以上、評価すべきなのは『マリみて』であって、『アサリリ』ではないのではないか、という意見がありました。これは作品解釈に対し、非常に重要な発言だと思われました。ここから『アサリリ』のアイデアの核はどこにあるのか、という点で議論がなされました。

『アサルトリリィ』については、むしろ全体がそうしたコラージュによってできていることこそが魅力ではないか、という意見も出されました。設定はたんに「シュッツエンゲルの契り」といった姉妹制度だけでなく、一人ひとりに個別のレアスキルやユニーク武器が与えられるハードコアなバトルアニメ的側面や、カップリング要素のつよい百合アニメの側面を持つことが総体としての面白さにつながっている、ということです。いささかテンプレすぎる語りもそうした設定や要素の飽和を無理なく受け入れさせるための潤滑油であった、という見方には一定の説得力があるように思われました。

 とりわけバトルもの要素として、バーサーク能力持ちのお姉さま・夢結はその能力同様、精神的にひどく不安定であり、戦いのなかでは彼女を純真な妹・梨璃が支えていくという構図がくり返し挿入されています。こうしたしたたかな姉妹愛は、たんに『マリみて』の要素を組み込んだだけでは生まれるはずがなく、バトルものとして独自の発展をみせようとした結果生まれたマリアージュであることは疑いえないところです。

 設定面が瑕疵ではない、という意見に則るのであれば、『アサリリ』は素晴らしい姉アニメです。それまで一匹狼だったキャラクター・夢結が姉となり、姉としてふさわしい行動とはなにかを考え、妹・梨璃の誕生日に彼女の好物を探し求める第5話「ヒスイカズラ」はそれまで描かれた孤高の姉・夢結様像を打ち崩し、キャラに人間的な深みと魅力を与えてくれました。

 そしてお姉さまのさらにお姉さま・美鈴様は物語開始時点すでに退場しているというのにその存在感はつよく残り、姉の脳裏に焼き付いて離れず、幻覚として幾度となく現れ話しかけてきます。夢結の精神を縛る「死んだ姉」として、彼女のダークさが持ちうる薄暗い秘密は姉という存在のブラックボックス性を強調し、いささか平坦な語りになっていた物語をシリアスなトーンで引き締めてくれました。

 こうしてみると、『マリみて』からの設定の流用についても「もはやゼロ年代ではない」ということがいえそうです。百合漫画の分野でも『カヌレ スール百合アンソロジー』や『私の百合はお仕事です!』がヒットしていますし、過去の遺産の流用について目くじらを立てる時代ではないと考えます。むしろ、積まれてきた歴史をどう活かしていくか、ということについて『アサルトリリィ BOUQUET』はかなり自覚的だったはずで、これもまた『ニジガク』同様に2020年の作品だった、ということではないでしょうか。

 結果的に、大賞候補としては『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』と『アサルトリリィ BOUQUET』のふたつが取り合うかたちになりました。

 どちらも作品として甲乙つけがたいところでしたが、単純な面白さであれば一話ぶんで90点クラスを叩き出した『ニジガク』に対し、ワンクールを通して常に60~70点でありつづけた『アサリリ』のほうが総量として姉の魅力を多く出せていたことは否定できません。クールの物語を通じて姉を多面的に描くことができた、という点も加点対象とせざるをえないところがあるからです。

 またなにより、完璧でないという理由で顕彰しないのはあまりにも酷です。『アサリリ』のストーリーテリングにはテンプレをなぞったゆえの軽さがありましたが、だからといって作品の格が落ちるというわけではなく、それゆえの面白さを毎週提供できていたはずです。コラージュ的にイベントの詰まった物語は見ている人を飽きさせず、適度にシリアスさをまとめ、豊かな余韻のある結びまで連れて行く確かな力がありました。優れた作品を賞するための大賞なので、それを評価しないのは本末転倒ということにもなります。

 全体として、素晴らしい作品であり、幸福な体験であり、大賞とするべき作品でした。血のつながりのない相手を姉と呼ぶ文化についても、わたしたちはよりいっそうの理解を深めるべきだと思いますし、その機会をくれたという点で『アサルトリリィ BOUQUET』は2020年を代表する姉アニメになったと思います。おめでとうございます。大賞とさせていただきます。

 


【期間限定】TVアニメ「アサルトリリィBOUQUET(ブーケ)」第1話『スイレン』